書きつつあるものを見失わず、同じ場所にとどめておくために私が時々つかう手は「Aの文体でBの物語を書く」などと決めてから書くというものだ。
A、Bには作家の名前が入る。たとえば以前小説を書くとき「ボリス・ヴィアンみたいな文体でフィリップ・K・ディックみたいな物語を書く」という設定にした。こうするとたとえばボリス・ヴィアンだけ意識することで作品がどんどん狭いところへ入り込んでゆく(単にオリジナリティがなくなるという問題でなく、モノマネ歌手が地声を殺してるような表現の幅を奪われた、苦しい袋小路に向かう感じってありますね)ことが避けられるし、複数の作家をなんとなく旗のように意識するだけというよりはずっとやるべきことの輪郭がくっきりしてくる。文体と物語という座標でチャート化していったん自分の外に平面があらわれることで、意識と言葉の動きに自由がもたらされるというか。書くことは動くことでもあるので、書きながらピンで一点に留められてるわけにいかず、動きながらそれでもある場所にとどまり続ける必要があるわけだから、このやり方は有効だ。
だがこのやり方が実際うまくいったと感じることはけっこう少ない。
なぜだろうと振り返るに、「Aの文体でBの物語を書く」のAとBの組み合わせの相性がなかなか難しいのかもしれない。この場合の相性というのは、その両者の相性であるとともに、私という場においてその二人の作家が出会う場合の相性、ということになる。いくらすごく面白そうな、いい化学反応を起こしそうな組み合わせが見つかっても、書くのは私だから私がいい触媒になれなきゃうまくいかない。だからAとBに私も加えた三者の関係の問題なんだけど、私には私がよく見えないからAとBの組み合わせだけで判断し、やってみてはじめてうまくいくかどうかが分かるというわけ。で、たいていは失敗に終わる。
ヴィアンとディックの組み合わせが(一応)うまくいったのは、この二人の作家が似ていると私が思っているからだ。それは誰もが似てると思うほど似てるわけじゃなく(似てるという評は読んだことがない)、私が似てると思い、その似てると思う部分がすごく好きでもあるという条件が味方した。その一点において強烈に結びつきつつ、しかしその他のとくに表面的なところは全然違う。ということが理想的な交差とすれちがいによる空間の広がりを生んだのではないかと思う。
そういう組み合わせがもっと発見できないかと思い、考える。