えっ、今頃?
だって今頃(11/4の月曜日)、観たんだから仕方ない。
世相的には一様に評判の悪い、松本人志監督作は、どっこい私は全部気に入っているとはいえ、
この調子だと、「R100」を映画館で観る機会は逸しそう。
今週(11/2~8)は、全国でわずか5館のみ。どこが「大ヒット上映中」やねん!
邦画は1年でテレビ放送されるだろうけど、ジブリ作品は別枠っぽいし、なにしろ映画は映画館で観なくちゃね。
1本しか観られないので、最新作の『スティーブ・ジョブズ』と、どっちにするか迷ったが、宮崎駿の引退作品を映画館で見逃すのもどうかと思い、こちらを選んだ。
結果としては、見逃さないでよかったし、氏の長編監督最終作にふさわしい、満足の行く出来だった。
宮崎駿ならでは、宮崎駿にしかできないことを、きちんとやり抜いていた。
『もののけ姫』(1997)のクソまじめっぷりに、何が面白くて作ってるのか、さっぱりわからず、
『千と千尋の神隠し』(2001)は、
やたらと長くてヘキエキ。
(なのにアカデミー賞受賞)
『ハウルの動く城』(2004)の、
やる気のなさと、のらりくらりの展開に、上映中ほとんど寝ていた。
この2本は、予告編も、工夫もへったくれもない本編の一場面のたれ流しで、つくづくひどかった。
『崖の上のポニョ』(2008)には、
あきれるしかなかったよ。
結末が、「母親同士が遠くで話し合って手打ち」って、なんなんだよと。
『ポニョ』の前に宮崎吾朗ショックの『ゲド戦記』(2006)もあり、
この時期の同社作品からは、
手にしてはいけない力を手にしてしまった、不遜・傲慢の権化、
鈴木敏夫プロデューサーの腐臭が漂ってきて、「観るに堪えない」状態だった。
その後、宮崎駿脚本(丹羽圭子と共同)の「借りぐらしのアリエッティ」(2010)は、
好感が持てたし、
同じ脚本体制の「コクリコ坂から」(2011)だって、
作り手の良心が伝わって来た。
それでも私が依然「パヤオ」と侮蔑し続けたのは、
仕事にかまけて家庭をおろそかにした結果、
吾朗という夢遊病者を生み出した責任に無自覚で、
ならば身内に犠牲者を出してまで、世に問う価値や意義のある作品を作っているかに、(とりわけ近年は)激しく疑問を感じたから。
引退会見時にも、まだ「風立ちぬ」は観ていなかったので、
パヤオ呼ばわりは、そのままだったし、
「今のパヤオには興味も期待もありません」と締めくくった。
だが、実際に映画を観て、非常に納得が行った。
本作は、ことごとく定石破りだが、だからといって、奇をてらっているわけでもない。
直接的表現はつとめて避けられ、
かわりに間接的、象徴的な表現手段が選び取られている。
震災の犠牲者は、川に差された卒塔婆(そとうば/そとば)で暗示され、
ヒロイン(声・瀧本美織)の最期さえ、具体的な映像では出て来ない。
飛行場とは名ばかりの草原に吹く風で象徴されるのみ。
また、「次はこの場面設定と、ここまで話を進める」という、
いわゆるドラマ展開の段階をふんで、「置き」に行ったりもしない。
主人公がなんでそこに居合わせているのか、肝心な場面に限って、説明はほったらかし。
主人公とヒロインが再会する草軽ホテルに、どうして彼(主人公の堀越二郎)がいたのかはさっぱりわからないけど、別にそれはかまわない、という本作のスタンス。
しかるべき原作があって、それを拝借して脚本を書くとしたら、ことごとく「押さえを欠いている」わけだから、完全に(脚本家)失格だろうけど、自分が原作者と脚本家を兼任しているからこそ、かまわないこと。
物語の語り部(原作者)は、キャラをどう動かすかを意図しなければならないが、
キャラの方はそれにはまったく無自覚で、漠然とその場その場に居合わせるもの、というリアリティにも、なるほどと納得。
ただし、何の指針もガイドラインもないわけではなく、本作の場合は、主人公の夢に出てくる、イタリアの設計士カプローニが、間違った方向にコトが進んでいないことを暗示する。
さらにタイトルが示すとおり、重要な転機には、「風が吹いて」それを暗に知らせる。
この、深層心理での導きもあって、主人公もヒロインも出逢いに厳たる確信があり、決然として揺るがない。
加えて、現代の世相に、ホントにそれでいいのか?と警鐘を鳴らす場面の数々。
そのために劇中で描かれるのは、
*他者に披露しない婚姻の儀。
*懸命な命の行為としての契(ちぎり)。
*絶望の中に希望があり、可能性に向かっているようで破滅に向かう、という表裏一体の逆説。
----かくして、込めたメッセージと作り手の主張が、予期せぬ形でひしひしと伝わる。
*個の生活よりはるかに優先する、公人や組織での立場と役目。
これは同時に、
「良き家庭人ごときが優先してしまい、
当人が成し遂げるべき本来の社会的使命をないがしろで、いいわけねえだろ!」
という、家庭および個の生活をかえりみる余裕などまるでなかった、宮崎駿本人の人生観も反映されている。
「宮崎作品で初めて現実世界を描いた」と言うが、時代が異なれば、その世界はファンタジー(異世界)。
絵をCG像に置き換えれば、実写作品でも成立する話ではあり、あえてアニメでやらずとも、と途中までは思ったが、見終わってこれも納得。
たとえば名作「ラピュタ」にさえある、ドラマを伝えるためなら「それって、いるか?」の、筋肉ムキムキ比べとか、
「コクリコ坂」でも、カルチェラタンでの男女の出逢いのアクション等に、むりやり「アニメであることの方便」を感じた。
しかし、今回の「アニメであることのこだわり」は、もっとアニメの本質、つまり「無に命を吹き込む=アニミズム」ということに注がれていて、人が描いた絵にすぎないはずの動画が、生身の役者以上に迫真の演技をしていて、圧倒される。
あえて演技とは無縁の、木訥(ぼくとつ)とした職人の声(庵野秀明)をアテているのに、いや、そうだからこそなおさらに。
まあ、この題材にふさわしい絵柄かと言えば、他の選択肢もあったような気だけはしたが。
まさに引退作品にふさわしい、見事な傑作でした。
それにしても、見てこそあらためて、タバコに関するいいがかりには、ほとほと呆れる。
『猿の惑星』(1968)だって、清浄な空気が欠かせないはずの宇宙船内で、テイラー船長(チャールトン・へストン/声・納谷悟朗)は、平気で葉巻を吸ってるぞ!
そういう時代を、今の尺度でなぜ測る?
もしも「風立ちぬ」を見て、タバコに興味を持ちましたというクソガキがいたら(※いるらしい)、そんな責任転嫁をする、ひねくれ者に育てたヤツが悪いんだよ。
そもそも、その描写を入れる時点で、子供向けの枷(かせ)は外してあるんだし。
宮崎駿は、自らもこれまで達したことのない最高峰をきわめ、そのためには「子供向け」をかなぐり捨てるという、一度限りの大技をくりだした(=次回作があると影響大なので、できない)わけだが、もちろんその域に達したのは本人だけで、周りは全然ついていけてない。
八割方まで見て、この究極作が、
「最後のユーミンの『ひこうき雲』の、
ベターッとした歌い方でぶち壊しかもなあ」
と思ったら、ほんとにそうだった。
まさか彼女の持ち歌を、別の歌手(モリメグとか)に歌わせるわけにもいかなかったわけだが、
究極、至高の到達点のしめくくりに、創作の姿勢も才能も中途半端な出来損ないの、キャリアの途上をあてがってもなあ、と言う気だけはした。
もう一人、まったく「ついていけてない」人を、発見。
……。
こいつ、つくづく、何言ってんの?
気の毒に、人から説明してもらわないと、自力では「風立ちぬ」が理解できなかったんだね。
こども(以下の精神構造)に、完全に理解できるような作品じゃないのに…。
今さら観客からそれを聞いたところで、映画の中身が変わるわけでもあるまいに、いったい何になる?
宮崎監督の偉業に泥を塗るような、ホントに足を引っ張る存在だよ。
とっくに引退(退任)すべきだったのは、こいつだね。
結論:もう二度と宮崎駿監督を「パヤオ」とは呼びません。
ただし仕事仲間でもないのに、「宮さん」と呼ぶのもまた、たいへんに失礼だとわきまえる。