(サムエル記上 16:7, 改訂新約聖書)
しかし主はサムエルに言われた。「その容貌や背の高さを見てはならない。わたしはすでに彼を退けている。神が見るのは人と同じではない。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
私たちはこの世を生きる中で、人を外見やその人の境遇を見て判断することが多くあります。しかし、神様は人の外見を見ず、その心をご覧になると言われました。それゆえ、私たち神の者である聖徒たちは、人を表面で判断するのではなく、その人が神と共にいる人であるかどうかという点で人を判断しなければなりません。
ダビデの家来を侮辱するナバル
かつてサウル王の千人隊長まで務めた将軍ダビデが、サウルの嫉妬によって逃げ回っていた時、カルメルに住むナバルという大金持ちがダビデを侮り、侮辱の言葉を浴びせました。
(サムエル記上 25:10-11, 改訂新約聖書)
[10] ナバルはダビデの若者たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの息子とは何者だ。近頃は、めいめい自分の主人から無理に離れていくしもべが多い。[11]
わたしが、自分のパンと水、それに羊の毛を刈る者のためにほふった肉を取り出して、どこから来たかも知らないような者たちに与えることができようか。」
ダビデに慈悲を乞うアビガイル
この言葉を聞いたダビデが報復しようとした時、ナバルの賢い妻アビガイルは、贈り物と共にダビデを称賛する言葉をかけ、彼がやがて神の約束どおり王位に就くことを告げて、一家全員をダビデの刀から救います。そして、その女性の言葉どおりダビデは王位に就き、アビガイルはその妻となり王妃となりました。荒野をさまよう流れ者のようなダビデでしたが、彼が神様から与えられた約束を持つ人であることをアビガイルが知っていたために、祝福を受けたのです。
ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド
(James Abram Garfield, 1831-1881)
アメリカ南北戦争後のとある春の日。オハイオ州にあるウォーシー・テイラー(Worthy Taylor)という人の大きな農場に、ジムという少年が仕事を探しにやってきました。主人であるテイラー氏は、少年ジムに仕事を与えました。ジムは夏の間、薪の準備をしたり、牛の世話をしたりと、仕事をよくこなしました。少年ジムは食事は台所でとり、寝床は干し草を貯蔵する倉庫で寝ました。
ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド
(James Abram Garfield, 1831-1881)
ところが、一年も経たないうちに、ジムは主人テイラー氏の娘と恋に落ちてしまいました。しかし主人は、侮辱的な言葉で、「お前のような金も名誉もなく、将来性のない人間に、私の娘を嫁がせることはできない」と冷たく言い放ちました。
ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド
(James Abram Garfield, 1831-1881)
そこで少年ジムは、何も言わずに自分の持ち物をまとめて、その農場を去ってしまいました。30年という歳月が流れ、農場主テイラー氏は干し草倉庫を取り壊し、新しい施設を建てることになりました。ところが、かつて少年ジムが寝ていた片隅の柱に、ジムが自分のフルネームを彫って刻んでいたのです。
ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド
(James Abram Garfield, 1831-1881)
その名前は ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(James Abram Garfield, 1831-1881)でした。ガーフィールドは、その農場を去った後、勉強して教授や大学の学長を経て、8回も下院議員に当選し、ついにアメリカ合衆国の第20代大統領になったのです。
ジョン・デイビソン・ロックフェラー
(John Davison Rockefeller, 1839~1937)
私たちの世俗的な判断はこのように限界があります。ジョン・デイビソン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, 1839~1937)は、今でも世界的に名の知れた富豪で、ビル・ゲイツの6倍もの資産を持つと言われています。
ジョン・デイビソン・ロックフェラー
(John Davison Rockefeller, 1839~1937)
しかし、ロックフェラーも若い頃、生活能力がないという理由で付き合っていた女性に振られました。しかし、ロックフェラーは生前、百万坪を超える総合大学を12校と単科大学を12校建立しました。そして生涯で4,928もの教会を建てて神様に捧げました。
いつの日か、私たちは誰もがイエス・キリストの御前に立つことになるのです。
このように世の中においても間違った判断をするとき、私たちは大きな失敗と後悔に見舞われます。しかし、何よりも重要なのは、天国を見ることができる目です。この目が閉ざされていると、私たちは天国を知らないまま生きて、準備なく死を迎えることになります。天国を見る目が開かれ、天国に入る準備をしながら、神様と共に歩む聖徒となられるようお祈りいたします。


































































