(列王記下 13:14, 18–19 やさしい訳) 〈エリシャの死〉 エリシャは病にかかり、死にかけていました。イスラエルの王ヨアシュはエリシャのもとへ行き、泣きながら言いました。「わが父よ、わが父よ!イスラエルの戦車と騎兵よ!」[18] エリシャは言いました。「弓を取りなさい。」王が弓を取ると、エリシャは言いました。「地を打ちなさい。」ヨアシュは三回地を打って、やめてしまいました。[19] 神の人は王に怒って言いました。「なぜ五、六回打たなかったのですか?そうしていれば、アラムを完全に滅ぼすまで大いに勝てたでしょうに。しかし今は、たった三回しかアラムに勝てないでしょう。」

 

 

神は今日も、熱い情熱を持つ人を求めておられます。そして、そのような情熱を持つ人に、ご自身のわざを委ねられます。一方、情熱がなかったために与えられる祝福を逃した人も、聖書には数多く登場します。その一人が、今日の本文に登場するイスラエルの王ヨアシュです。

 

 

 

「イスラエルの王ヨアシュを祝福する預言者エリシャ」

 

 

イスラエルに敵が攻め込むたびに、敵の王の心の中まで読み取り、どこへいつ攻めてくるかを察知して備えさせた預言者エリシャが死を迎えようとしていました。イスラエルの王ヨアシュはひどく落胆してエリシャのもとを訪ね、まるで子どものように「わが父よ、わが父よ!イスラエルの戦車と騎兵よ!」と悲しみ泣き叫びました。

 

 

 

「イスラエルの王ヨアシュを祝福する預言者エリシャ」

 

 

エリシャはその姿をあまりにも哀れに思い、死ぬ前に最後の祝福を授けます。王に弓を手に取るよう命じ、戦いに勝てるようにとその手の上に祝福を与えました。

 

 

 

アラムを打ち破る武器を象徴する弓

 

そして、アラムのある東の方向に窓を開けて矢を放つよう命じ、さらに矢で地面を打つよう言いました。ところがヨアシュ王は三回だけ打って、やめてしまいました。するとエリシャは、王の情熱の乏しさを嘆いて叱りました。

 

(列王記下 13:19 改訳)「神の人は怒って言った。『王は五、六回打つべきでした。そうしていれば、アラムを完全に滅ぼすまで打てたでしょう。しかし今は、アラムにたった三回しか勝てないでしょう。』」

 

神が白紙小切手を渡してくださったのに、わずかな金額しか書き込まなかったようなことになってしまいました。

 

 

 

情熱的なサッカー選手、チェ・ヨンス

 

2000年、安養LGを10年ぶりにプロサッカーの頂点へ導き、最優秀選手(MVP)に選ばれたチェ・ヨンス選手は、韓国人選手最高移籍金記録(3億円)を打ち立て、ジェフユナイテッド市原へ移籍し、日本の舞台でデビューを飾りました。

 

 

 

情熱的なサッカー選手、チェ・ヨンス

 

 

チェ・ヨンスがJリーグにスカウトされた経緯は大変興味深いものです。当時、日本の関係者たちはチェ・ヨンスには関心がなく、他の選手を見に来ていました。

 

 

 

情熱的なサッカー選手、チェ・ヨンス

 

 

ところがちょうど前半28分で交代させられたチェ・ヨンスが、得点を奪えなかった悔しさをこらえきれず、上半身のシャツを脱ぎ捨て、壁を足で蹴り、頭を両手でかきむしりました。それを目にした日本の上級関係者は、即座にスカウトを指示しました。

 

 

情熱的なサッカー選手、チェ・ヨンス

 

 

日本にはこれほどの情熱を持った選手がいない、というのがその理由でした。

神は今日も、このような情熱ある聖徒と教会を求めておられます。信仰の情熱を取り戻す聖徒となられることを願います。過ぎ去った世紀、韓国教会はさまざまな面で不足がありましたが、熱い情熱だけは満ち溢れていました。

 

 

 

情熱的なサッカー選手、チェ・ヨンス

 

韓国キリスト教会史を見ると、アメリカ人や日本人が韓国のキリスト者を見たとき、低い道徳性や責任感のなさ、礼儀の欠如などから、軽蔑することが多かったといいます。しかし、韓国の聖徒たちに発見した驚くべき一点がありました。

 

 

 

神は情熱的な信仰者を喜ばれます

 

それは、神が恵みを与えてくださるまで飢えながら断食し、あるいは床に転がって号泣しながらすがりつく情熱を見て、日本人は「恐ろしい」という言葉を使ったほどでした。

 

 

神は情熱的な信仰者を喜ばれます

 

 

あるとき、シンガポールで世界キリスト者会議が開催された際、司会者は情熱的な「コリアンスタイル」で声を合わせて祈ろうと提案するほどでした。このような叫びの祈りは、今や韓国教会のスタイルとして世界中の人々に刻み込まれています。

 

 

 

神は情熱的な信仰者を喜ばれます

 

神は情熱的な信仰に祝福を与えてくださいます。先人たちの熱い信仰のバトンを受け継いだ私たちが、切なる情熱をもって信仰し、神に大いに用いていただける聖徒となられますよう、主の御名によって祝福いたします。

 

 

 

(ルカによる福音書 11:5-9、新共同訳) [5] また、イエスは言われた。「あなたがたのうちのれか、友達のところへ真夜中に行って、次のように言うとする。『友よ、パンを三つ貸してください。[6] 旅行中の友達がわたしのところに来たが、出すものがないのです。』[7] すると、その人は内側からこう答えるだろう。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちもわたしのそばで寝ています。起きてきて何かをあげるわけにはいきません。』[8] しかし、言っておく。その人は、友達だからということで起きて何かを与えることはないにしても、しつこく頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう。[9] そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」


私たちは神様のもとへ行くとき、時として神様をあたかもケチな方であるかのように考えてしまうことが多々あります。私たちが切実に求めて初めて、しぶしぶ少しずつ差し出すような、そんな方だと。しかし、神様の御性質は決してそうではありません。

 

 

「フッツパ(Chutzpah)」の意味は、無礼、図々しさ、厚かましさなどを指すと同時に、勇気や度胸、挑戦精神などを意味することもあります。

 

神様は豊かに押し入れ、揺すぶり入れ、あふれるほどに注いでくださる御性質を持っておられます。しかし、私たちが神様に何かを求めようとするなら、必ず切実に祈らなければなりません。今日、イエス様は私たちの祈りが「フッツパ(Chutzpah)」の祈りでなければならないと、たとえ話を通じて教えてくださっています。フッツパはイディッシュ語の chutzpah に由来し、英語圏でも広く使われるようになりましたが、その根源はヘブライ語の חוצפה です。ヘブライ語のフッツパの意味は、無礼、図々しさ、厚かましさなどを指すと同時に、勇気や度胸、挑戦精神などをも意味します。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

1962年にこの世を去ったアメリカの Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962) は、世界的に有能で熟達したヴァイオリン奏者として広く知られている人物です。彼はロマン派の作曲家としても有名ですが、オーストリアのウィーンで生まれ、フランスの市民権を取得した後、のちにアメリカの市民権を得てアメリカに定着しました。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

彼は帰化する前、第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国の陸軍将校として参戦し、負傷しました。そのため、彼はしばしば演奏で集めたお金を傷病兵のための治療費として寄付していました。ヴァイオリニストである彼は、常に良いヴァイオリンを探していました。しかし、演奏で得た収益の多くを慈善事業に使っていたため、手元に貯金はありませんでした。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

 

そんなある日、旅行中に非常に素晴らしいヴァイオリンに出会いました。彼がこれまで出会ったヴァイオリンの中で、音が最も優れた最高のヴァイオリンでした。彼は持ち主に、後でお金を持ってくるから誰にも売らないでほしいと頼み、持ち主もそうすると約束しました。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

しかし、しばらくして、お金を貯めてそのヴァイオリンを買いにそこへ行ってみると、持ち主はすでに約束を破り、そのヴァイオリンを別の人に売ってしまった後でした。そこでクライスラーはそのヴァイオリンを買った人を探し回り、ついにそれを買い取った楽器収集家を見つけ出しました。そしてクライスラーはヴァイオリンを自分に売ってほしいと提案しましたが、断られてしまいました。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

結局、彼はすべてを諦めて立ち去ろうとしましたが、最後にそのヴァイオリンで一度だけ演奏したいという思いに駆られました。そこで彼は楽器収集家に、そのヴァイオリンで一度だけ演奏させてほしいと願い出て、ついに許しを得ました。クライスラーはそのヴァイオリンを手に取り、切実な思いを込めて、狂おしいほどに演奏しました。

 

 

 

Fritz Kreisler (フリッツ・クライスラー, 1875-1962)

 

演奏が終わり、彼が帰ろうとした時、楽器収集家が彼にそのヴァイオリンを差し出しながら言いました。「このヴァイオリンの持ち主はあなたです。あなたの手に委ねられてこそ、このヴァイオリンは真価を発揮することができます。このヴァイオリンをあなたに差し上げましょう。」

 

 

 

 

今日、私たちもこのように神様の前で、切実さにもがき苦しむ心で祈る者とならなければなりません。「神様、今、私の祈りを聞き届けてくださらなければ、私は退くことができません」という切迫感を持って祈るべきです。適当に祈って、聞き届けてくれたらいいし、そうでなくても仕方がないというような、生ぬるい心で揺れ動く祈りをしてはなりません。

 

 

 

小林ハル, 1900-2005

 

三本の弦を持つ日本の伝統楽器である三味線の最高の名人となった、日本の伝説的な Goze (小林ハル, 1900-2005) についての記事を読んだことがあります。この女性は、生まれた時から目の見えない視覚障害者でした。三味線を弾き、食べ物を乞うて命をつなぎながら、いつしか三味線演奏の最高手となったのです。その女性のモットーは「命がけで弾く」というものだったそうです。

 

 

 

小林ハル, 1900-2005

 

寒い冬の日、他人の家の門の前に立ち、主人が出てきて施しをしてくれることだけを願う燃えるような心で、一曲、また一曲と演奏する時、その女性の心情は誠に切実だったことでしょう。閉ざされた門が開き、主人が米一升でも持って出てきてくれることを心から待ち望み、必死に演奏したはずです。

 

 

 

小林ハル, 1900-2005

 

自分の生計がその演奏にかかっているという切迫した心情で毎回演奏していたため、いつしか日本最高の三味線名人の座にまで上り詰めたのです。

 

 

 

小林ハル, 1900-2005

 

そうです。今日の私たちの祈りも、祈りの場に立って、決して退くことができないという切迫感、すなわち「フッツパ」の祈りを捧げる時、天の御座を動かし、神様の権威が現れる歴史が起きるのです。このような祈りの答えを受けられますよう、主の御名によって祝福いたします。

(歴代誌下 20:21-22, 新改訳) [21] それから、彼は民と相談し、主に向かって歌を歌う者たち、聖なる飾り物を着けて軍勢の前に出て行く者たちを任命した。彼らはこう歌った。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」 [22] 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を置いて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の住民を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 

 

聖徒となった私たちの賛美と告白は、あまりにも重要です。神様は次のように仰いました。 (イザヤ書 43:21, 新改訳) この民は、わたしの栄誉を宣べ伝えるために、わたしがわたしのために造った。

 

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

 

このように、人生の最大の目的の一つは神様を賛美することです。これが神様の御心であり、神様が私たちを造られた目的であり、私たちの人生が当然従うべき本分です。

 

 

あなたが歌う歌が、あなたの運命を決定づけます。

 

しかし、多くの世の人々はこの真理を知らないため、自分のために無益な歌を作って歌い、それを楽しみます。しかし結局、神様のない歌は、その内容が虚しかったり、卑しかったり、悲しかったりせざるを得ません。人間のための歌は、そのほとんどが悲しみと別れ、虚しさと涙が主な内容を成しています。

 

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

ですから、私たちが世の命のないこのような歌を歌えば歌うほど、私たちの心は過去に成し遂げられなかったことへの後悔と未練、そして溜息で満たされます。そして、私たちの未来と運命は、私たちが歌うその歌の告白に従って形作られていくのです。

 

 

 

神を賛美することによって大きな勝利を得たヨシャパテ(Jehoshaphat, BC 873-848)王とユダの民

 

今日の御言葉では、ユダのヨシャパテ(Jehoshaphat, BC 873-848)王が民と共に神様を崇め賛美したとき、神様がユダに攻め込んできたモアブ、アンモン、マオンの人々を打たれたため、ユダの人々は手を下すことなく敵を打ち負かすことができました。それゆえ、唇に賛美が常に絶えない聖徒となられることをお祈りいたします。

 

 

 

亡国の音について記録した韓非子

 

中国の『礼記』(礼記)「楽記」(楽記)篇と『韓非子』(韓非子)「十過」(十過)篇には、「亡国の音」(亡国の音)という故事成語が出てきます。そのうち『韓非子』という本には、次のような話が記録されています。

 

 

 

中国の春秋戦国時代

 

 

昔、春秋戦国時代、衛の霊公(Ling of Wei, BC 540-493)が晋の平公の宴会に招かれて行く途中、濮水(Pu River)という場所に差し掛かったとき、どこからか哀切で美しい音楽が聞こえてきました。その音楽を聴いていると、自然に涙が出るほど物悲しい音色でした。夢中で聴き入っていた霊公は、随行していた楽師の師涓(Shi Juan)に命じて、その音楽を採録させました。

 

 

衛の霊公(Ling of Wei, BC 540-493)

 

そして晋に到着した衛の霊公は、自分が経験した不思議な出来事を自慢し、楽師の師涓に濮水の近くで学ばせたその曲を演奏するように命じました。師涓が曲を演奏し始めると、突然、晋の平公の楽長である師曠(Shi Kuang)が言いました。「この曲をこれ以上演奏させてはなりません」と制止したのです。

 

 

 

楽師の師涓(Shi Juan)

 

 

晋の平公がいぶかしく思い理由を尋ねると、師曠はこう答えました。「かつて紂王(King Zhou)の楽師であった師延(Shi Yan)は、紂王のために『新声百里』という淫らで退廃的な曲をいくつか作りましたが、これがまさにその歌です。

 

 

 

武王(King Wu)が紂王を征伐した際、楽師の師延も追われて濮水に身を投げたため、濮水では今でもこの音楽が聞こえるのです。しかし、近隣の人々はこれを亡国の歌として恐れています。このような音楽を聴けば、必ず国が滅びてしまうでしょう。どうかこの音楽をこれ以上聴かないでください」と諫めました。

 

 

 

しかし、晋の平公は楽長の忠告を聞き入れませんでした。そして、「私は音楽が好きだ。聴いてみると、実に感動的な音楽ではないか。続けて演奏せよ」と言い、音楽は演奏され続けました。さらに師曠に、それよりもっと悲しい歌があれば演奏せよと命じ、「清徴」(Qingzhi)という音楽を聴きました。

 

 

 

 

師曠が「清徴」を演奏すると、西北から黒い雲が湧き上がり、28羽の黒い鶴が廊門に集まって首を長く伸ばして鳴き、舞い踊りました。これを見てさらに興に乗った晋の平公は、師曠の制止にもかかわらず、もっと悲しい歌を演奏せよと命じ、師曠はやむを得ず「清角」(Qingjue)という曲まで演奏しましたが、演奏を始めるやいなや黒い雲と狂風が押し寄せ、激しい雨が幕を裂き、膳を壊し、屋根の瓦を落としました。

 

 

楽師の師涓(Shi Juan)

 

 

これに人々は皆、恐怖に震えて逃げ出し、晋の平公は廊下の隅に伏せて震えていました。その後、晋の国には激しい干ばつが3年も続き、晋の平公はひどい腫れ物に苦しめられることになり、衛の霊公の国は国力が衰退していきました。

 

 

 

神を賛美することによって大きな勝利を得たヨシャパテ(Jehoshaphat, BC 873-848)王とユダの民

 

これは今日で言えば、サタンを崇拝するロックミュージックのようなものです。退廃的で破壊的なメッセージを込めた音楽を好んで聴いていると、人間の魂が壊れ、悪霊が押し寄せ、社会が崩壊していくのです。

 

 

 

ティッパー・ゴア(Tipper Gore, 1948-)夫人

 

実際、1985年にアメリカで「ペアレンツ・ミュージック・リソース・センター」(PMRC)を設立し、ロック音楽の歌詞と暴力性について警告する運動を主導したティッパー・ゴア(Tipper Gore, 1948-)夫人は、次のように述べています。

 

 

 

ティッパー・ゴア(Tipper Gore, 1948-)夫人

 

 

「今日のロック音楽が、多くの十代の若者の自殺や強盗、強姦などの原因となっています。子供たちを標的に自殺を賛美し、強姦やサディズム、マゾヒズムなどを表現するメッセージが急速に広まっているのが見て取れます。」

 

 

 

どのような音楽を聴き, 歌うかによって, あなたの運命が決まります。

 

 

当然神様を賛美すべき人生が、サタンの好む歌を作って歌うので、家庭と国が結局は汚れた唇と歌によって滅びることになるのです。しかし、私たちが神様の命令通りに神様を賛美する歌を歌えば、神様の栄光が現れます。

 

 

 

サウル(Saul, BC 1050-1010)王とダビデ(David, BC 1040-970)

 

ダビデ(David)は少年時代、サウル(Saul)王が神様の命令に背いて聖霊が去り、悪霊が臨んで苦悩した際、神様を賛美する音楽でサウル王を治療しました。 (サムエル記上 16:23, 新改訳) 神からの悪霊がサウルを襲うたびに、ダビデは竪琴を手に取って、指で弾いた。するとサウルは気分が良くなって快くなり、悪霊は彼から離れた。

 

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

このように、賛美には悪霊を追い出す能力があります。不幸と呪いと闇に打ち勝つ能力があります。眠れる魂を呼び覚まし、暗闇の勢力に打ち勝つ力があります。使徒たちが獄に閉じ込められて賛美を歌ったとき、彼らを縛っていた足かせが外れ、彼らを閉じ込めていた獄の門が開きました。

 

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

このように、賛美は否定的な考え、暗い考え、破壊し憎む考えを振り払い、不安と心配に打ち勝つ天の権威と能力を引き出します。

このように、賛美は私たちを活かし、悪霊を追い出します。ですから聖書は私たちに、すべての人が神様を賛美することをはっきりとした言葉で命じています。 

(詩篇 148:12-13, 新改訳) [12] 若い男も若い女も、年寄りも子供も。[13] 彼らに主の御名を賛美させよ。主の御名だけが高く上げられ、その威光は地と天の上にある。

 

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

詩篇はその最後の一節で、

  (詩篇 150:6, 新改訳) 息のあるものはすべて、主を賛美せよ。ハレルヤ。 と命じています。

 

 

人間は神を賛美するために造られました。

 

そうです。今日、私たちは賛美を命じられた神の民です。賛美することによって神様を崇め、大きな栄光に満ちた人生を歩まれる聖徒となられることをお祈りいたします。

「この民は、わたしの誉れを宣べ伝えるために、わたしの machine のためにわたしが造ったものである。」(イザヤ書 43:21)

 

神様はイスラエルの民に向かって、彼らを造られたのは神の栄光を賛美するためであるとおっしゃっています。しかし、続く御言葉を見ると、次のように書かれています。

「しかしヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。イスラエルよ、あなたはわたしをいとわしく思った。」(イザヤ書 43:22)

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

そして、「わたしはあなたに重荷を負わせなかったが、あなたはわたしを煩わせた」とおっしゃいました。このように、神様とイスラエルのすれ違う愛の姿に、胸がひどく痛みます。その一方で、もしイスラエルが神様の望まれる場所で、神様を崇める民として生きていたならば、どれほど大きな栄華と喜びが彼らにあっただろうかと考えさせられます。

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

しかし今、私たちはイスラエルを見て残念がるのではなく、神の家族となった私たちが、神様の望まれる人生を歩むなら、私たちの人生がどれほど祝福されるだろうかという思いで生きるべきです。

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

 

1963年、アメリカのメアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001) という45歳の中年女性が、「女性の人生を豊かにする」というスローガンを掲げ、自身の名を冠した「メアリー・ケイ・コスメティックス」という化粧品会社を設立しました。

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

 

彼女は常に三つの信念を持って生きていました。第一に、神を正しく敬うこと。第二に、神から与えられた家庭を大切にすること。第三に、神から任された仕事に常に最善を尽くし、忠実であることでした。彼女は懸命に働き、成功に成功を重ねました。

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

彼女が創設した会社は、全米トップ100の優良企業の一つに数えられています。彼女の会社に携わる独立ビューティー・コンサルタントの数だけでも、40カ国350万人に達します。メアリー・ケイ氏は日頃から口癖のように、「私がこれほど大きな成功を収めることができたのは、いつも神様が私と共にいてくださったからです」と語っていました。

 

 

 

モーリー・セーファー (Morley Safer, 1931-2016)

 

 

ある時、彼女はアメリカのCBS放送の番組「60ミニッツ」に出演したことがありました。その際、司会者のモーリー・セーファー (Morley Safer, 1931-2016) が彼女に少し意地悪な質問を投げかけました。「あなたは口を開けば、いつも神が共にいてくださるから成功したと言っています。それはあなたの野心のため、目的を果たすために、神を利用しすぎているのではありませんか?」

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

 

その時、メアリー・ケイ氏は静かに微笑みながらも、毅然と答えました。「いいえ。それはあなたの勘違いです。私はこれまで一度も、神を利用して自分の目的を達成しようと考えたことはありません。むしろその反対で、いつも神様が私を利用して、神様の目的を達成してくださることを切に願いながら生きています。」

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

メアリー・ケイ氏は、人も尊重すべき対象として見ていました。彼女は社員を採用する時や人と会う時、常に心の目で相手を見ていたそうです。彼女は日頃から社員たちに次のように強調していました。

「すべての人の首には、『私を大切な人間だと感じさせてください (Make Me Feel Important)』という目に見えない看板 (invisible sign) が掛かっていると想像しなさい。」

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

 

このエピソードは、彼女が単に化粧品を売るのではなく、女性たちの自尊心を高めることを使命と考えていたことを示しています。彼女は販売実績よりも、その人がどれだけ尊重されているかを重要視し、その姿勢が世界中の数多くの女性たちの心を動かし、大きな成功を収める礎となりました。

 

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

その通りです。私たちは神を利用しようとする者ではなく、神を喜ばせる神の民とならなければなりません。加略のユダはイエス様を自分の人生に利用しようとし、思い通りにならないと知るや、師を売り飛ばすという悪行を働きました。

 

 

メアリー・ケイ・アッシュ (Mary Kay Ash, 1918-2001)

 

 

しかしダビデは、ゴリアテが神を侮辱すると、命を懸けて立ち向かいました。私たちは皆、神を賛美するために造られた民らしく、今日も神を崇め、主を喜ばせる聖徒の歩みをされるよう、主の御名によって祝福いたします。

 

(詩篇 84:10、新改訳)あなたの庭での一日は、ほかの千日にも勝ります。私は、悪の天幕に住むよりは、私の神の殿の門口に立つのを選びます。

 

 

私たちがこの世を生きていく中で、世俗の間違った価値観に惑わされると、一度きりの人生を華やかに楽しんで生きることこそが真の幸せであると考え、そのような人生を送るために、自らの機会や時間、財産など、すべてをそこに費やしてしまうことが多々あります。 しかし、人生の真の幸せとは、根本的に命の源である神様とつながることであり、また、神様を喜ばせる生き方をすることによってのみ得られるものです。

 

 

聖アウグスティヌス (Augustinus Hipponensis, 354-430)

 

 

そのため、若い頃、世の快楽のために数々の悪行をも厭わなかった聖アウグスティヌス (Augustinus Hipponensis, 354-430) は、ついに神様のもとへと立ち返った後に記した著書『告白(懺悔録)』第1巻第1章において、「主よ、あなたはご自身のために私たちをお造りになりました。

 

 

聖アウグスティヌス (Augustinus Hipponensis, 354-430)

 

ですから、私たちの心は、あなたのうちに休らうまで、決して安らぐことがありません」 (for Thou madest us for Thyself, and our heart is restless, until it repose in Thee.) という有名な言葉を残しました。

 

その通りです。私たちの真の幸せと満足は、私たちの生の根源である神様とつながり、神様が望まれる人生の場所に立つときにこそ成し遂げられるのです。今日も神様の中で、神様が喜ばれる働きをなすことで、真の幸せを享受される聖徒の皆様となりますよう、主の御名によって祝福いたします。

 

 

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972)

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972) という女性は、「ランバレネ (Lambaréné) の天使」という別名を持っていました。彼女は1913年にハンガリー貴族の娘として生まれ、城のような家で暮らし、多くの侍女や使用人、お抱え運転手や家庭教師に囲まれて育ちました。

 

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972)

 

彼女は18歳でオーストリアのウィーンへ留学し、結婚しましたが、一年後に離婚しました。その後は映画女優となり、1932年には世界的な映画監督であるオットー・プレミンジャー (Otto Preminger, 1905-1986) と結婚して、アメリカ映画界の華やかさと快楽の中に身を置いて生きました。

 

 

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972)

 

その後、1946年に再び離婚してヨーロッパへ戻り、ヨーロッパ社交界の女王のように過ごしていましたが、1948年に大きな転機を迎えました。

 

 

 

シュバイツァー (Albert Schweitzer, 1875-1965)

 

 

それは、ヨーロッパを一時訪問していたシュバイツァー (Albert Schweitzer, 1875-1965) 博士が田舎町の教会でオルガンを演奏するのを聴いた後、シュバイツァーと対話する中で心の中に熱い切望が生まれたことでした。それは彼女に、全く異なる生き方があることを示すきっかけとなりました。

 

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972)

 

その後、プレミンジャーはシュバイツァー博士の招きでアフリカのランバレネにある病院へ行き、全く別人のようになりました。彼女は巨大な城で生まれ、王女のように育てられ、社交界の女王として生きてきましたが、今や黒人たちの下僕となって生きるようになったのです。

 

 

ガボン、ランバレネのアルベルト・シュバイツァー病院

 

 

プレミンジャーは毎日、献身的に患者を治療し、赤ん坊をお風呂に入れ、ハンセン病の患者たちに食事を与えました。彼女は自叙伝『私が望んだすべては、すべてだった (All I Ever Wanted Was Everything)』の中で、シュバイツァーが語った言葉をこのように引用しています。

 

 

自叙伝『私が望んだすべては、すべてだった (All I Ever Wanted Was Everything)』

 

 

「この世には二つの種類の人々がいます。一つは助ける人、もう一つは助けない人です。私は助ける人になることを決心し、そのように生きてきました。」プレミンジャーはついに、自分は世界で最も幸せな人生を送ったと告白しました。

 

 

 

マリオン・プレミンジャー (Dr. Marion Preminger, 1913-1972)

 

人生は、神様が自分を呼んでくださった場所で忠実に仕えるとき、最もやりがいを感じ、幸せになることができます。今日も世の間違った価値観に揺らぐことなく、私を呼んでくださった神様が導かれる場所で、毎日その方の導きに従って生きる聖徒の皆様となりますよう祝福いたします。

 

(詩篇 112:1-3, 正訳) [1] ハレルヤ。主を恐れ、その命令をこよなく喜ぶ人は幸いである。[2] その子孫は地上で強くなり、直ぐな人の世代は祝福される。[3] 繁栄と富はその家にあり、その義は永遠に続く。

 

 

私たちはしばしば、神様のみ言葉が正しいと認めながらも、心から信じなかったり従わなかったりすることがあります。しかし、私たちの知的な同意だけでは、神様のみ言葉は働きません。私たちが従うとき、神様の約束は動き始めます。

 

 

 

ペトロ (?–64/67)

 

 

ペトロ (?–64/67)は、自分が理解できないイエス (?–AD 30/33)の命令、「深みに漕ぎ出して網を降ろしなさい」という言葉を聞いて従いました。その時、奇跡が起こりました。

 

 

予言者エリヤ (活躍期 BC 9世紀)

 

エリヤ (活躍期 BC 9世紀)の言葉を聞いたサレプタ (Zarephath)の未亡人は、最後に残った粉と油で預言者をもてなしました。すると、飢饉が終わるまで粉と油が尽きないという奇跡が起こりました。そうです。

 

 

予言者エリヤ (活躍期 BC 9世紀)

 

 

神様のみ言葉は、従い実践する時に奇跡が起こるのです。今日も神様の命令に従うことで、奇跡を体験する人生を歩まれるようお祈りいたします。

 

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho)

 

アフリカのケニア (Kenya)のアン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho)が書いた「主が用いられる(Deureo Sseusim)」という本に、このような言葉が出てきます。「私はいつも、利己的で自己中心的なマサイ族 (Maasai People)について悩んでいました。ある程度献金する能力がある信徒が献金を少なく出すと、呼んで叱ったりもしました。」

「神様が献金しなさいとおっしゃる理由は、あなたに祝福を与えようとするためです。

 

 

什一献金(じゅういちけんきん)

 

あなたが先に捧げてこそ、神様が30倍、60倍、100倍にしてくださるのではないでしょうか。種を先に蒔かずに、どうして実を結ぶことができるでしょうか。ですから、最善を尽くして神様に献金しなさい。」

 

 

 

什一献金(じゅういちけんきん)

 

ある人々はこの説教を理解しましたが、ある人々はひどく怒ったのか、全く献金をしなくなりました。それでも私は献金について強調し続けました。

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho)

 

そんなある日曜日、セテケニ (Setequeni)という貧しい信徒が、自分の所有する全6頭の牛のうち、1頭を感謝献金として連れてきました。私はそれが彼にとってどれほど大きな犠牲であるかを知っていたので、とても驚き、また心配になって「これからどうやって生きていくのか」と尋ねました。

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho), マサイ族 (Maasai People)

 

 

すると、セテケニ (Setequeni)がこのような証しをしました。「私は今まで、一銭でも惜しもうと、貧乏を言い訳に献金をきちんと捧げてきませんでした。それでもお金は貯まりませんでした。先週は子供が病気で病院に行ったのですが、治療費が莫大にかかりました。

 

 

 

什一献金(じゅういちけんきん)

 

 

その時、私は神様が私の財産を取り上げようと思われたら、どのような方法を使ってでも取り上げることができるということを知りました。同様に、神様が私に財産をくださろうと思われたら、どんな方法ででもくださるということも知りました。だから、私が先に神様に捧げることが正しいと考えたのです。」

 

 

 

什一献金(じゅういちけんきん)

 

「実際、牛6頭も5頭も大差ありません。どうせ数頭しかいないので、その牛たちから出るミルクの量も大差なく、6頭だろうと5頭だろうと貧しいのは同じです。しかし、私が捧げる献金を神様が喜んで受け取ってくだされば、神様が祝福してくださるのではないでしょうか。」

 

 

 

什一献金(じゅういちけんきん)

 

セテケニ (Setequeni)の証しは多くの人の心を感動させ、それ以来、牛やヤギ、羊を献金として捧げる人々が現れ始めました。しばらくして、セテケニ (Setequeni)が日曜日に「ハレルヤ!」と叫びながら証しを自ら申し出ました。

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho), マサイ族 (Maasai People)

 

 

そしてこう言いました。「私は祝福を受けました。本当に驚くべきことです。先日、牛1頭を神様に捧げましたが、昨夜、雌牛2頭がそれぞれ子を産みました。しかも、どちらも双子を産んだのです。私はわずか牛1頭を捧げただけなのに、神様は4頭もくださったのです。それもすべて雌です。本当に驚くべきことです。皆さんも一度試してみてください。間違いなく何倍にもしてくださるでしょう。」

 

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho), マサイ族 (Maasai People)

 

そうです。私たちが神様のみ言葉に絶対従う生活を送る時、奇跡は起こります。アブラハム (BC 2000)は間違いの多い人でしたが、神様が彼を特別に愛された理由は、神様のみ言葉に対する全的な服従があったからです。

 

 

アン・チャンホ宣教師 (An Chan-ho), マサイ族 (Maasai People)

 

独り子イサク (BC 1900)を献げ物として捧げなさいという命令にまで従ったアブラハム (BC 2000)のように、私たちも神様のみ言葉に従うことで、神様が備えられた大きな奇跡の恵みを体験されるようお祈りいたします。

(ピリピ 4:13、新改訳)私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


 

 

私たちはしばしば、自分に与えられた神様からの使命は何だろうかと疑問に思うことがあります。イエス様は「タラントのたとえ」を通して、私たち一人ひとりに任された使命があるとおっしゃいました。ですから、自分に与えられた使命は何なのかを祈りの中で発見しなければなりません。

 

 

人には、神様からそれぞれに託されたタラント(才能・使命)があります。

 

 

もし、一タラント預かった僕のように自分の使命を放置するなら、将来主の前に立ったとき、言い訳の言葉を失うことになるでしょう。一方で、使命を果たそうとするとき、自分自身の力だけでは不可能な場合が多くあります。しかし、使命のために助けを求めるなら、主はやり遂げる力と機会を開いてくださるはずです。

 

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

 

アメリカにドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)という、非常に病弱な女性がいました。1831年、彼女が29歳になったとき、医師はこう言いました。「あなたは肺結核のために寿命が数年も残っていないでしょう。たとえ生きたとしても、苦労することになります。」その後、1836年にドロシアは健康回復のためにイギリスへ行き、療養しました。

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

彼女はそこに滞在し、聖書を何度も読む中で、絶えず神様に問いかけました。「主よ、あなたは私の人生をどのように使いたいと思っておられるのですか。」そして1837年、ドロシアは故郷のマサチューセッツ州に戻りました。

 

 

イースト・ケンブリッジ刑務所(East Cambridge Jail)

 

 

ところが1841年、彼女はある人からイースト・ケンブリッジ刑務所(East Cambridge Jail)で囚人たちに聖書を教えてほしいと頼まれました。

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)は、当時、精神病者たちがどれほど劣悪な扱いを受けているかを知ることとなりました。

 

 

彼女が聖書勉強会を導いていたとき、途中で刑務所の奥から聞こえる悲鳴によって勉強が中断されるという出来事が起こりました。彼女が驚いて「何の音ですか」と尋ねると、ある囚人が答えました。「先生、あれは精神病者たちです。

 

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

彼らの口には猿轡をはめるべきです。」この言葉を聞いてさらに驚いた彼女は、看守にその精神病者たちに会わせてほしいと言いました。看守は「見るに堪えないでしょう」と止めましたが、彼女の粘り強い要求に折れ、渋々許可しました。

 

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

 

初めて彼らを見たドロシアは、あまりの恐ろしさと衝撃に震えました。冷たい石造りの独房の中には、二人の女性がぼろきれのような服を着て鎖に繋がれていました。一人は75歳を過ぎた老人で、ほとんど服を身に着けていない状態であり、もう一人は18歳ほどの若い女性でした。その女性たちは寒さで青ざめながら懇願しました。「先生、どうか私を助けてください。」

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

ドロシアが看守になぜ彼らがこのような扱いを受けるのかと問うと、彼はただ「精神病者だからだ」と答えました。ドロシアはすぐに家に戻って服や毛布を持ってきました。そして管理者たちに、暖をとるためのストーブを用意してほしいと要求しました。しかし、彼らから返ってきた答えは「あいつらはそんな扱いを受ける資格のない人間の屑にすぎない」という言葉だけでした。

 

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

ショックを受けたドロシアは、他の都市へ行き、精神病者たちがどのように扱われているか調査しました。しかし、状況はどこも似たようなものでした。そして、この問題に関心を持つ人がほとんどいないという事実を知ったドロシアは、ついに全力を尽くしてこの仕事に飛び込む決心をしました。州全域の施設を調査して報告書(Memorial)を作成し、議会へ行って彼らの実情を訴え続けました。

 

 

 

教皇ピウス9世(Pius IX, 1792–1878)

 

ついに彼女の努力は実を結び、社会が少しずつ関心を持つようになりました。そしてついに、その影響力はカナダやイギリスにまで拡大しました。ドロシアは1850年代半ばにローマを訪問し、教皇ピウス9世(Pius IX, 1792–1878)に謁見しました。彼女の勧告により、教皇は自らバチカンのすぐ隣にある地下の精神病収容施設を視察しました。劣悪な環境を目の当たりにした教皇は、改善を命じました。

 

 

 

ドロシア・ディックスの尽力によって設立された精神病院

 

 

最終的には、彼らのための新しい法律が作られました。ついに世界各地に精神病者のための病院が建てられ、人間的な治療と待遇が保障されるという変化が次々と起こりました。29歳のときに「あと数年も生きられない」と言われた病弱な一人の女性が、80歳を過ぎるまで生き、勇敢に精神病者のための社会変革の先頭に立って世界を変えたのです。

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

 

このかよわい女性が19世紀アメリカの偉大な社会改革家になれたのは、「主よ、私の人生をどのように使いたいと思っておられるのですか」と問うことから始まったのです。

 

 

 

雑草だと思われていたアザミからも、数多くの薬効が発見されました。

 

 

ですから、私たちも自分自身に与えられた使命を悟らなければなりません。かつて人々は、雑草であるアザミを刈り取りながら「なぜこんな役に立たない草が生えてくるのか」と不平を漏らしました。ところが学者が研究してみると、アザミは多くの優れた医薬品の原料になることが分かりました。止血、下痢の治療、神経痛、うっ血の除去、胃腸障害、肝炎、血圧、婦人病、リウマチ性関節炎などの治療薬になるのです。

 

 

カビからでさえ、有用なものが見出されることがあります。

 

さらに、腐った食べ物の上のカビでさえ、研究してみると素晴らしい抗生物質の原料になります。

 

 

 

ドロシア・リンダ・ディックス(Dorothea Lynde Dix, 1802-1887)

 

雑草もカビも素晴らしい使命を持っているのに、ましてや神様が造られた人間、さらには神様が召された聖徒に使命がないなどということはあり得ません。世の中に不必要な「余剰人間」は一人もいません。ですから、なおさら神様に召された聖徒として、私たちの使命を悟り、それを成し遂げるために力を尽くすべきです。今日も神様の使命を全うし、神様に褒められる忠実な管理人(スチュワード)となられることをお祈りいたします。

(詩篇 71:3、改訂訳)あなたは私の常に逃れて隠れる岩となってください。あなたは私を救えと命じられました。あなたは私の岩、私の城塞だからです。

 

 

 

ダビデ王は神を自らの岩として頼りにして生きました。

 

ダビデが書いた詩を見ると、特に神を岩にたとえた表現が多く使われています。そして彼は自分の表現通り、神を人生の心強い岩として頼りにして生きました。その時、神は彼と共にいて、ダビデがどこへ行くときも勝利を得させたと聖書は記録しています。

 

 

 

ダビデ王は神を自らの岩として頼りにして生きました。

 

(サムエル記下 8:6, 14、改訂訳)[6] ダビデがダマスコのアラムに守備隊を置くと、アラム人はダビデの僕となって朝貢を捧げた。ダビデがどこへ行くときも、主は勝利を得させられた。[14] ダビデはエドムに守備隊を置き、エドム全土に守備隊を置くと、エドム人はみなダビデの僕となった。ダビデがどこへ行くときも、主は勝利を得させられた。

 

 

神を自らの岩とする人は幸いです。

 

そうです。神を岩とする人と民は幸いです。神が彼らの揺るぎない基礎となられるからです。このような祝福が、今日、聖徒の皆様と共にありますようお祈りいたします。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

イギリスのエドワード・モート 1797-1874は、牧師であり賛美歌の作詞家でした。彼の両親は居酒屋を経営していましたが、彼らはモートが通りで何となく遊びながら過ごすように放任して育てました。そのため、彼は自分の幼少期について、「私はあまりにも無知で、神がいることさえ知りませんでした」と回想しています。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

しかし、彼は神の恵みによって18歳の時に福音を受け入れ、洗礼を受けました。その後、モートはロンドンで37年間家具を作る仕事に従事しましたが、始めて10年ほど経つと、ついに家具店を経営する社長になりました。ついに彼は、今やお金も名誉もすべて手に入れました。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

そんなある日、モートが自分の工場の裏手にある丘に登って散歩していたところ、大きな岩を見つけて腰を下ろし、町の美しい情景を見下ろしていました。その時、彼は突然胸に押し寄せる幸福感を感じ、自分が座っている岩が自分を心地よく支えてくれていることに気づきました。そして次の瞬間、イエス様は自分の人生を支えてくれる岩のような存在であると考えるようになりました。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

結局モートは、自分の幸せの根拠はお金や名誉ではなく、復活された主が生きておられ、自分を導いてくださっているからだと悟り、この事実を黙想し始めました。そうして出勤途中にロンドンのホルボーン・ヒルを歩いている時にインスピレーションを受け、詩を書きました。

 

 

 

この詩こそが賛美歌488章であり、歌詞の内容は、「この身の望みは何、我が主イエスのみ。我が主イエスのほか、信じる者は全くいない。堅固な岩であられるので、その上に私は立とう。その上に私は立とう」というものです。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

その後、エドワード・モートの家具業はさらに繁栄し、企業はますます隆盛を極めました。しかし、モートは自分の天国の希望を隣人たちに直接伝える機会をもっと持ちたいという熱望から、55歳の時に自分の企業と財産をすべて整理し、バプテスト教会の牧師になりました。そしてその後、福音を伝える働きに20年以上献身し、77歳の時に神の召しを受け、彼が望んでいた天国へ行きました。

 

 

 

エドワード・モート (1797-1874) 牧師

 

モートが書いた賛美歌の最後の節はこのようになっています。「世で信じていたすべてのものが断たれる日になっても、救い主の契約を信じて、私の望みはさらに大きくなるだろう。待ち望んでいた天国に上り、神の御前にお会いする時、救い主の義を力として、堂々と御前に立とう。堅固な岩であられるので、その上に私は立とう。その上に私は立とう」

 

 

 

そうです。今日、私たちもエドワード・モート牧師のように主を岩として頼り、生きるも死ぬも主に従って歩み、天国を慕い求めることで、希望の中に生きる聖徒となられることを主の御名によってお祈りいたします。

 

 

(ルカ 12:42-44、新改訳) [42] 主は言われた。「主人が、その家のしもべたちを任せて、時に応じて食事を分配させる、忠実で賢い執事とは、いったいだれでしょう。[43] 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。[44] わたしは真実をあなたがたに告げます。主人はそのしもべに、自分の全財産を任せるようになります。」

 

 

神様は人々にそれぞれのタラントを任せられました。

 

 

聖徒である私たちは、この世を生きながら、私たちの人生がしばし通り過ぎる旅人であることを忘れてはなりません。この地での人生は永遠ではなく、私たちは硬貨一枚ですらあの世へ持っていくことはできません。ただ、この世を生きる間、しばらく時間と財物を使用する権利を享受して去るだけなのです。

 

 

主人はしもべたちに、それぞれにふさわしいタラントを任せています。

 

 

そして、私たちが帰るべき本郷では、審判者である神様の前で、どのような人生を送ってきたのかを必ず告白しなければなりません。その時、神様の前で後悔することのない、誇らしく称賛される執事として現れる人生を歩む聖徒の皆様であられることを願います。

 

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

1901年2月25日、ニューヨークのあるホテルに、鉄鋼王と呼ばれるAndrew Carnegie (1835-1919)と、当時金融王と呼ばれたJohn Pierpont Morgan (1837-1913)が向かい合って座りました。

 

 

 

John Pierpont Morgan (1837-1913)

 

モーガンがカーネギー鉄鋼会社を買い取るためでした。ところが、取引はわずか15分であっけなく終わりました。

 

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

この日、モーガンがカーネギーに支払った金額は4億8,000万ドルでした。取引の後、モーガンはカーネギーに握手を求めながら言いました。「カーネギーさん、あなたが世界で最も現金を多く持つ金持ちになったことをお祝いします。」

 

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

当時、日本の1年間の予算が1億3,000万ドルであり、カーネギーはこれよりほぼ4倍に達する現金を持つことになったのですから、モーガンの言葉は少しも間違っていませんでした。

 

 

 

U.S. Steel

 

この日、カーネギーから鉄鋼会社を買い取ったモーガンは、その後、いくつかの鉄鋼会社をさらに合併して、資本金10億ドルの世界最大の鉄鋼会社であるUSスチールを設立し、世界最大の富豪として登場しました。しかし、世界の歴史はこの日を、モーガンが「世界最大の財閥として誕生した日」としてではなく、「世界最高の慈善家カーネギーが誕生した日」として記憶しています。

 

 

 

『富の福音』(The Gospel of Wealth)

 

カーネギーは、まさにその2年前に出版した著書『富の福音』(The Gospel of Wealth)の中で、「富者の人生は二つの時期に分けられなければならない。

 

 

『富の福音』(The Gospel of Wealth)

 

前半は富を獲得する時期であり、後半は富を分配する時期でなければならない」と主張しましたが、彼は自分の言葉通り、その日、事業から引退し、自分の財産を分かち合い始めました。

 

 

 

自身が寄附した図書館の起工式に出席したAndrew Carnegie(1835-1919)

 

カーネギーは現金を確保した翌年の1902年に、ワシントン・カーネギー協会を設立しました。彼は当時としては天文学的な金額である2,500万ドルの個人財産を寄付し、イギリスとカナダ、そしてアメリカに2,500の図書館を建設して献納しました。

 

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

また、カーネギー・ホール、カーネギー工科大学、カーネギー教育振興財団などに合計3億5,000万ドルを寄贈しました。これは当時、彼が持っていた財産の90%に相当する金額でした。後日、ロックフェラー財団が1913年に設立され、フォード財団が1936年に設立されたのは、すべてカーネギー精神の継承であったと見なすことができます。

カーネギーは自らの語録の中でこう言いました。「金持ちのまま死ぬことは、実に恥ずべきことである。」

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

一方、カーネギーの鉄鋼会社を買い取ったUSスチールの栄光は、100年が経過した今、消えつつあります。世界の10大製鉄会社のうち6つを中国が占めている中で、USスチールは15位をかろうじて維持しており、これは後発ランナーである現代製鉄よりも一段階低い水準です。結局、金融皇帝モーガンの個人的な名声よりは、彼が建てた企業の名前だけが残りましたが、カーネギーは彼の名前そのものが慈善と分かち合いの代名詞として記憶されています。

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

 

ある人が亡くなって神様の前に立った時、地上で生きている間に財産をどのように運用したかを尋ねられたそうです。すると、その人は自信満々に答えました。「私は貧しい家庭で生まれましたが、自力で成功し、所有していた不動産だけでも数百億ウォンにはなるでしょう。」

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

すると神様はその言葉を遮り、「私はお前が集めた財産がいくらであるかには関心がない。ただ一つ、お前が他人のために使ったものがどれほどあるのか?」と尋ねられたそうです。

 

 

 

Andrew Carnegie (1835-1919)

 

そうです。 天国では、自分が生きながら持っていたものが自分の金ではなく、自分が正しいことのために使ったものだけが「自分の金」と見なされます。今日も財物と贈り物として受け取った才能に対する責任感を感じ、これらを持って神様と人々を喜ばせる執事の人生を歩まれることを、主の御名によって祝福いたします。

(創世記 14:14-16、改訂訳) [14] アブラムは身内の者が捕らえられたのを聞き、自分の家で生まれ訓練された者三百十八人を引き連れてダンまで追跡した。[15] 彼とその家臣たちは夜に分かれて彼らを打ち破り、ダマスコの左側にあるホバまで追撃して、[16] 奪われていたすべての財産と、身内のロトとその財産、それに婦人たちや親族をすべて取り戻した。


 

私たちは信仰生活を送る際、ともすれば神様がすべてをやってくださると誤解し、将来の目標のために何の準備もせず、実力を養うことを疎かにしてしまうことがあります。もちろん、神様はご自身に依り頼む聖徒の人生に、奇跡的に働かれます。

 

 

 

ダビデはゴリアテを倒す前に、羊を守りながら獅子と戦うことで実力を鍛えていました。

 

しかし同時に、神様は人間の準備と実力の養成も要求されます。ダビデはゴリアテ(Goliath)に立ち向かう際、自信だけで進んだのではありません。彼は羊飼いとして働きながら、羊を襲おうとする猛獣たちと戦い、実力を鍛えていました。

 

(サムエル記上 17:34-36、改訂訳) [34] ダビデはサウルに言った。「しもべは父の羊を飼っておりましたが、獅子や熊が来て羊の群れから小羊をくわえていくと、[35] 私はそれを追って打ち、その口から小羊を救い出しました。それが起き上がって私に襲いかかろうとすれば、そのひげをつかんで打ち殺しました。[36] しもべは獅子も熊も打ち殺しました。生ける神の軍隊を侮辱したこの割礼なきペリシテ人も、それらの獣の一人のようになるでしょう。」

 

 

ヨセフはエジプトの総理という重責を担う前に、苦難の中で訓練を積んでいました。

 

ヨセフ(Joseph)はエジプトの総理になる前、ポティファルの家で奴隷として仕えながらエジプトの言語を習得し、家政を司る者として大きな所帯を運営する方法も学びました。また、監獄では政治犯たちと共に過ごし、政治的な感覚も養いました。そして時が来ると、神様の導きの中でエジプト全土を治めることができるようになったのです。

 

 

アブラハムは戦いに出る前に、自分の家で生まれ育ち、訓練された者たちを準備していました。

 

本日の本文のアブラハム(Abraham)も、周囲の様々な部族の中で自分と家族を守るための軍隊を養成して力を蓄えており、危機が訪れた際に甥とその家族を救い出しました。このように、神の人は信仰の勇士であるだけでなく、世俗的な面においても準備し、実力を備えることに誠実でなければなりません。

 

 

 

サントゥアリオ・デ・ミセリコルディア(Santuario de Misericordia)教会

 

 

2012年8月22日、スペインの80代の女性、セシリア・ヒメネス(Cecilia Gimenez, 1930–2023)が19世紀の有名な壁画を毀損した事件がメディアで報じられました。

 

 

有名なフレスコ画「エケ・ホモ(Ecce Homo、この人を見よ)

 

スペインのボルハ(Borja)村にあるサントゥアリオ・デ・ミセリコルディア(Santuario de Misericordia)教会には、19世紀の画家エリアス・ガルシア・マルティネス(Elías García Martínez, 1858–1934)が描いた有名なフレスコ画「エケ・ホモ(Ecce Homo、この人を見よ)」がありました。それは、イエス様がいばらの冠を被り、斜め上を仰ぎ見ている姿の壁画でした。

 

 

 

サントゥアリオ・デ・ミセリコルディア(Santuario de Misericordia)教会と、誤って復元された「エケ・ホモ(Ecce Homo, この人を見よ)」

 

 

しかし、この絵も歳月の経過とともに湿気などで腐食し、かなり損傷していました。当時82歳の女性、セシリア・ヒメネスはそれを見て心を痛め、自ら壁画を復元しようと筆を取りました。

 

 

エケ・モノ(この猿を見よ)」と呼ばれた修復画

 

 

ところがしばらくして、マルティネスの孫娘がこの作品を確認するために到着した際、彼女は気を失わんばかりに驚きました。祖父マルティネスが描いたイエス様が、赤い毛の頭巾を被った奇怪な猿のように変わってしまっていたからです。

 

 

「エケ・ホモ」を誤って復元させたセシリア・ヒメネス

(Cecilia Gimenez, 1930–2023)

 

 

そのため、現地では「エケ・モノ(Ecce Mono、この猿を見よ)」というあだ名で呼ばれ、嘲笑混じりの有名税を払うことになりました。マルティネスの孫娘は激怒しましたが、この奇怪な作品を描いた本人は、むしろ自分は教会を慈しみ愛しただけだと堂々としていました。

 

 

 

「エケ・ホモ」を誤って復元させたセシリア・ヒメネス

(Cecilia Gimenez, 1930–2023)

 

スペインの文化財当局はこの女性の「善意」は認めましたが、一部では文化財を無断で毀損した彼女を処罰すべきだという意見もあり、修復不可能な状態になってしまった作品を前に深刻な悩みに陥ってしまいました。

 

 

「エケ・ホモ」を誤って復元させたセシリア・ヒメネス

(Cecilia Gimenez, 1930–2023)

 

この女性の根本的な問題は、情熱は溢れていましたが、知識と実力が不足していたという点です。情熱が悪いわけではありませんが、実力も知恵もなく情熱だけが先走ると、かえって大きな問題を引き起こすことになります。したがって、私たちは情熱と同じくらい、実力も備えなければなりません。

 

 

 

皮肉にも失敗した修復画が有名になり、結果としてハッピーエンドを迎えた教会

 

 

私たち聖徒はこの地上に生きる時、大小にかかわらず指導者の立場に立って、この世を導いていかなければなりません。私たちがそうしなければ、逆にこの世が私たちや教会共同体を自分勝手に引きずり回していくことになるからです。

 

 

エケ・モノ(この猿を見よ)」と呼ばれた修復画

 

 

したがって、必ず指導者の立場に立つべき神の人々は、知識と実力を備えなければならず、その準備に最善を尽くして力を注ぐべきです。このように準備された聖徒となり、時が来たときに、世を神様のもとへと導く素晴らしい指導者となられることを、主の御名によって祝福いたします。