鍵かけて展望台に山羊を飼う きみにひとことの相談もなく 我妻俊樹
これは三年以上前に歌会に出す用につくった歌です。「台」の字での題詠ですね。
「ひとことの相談もなく」というのはもちろん慣用表現で、相談があってしかるべきだったのに、という相手への非難を込めた言い回しだと思いますが、ここではそれを自分自身の行動を言うのに使っている。
あと、鍵かけて動物を飼う場所が、閉じ込めるというイメージにそぐわない展望台であるということ。そこにあるものを鑑賞するのではなく、そこから景色を観賞する場所である展望台(しかも高いところにあるはずだし、個人の所有する施設には普通ない)をわざわざ選んでいること。
そのあたりが気になるところから、読みはじめられる歌になっているのではと思います。鍵というのも私のよく使う言葉かもしれない、と今思いました。
草萌えて線路は母の近道に 人だけが人を名乗る今では 我妻俊樹
題詠blog2006、「萌」の題より。
私には線路をうたった歌の数がかなり多いと思う。現役時よりも廃止された線路、線路が取り除かれたのちの痕跡のほうがずっと好きなので、おのずと歌にも廃線感ただよう登場のしかたが多くなるようです。
あと、定型というのはそれじたいちょっと線路っぽい。だから題材としての線路がなじむという無意識の実感がある可能性もあるし、定型という線路を走らせるにふさわしい車両を持たない私は、そこをただの遊歩道として使ったり、むりやり車で走破しようとするかもしれない。その場合定型は廃線跡のように扱われているわけです。
題詠blog2006、「萌」の題より。
私には線路をうたった歌の数がかなり多いと思う。現役時よりも廃止された線路、線路が取り除かれたのちの痕跡のほうがずっと好きなので、おのずと歌にも廃線感ただよう登場のしかたが多くなるようです。
あと、定型というのはそれじたいちょっと線路っぽい。だから題材としての線路がなじむという無意識の実感がある可能性もあるし、定型という線路を走らせるにふさわしい車両を持たない私は、そこをただの遊歩道として使ったり、むりやり車で走破しようとするかもしれない。その場合定型は廃線跡のように扱われているわけです。
「よい廊下を」と敬礼で見送ってくれるおばあさんたちのいるジャンプ場 我妻俊樹
オリンピックはまだ続いているのでしょうか。今回私は一秒も見てない(見たのは0.5秒くらい)ので、見るかわりに自分のつくった唯一のスキー競技の歌を取り上げます。
ジャンプ競技場というのはあの形にしろ大きさにしろ、夢の中の構造物みたいにすごく印象的で変なものだと思うんです。小さい頃からジャンプに心惹かれてたことを今思い出しましたが、あれはふつう夢の中でしか見られないスポーツだと思う。スポーツというのはそもそも見慣れない競技はすべて夢っぽく見えはするのですが、だからオリンピックはまさに夢のスポーツ祭典という側面があるけど、中でもジャンプの夢スポーツとしてのスケールは群を抜いてる。空間も行われてることも現実の頭上をはるかに超えている。子供はそういう魘されそうなものに目を釘付けにされる性質がありますね。
題詠blog2008、お題「ジャンプ」より。
オリンピックはまだ続いているのでしょうか。今回私は一秒も見てない(見たのは0.5秒くらい)ので、見るかわりに自分のつくった唯一のスキー競技の歌を取り上げます。
ジャンプ競技場というのはあの形にしろ大きさにしろ、夢の中の構造物みたいにすごく印象的で変なものだと思うんです。小さい頃からジャンプに心惹かれてたことを今思い出しましたが、あれはふつう夢の中でしか見られないスポーツだと思う。スポーツというのはそもそも見慣れない競技はすべて夢っぽく見えはするのですが、だからオリンピックはまさに夢のスポーツ祭典という側面があるけど、中でもジャンプの夢スポーツとしてのスケールは群を抜いてる。空間も行われてることも現実の頭上をはるかに超えている。子供はそういう魘されそうなものに目を釘付けにされる性質がありますね。
題詠blog2008、お題「ジャンプ」より。
体育館よりも小さな月をもつ惑星がこの町を通過する 我妻俊樹
連作「実録・校内滝めぐり」より。
これは学校を舞台にした連作中の一首で、「体育館よりも小さな月をもつ惑星」という把握で体育館という言葉を題詠的にすべりこませているのですね。
だから体育館というのは比喩なんだけど、比喩によってイメージの飛躍を歌に持ち込むんじゃなく、逆に、非日常的な光景を日常的なアイテム(体育館)に喩えることで日常性のほうへつなぎとめようとしている。そういう比喩の使い方だと思います。私は比喩によって気軽に付け足される非日常性、というのがものすごく嫌いなので、そこで日常と非日常の位置を転倒させてしまいたい、非日常は一瞬の味付けじゃなくどーんと現れるべきだ、という気分がここには出ているのかもしれない。
その転倒がこの歌の、わかりやすいようなわかりにくいような微妙な複雑さ、に貢献していたらいいなあと思います。
連作「実録・校内滝めぐり」より。
これは学校を舞台にした連作中の一首で、「体育館よりも小さな月をもつ惑星」という把握で体育館という言葉を題詠的にすべりこませているのですね。
だから体育館というのは比喩なんだけど、比喩によってイメージの飛躍を歌に持ち込むんじゃなく、逆に、非日常的な光景を日常的なアイテム(体育館)に喩えることで日常性のほうへつなぎとめようとしている。そういう比喩の使い方だと思います。私は比喩によって気軽に付け足される非日常性、というのがものすごく嫌いなので、そこで日常と非日常の位置を転倒させてしまいたい、非日常は一瞬の味付けじゃなくどーんと現れるべきだ、という気分がここには出ているのかもしれない。
その転倒がこの歌の、わかりやすいようなわかりにくいような微妙な複雑さ、に貢献していたらいいなあと思います。
傘立てに花束たてて雨宿りしてるあなたも見ている林 我妻俊樹
連作「助からなくちゃ」より。
どうってことない光景なんだけど、微妙に意識を刺激する細部を含んだ内容を、音の快感が裏付けている。といった感じの歌をこの連作ではわりと意識してやろうとして、これはうまくいったほうの歌だという自己評価です。
快感というか、ちょっと音の反復がずれながらいくつか重なっててうるさい感じですが、それが窓に付着した雨粒みたいに景色全体のノイズになる、ということはべつに意図したわけじゃないけど、そういう読み方も可能かなと今の目からは思いました。
連作「助からなくちゃ」より。
どうってことない光景なんだけど、微妙に意識を刺激する細部を含んだ内容を、音の快感が裏付けている。といった感じの歌をこの連作ではわりと意識してやろうとして、これはうまくいったほうの歌だという自己評価です。
快感というか、ちょっと音の反復がずれながらいくつか重なっててうるさい感じですが、それが窓に付着した雨粒みたいに景色全体のノイズになる、ということはべつに意図したわけじゃないけど、そういう読み方も可能かなと今の目からは思いました。