勉強における姿勢は究極的には「自主的にするように促す」か「強制的にやらせる」かの二元論になると思います。


どちらが良いかと言うと時期によると思います。


例えば、「勉強とはどうするものか」を学ぶ時期に強制はいかがなものかと思います。時期的に言うと小四や中一辺りでしょうか。比較的覚える量が少ない時期にこそ、ゆったりと構え、自主性を育む余裕を持って接し、「勉強とはじぶんでやっていくものなんだ」という価値観を植え付けるのがいいと思います。


と言いますのも、ある程度のことは自分で考え、自分でやるようになったら、手間がかかりませんし、経験上、学力の伸びも指数関数的に伸びていきます。


その時の基準は「最低限必要な点数を取る勉強」=「試験に受かる勉強」にセットするのもいいかもしれません。その際、英語検定や数学検定などを利用し、試験に受かったり落ちたりする経験を積ませながら養うのもいいでしょう。


反対に、「強制的にやらせる」のが必要な時期はいつかと言うと、受験直前期です。「あと一歩で受かりそうなんだけど、自主的にしないと」なんて悠長なことは言ってられませんので、直前期は多少、無理矢理にでも勉強をさせるべきです。


とは言っても、直接、本人の横で勉強を見るとかそういうことじゃなく、例えば「家庭教師をつける」や「塾に入れる」など、勉強をしなければいけない環境を作ってあげることでオッケーです。参考書を与えるなどでもいいかもしれません。


ということで、自主性も強制も必要な時期はありますので、ドグマにハマることなく、使い分けていくのが肝要ではないでしょうか。

塾や家庭教師で、勉強面を見てもらう場合、大体は、この二つの「自主性を促す」か「拘束して詰め込み」かのどちらかに軸足を置くことになると思います。


経験上、自分は前者の「自主性促す」のほうがいいと思います。


例えば、よく塾を変える子がいますが、「塾を変えたばかりの最初はちょっと上がるけど、時間とともにじわじわ落ちてくるから、また転塾」を繰り返すパターンになってると思います。


理由は「相手の行動様式を知ることで慣れと予測ができるようになり、効果的に手を抜き誤魔化すことができる」からですね。


そもそも勉強時間=大人が監視してる時間じゃ話になりません。


故に、大学受験で必要な勉強量は自主的にしないと到底処理できない量ですから、拘束系はいずれ限界を迎えますし、そもそも大人になっても親御さんや上の立場の人が面倒を見ないと何もできないアホタレになってしまう危険もあります。


ただし、「自主性を促す」には、子供が「真面目で誤魔化さずにやるタイプである」という前提は必要です。


とはいえ、不真面目で誤魔化す子供でもいつかは人格が代わるかもしれないと願いながら接するのもいいかもしれません。多分、無駄でしょうが(笑)


その場合は、信賞必罰を明確にしておいて、「なにをどうすれば褒められて得をし、なにをしたりしなかったりしたら罰せられて損をする」を子供に提示し、実践するのが性格の矯正の近道です。


その際は、ルールの遵守に際し、大人側の厳格さが重要になります。


そもそもこういった苦労は「努力や練習の必要な習い事」を幼い頃からさせておけば、クリアになる点も覚えておいてください。


また、「なにをどのくらいやれば、学力が向上する」かを親御さんの方である程度、把握しておかないと、表層的な数字や現象だけを捉え、「自分はわかってもないくせに、子供にあーだこーだ言う嫌な奴」扱いになります。


これは「力への意志」が「子供の学力」ではなく「自分の見栄」に向かってるからとも言えます。


そのようなことをされている親御さんは即時、ベクトルの修正をしないと、子供との関係性は壊れると思うので、ご注意を(笑)


あと、「わかってない人がぐだぐだ口を阻むのは、第三者から見て非常に見苦しい」点も強調しときたいですね。


という観点から、なんとか創意工夫と逐次チェックを繰り返しながら、「自主性を促す」カリキュラムが可能な塾を目指しております。


哲学的に言うと、目の前の現象を観測しつつ「解釈学的循環」や「現象学的還元」をしながら、随時、発生する「差延」や「問題点」を修正しようとする感じでしょうか。


大人側としての「自主性の放棄」は「変化に対応しないまま、物事を固定化し、時代遅れや現場に合わないことをいつまでもし続ける」ことです。


「自主性を唱える者」が「自主性を持っていなかった」などというギャグみたいな状況は、実はユニークでもなんでもなく、そこら中で散見されるんですね(笑)

と言って、「うちの塾は理数系に定評があります」と誘い文句にしているとこありませんか?


または個人で。フリーランスや家庭教師の方で。


いますよね。


またはその誘い文句が正しいと思ってる人も。


そして、自分は理数系科目が未だにできないのに自分の子供や生徒にできるようにさせようとする人いますよね。


かの高名な養老孟司が著書の中でこう言いました。


「学生時代、家庭教師やってたんだけど、数学はね、ある段階から解けなくなるんだね。それがその子の限界なんだって思った。数学ほど頭の良し悪しがはっきりと出る科目はないね」


多分、間違ってないです。


となると、前述の「教えればできる」系の人たちは養老孟司に言わせれば、嘘を言ってることになりますよね。


ですが、こうとも思うのです。


偏差値40前後の工学部や薬学部の学生が当たり前のように、大学数学や大学の理科を解きますよね。


じゃなきゃ、卒業できませんから。


高校時代に低偏差値であまり解けなかったはずなのに、大学に入ってから解けるようになった人が卒業生の数だけいるわけです。(部分的だったり、難易度が受験レベルじゃなかったとしても)


でしたら、彼ら大学生と理数系を苦手とする高校生以下にどこに違いがあるのでしょうか。


おそらく覚悟です。


大学と高校以下の明確な違いは単位や試験や資格試験です。


つまり、真剣さが違うと思うのです。


大学生は高校生以下と違って「理解しなければ卒業不可」です。


反面、高校生以下は「理解しなくても卒業は可能」です。


小学生や中学生に到っては0点でも卒業ができます。


故に、態度や姿勢に「甘えや妥協」が入り込み、「嫌いなものや苦手なものはできなくてもなんとかなるだろう」という意識が無意識下に支配するんですね。


大人でも「専門外のことは理解しなくてもいいや」って投げてませんか?


となれば、「上手に教えればできるようになる」などという言葉は、かような意識を助長することに繋がりませんか?


そもそもが「ジムに行って筋トレの説明を上手に受けて理解した(つもりだ)けど、筋トレせずに帰る」で筋肉が鍛えられると思いますか?


断言します。


理数系こそどれだけ多くの種類の問題を解きこなせるようになるかが鍵で、要は量の勝負となります。


頭の良い人は「理解と問題を解くスピードが速い」から量の問題をクリアしやすい=「理数系科目は頭の良さが反映される」と思われるわけですね。


少なくとも、偏差値60未満の人が「ピーチクパーチク勉強法や授業や教師の質」を講釈垂れるのは非常に滑稽です。


小中高問わず、偏差値50台までは教科書の内容を理解する程度で到達しますよ?


そこから抜け出せないのは「基礎的な理解」に穴ができているからです。


受験生は有限の時間と労力の中で勝負をしなければなりません。


適切に頑張っていきましょう☺

難しい話をする気はありません。

当たり前のことを言うだけです。


勉強をできない原因は3つです。


1に勉強をしていない

2に勉強のやり方が悪い

3に頭が悪い


これだけです。

そして、それぞれの対処法は


1に勉強量を増やす

2にやり方を改善する

3に諦める


これだけです。


そして、多くの親御さんやお子さんが勉強をできない原因に上げるのが、「勉強のやり方があってない」とか「そのやり方は好きじゃない」とかの二番目です。


まあ、要するに、塾に「おたくのやり方があってないから、勉強ができない」って言う親御さんやお子さんの多いこと多いこと…😓


勉強量と頭の質を確認しましたか?


ここで言う「頭の悪さ」って知能障害や境界知性レベルのことを指しているので、その場合、明らかにわかるはずなんで、この場合において、「頭の悪さ」が勉強のできない原因にはなりません。


要するに、勉強量が足りてないんです。


勉強ができない原因のほとんどが勉強が足りてないんですね。


学力を公式にすると


学力=頭の良さ×勉強量×勉強効率


ってなりますね。


で、頭は悪くなく、勉強効率がそこまで悪くないとしましょう←効率悪い勉強法を押し付けてたら、廃業してますよ😥


因みに、多くの場合、塾の役割は効率に特化されます。

しかし、他記事でも言及してるように、当塾では量の管理も行っております。(高校生では量の管理は英語だけになります。さすがに高校生全科目の量は無理です)


まあ、とりま、勉強量を確保しましょう。


0に何をかけても0にしかなりません。