インターネットの普及などにより情報の検索が容易になり、もう一度見たいと思っていた映画を見られるようになり、嬉しいことです。 

 DVDをAmazon等で購入したり、ツタヤから借りて見ています。

 また、図書館の視聴覚資料も驚くほど充実していて、いつもビデオやDVDを借りています。

 インターネット上で動画を探して長年見られなかった映画を見られることもありますし。

 アラン・レネ「アメリカの伯父さん」やデビッド・ハミルトン「ビリティス」など、また見ることができました。

 橋本忍「幻の湖」のDVDを手元に置いて、いつでも好きな時に楽しむことができる日が来るなんて、「長生きして本当に良かった」とちょっと大げさに思ってしまいます。

 ただ、どうしても見つけられない映画もあり、この「インディアンはまだ遠くにいる」(パトリシア・モラーズ)もその一つです。

 

・インディアンはまだ遠くにいる

Les Indiens sont encore loin 1977年 

監督・脚本 ※監督デビュー作、ロカルノ国際映画祭でエキュメリック審査員特別賞受賞

撮影レナート・ベルタ、録音リュック・イェルサン、出演イザベル・ユペール、クリスティーヌ・パスカル、ニコール・ガルシア、製作会社フィルム・コレクティヴ(チューリッヒ)、フランス国立視聴覚研究所(INA、パリ)、レ・フィルム・2001(パリ)、テレヴィジオン・スイス・ロマンド(TSR、ジュネーヴ) 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「パトリシア・モラーズ」、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA

 

 17才の主人公が自殺する前の一週間の様子を淡々と描写した映画です。雪深い町や、主人公が友人たちと語るシーン、主人公が教室で、教壇の横に浮かぶインディアンの幻影をじっと見つめているシーンなどが記憶に残っています。

 主人公の死も、雪の中での凍死、と記憶しているのですが、渡辺淳一の「阿寒に果つ」の印象と混同しているような気もします。

 

La Quinzaine des Réalisateurs 

http://quinzaine.pixeladdict.fr/qz_film/les-indiens-sont-encore-loin/

 

 ずっと後まで、(インターネットが普及して、この映画についての情報を読むまでです)、主人公を演じていたのがイザベル・ユペールだと気がつきませんでした。

 確かに、ボーイッシュで理知的な印象がゴダール「パッション」の工員イザベルに似ていたようにも思います。

 

 この映画の動画を少しでも見たくて、「Les indiens sont encore loin」また「The indians are still far away」等検索してみるのですが、見つかりません。

 

 さて、今日、やはり長らく見られなかったダニエル・シュミット「ラ・パロマ」の動画をyoutubeで発見しまして、久しぶりに楽しむことができました。

 

「インディアンはまだ遠くにいる」にもいつか再会できるかも知れません。

 娘の雛子です。

 

 

 もう30年ほど前、浅草仲見世の江戸趣味玩具のお店、助六で出会いました。

 

 子供の頃から、初詣、ほおずき市、酉の市など浅草寺に行く度、助六を覗いて、父や母にミニチュアの和玩具を買って貰いました。

 ミニチュアやドールハウスが大好きでしたが、当時はインターネットもなく、デパートや雑貨店などで偶然見つけたりするだけでした。

 しかも和風のものを扱っていたのは、当時の私が知るかぎり、この助六さんだけだったのです。

 

 

 昭和50年7月、ほおずき市の時、初めて助六さんで母に買ってもらった小さな草履と、ねずみの風車です。

 風車は、息を吹きかけると、下部のねずみがくるくると回ります。

 

 

 上の写真ではわかりにくいので、ねずみの部分を拡大した写真をご覧ください。

 

 

 雛子の部屋です。食玩やミニチュアの和家具(これは20年ほど前、新宿紀伊国屋書店の地下にあったドールハウスショップで購入しました)などで調えました。雛子の膝の上の白猫は、個人作品で、作家さんではなく、縮緬細工が趣味の女性のものです。黒猫はアフタヌーンティーにいました。雛子の着物やピンクハウス風ドレスも縫ってやれたらなあ、と思っています。

 

 

 

ピンクハウスのモデルだったアシュレイちゃん。可愛くて、大好きでした。

 

10代の頃、ピンクハウスのお洋服はなんてかわいいんだろう、と憧れていました。私には似合いませんし、その頃はお金もないので、ただ憧れるだけでした。

その反動でしょうか。30代、収入も安定していた頃、KANEKOISAOのお洋服を買って、買って…

 

「金子功のいいものみつけた」

ananに連載していました。金子功さんのページはスクラップして大切にとっています。

 

ノベルティのダイアリーです。1995年のものです。毎年、年末の楽しみでした。

持ち歩くのには大きいので、備忘録、日記として使っていました。

 

その頃に買ったKANEKOISAOやワンダフル・ワールドのお洋服は、今も大切に持っています。

ポリエステルのワンピースや、ブラウス等は、ジャケットの下などに着て外出しています。今の私には派手すぎるものは家で着ています。 大きなセーラーカラー が付いた冬物のジャケットとか、華やかな薔薇プリントのキルティングのコートなど、これはもう着ないよなあ、と思うものも勿体なくてとってあります。

かわいい娘たちにピンクハウス風のドレスを縫ってやりたい、というのが今の私の願いです。

 

 

 

 

日本ヴォーグ社 わたしのドールブック ジェニー8 ピンクハウス大好き 

(表紙、38P、56P)

 

不器用な私はただただ眺めて楽しむだけでした。ジェニーやリカちゃんだけでなく、スーパードルフィーやビスク・ドール、市松人形たちにもピンクハウス風のドレスが縫ってやれたら、どんなにいいでしょう…

 

 

 

 ブログ開設の際、Les Plaisirs des Jours というタイトルにしましたが、使用例を確かめてみようと思いまして、google検索をかけてみました。

 Marcel Proust の Les Plaisirs et Les Jours (楽しみと日々)が大量にヒットしてしまい、「Les Plaisirs des jours  日々の喜び 」で検索しますと、私のこのブログが真っ先にヒットしてしまいます。

 

フランス語は15年前に趣味で始め、平成15-17年は東京日仏学院(現在のアンスティチュ・フランセ東京)にも通い、随分熱心に勉強しましたが、平成18年家庭の事情や転職等により中断し、今に至っています。もうすっかり忘れてしまい、またラジオのフランス語講座からやり直しております。

 

 日仏学院当時も、フランス語作文の宿題は、不自然な文ではないか、インターネットで検索をかけ、確認することが多かったです。

 今の私はフランス語の文法も大分忘れてしまっていますので、辞書を引いても自信が持てず LES CADEAUX DE LA VIE と変更しました。

 google検索をかけると、これは大量にヒットし、フランス映画のタイトルでした。

 ですので、私のブログタイトルは、その映画から拝借したものです。

 

 余談になりますが、日仏時代、Shibata Kôtaro 先生の文法のクラスがありました。

 その授業で、フランス語がどの日本語のニュアンスに一番近いか、例えば、「art de vivre」、生きる上での技術、ちょっとした智恵というものが、日本語で言えばどういう場合に当てはまるか、などと日本語で話しあうことがとても楽しかったです。

 ネイティブの先生には確認できない初歩的な質問が、Shibata先生には一言で通じてすっきりしました。

 この時の質問は、文法とは関係なく、「母音に挟まれたSは濁るはずなのに、Je suis が濁らないのはなぜか」というちょっとあまりにも阿呆らしい質問でしたが、先生は「単語が離れているから」と一言で明快に答えてくださいました。

 

 私は初心者でしたので、平成15年4月、入門クラスに入りました。その時の先生は、Bernard Pascal Leurs というお名前の、日本女子大の教授でいらっしゃる日本語の達者な、親切な先生でした。

 4月、初めての授業の終わり頃、窓の外に大きな虹が出ていて、先生が黒板に「L'Arc en Ciel」と書かれたのをよく覚えています。

 

シルヴィーのピグです。ピグも私には可愛いお人形さんです。ピンクのパンダもです。

 10才の時、成城に引越しました。

 成城学園のすぐ横に「ベルダ」という雑貨屋さんがありました。

 当時、まだ「雑貨屋」という言葉はなかったのでしょうか。それとも子供だった私が知らなかっただけかもしれませんが、私たちは「かわいいもの屋さん」と呼んでいました。

 店内は、かわいい、お人形やお菓子ぬいぐるみ、輸入品もサンリオ商品も、店いっぱいで、今の若い方には珍しくないもないでしょうが、当時(もう40年以上昔のことです)の私はすっかり夢中になりました。

 引越前の住所もさほど遠くなく、以前の友だちも私の家によく遊びに来ていました。

 私はこの友人、新しいクラスメイトたち、母と、一人きりでも、ベルダにお百度を踏んだものです。

 引越前からの友人も、ベルダを訪れる目的だけで成城に出掛けていた、と後に聞きました。

 

 誕生日のすぐ後の引越だったので、母が好きなものをプレゼントしてあげる、と言い、一緒にこのベルダに来たのです。

 店の奥、カウンターの上の棚にあったお人形が今も忘れられません。

 大きさは60cmほど、髪型は、金褐色の裾が軽く内側に向いたショートボブでした。印象的だったのは目で、グラスアイではなく、明るい茶色の、描いた目でした。かなりくっきりと描いてありましたが、それがなんとも魅力的だったのです。ショートヘアと相俟って少年のような、りりしい、気品のある表情をしていました。素材はなんだったのでしょうか。当時の私に知識がなかったため、今でも分かりません。

 ドレスも、いかにも「お人形」といった可愛らしいボネやドレスではなく、水兵帽とセーラー襟のドレスだったと思います。ドレスの色は、水兵服らしい白や紺ではなく、朽葉色か、裏葉色だったと記憶しています。(遠い昔のことなので、印象しか残っていないのです。)

 値段は一万円でした。

 昭和五十年当時、一万円というのは、子供のために、教材とか書籍ならともかく、玩具にかけるような額ではなかったのです。

 ですが、母も気に入ったのでしょうか、「買ってあげようか」と言いました。しかし私はさすがに遠慮し、諦めました。

 その後、すぐそのお人形はお店からいなくなってしまったように思います。

 今もそのお人形が恋しいのは、手の届かなかった幻のお人形だったからでしょう。

 

 ベルダで出会い、今も一緒にいるのはこのクララです。中学生の頃、私のお小遣いで(若干無理しましたが、)入手しました。

 ミニチュアの椅子、テーブルもこのベルダで手に入れたものです。

 実は、私は、この子のことをしまいこんで忘れておりました。

 母が「こんなにかわいい子がいるよ」と片づけものの際、見つけてくれました。

 

 なんて可哀想なことをしたのか、と悔やんだのももう遠い昔のこと、母も鬼籍に入って久しく、昨年十三回忌の法要を営みました。

 幻のお人形も、今、どこで、誰と一緒にいるのでしょうか。当時の友人たちともすっかり疎遠になり、消息を知る術もありません。

 クララだけが私と一緒にいて、昔話に耳を傾けてくれています。

 

 

 

 

 

 

お早うございます。すっかり寒くなりました。

みかんが店頭に出回るようになり、嬉しいです。

 

子供の頃からアンティークドールに憧れて、いつか自分でも手に入れたい!と思っていました。

小学生の頃、内藤ルネ「幻想西洋人形館」を読んだのがきっかけです。

この子は就職して5年くらい経った頃、、ボーナスでお迎えしました。Sylvieという名前は、大ファンだったダンサーのシルヴィ・ギエムから拝借したものです。

その後、アンティークビスクドール、サクラビスク、スーパードルフィー、子供の頃以来、リカちゃんも集めています。

ドール服も自作したいのですが、不器用な上、この頃では老眼が…

皆さんのブログを拝見していて、私も参加したくなりました。

よろしくお願いします。

 

幻想西洋人形館 内藤ルネ サンリオ出版

内藤ルネさんの詩も素敵です。

 

幻想西洋人形館 42-43P カッサンドル

アンティークビスクドールの女王ブリュ。

ジュモーは可愛いけどブリュは気高い表情が魅力的で、本当に憧れました。