昨年の大河「鎌倉殿の13人」、御覧になりましたか。
面白かったです。
頼朝の挙兵以前から、頼朝の死後、そして1221年の承久の乱まで描き切りました。
北条義時の個性という、なかなか表現しにくいものに取り組み、形にしてくれた、
そう思っています。
さて、その鎌倉幕府の成立はいつなのか。
私が高校生のときは、何の疑問もなく1192年でした。
「いい国つくろう、鎌倉幕府」ですね。
語呂合わせはあまり得意ではありませんが、一応?定番ものは知ってます。
自分で語呂合わせを作るっていうのが、なかなか不得手でして、
4ケタの数字を、パシャっと写メ撮るようにして画像で覚えるタイプでした。
覚えるというか、写メなので、無理に覚えた記憶もありませんが…。
過去形なのは、当然、加齢のせいです。
今はそういうわけにはいかない、ということですね
あぁ、鎌倉幕府の話でしたね…。
「鎌倉幕府の成立年は1192年ではない! 1185年?」
と、こんな感じで世間を騒がせてから、もう10数年、経ったでしょうか。
今の教科書にはどう書いてあるか。
山川出版社『詳説日本史B』(2022年)を見てみましょうか。
(1185年の守護・地頭の設置について説明したのち)
こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した。
(その後、奥州藤原氏を滅ぼしたこと、右大将就任、征夷大将軍就任に触れ)
こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼んでいる。
とあります。
1185年を重視している感じ、しますね。
ただし、「成立」ではなく「確立」と言っていることが、ひっかかります。
では、東京書籍の教科書『新選日本史B』(2018年)にはどう書いてあるか。
「幕府の成立」という小見出しを立てた上で、以下のようにあります。
頼朝の追討に失敗した義経は、奥州平泉の藤原秀衡にかくまわれたが、秀衡の死後、その子の泰衡によって殺害された。一方頼朝は、1189(文治5)年自ら大軍をひきいて奥州に進み、奥州藤原氏をほろぼした。これによって、武家の棟梁としての頼朝の地位は確固たるものになった。
1192(建久3)年、後白河法皇が亡くなり、頼朝は征夷大将軍に任じられた。これ以後、この職は江戸時代の末にいたるまで長く武士の長の指標となり、ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。
東京書籍では、1189年の奥州征伐を重視してるような気がしますが、
単に年代順に説明しただけなのかもしれません。
いずれにせよ、将軍職就任に触れた上で「名実ともに成立」という表現が、
肝かなぁと思いました。
実はこの表現、他にもあるんですよ。
山川出版社『新 もういちどよむ山川日本史』(2007年)にも、
1192(建久3)年、法皇の死後、征夷大将軍に任命され、ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。
実教出版『日本史B』(2018年)にも、
1192(建久3)年、後白河法皇の死後に頼朝は待望の征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が東国の新天地を拠点として成立した。
ね。結局これは、いつ幕府が成立したと明確にすることはできなくて、
征夷大将軍就任の1192年を最終段階としつつ、それまでに順次、着々と、各段階を経て、幕府は成立したんだよ、と案内しているわけです。
しかも1192年の将軍就任は、「名実」の「名」に相当することは明らかです。
では「実」とは何を指すのか。結局ここですよね。
でも、ぶっちゃけ正解はわからないんですよ。
頼朝さんとか、その他の草創期メンバーが「鎌倉幕府樹立宣言」とか、そういうの、
一切しなかったから仕方がない。
ただ、研究者たちが、あーだこーだ色々考えて、「鎌倉幕府の成立は〇年だ!」
と主張はしてますので、主なものを紹介しようかなと思います。
年代順でいこうか。
①1180年(治承4)説
一番早いよね、これ。まだ清盛が生きてるし、なんなら安徳天皇が即位した年。
前年の治承3年に清盛のクーデターがあって後白河院とか幽閉されてた。
つまり、まだ平家全盛期です。それでもこの説を推す方がいます。
理由は、以仁王の令旨によって頼朝が蜂起し、富士川の戦いに勝利したのち、都に
行かず鎌倉に入った。そして頼朝は敵の没収地を軍功があった者に与えるという論
功行賞を行った。天皇(あるいは院)に論功行賞の権限を委ねず、頼朝自身が実施
していることに、朝廷とは違う、独自の政権の萌芽を見出したわけです。また『吾
妻鑑』の記載もこの年からスタートしてるし、巻頭ページを見ると、頼朝の治世は
「治承四年より」となってます。しかし、いかんせん「萌芽」。そこをどう評価す
るかです。
②1183年(寿永2)説
いわゆる「寿永二年十月宣旨」です。この宣旨は、後白河院が頼朝に東国の統治を
認めたもの。なので、頼朝はこれで正々堂々と関東の統治を朝廷に認められたと言
え、それがまさに鎌倉幕府の成立である、という説。この説を推す方、けっこうい
ます。
③1185年(寿永4)説
いわずと知れた、守護・地頭設置の年。源義経追討の名目で設置しました。
両者の設置により、中央の鎌倉のみならず、地方の荘園単位にまで、武士が派遣さ
れて警察権力や徴税が彼らによって担われた。つまり、地方行政に、頼朝配下の御
家人が割り込んだわけで、それこそが鎌倉幕府の成立だよね、という説です。実は
ここを重視する人たちは明治時代からいたんですよ。東京大学の史料編纂所が編纂
している『大日本史料』というのは、明治時代から始まり、いまだ続いている国家
事業。ガチですごい史料集なのですが、その史料集では1192年ではなく1185年を
時代区分として採用してます。それはつまり、そういうこと。でも1192説の流布が
半端なかったので、一般には認知されてなかったんです。
④1189年(文治5)説
奥州藤原氏を討ち取った年です。さきほど掲載した山川の『詳説日本史』も推して
る雰囲気でした。武力政権が、武力で、同様の武力政権を滅亡させ、関東のみなら
ず東北も平定した。これこそが鎌倉幕府の成立だという見立てです。
⑤1190年(建久元)説
これを推す人はあまりいないけど、興味深いので言及しときます。
「幕府」という語は近衛府の大将を指すので、頼朝が右大将に任じられた1190年が
幕府成立年だ、というもの。言語から説明したもの。「幕府」という言葉は確かに
近衛府の大将を指すけれど、より一般的には「幕下」だと思うんです。「バッカ」っ
て読んでください。「バカ」じゃないですよ。相撲の「マクシタ」でもありません。「幕
府」は色々興味深い言葉なのですが、話が逸れると困るのでやめます。ただ、これ
だと「名実」のうち「名」なんですよね。「実」じゃない。しかも「名」としては
征夷大将軍に軍配が上がる。なので、弱いです。
⑥1192(建久3)説
いよいよ大詰め。頼朝が征夷大将軍に任命された年です。
一般的にはずーっとこの年が成立年として流布していたのですが、いったい誰が流
布させたのか。それは塙保己一(ハナワ ホキイチ)です。江戸時代後期の、盲人の国学者
として著名です。彼の史料編纂能力・編纂エネルギーは相当なものがあり、やがて
それは『群書類従』へと結実します。その塙さんが、何かの文献のなかで、
「建久3年、頼朝は征夷大将軍に任じられたので、そこから鎌倉幕府が始まりますよ」
的なことを主張したわけです。いや、主張というよりも彼のなかでは、あまりにも
当然すぎて、根拠すら示していないらしいです。塙さんの文献を直接読んでいない
ので、詳しくは言及できないのですが、彼が生きたのは江戸時代。その時代の政治
の頂点にいたのは征夷大将軍。だから、征夷大将軍になった年が幕府成立年だと、
ごく自然にそういう考えに至った、と言われています。で、明治になってから、
「征夷大将軍がヒエラルヒーの頂点」というタガが外れ、玄人の間では1185年説が
重視されるようになった、というわけです。
塙さんほどの人でも、自分の生きた時代の常識・価値観・固定概念にうっかりハマってしまうわけですから、江戸時代でも現代でも、常識に囚われまくる一般人がうじゃうじゃいても仕方がないと思います。
⑦1221(承久3)説
え、まだあるの?と思いますよね。わかります。でも、一応ここを推す人もいるの
で…。いわずと知れた承久の乱です。ここで勝利した幕府軍によって、幕府として
確立したというわけ。
「幕府軍」が承久の乱に勝って「幕府」が確立って、自分で書いてて矛盾してるな
と思います。しかも、このとき頼朝いねーじゃん、て思います。でも、承久の
乱を機に、公家から武力を奪って、東国中心とした政権から全国レベルの政権にな
った、という意味で「幕府の確立」と捉えているわけです。
以上、7つの説を紹介しました。
7つもあることに驚くかもしれませんが、こうなってくると「ああ、自由なんだな」って気もします。そうなんです。それなりの根拠、道筋を示せれば、自由なんです。
7つのうち「名」は1190年の右大将と、1192年の征夷大将軍。
「実」に相当するのは、1180年の論功行賞(萌芽)、1183年の十月宣旨、1185年の守護地頭、1189年の奥州征伐、1221年の承久の乱が挙げられます。
「ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した」
教科書のこの一文には多くの意味、背景が込められているとおわかりだと思います。
最初にこの表現を用いたのは、『もういちどよむ山川日本史(新、ではなくて旧版のほう)』の五味文彦先生かな~と思うのですが、誰にせよ、教科書の文章って本当に練られているので、一言一句侮ってはいけない、そう思いました。