宮崎駿分析『君たちはどう生きるか』 | アディクトリポート

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宮崎駿分析『君たちはどう生きるか』

 

前回、この記事(『君たちはどう生きるか』IMAX)にコメントをいただいた。

 

G.D 

「宮さん」はダメなのに「パヤオ」はいいんですか?
ネット発で蔑称のニュアンスが強い印象ですが。

コメント、ご意見、ご質問ありがとうございます。

 

これはうんと昔、

そう、『ハウルの動く城』(2004)とか『崖の上のポニョ』(2008)の公開時、

すっかりジブリ=宮崎駿作品への失望が続き、

「『コナン』から『カリ城』、『ナウシカ』『ラピュタ』と続いた安定路線は完全に潰(つい)えた=なくなったな」

とガッカリ続きだった経緯を味わっていないと理解できないかもしれません。

 

とにかく近年は、

「宮崎駿」「スタジオジブリ」の名前がメジャー化してしまい、

この連名作品は間違いないという幻想が一人歩きして、

だからこそ「私は”にわか”でなく、宮崎作品を昔から知ってる大ファン」を示すためか、

宮さん呼びをそこここで見かけるたびに、

「もう宮崎駿は『宮さん』時代と違うのに、そう呼ぶ時点で事態をわかってねえだろ!」

と思わざるを得なかった。

 

それで「宮さん」なんて親しみや同族意識に基づく敬称めいた呼び方でなく、

ユーザーフレンドリー(利用者に親切である。 使い勝手がよい。親しみやすい・わかりやすいの意でも使う)ならぬオーディエンスフレンドリー(観客に親切である。 親しみやすい・わかりやすいの意でも使う)を全く無視している昨今の宮崎駿は、蔑称の「パヤオ」こそがふさわしいと決めたわけ。

 

ところがこれがブログ読者の反感を買い、

「たかが一(いち)ブロガーごときのお前が、かの偉大な宮崎駿氏に何をエラソーにケチをつける?」

的な抗議コメントもいただいた。

 

今回のG.Dさんのコメントも趣旨は同様だろう。

ブロガーごときが名クリエイターの批判なんてもってのほか、

という論法は、

だったらユーチューバーのレビューや批評だって、

同じ論法では「けしからん」ことになるんだろうが、

そんなコメントを寄せる視聴者もいないし、

いたとしてもユーチューバーは「はぁ、この人何言ってんの?」で気にも留めず、

少なくともコメントを元に路線変更や軌道修正した例に行き当たったこともない。

 

という昨今の状況からも、

ブロガーは自分の思ったことを誰にも気兼ねなく書く権利があることは、

おわかりいただけると思う。

 

またひとえに「ブロガー」と言ったって、

全くの初心者もいれば、私のようにライター崩れだっている。

 

元・ライターがブロガーになった例は少ないだろうが、

私の場合、ライター業の需要がなくなったため、

止むを得ず自衛手段であったが同時に、

ブロガーだけでは生活できないから、

クリエイターへの転業も真剣に考えた。

 

その目標は今でも諦めてはいないが、クリエイターの成功要因には、自分が「これが良い」と悟った境地が、受け手(読者や観客)にも受け入れられることが大切だということもわかった。

 

ところが、クリエイターとして大成していない私でも弁(わきま)えている(=物事や善悪の区別をする。 道理などをこころえ、それに従って行動する。 特に控えめに行動する)ことが、世にクリエイターの成功例として認知されている名だたる方々が、わきまえていない例がたびたびで驚いたんだが、『ハウル』や『ポニョ』の頃のパヤオは、まさにその例に当てはまっていた。

 

『風立ちぬ』(2013)の自分のブログレビューを読むと、最終作としての完成度の高さに、パヤオ呼ばわりを引っ込めると宣言したはずだったが、

 

結論:もう二度と宮崎駿監督を「パヤオ」とは呼びません。
ただし仕事仲間でもないのに、「宮さん」と呼ぶのもまた、たいへんに失礼だとわきまえる。

 

『君たちは』には、『風立ちぬ』ほどには感心しなかったので、思わずパヤオ呼ばわりが復活してしまったのであった。

 

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