世界まる見え!テレビ特捜部
2012年4月23日(月)放送分
内容に、「四肢形成障害」という障害をもつ男の子のドキュメンタリーも。
▽スンガウォンの天使たち
無邪気に笑う男の子<ユ・テホ>君(11歳)。彼は生まれたときから両腕がなく、歩くこともできません。そんなテホが暮らしているのは、児童養護施設。「四肢形成障害」という障害があり、さらに足の指が4本しかない姿で誕生したテホを実の母は育てることができなかったのです。彼の生活に密着したドキュメンタリーをご紹介します。
で、番組自体はいいんだが、
前日までの告知CMが問題だった。
「無邪気に笑う男の子
しかし彼には両腕がありません」
…はぁ?
これって、両腕のない人は、無邪気に笑っちゃいけないってことでしょうか?
両腕のない人は、そのことに悲嘆に暮れて、いつでも暗い顔をしてろって事?
公共の電波を扱う放送局で、放送事故に等しい障害者蔑視の感覚は、言語道断に思われる。
これと関係して、何度か書こうと思いながら書かずにきたことにも、言及するときが来たようなので書く。
最近では減ったし(といいながら、先日もあったが)、私も対処の仕方を覚えたが、
ブログ書き始めに、魔女狩りのように非難が集中し、
ただ一度だけ、掲載した記事を削除したことがある。
それは今も続くそっくりさん企画で、
ガンタンクを
乙武さんと並べた回だった。
そういえば不本意にも該当記事を削除したのに、後に執拗にそれを持ち出し、
「お前の社会的位置づけなんぞ、いまだに過去のまま(SWの専門家)なんだよ」
と毒づくパラノイアもいたっけな。
↑パラノイア。画像はこのサイトより。
意見の一致を永遠に見ない人との人生観の違いは、
*人は日々より良きものに変わる可能性を秘めており、過去の存在のままではない(=「この人はこういう人」と固定観念で捉え続けたり、レッテルを貼るべきではない)
ということと、
*少なくとも私は、対立する概念が私を攻撃する、失礼千万なやり方を、誰に対してもしないから、それがなぜなのかを考えてもらえば、正答はおのずと明らかになる
とだけ申しておきましょう。
ええっと、何の話だっけ?
ああ、そうそう、乙武さんとガンタンクの話。
とにかく記事を自分で取り下げたのは、屈辱だった。
だって、「乙武さんとガンタンクは似てる」って指摘しただけなんだよ。
「遠野なぎこと、貫地谷しほりが似てますね」
と指摘して、
「なんてひどい!」
「こんなブログはけしからんから、ただちに封鎖しろ!」
ってならないでしょ?
もしかして、障害者を笑いものにしてるってことですか?
「形が似てる」という発見を発表したことの、
どこが「障害者を笑う」ことになるのか、私には理解できませんが?
たとえば、バレリーナの草刈民代さんが、
宇宙要塞ア・バオア・クーと似てるというのは、
けしからん?
そうでないなら、乙武さんだけ、そっくりさんの例にしちゃダメって根拠はどこに?
そしたら最近(といっても、かれこれ1年ほど前)、ラジオで吉田豪さんが、
「乙武さんの自虐ぶりがすごい。
車椅子に乗っている時はガンタンク
※ご本人の証言をもとに構成しています。
乗ってない時はジオング
※ご本人の証言をもとに構成しています。
だと、ご自身でおっしゃっている」
と話してるのを聞いて、我が意を得たりの思いでしたよ!
この話を知人にしたら、
「本人が言うぶんには問題ないけど、他人が言うのはどうなのか」
と言われて、またしても「?」
言って良いことに、本人か他者かの区別なんて、あるんでしょうかね?
もちろん、そういう事例もあるけど、これが該当するとは思えませんが。
対象が障害者だというだけで、全く触れないでいるのが無難、
少しでも触れればたちまち、犯罪でも犯したかのように糾弾されるというのは、
結局社会から障害者の存在を消し去ってしまうこと、
「障害者は世の中にいない」と片付けてしまうことに、
つながりかねない。
たとえば「世界まる見え!テレビ特捜部」の放送局は、
障害者の姿を登場させるのは、年に一度、24時間テレビの時ぐらいで、
それ以外の時には、障害者は「世の中にいないこと」にしているも同然だし、
24時間テレビに出演を依頼する時は低姿勢でも、断られたときの毒づきようには、すさまじいものがあると聞く。
この「障害者は、うちで扱ってやるだけ、ありがたいと思え」的な思い上がりの体質が、
「両腕がないのに、無邪気に笑う」という言葉に結びつくんだよ。
おれのブログに、ゴミみたいな言いがかりのコメントを書いてくるやつは、
そんな無駄な時間と労力があったら、
まずはこの放送局の件をどうにかしてくれたまえ。
その方がなんぼか、社会に資する人間になれるぞよ。
キミはそうやって、どこかに抗議をねじ込むのが、好きでたまらないんだろうからさ。