塾や家庭教師で、勉強面を見てもらう場合、大体は、この二つの「自主性を促す」か「拘束して詰め込み」かのどちらかに軸足を置くことになると思います。


経験上、自分は前者の「自主性促す」のほうがいいと思います。


例えば、よく塾を変える子がいますが、「塾を変えたばかりの最初はちょっと上がるけど、時間とともにじわじわ落ちてくるから、また転塾」を繰り返すパターンになってると思います。


理由は「相手の行動様式を知ることで慣れと予測ができるようになり、効果的に手を抜き誤魔化すことができる」からですね。


そもそも勉強時間=大人が監視してる時間じゃ話になりません。


故に、大学受験で必要な勉強量は自主的にしないと到底処理できない量ですから、拘束系はいずれ限界を迎えますし、そもそも大人になっても親御さんや上の立場の人が面倒を見ないと何もできないアホタレになってしまう危険もあります。


ただし、「自主性を促す」には、子供が「真面目で誤魔化さずにやるタイプである」という前提は必要です。


とはいえ、不真面目で誤魔化す子供でもいつかは人格が代わるかもしれないと願いながら接するのもいいかもしれません。多分、無駄でしょうが(笑)


その場合は、信賞必罰を明確にしておいて、「なにをどうすれば褒められて得をし、なにをしたりしなかったりしたら罰せられて損をする」を子供に提示し、実践するのが性格の矯正の近道です。


その際は、ルールの遵守に際し、大人側の厳格さが重要になります。


そもそもこういった苦労は「努力や練習の必要な習い事」を幼い頃からさせておけば、クリアになる点も覚えておいてください。


また、「なにをどのくらいやれば、学力が向上する」かを親御さんの方である程度、把握しておかないと、表層的な数字や現象だけを捉え、「自分はわかってもないくせに、子供にあーだこーだ言う嫌な奴」扱いになります。


これは「力への意志」が「子供の学力」ではなく「自分の見栄」に向かってるからとも言えます。


そのようなことをされている親御さんは即時、ベクトルの修正をしないと、子供との関係性は壊れると思うので、ご注意を(笑)


あと、「わかってない人がぐだぐだ口を阻むのは、第三者から見て非常に見苦しい」点も強調しときたいですね。


という観点から、なんとか創意工夫と逐次チェックを繰り返しながら、「自主性を促す」カリキュラムが可能な塾を目指しております。


哲学的に言うと、目の前の現象を観測しつつ「解釈学的循環」や「現象学的還元」をしながら、随時、発生する「差延」や「問題点」を修正しようとする感じでしょうか。


大人側としての「自主性の放棄」は「変化に対応しないまま、物事を固定化し、時代遅れや現場に合わないことをいつまでもし続ける」ことです。


「自主性を唱える者」が「自主性を持っていなかった」などというギャグみたいな状況は、実はユニークでもなんでもなく、そこら中で散見されるんですね(笑)