(ペテロの手紙 二 3:3-5) [3] まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者たちがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って歩み、[4] こう言います。「主の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造の初めからのままではないか。」[5] こう主張する彼らは、次のことを見落としています(あえて忘れようとしています)。すなわち、天は古くからあり、地は神のことばによって、水から、また水を通して成り立ったのであり……。
多くの人は、自分の理性を超える出来事を受け入れようとしません。「すべては自分の知識の範囲内で説明されなければならない」と考えています。そのような人々にとって、聖書に記された神様の奇跡を認めることは、誠に困難なことです。
紅海を割るモーセ
ある無神論者の教師が、学生たちにこう言いました。 「聖書の奇跡は、実際に起きたことではありません。例えば、モーセが民を率いて紅海を渡った時、そこは水深がわずか6インチ(約15cm)ほどの湿地帯にすぎませんでした。奇跡が起きたわけではないのです。」
紅海を割るモーセ
すると、後ろに座っていた一人の学生が叫びました。 「その奇跡のゆえに、神様に栄光を帰します!」
不機嫌になった教師が「何の奇跡だというのか?」と問うと、学生はこう答えました。 「神様は、モーセとイスラエルの民を追ってきたエジプトの大軍を、すべて紅海の中に沈めて滅ぼされました。わずか15cmの深さで、あれほどの軍勢を全滅させた神様の御業こそ、本当の奇跡ではありませんか?」
紅海を割るモーセ
実際、私が神学校に通っていた頃、ドイツで自由主義神学を学んで帰国された教授から、これと全く同じ主張を直接聞いたことがあります。その方は聖書の奇跡を否定し、紅海の奇跡もこのような形で説明されました。
五つのパンと二匹の魚の奇跡
自由主義神学に従う一部の人々は、聖書の奇跡を「合理的」に説明しようとします。イエス様が水の上を歩かれた事件は、「実は霧の深い早朝、浜辺を歩いておられたのを弟子たちが誤解したのだ」と見なします。五つのパンと二匹の魚で5,000人を食べさせた事件も、「幼い子供の献身に感動した人々が、自分たちの弁当を次々と差し出したために皆が満腹になったのだ」と説明します。しかし、このような考え方では、聖書最大の奇跡である「イエス様の十字架の贖い」を、理性で受け入れることは到底できません。
紅海を割るモーセ
聖書の奇跡、すなわち神様が私たちの理性を超越して行われる御業を信じることができなければ、救いもまた起こり得ません。それゆえ、復活されたイエス様は弟子たちにこう言われました。
(マルコの福音書 16:15-16) [15] それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。[16] 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
私たちは神のことばを伝えると同時に、福音を聞く人々が悟ることができるよう、次のように切に祈らなければなりません。 「主よ、申命記29章4節の御言葉のように、彼らに見る目と聞く耳、悟る心を与えてください。」
今日も神様の助けにより、御言葉を信じ、その上に固く立たれる聖徒の皆様となりますよう、お祈りいたします。















































































