〇過剰ポテンシャルのもっとも一般的なタイプである重要性を考えることにしよう。重要性は、過剰な意義を与えられているところで発生する。重要性とは、純粋な形の過剰ポテンシャルであり、それを解消する際に、平衡力は過剰ポテンシャルを生み出したものにとっての問題を創り出す。
 重要性は二つの種類がある。内的重要性と外的重要性である。内的重要性、別名、自己重要性は、自分の長所又は短所の過大評価として現れる。その場合にありがちな常套句としては「私はVIPである」または「私は重要な仕事をしている」というようなものがある。個人の意義を示す針が振り切れると、平衡力が作用し始め、「VIP」とやらはお灸をすえられることになる。「重要な仕事をしている」という人物も失墜に見舞われる。その仕事が誰にも必要とされなくなったり、仕事の出来が極端に悪かったりという事になる。ほほを膨らませるしぐさや手の指をぎこちなく広げるしぐさで特徴づけられる長所の過大評価は、物事の一面である。もう片方の面にあるものはというと、自分の長所の矮小化や自己卑下である。この後に続いて私が言いたいことは何かといえば、あなたはすでにご存じであろう。過剰ポテンシャルの値は符号がプラスでもマイナスでも同じという事である。
 外的重要性も人間によって創り出される。それは、対象や周りを取り巻く世界の事象に大きな意義を与えた時に生じる。この場合にありがちな常套句は次の通り、「私にとって大きな意味を持つのは…」または「私にとって…をすることは非常に重要である」このような場合に、過剰ポテンシャルが作られ、すべてが台無しになる。内的重要性の感情はまだどうにか制御できるかもしれないが、外的重要性を帯びた物事は悪化する。あなたが地面に横たわっている丸太の上を歩かなくてはいけないとしたら、朝飯前にやってのけることだろう。それでは、その丸太が、二棟並んでいる高層ビルの屋上から屋上へかけられているとしたらどうだろう。あなたはこれを渡りきることがとても大切であると思い込み、そんなはずはないとも言い直して取りやめることが出来ないとしよう。外的重要性を解消する唯一の方法は、保険を掛けることである。各々の具体的なケースでこの保険に相当するものがあるはずである。釣り合いをとるための何らかの重り、保護回路、あるいは予備ルートなどのようなものがなくてはならない。
 このことについては、これ以上言う事がない。事実上、重要性を与える事については、これですべて述べた。あなたはもう察しがついただろう。ここで述べたすべてがバランスのとれていない感情や反応である。憤激、不満、立腹、不安、抑圧、狼狽、絶望、恐怖、憐憫、執着、狂気、感動、理想化、崇敬、有頂天、落胆、誇り、高慢、軽蔑、嫌悪、侮辱などは、まさに何らかの形で重要性が出現したことに他ならない。過剰ポテンシャルは、自分の内部または外部において、質、対象、事象などに過剰な意義を与える場合に限り、生み出されるのである。
 重要性を与えると、過剰ポテンシャルが生み出され、過剰ポテンシャルは平衡力の風を引き起こす。平衡力は膨大な問題を発生させ、そして、人生は生存をかけた戦いの連続となる。内的重要性が人生をいかに厄介なものにしているか、これでもうあなたは理解されたことだろう。
 しかし、これですべてではない。操り人形の意図を思い出していただきたい、コマは、恐怖、不安、憎悪、愛情、崇拝、義務感、罪悪感、など、あなたの感情や反応にしがみついてくる。これら全ては重要性を与えたがための結果である。そして、まさに次のようなことが起こる。あなたの目の前に何らかの対象がある。それはエネルギーレベルでは中立であって、良くも悪くもない。あなたはそれに近寄ると、重要性の包装紙でくるみ、少し離れたところからそれを見て、おお、と叫ぶ。これであなたはコマにエネルギーを供給すべく、用意万端整ったわけである。なぜなら、あなたにはしがみつくところが出来たから、ロバはニンジンを追いかけて、従順にのろのろと歩く、重要性とはまさにこのニンジンのことであり、これを利用してコマはあなたの放射周波を乗っ取り、あなたからエネルギーを吸い上げ、コマの好きな所へと連れていくことが出来るようになる。
 このように、周辺世界とバランスを保ち、コマから自由であるためには、重要性を低くする必要がある。自分自身と周辺世界とをどれほどの重要性を与えながら知覚しているのか、あなたは常に把握していなくてはならない。内なる見張り役を転寝させてはいけない。重要性を与える度合いを低減させることで、あなたはすぐに平衡状態を得られ、コマの方はあなたを監視下に置くことが出来なくなる。なぜなら、空っぽの状態では、しがみつくために必要な引っ掛かりがないからである。あなたはでくの棒になったままずっと長くはいられないと、反論するかもしれない。感情とは全く無縁の存在になれとか、感情の振幅を押さえよ、などと呼び掛けているわけではない。大体において感情と格闘すること自体が無益であり不必要でもある。もしあなたが自分自身をしっかりコントロールしようとして、外見上は平静を装っても、内面が煮えたぎった状態であならば、過剰ポテンシャルはますます強まる。感情や気持ちは結果にすぎない。原因はいつも一つのところにある。それが重要性である。
 例えば、だれかに赤ん坊が生まれたり、だれかが亡くなったり、結婚したり、または大きな出来事が起こったりしたとしよう。これらは重要なことだろうか。いいえ、どうでもいいことなのか。これも答えは、いいえである。違いがお分かりか。ただ単にこれを問題にせず、これらに関して自分や周囲の人々を悩ませたりしないだけの事である。それでは、同情はどうか、おそらく同情や助けというのは、本当にそれを必要としている人にとっては、何の害も及ぼさないのではないかと思う。しかし、ここでも重要性については注意しなければならない。助けは本当に必要な人にだけ与えることが出来ると今述べたばかりであるが、それでは、もし人が苦しみを欲しているとしたらどうだろう。その人は苦しみたいと思っており、その人にとってあなたの同情は、あなたを犠牲にしての自己肯定の手段となる。それでは、こんな例はどうか。あなたが身体の不自由な乞食を見かけ、お金を施したとしよう。その乞食はあなたの後姿を視線で追いながら、悪意に満ちた表情でほくそ笑んだ、この乞食は障害者でも何でもない。プロの乞食である。
 動植物の世界、それに自然界全般においては、重要性という概念がない。あるのは、平衡の法則を履行する観点からの合目的性だけである。人間と一緒に暮らすペットに限っては、自己重要性を与える感情が現れるかもしれない。人間社会はそうした愛玩動物にも何らかの影響を及ぼしているだろうから、その他の動物の行動は本能に基づく。重要性を与えることは、コマを喜ばせるために人間が発明したものである。外的重要性を与えることが極端に偏ると、狂言者を創り出す。内的重要性を与えることが行き過ぎると、だれが思い浮かぶだろうか。手前勝手が過ぎる人だろうか。
 こうした状況では一歩踏み出すことさえ恐ろしいという印象を持たれたかもしれない。幸い、全部が全部これほどひどいわけではない。平衡力があなたに対して顕著に作用するのは、あなたかが自分の考えに強く縛り付けられたり執着したりして、本当にやり過ぎたたときだけである。コマとの関係はすべて明らかになっている。私たちはみなコマの影響下にある。大事なのは、どのようにしてコマがあなたを服従させようとするのか、あなたはコマがどのあたりまで立ち入ることを容認するのか、きちんと把握しておくことなのである。
 重要性を低くすると、あなたの人生における問題の数がはるかに減るだけではない。内的重要性や外的重要性と縁を切ると、あなたは選択の自由という宝物を手に入れることが出来る。事象選択の最初の原則に従えば、私たちは選択する権利を持っているのに、なぜまたここでそれを、とあなたは疑問に思うかもしれない。選択する権利を持っていることは持っているのだが、しっかりと掴み取ることが出来ない事もある。平衡力やコマがそうさせないのである。重要性を与えるおかげで、一生、平衡力との戦いに明け暮れてしまう。自分で選択するエネルギーが残されていないどころか、自分個人が人生から何を期待していたのか、考えるエネルギーすら無くしてしまう。コマの方と言えば、コントロールしてやろう。あなたと無縁の目的を押し付けてやろうとして、常にチャンスをうかがっている。そんな状況で、どんな自由がある言うのだろう。
 内的重要性や外的重要性とはすべてこじつけられたものである。私たちは皆この世界で全く何の意味も持っていない。そして同時に、そんな私たちはこの世界の全ての豊かさに手が届くのである。波打ち際で楽しそうに水遊びする子供たちを創造していただきたい。その中のだれ一人として、あの子は良いやつ悪いやつとか、水は良い悪いとか、ほかの子たちは良い悪いなどと思っていないとする。こうした状況が維持されている間は、子供たちは幸福であり、自然とのバランスが保たれているわけである。どの人も自然がもたらした子供としてこの世に生まれ落ちた。もしその人が平衡エ状態を乱したりしなければ、この世界にあるすべての素晴らしいことに手が届く。しかしと、人が重要性を与え始めた途端、問題が現れ出る。その人には、目の前に現れた問題と自分でもたらした重要性との間の因果関係が見えない。そのため、その人にとっての世界は、最初から敵対的な環境であり、望んであるものが簡単には手に入れらられないところだと思える。だが、本当は、望みの実現に続く道における唯一の障害は、人為的にもたらされた重要性である。この問題について、私はまだあなたを納得させてはいないかもしれない。しかしながら、この話が語り尽くすまでには、まだ遠い道のりが残されている。

 

〇さて、ついに、平衡状態が崩れるケースの中では、最も特異で逆説的なものを考える番となった。すべてはほんの些細なことから始まり、非常に深刻な結果となって終わる事もあり得る。一般に、私たちは子供のころからあらゆることをまじめに努力するようしつけられ、責任感を養われ、善意の概念を植え付けられて来た、こうしたことに疑問の余地はない。さもないと、怠けものや愚か者ばかりが地上を闊歩することになってしまう。しかし、とりわけコマの極めて熱烈な信奉者たちにとって、こうしたことは心に深く刻み込ま、彼らの人格の一部となっている。
 全てにおいて完璧にしようとする意欲は、一部の人々の頭からこびりついて離れなくなっている。このような人々の人生は戦いの連続となる。ではは何と戦うのだろうか。もちろん平衡力とである。いたるところで完璧にしようとする目標設定が行われ、すべてにおいてエネルギーレベルでの紛糾化が起こる。なぜなら評価の変異が避けられず、その結果として過剰ポテンシャルが発生するからである。
 全てを上手にやろうという意欲に悪いところは何もない。しかし、これに過剰な意義が与えられると、たちまち平衡力が現れる。平衡力はすべてをダメにする。その際、フィードバックが起こり、当人は必死になって全てを修正しようとするが、事態はもっと悪化する。結局、完璧を求める姿勢は習慣となり、強迫観念に変質することもある。存在は絶え間ない戦いに代わり、必然的に周囲の人々にも悪影響を与えるようになる。なぜなら、理想主義者は自分だけでなく、他者にも要求を突きつけるからである。これは他人の習慣や好みに対する耐え難さとなって表れ、小さないざこざの引き金となり、それがときには大きな揉め事へと発展することもある。
 すべてにおいて完璧さを追求するという試みの愚かしさは、外から見ればすぐにわかる。また、その際、周囲の人間をも苦しめてしまう。しかし、理想主義者自身はその役割に深くのめりこんでいるため、当人だけが非の打ちどころなく完全無欠な人間性を持っているように思い始める。私が理想を追求する以上は、私自身が理想型である。というわけである。このことを理想主義者は、自分自信にすら打ち明けようとはしない。なぜなら、自分個人に優越感が、一般に通よする完璧さの概念の枠に収まっていないことを知っているからである。ともあれ、こうした理想主義者の潜在意識には、「すべてにおける自己正当性」が非常にどっしりと腰を据えている。
 さて、ここで理想主義者にある誘惑が忍び寄る。それは、最高位の裁判官の役割を担って人類の前に現れ、すべての迷える子羊たちに何をどうすべきか決定してあげようというものである。当然のことだが、理想主義者は簡単にこの誘惑に屈する。このことへの弁明としては自己正当性が一役買い、すべての人々を正しい道に教え導くという公明正大な願望が駆り立てる。
 この瞬間、「運命の支配者」はマントを身にまとい、ほかの人々をさばき、判決を下す権利を自らに授けたことになる。実際、この場合の後半に当たるものは、もちろん日常生活上の非難や説教の域を出ないものである。しかし、エネルギー面ではそれほど強力な過剰ポテンシャルは作られない。「裁判官」は、思慮が浅く役に立たない人間たちに、どう身を処すべきか、すなわち、何を考えるべきか、何に価値を見出し、何を信じ、どこを目指すべきか、などを定めてやる使命を自らに課す。もしこの非弱な生き物がそうした事について急に自分の意見を思いついたら、身の程を思い知らせてやる必要がある。それでも意見を押し通そうとしたらねその時は、いったい誰が誰れれなのか皆がわかるよう、その者を裁き、判決を下し、烙印を押してやるのである。
 あなた方の性格は、今述べた内容とはかけ離れているはずだと断言できる。自分が正しいことを信じて疑わないような愚か者がこれを読むことはあり得ない。その愚か者にとっては、皆がどう生きるべきは明らかで、その点について疑問に思い苦しむなどという事はしない。しかし、もしあなたがこのようなものにあったならば、関心を持ってみていただきたい。目の前にいるそのものは、平衡の法則を最も乱暴に破った典型である。私たちはみなこの世界では客人であり、各々は自分の道を選ぶことは自由であるが、他人を裁き、判決を下し、烙印を押すなどの権利は誰も持っていない。
 このように、完璧を目指そうとする意欲は、当たり障りのないところから始まり、最後は支配者の特権を要求するところまで行きつく。そのため、かつては小さな不快と言いう形で現れていた平衡力の低声はどんどん増大する。もしこの平衡法則の違反者が駒の庇護下にあるのならば、ある時期までは何も咎められずに済むことはあり得る。そうはいっても、いつか精算するときがやってくる。客が自分のことを単なる客にすぎないという事を忘れて、主の椅子を要求し始めると、放り出されることになるわけである。

 

〇お金は、所有したいという意欲なしに愛することは難しい。そのため、依存関係から逃れることはほぼ不可能である。出来ることと言えば、最小限に抑えるよう努力することぐらいだ、もしあなたのところにお金が舞い込んできたら喜びたまえ。しかし、お金が足りないとか、支払いのためとかいう理由で、ヘトヘトになるまで働くのだけは、どんなことがあってもしてはいけない。さもないと、お金はますます減っていくだろう。もし稼ぎが少ないならば、お金が足りないことについて終止愚痴をこぼすことこそ、よくある間違いなのである。こうした思考エネルギーの放射パラメーターは人生の貧乏なラインに合致している。
 お金がどんどん少なくなるという不安に屈することは、特に危険である。恐怖とはエネルギーが最も多く充填された感情であるため、お金を失ったり稼がなかったりする恐怖を抱いているあなたは、よりによって最短ルートで、本当にお金がどんどん少なくなっている人生ラインへと自分を移動させていることになる。もしこの罠に陥ってしまったならば、そこから脱出することは大変に難しいが、可能ではある。。そのためには、あなた自身が生み出した過剰ポテンシャルの原因を解消する必要がある。過剰ポテンシャル発生の原因は、お金への依存関係か、またはお金を手に入れたいという強い願望である。
 まず手始めに、感情を鎮め、遺またあなたが持っているもので満足するよう気持ちを切り替えよう。もっと貧乏になる可能性もあり得ることを、常に念頭に置いて置こう。お金を手に入れたいという願望を諦める必要はない。しかし、お金があなたの方へ川のように押し寄せてこないうちは、心穏やかに接していることだけが必要なのである。いつどの瞬間にでも、大儲けするかまたはすべてを失うかわからないプレイヤーの心境であることが大事である。
 多くのコマが、信奉者たちとの万能の決済手段としてお金を利用している。まさにコマの活動こそが、お金全般への無分別な崇拝へと導く。お金を用いることで、物質的世界における自己の存在が保障される。ほぼすべてのものが売買されている。どのコマを選ぼうが、すべてのコマがお金で決済してくれる。ここに危険が潜んでいる疑似餌のきらめきに食らいついたが最後、あっという間にあなたの幸福からほど遠い人生ラインへと方向転換を余儀なくされる。
 コマは自分の利益を追求しつつ、目的達成のためには資金が必要だとする伝説を作り上げる。このようにして、各人の目的が見せかけの代替品であるお金にする返られてしまう。お金は様々なこののところで受け取ることが出来る。そのため、人は目的自体ではなくお金について考え、その人にとっては本来縁のないはずのコマの影響下に陥る。自分自身が人生から本当は何を求めようとしていたのか、人は考えることをやめ、お金を追いかけるという実りのない競争に入っていく。
 コマにとって、こうした状況に大変有益である。人が依存関係に陥り、道からそれる。縁がないはずのコマのために働いている人は、たくさんのお金を得ることが出来ない。なぜなら、自分と縁のない目的のために使えているからである。非常に多くの人々がこうした状況にいる。豊かさは少数派の特権という伝説はどこから来たのだろう。本当は、もし人が自分の目的に向かって進んでいるのならば、だれでもお金持ちになることが出来るのである。
 お金は、目的でも目的達成の手段でも無く、随伴する属性にすぎない。人が人生から求めているものが目的である。目的の例を列挙してみる。自分の家でバラを育てて暮らす。世界旅行をして、遠い国々を見て廻る。アラスカでマス釣りをする。アルプスの斜面をスキーで滑降する。自分の農場で馬を育てる。大海原に浮かぶ自分の島で人生を謳歌する。スターになる。絵を描く。
 いくつかの目的は、お金の詰まった袋があれば達成できることがわかる。大部分の人々は、この袋を手に入れようとして行動する。彼らは目的自体を後回しにして、お金のことについて考える。事象船体の原則に従って、彼らはその袋が持っている人生ラインへ移動しようと試みる。しかし、自分とは無縁のはずのコマのために働くことで、お金の詰まった袋を得ることは、非常に困難か、またはほぼ不可能である。そのため、お金も得られないし目的も達成されなくなってしまう。そうならないはずがない。なぜなら、思考エネルギーの放射は、本当の目的の代わりに、とってつけたような代替品に向けられるよう調整されているからである。
 もしあなたの目的が金持ちになりさえすれば実現可能と思われるならば、そんな条件はきっぱりと捨て去るべきである。あなたが世界中を旅行したいとしよう。そのために大金が必要な事は明らかである。望むものを達成するためには、目的について考えるのであって、止めることを考えてはならない。お金は随伴する属性にすぎないのだから、自分で近寄ってくる。これは単純なことである。ありそうもないように聞こえるだろうか。しかしながら、これは本当にこの通りなのであり、すぐに合点がいくことだろう。コマは自分の利益を追求しようとして、すべてを歪曲する。お金で達成されるのはあなた本来の目的ではない。お金はあなた本来の目的へと続く道に自分から近寄ってくる。
 コマがどれほど強い影響力を持っているか、今やあなたは良くお分かりと思う。この影響力がたくさんの誤解や虚構を生み出す。いまこの段落を読んでいるあなたは、次のように反論するかもしれない。人間は、まず大企業家や銀行家、または映画スターなどになった後で、億万長者になることが出来るのは、自分の目的について考えている人だけであって、止めることについて考えている人ではない。大部分の人々は、逆の行動をする。自分本来の目的ではない他人の目的のために使えるか、目的をうわべだけの代替品に擦れかえるか、それとも、金持ちになるという達成され得ぬ条件のために目的をすっかり断念するかのどちらかである。
 実際、富めることに関しての制限はない。あなたは何でも好きなだけ良くすることが出来る。もしそれが本当にあなたのものであるならば、それをあなたは手に入れることだろう。もしその目的がコマからあなたに押し付けられたものであるならば、あなたは何も手に入れられないだろう。とはいえ、そうするほかにしようがない。なぜなら、大体のところ、お金について述べることはもうないのだから、もう一度繰り返すが、お金とは、目的へと通じる道について回る属性という以上の何物でもない。お金について心配してはいけない。お金は自分からあなたのほうーと寄ってくる。いま大事なことは、過剰ポテンシャルが発生しないように、お金への意義づけを最低限まで低くする。お金については考えず、達成したいことだけについて考えるのである。
 お金に対しては、注意深く丁重に接することが必要である。もし地面に小銭が落ちているのを目にしたのに、かがんでそれを拾うことが億劫であるならば、あなたはお金を全く敬っていないことになる。もしあなたがお金のコマの属性に対して無礼な態度をとったとしたら、お金のコマがあなたに好意を寄せることが本当にあり得るだろうか。
 では、お金を使うときはどうか、心配はいらない。こうれさることで、お金は自分の使命を果たすのである。あなたがお金を使おうと決めたのであれば、出し惜しんではいけない。まとまった金額を貯めながら、使うのはできるだけ少なく抑えようとする意欲は、強いポテンシャルを発生させことになる。お金が一か所に蓄積され、どこへもいけないわけである。このような場合、すべてを失う確率が高まる。お金に動きがあるよう合理的に使う必要がある。動きのないところでは、ポテンシャルが発生する。お金持ちたちは理由もなく慈善事業に参加しているわけではない。彼らは蓄積された富の過剰ポテンシャルを低減させているのである。

〇罪悪感には、他に二つの興味深い側面がある。それは権力と勇気である。罪悪感を持っている人々は、罪悪感を持っていない人々の意思に常に従う。もし私が何らかのことで罪を犯しているかもしれないとの認識を潜在的に抱くとすると、私は無意識のうちに罰を受ける準備をしており、そのことはとりもなおさず、複縦への用意があるという事を意味する。それではもし私に罪悪感はなく、他人を犠牲にして自己肯定しようと吸う欲求があるとした場合、私は人形遣いとなる準備が整っていることになる。人々は人形遣いと操り人形とに分類されると言いたいのではない。ただ法則性に注意してもらいたいのである。君主や権力者の罪悪感は、可能な限り小さいか、またはほとんどないだろう。罪悪感は、冷笑家やその他良心を持たない人々にとって、全く無縁の感情である。人の頭や亡骸を踏みつけていくのが彼らのやり方である。しばしば権力の座にあくどい者が座ることも驚くに値しない。ここでも断っておくが、これは権力とは悪いものであり、権力の周辺にいる人々も悪い、という事を意味するのではない。それどころから、権力のコマのお気に入りたちばかりで無く、たぶんあなたの幸せも、コマのお気に入りとなることにあるのだろう。自分の良心をどうやって秤にかけるかは、各人が自分のために自分自身で決めるのであって、そのことについて他人にとやかく言う権利は誰にもない。ともあれ、いずれにせよ罪悪感とは縁を切る必要がある。
 もう一つの側面は勇気である。これは罪悪感欠如の兆しである。恐怖の本質は潜在意識にあり、その原因は、畏怖させる正体不明のものだけではなく、罰を受けるという恐怖でもある。もし私に「罪がある」のであれば、私は罰を受けることに潜在的に同意していて、それ故に私は恐れる。実際、勇敢な人々は良心の呵責に苦しむことがないだけでなく、どんな些細な罪悪感に苛まれることもない。彼らは何も恐れない。なぜなら、彼らの内なる裁判官は、彼らのすることが正しいと太鼓判を押してくれるからである。これとは反対に臆病な犠牲者は全く異なる立場にあることが特徴的である。「私の行為が正しいかどうか自信がない。私を非難されても仕方ないし、だれでも私を罰することが出来る」こうした罪悪感は、それがどんなに弱いものであろうとも、また、それがどれほどの深みに潜んでいても、罰を受けるために潜在意識の扉を開ける。もし私が罪悪感を覚えるのならば、略奪者やならず者に私を襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがために私は恐怖する。
 人は罪の過剰ポテンシャルを消し散らそうとして、ある興味深い方法を考え付いた。それは許しを乞うことである。これは本当に効果がある。もし人が罪悪感を持っているとしたら、その人はネガティブなエネルギーを維持しようとして、過剰ポテンシャルをため込む、許しを乞うことで、人は過剰ポテンシャルを放出し、エネルギーが徐々に消えていくことを可能にする。許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈る事、懺悔することなど、これら全ては罪のポテンシャルから解放される方法である。何らかの方法で自分に免罪符を交付することにより、人は自分自身でもたらした攻めを解消し、気分を楽にする。一つだけ気を付けなくてはいけないことは、懺悔が人形遣いたちへの従属関係に移行しないようにする点である。人形遣いたちは、まさにこの機会を狙っている。あなたはポテンシャルを投げ捨てるために、許しを乞い、自らの過ちを認める。人形遣いたちは、この過ちを幾度となくあなたに思い出させ、あなたの中に罪悪感が維持されるよう挑発する。彼らの挑発に乗ってはいけない。過ちに対する許しを乞う権利は、一度行使したら、それでおしまいなのである。
 情け容赦のない環境、すなわち牢獄、強盗団、軍隊、裏町などで生き抜くためには、罪悪感と縁を切ることが最も効果的な方法である。犯罪社会において、「信じるな、恐れるな、助けを求めるな」という不文律が生きているのも、それなりの理由があってのことなのである。このおきては、過剰ポテンシャルを生み出さないようにと教えている。好戦的な環境の中、人に悪事を働かせる際に役に立つポテンシャルの基本にあるのが罪悪感である。自分の安全確保を可能にするには、自分の力を誇示すればいい。一番強い者しか生き残ることの出来ない世界では、このやり方が効力を発揮する。しかし、実はこれは非常に効率が悪い、はるかに効率の良いり方は、潜在意識に潜んでいる罰を受けるあらゆる可能性を排除する事である。分かりやすくするため、こんな例を挙げることが出来る。旧ソ連邦では、政治犯は、その意思をくじくために、わざと刑事犯の牢獄に収容された。しかし、政治犯の多くは、その並外れた人格により、嘲笑の餌食になるどころか、逆に、刑事犯たちの間で権威を勝ち得たのだった。つまり人格の独立性と尊厳は、力よりも高く評価されというわけである。肉体的な力は多くの者が持っているが、人格の力というのはまれにしかお目にかかれれない。個人的な尊厳を勝ち得るための鍵は、罪悪感を持っていないという事にある。本当の個人の力は、のどを鷲掴みにすることにあるのではなく、その人格が罪悪感からどれほど自由でいられるかにある。
 逃れるということは、つまり戦うという事である。しかしながら、事象選択は戦うとか自分に強制するという事とは関係がない。別のことが行われるのである。それは、関係を立ち、すなわち、選ぶ、という事である。自分の中から罪悪感を絞り出す必要もない。自分の信念に従って生きることをただ容認するだけで十分である。あなたを裁く権利は誰も持っていない。あなたはあなたである権利を持っている。もし自分自信でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると、驚くべきことが本当に起こる。だれもあなたを侮辱しようとはしなくなる。たとえ、あなたがどこにいようともである。牢獄、軍隊、強盗団、職場、裏町、酒場など、どこにいても。だれかが暴力で脅すような状況に遭遇することも全くなくなるだろう。他の人たちは時として何らかの暴力にあうだろうが、あなたは違う。なぜなら、潜在意識から罪悪感を追い払ったためである。これは、つまり今いる人生ライン上では罰を受けるシナリオは単に存在しないといただそれだけのことなのである。

〇聖書の戒めは、正しく振る舞うにはどうすべきなのかという見解に立った道徳ではなく、平衡状態を乱さないようにするためにはどうふるまうべきかについての勧めである。ところが、私たちは幼少心理の残滓を引きずているため、聖書の戒めを受けて入れる際に、次のような言葉と重ね合わせてしまう。「ママが、騒いじゃいけないって。言う事を効かなきゃ、お仕置きだってさ」だが実際、聖書の戒めに背いたものを懲らしめようとしてだれも腰を上げたりはしない。人々は聖書の戒めを道徳として受け入れることによって、平衡状態を乱し、自分自身で問題を作っている。戒めはただこうしたことを警告しているだけなのである。
 すでに述べたように、罪悪感は、コマ、すなわち多くの場合は人形遣いが、人間を操るときに使う糸になる。この場合の人形遣いとは、「お前は罪を犯したのだから、私の言うことを実行しなければならない」とか、「お前は正しくないのだから、私はお前よりもましだ」というような決まり文句によって行動する人々の事を言う。彼らは、自分たちの「被後見人」に罪悪感を押し付けようとする。目的は、自分たちの「被後見人」をコントロールするためか、または自己否定のためである。このような人形遣いたちは、外見城は「正しく」見える。彼らにとっては、ずっと以前から、何がいいことで何が悪いことかが確立されている。彼らはいつも正しい言葉を口にする。だから、いつも正しい。彼らの行為もすべて非の打ちどころなく正しい。
 しかしながら、正しい人々がすべて他人をコントロールしようとする傾向にあるわけではない。人形遣いたちが説教したり操ったりしたいという欲求は、一体どこからくるのだろう。実は、人形遣いたちの心が常に疑惑や自信のなさで苛まれているということが、そうした欲求の原因なのである。こうした内なる戦いを、人形遣いたちは、周囲の人々からも自分自身からさえも巧みに隠している。真に正しい人ならば持っているはずの内部の核となる定見というものが、人形遣いたちには欠けているため、他人を犠牲にすることで自己肯定へ向かおうとする。説教したり操ったりする欲求はは、被後見人を低く見ることで、自分の立場を確かなものにしたいという願望から生じている。そして、依存関係が築かれる。平衡力が人形遣いたちに、各人に応じた当然の報いを与えるのならば結構なことだろう。けれども、過剰ポテンシャルは、緊張状態が存続し、エネルギーを人形遣いに渡すため、ポテンシャルを生み出さず、その結果、人形遣いは罰せられずに活動することになる。
 誰かが罪悪感を自分に受け入れる姿勢を示すや否や、人形遣いたちがまとわりついてきて離れず、エネルギーを吸い取りに掛かる。彼らの影響下に陥ることの無いようにするためには、罪悪感と縁を切るだけでよい。あなたは、誰の前であれ、弁解する必要はなく、誰に対しても、何の義務も追っていない。もし本当に罪があるのならば、罪を受けることはできる。だが、責めを負った状態のままでいる事だけはやめた方がよい。自分の親しい人たちに何か義務でもあのだろうか。それもない。なぜなら、あなたが親しい人達の心配をするのは信念によるものであって、強制されてやっているわけではないからだ、これは全く別の話なのである。もしあなたに、つい弁解してしまう傾向があるのならば、それと決別すべきである。そうすれば、人形遣いたちは何を利用してもあなたをつかみ寄せられないことを察し、そっとしておいてくれるだろう。
 ちなみに劣等感を抱くそもそもの原因はとは罪悪感である。もしあなたが劣等感をどこかに抱いているのであれば、その劣等感は他者との比較によって出来上がったものだ、あなた自身が自分に対する裁判官となり、取り調べが行われる。だが、裁判官はあなた自身であるように思われるだけで、本当は、何か別の事が起こっている。最初からあなたは、とにかく自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っている。何の理由で、という事はさほど重要ではない。ただ罪を負うことに大筋同意している。被告になって罰を受けることに、一度同意している。自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つ事をあなたは容認している。他者にその権利を渡し、他者があなたよりもましだと考えることを容認したのは、あなた自身であることに気付いて頂きたい。彼らはきっとそんな風には考えていないはずなのに、あなた自信でそう決めつけて、他者の名において自分に対する判決を下す裁判官のように振る舞ったのである。あなた自身が自噴を裁判にかけたがために、彼らはあなたを裁くことになった、というわけである。
 自分自身でいる、という本来自分が持つべき権利を取り戻し、被告席から立ち上がろう、もしあなた自信が罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。他人にあなたの裁判官となる特権を与えることが出来るのは、あなただけである。中身のない身勝手な主張を行っていると思われるかもしれない。もしあなたが本当の短所を持っているのなら、それを見つける人たちが必ずいるものである。本当にそういう人たちはいる。しかし、それはあなたが自分の短所に対する罪を自分で背負う傾向にあると彼らが感じた場合に限られる。もしあなたが他人よりも劣っていることに対する罪悪感から解放されているならば、あなたを犠牲にして自己肯定に励もうなどとは、だれの頭にも思い浮かばないのである。常識的な観点からは、こんなことを信じるのは100%難しい、しかしながら、私は言葉では何も証明することが出来ない。信じられないと思われるのであれば、実際に試していただきたい。

〇こうありたいという強い願望には他の側面もある。強く望めば、なんでも叶う、という意見がある。非常に強い願望は、それが実現する人生ラインへとあなたを運んでいく、と推測できそうな気がする。だが、そうではない。もしあなたの願望が、何が何でも実現させるというある種の精神病、ヒステリックな欲求などへの依存関係に変わったら、あなたは心の中でその実現を信じてはおらず、それがために、「強い妨害電波」を発することになる。もし心の中で実現を信じていない場合、実現することを全力で自分に納得させるよう努力することだろう。そうなると、ポテンシャルの圧力はもっと上がることになる。「全生涯のかかった一大事」には、一生を棒に振る危険が伴っている。この場合に唯一やってよいことは、目的の異議を引き下げること。売店に新聞を買いに行くような気持ちで、目的に向かっていくのである。
 何かを回避したいという強い願望は、論理的には取り巻く世界が自分への不満の延長線上にある。欲求が強ければ強いほど、過剰ポテンシャルもすさまじい。何かを望まない気持ちが強ければ強いほど、それと遭遇する確率もその分高まる。平衡力にとっては、どのようにしてバランスが釣り合おうが関係ない。バランスは二つの方法のどちらかで釣り合う。遭遇することからあなたを遠ざけるか、または遭遇させてしまうかである。ポテンシャルを生まないようにするため、受け入れることを断固拒否する気持ちとは、意識して縁を切っておいたほうが良い。以上のほか、そうあってほしくない事をあなたが考えると、それが必ず起こるラインの周波数でエネルギーを放射してしまう。すると、あなたはそうあってほしくないことを、必ず受け取ることになる。という事も考慮に入れておかなければならない。
 今述べたことは次のようなたとえ全く同じである。ある人が大使館で開かれた祝賀パーティーの会場にいる。周りの人々はみな礼儀正しくきちんとしていて穏やかである。そこで突如その人は、両手を荒々しく揺り動かし、地団駄踏み、「今、ここから追い出されるなんて望んでいない」と絶叫し始める。当然、警備員が現れて、この不心得者を取り押さえる。その人は大声を上げて抵抗するが、すぐに大使館から追い出されてしまう。これは現実をいささか誇張しすぎてはいるが、エネルギー面ではこのような力が集中的に起こっていることになる。
 もう一つの例を見てみよう。深夜、あなたは隣家の騒音で眠りを妨げられたとしよう、あなたは眠りたい、明日は仕事が待っている。しかし、隣家では宴たけなわである。早く騒ぎが収まってほしいとあなたが強く思えば思うほど、騒ぎはもっと長引く、あなたが隣家に腹を立てれば立てるほど、騒ぎはますます熱を帯びてくる。もしあなたが彼らをひどく憎むようになったならば、このような夜がもっと頻繁に繰り返されることを請け負っても良い。この問題の解決には、コマから身をかわしたり、手なずけたりする手法を使うことが可能である。コマを手なずけるには、あなたがこの状況にアイロニーを持って対処すればよい。何の感情や関心も表さずに無視するということもできる。そうすれば、あなたはコマから身をかわすことになり、ポテンシャルも発生しない。また、あなたは選択肢を持っていて、それらの応用方法を知っているのだという意識が、あなたに平穏をもたらすことだろう。まもなく隣家は静かになる。こんな風に働くから、試していただきたい。
 さあ、これで、何の意義を高めてしまったか、その結果、どういう問題を抱え込んだか、分析可能となった、もし状況がとてもひどいのならば、そんな意義などにつば吐きかけて、依存関係を自ら払い落とし、ポジティブなエネルギーを根気強く放出するようにしよう。今が悪ければ悪いほど、その分良くなるのだから、大敗を喫したと思ったら、そのように状況を評価してよい。この場合、平衡力はあなたの見方である。なぜなら、平衡力の使命は悪いことを良い事で穴埋めすことにあるのだから、良いことがずっと続かないように、悪い事を良い事で穴埋めすることにあるのだから、いい事がずっと続かないように、悪い事もずっと続かない。一生幸運の波に乗っていることは、だれにもできない。これをエネルギーレベルで例えるとこうなる。あなたは非難され、罵倒され、すべてを奪い取られ、殴打された上げくのはてに、お金の入った袋を押し付けられるというわけである。痛手が大きければ大きいほど、袋の中にはその分たくさんのお金が入っていることになる。
 罪悪感とは純粋な形の過剰ポテンシャルである。自然界では善悪の概念が存在しない。良いふるまいも悪いふるまいも、平衡力にとっては等価値である。過剰ポテンシャルが起こると、いずれにせよ乱されたバランスの回復が図られる。あなたが悪い行いをし、それを認識し、罪悪感を抱くと、ポテンシャルが作られる。あなたが良い行いをし、それを認識し、誇りを感じると、やはりポテンシャルが作られる。平衡力は、エネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのである。
 罪悪感に対する報復は、常に何らかの形の罰である。もし罪悪感が生まれなかったら、その後に罰が続かないこともあり得る。残念ながら、良い行いを誇るという過剰ポテンシャルを解消することが必要だからである。もし褒美をもたらしたら、かえってその感情をあおるだけになってしまう。
 誘導された罪悪感、すなわち、「正しき」人々によって外から持ち込まれた罪悪感は、二乗されたポテンシャルを創り出す。なぜなら、良心の痛みに加え、自分を正しいと信じて疑わない人々からの怒りまでが襲い掛かってくるからである。また、「すべてに責任を持て」という生まれながらの性向と結び付けられた根拠のない罪悪感は、この上ない過剰ポテンシャルを生み出す。この場合、良心の呵責を感じる必要は全くない。その理由がただのこじつけだからである。罪悪感というコンプレックスは、人生をひどく害することがある。なぜなら、人は常に平衡力の作用を被る。すなわち創造の産物である過失に対するあらゆる罪を受けることになるからである。
 ところで、「厚かましさは第二の幸せ」という言い回しは、なぜ存在するのだろうか。通常、平衡力は良心の呵責に苦しんでいない人々に影響を与えたりはしない。その一方で、神はろくでなしたちを罰すればいいと思うし、正義が勝利しなくてはならず、悪は罰っせられるべきと思う。しかしながら、それがいかに痛ましくとも、自然にとって正義感というものは存在しない。逆に、生来の罪悪感を持つまじめな人々には、常にありとあらゆる新たな災厄が襲い掛かるのに対し、良心のかけらもない恥知らずな悪党たちは、しばしば罰せられずに済むばかりか、成功までも手に入れることがある。
 罪悪感は必ず罰を受けるシナリオを用意する。それも、あなたの意識とは無関係に、このシナリオに従って、潜在意識があなたを報復を受ける方向へと導く、良くても切り傷や軽い打撲、または何らかの問題が発生する。悪くすると、事故にあって重い後遺症が残るかもしれない。これが罪悪感の仕業である。罪悪感の中身は破壊することだけで、有益なことや建設的なことは何もない。両親の呵責で苦しんではいけない。両親の呵責は何の解決にもならない。それよりも、後になって罪悪感を覚えないで済むように振る舞う方がいい。しかし、もし罪悪感が生じてしまったら、無駄に苦しむのは意味がなく、そうすることは誰にとっても好転にはつながらない。

 

 

 

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〇「欲をかいたら貰いは少ない」これは子供がよく口にするからかいの言葉であるが、それなりの根拠がある。これを次のように変えてみたい。「ほしい思いが強ければ強いほど、手に入るものは減るばかり」あなたが何かをあまりに過度に欲しがると、すべてを賭けてしまう心積もりになるため、平衡状態を乱す大変な過剰ポテンシャルを生み出す。すると、平衡力は、希望するものが何一つない人生ラインへとあなたを放り投げることになるだろう。
 願望に取り憑かれた人の行動様式をエネルギーレベルで描こうとするならば、それはおおよそこのようなものとなる。青い鳥を捉えようとしているイノシシがいる。イノシシは青い鳥を手に入れたくてたまらないので、舌なめずりし、大声でブーブーと泣き、こらえきれずに地面に穴を掘ったりする。当然青い鳥は飛び去ってしまう。もしイノシシが何食わぬ顔で青い鳥と並んで、ある時間散歩して過ごしたら、青い鳥のしっはぽをつかむ大きなチャンスが来るだろう。
 願望を三つの形に分類することが出来る。一つ目の形は、強い願望が、所有し行動するというゆるぎない意図に変わった場合である。こうなると願望は成就されることになる。この場合、願望のポテンシャルは拡散される。なぜなら、エネルギーが行動に変わるからである。二つ目の形は、怠惰でうんざりするような願望で、純粋な過剰ポテンシャルである。これはエネルギー場に漂っており、せいぜい苦悩する者のエネルギーを意味もなく浪費するが、悪くすると様々な不快事を引き寄せてしまう。
 もっとも陰険なのが三つ目の形である。これは強い願望が対象への依存関係に移行したものである。高い意義付けが自動的に依存関係を創り出し、その関係が強い過剰ポテンシャルを生み、平衡力による強い反作用を引き起こす。通常、例えば、次のような目標設定がなされる。「もし私がこれを達成したら、私の状況はずっとよくなるだろう」「もし私がこれを達成しなかったら、私の人生は何の意味もなくなってしまう」「もし私がこれをしたら、みんなに思い知らせてやることが出来る」「もし私がこれを出来ないのなら、私には何の価値もない」「もし私がこれを得られたら、なんて素晴らしいことだろう」「もし私がこれを得られないのなら、まずいことになるだろう」このような様々なバリエーションが存在する。
 願望の対象への依存関係に陥ったあなたは、激しい渦巻に飲み込まれてしまい、その渦中で臨むものを得ようとして戦い、力尽きる。結局、あなたは何も得ることが出来ずに、自分の望みを断念する。平衡状態は回復されるが、平衡力にとっては、あなたがこの事で苦しもうがどうなろうが知った事ではない。しかし、これは、望みを実現させたいとあなたが強く欲したことから起こったものである。願望が天秤の一方の皿にのせられ、残り全部がもう一方の皿に乗せられた状態である。
 願望が過剰ポテンシャルから解放された「純粋な意図」に変わったとき、一つ目の形だけは実現されるだろう。この世界ではすべてに対して何らかの対価を払わなくてはならず、何物もタダでは手に入らないという事に、私たちすべてが慣れっこになっている。実際、私たち自信が生み出す過剰ポテンシャルに対してだけでも、私たちはその対価を支払っている。亜空間では、すべてが無償である。もし私たちが願望の実現に対する対価を強いて探すとすれば、それは、過度な意義づけや依存関係が存在しないという事になる。望みが現実となる人生ラインへ移動するためには、純粋な意図のエネルギーだけで十分なのである。意図に関しては、また後述する。ここでは、純粋な意図とは、過度な意義づけのなされていない、願望と行動の一体化されたもの、とコメントするにとどめたい。例えば、売店へ新聞を買いに行く自由な意図とは、純粋なものである。
 ある事柄が高く評価されればされるほど、失敗する確率も高くなる。もしあなたが持っているものに非常に大きな意味を与え、それをとても大切にしているとしたら、平衡力がそれを奪い取る可能性は大きくなる。もしあなたが欲しいと思っているものがとても大事であるならば、それを得られると期待してはいけない。意義や重要性のハードルを低くする必要がある。
 例えば、あなたが自分の新車に夢中になっているとしよう。埃を吹き払い、神経を使い、手入れを怠らず、擦り傷を付けられるのを恐れていて、早い話が、神様扱いするほど大切にしている。結果として、過剰ポテンシャルが生まれる。なぜなら、あなたがこんな風に車に異議を与えたからである。だが、本当は、エネルギー場における車に値は、ゼロに等しい、結局、残念ではあるが、まもなく平衡力がでくの棒を探して来て、そいつにあなたの車を台無しにさせることだろう。でなければきわめて用心しているはずのあなた自信の手によって、どこかにぶつけて潰してしまう。自分の車を神格化するとをやめ、普通に扱うだけで、こうした危険性は遥かに低くなる。普通に扱うことは、いい加減にという事では決してない。車を崇拝しなくとも、きちんと手入れは出来るのである。

 

〇私たちはしばしば様々な不快、問題、障害などを、この世界で切り離すことのできない毒性として受け入れる。それらは大小さまざまで、一生涯各人から離れずに付きまとっていることにも驚かない。私たちの世界がこうであることに皆が慣れてしまっている。本当は、不快は異常なことであって、正常なことではないのである。それはどこからやってきて、なぜ、ほかならぬあなたに起こるのか、しばしば論理的な方法で突き止めようとするのだが、うまくいかない。不快な事柄の大部分は、あなた又は周囲の人々によって生み出された過剰ポテンシャルを解消しようとする平衡力の作用によって引き起こされたものであり。あなたは自分自身が過剰ポテンシャルを生み出しているとは夢にも思っていない。また、不快な事柄を、避けることのできない災いとして受け入れ、平衡力の仕業であるとは思ってもみない。
 もしあなた過剰ポテンシャルを維持するために行っている膨大な努力から解放されたら、不快な事柄の大半を味わわなくて済む、さもなければ、膨大なエネルギーは空費されるだけでなく、平衡力を差し向けられることになり、意図していたこと全く正反対の結果を得ることになる。そんなわけで、いたずらに窓ガラスにぶつかって行くハエの真似をすることは止めにして、長所を伸ばす方向へと気持ちを切り替えることが必要である。ことさら優劣を比較して、自分の位置づけに気をもむことも行ってはならない。自分の意義を高めることに腐心するというお荷物を肩から降ろしたら、平衡力の働きから免れるのである。問題は減っていき、それに続いて、自分の力への自信が湧いてくるだろう。
 また、取り巻く世界をコントロールできるという考えは、いささかでも抱いてはいけない。そうした態度では、社会的地位にかかわらず、あなたは必ず失敗の憂き目に合うだろう。周りの世界を変えようとする試みは、バランスを崩すのである。世界の構造に活発に干渉することは、程度の差こそあれ、多くの人々の利益を損なわせる事になる。ところが、事象選択は、だれの利益をも侵害することなく、運命を選ぶことを可能にしてくれる。これは障害を克服しながら、がむしゃらに行動するよりも、はるかに効率の良い方法である。宿命は、あなたが変えることは出来ないが選ぶことは出来るという意味において、本当にあなたの掌中にある。運命を切り開こうと文字通りに行動した多くの人々は、敗北を喫している。しかし、事象選択では戦うという事がないため、あなたは安心して武器を置くことが出来る。
 その一方で、優越感を放棄するという事は、自己卑下とは全く別のものである。自分の長所を卑下する事は、マイナス符号のついた優越感なのである。この符号はエネルギーレベルでは意味がない。発生するポテンシャルの大きさは、評価の変異の値にそのまま比例する。平衡力が重要性と遭遇した場合、平衡力は重要性を持たされた対象を、祭ってある高所から引きずりおろす働きをする。平衡力が自己卑下による劣等感と遭遇した場合は、わざと過度に低められた長所をあらゆる手段で持ち上げるよう人に仕向ける。通常、平衡力は、人間関係の機微などにお構いなく、単刀直入に作用する。そのため人は、不自然なふるまい。かえってそれによって隠そうとするところをずっと強調してしまうことになる。
 例えば未成年者は乱暴に振る舞うものだが、それによって自分への自信の無さを埋め合わせようとする。恥ずかしがり屋は、自分の内気な性格を隠そうとして、無遠慮に振る舞うことがある。低い自己評価をする人は、自分のもっともよい面を見せようとして、ぎこちなく空々しく振る舞いがちである。他にも例はたくさんある。いずれにせよ、自分のコンプレックスとの格闘は、コンプレックスそのものよりももっと不快な結果をもたらすのである。
 じたばたしてもすべては虚しいことを理解できたと思う。劣等感と戦うのは無益なことである。不快な結果から逃れる唯一の方法は、コンプレックス自体を解消することである。しかしながら、それは大変に難しい、自分はすべて素晴らしいと自分自身を説得することも無駄である。自分を騙そうとしても、うまくいかない。ここではスライド技法が役立つと思うが、それは後で紹介することにする。
 現段階では次のことを明らかにしておくだけで十分である。それは、他人の長所と比べて自分の短所を心配することは、自分の総体的な優位性を示したいという望みと同じように作用するというものである。結末は意図した事と全く逆になる。周りにいる全員が、あなたの短所に対して、あなたが感じているのと同じような異議を与えていると思ってはいけない。本当は、各人は自分自身のことだけを気にしているのだから、その大変なお荷物は肩から降ろして大丈夫である。過剰ポテンシャルは消え去り、平衡力は状況を悪化させることをやめ、解放されたエネルギーは長所を伸ばすことに向けられる。
 要するに、自分の短所と戦うことも、それらを隠すこともせず、ほかの資質で埋め合わせるべきなのである。美貌でなくても、ほかの魅力で補うことはできる。容姿端麗とは言えない人々がいる。だが、一緒に話始めた途端、魅力にすっかりまいってしまう。肉体的な短所が自分への自信によって補強されているのである。歴史上、いったい何人の偉人が見栄えのしない風貌をしていたことだろう。
 臆せずに付き合うことが苦手であると、聞く能力がそれにとってかわる事がある。「誰もが嘘をつくのに何も変わらないのは、だれも何も聞いていないから」はよく言われる事である。多弁なことが人々の関心を引き付けることは決してない。あなた同様、皆が自分の問題だけで頭がいっぱいなのである。だから、だれもが自分の心情を打ち明けることのできる良い聞き役というのは、本当に貴重な存在である。ところで、恥ずかしがり屋の人には一つ助言することが出来る。その性格を宝物のように大事にすべきだ。これは本当のことである。内気な性格というのは、隠れた魅力を持っている。あなたが自分の内気な性格と戦うのをやめたら、ぎこちなさが消えて、人々があなたに親近感を感じていることに気付くだろう。
 もう一つ、埋め合わせの例を上げてみよう、「気性が激しくありたい」という不自然な欲求は、気性が激しいことで定評のある人の真似をするように仕向ける。思慮分別なく他人のシナリオを模倣するのは、パロディー以外の何物でもない。人それぞれ自分のシナリオを持っている。自分の信条を選択し、それに従って生きていくだけで充分である。気性の激しさで異名を誇る人を模倣するのは、窓ガラスに衝突するハエのやり方をまねることである。例えば、未成年者のグループでは、自分の信条に従って生きる者がリーダーになる。彼は、いかに振る舞うべきかを誰かに相談する義務から解放されているからこそ、リーダーになれたのである。リーダーには誰かを模倣する必要はなく、ただ自分でふさわしい価値を定め、何をすべきか知っており、誰におもねるでも無く、だれに目にもの見せようかと意気込むこともない。こうして、リーダーは、過剰ポテンシャルから解放され、ふさわしい優越性を得る。どのグループのリーダーになる者も、自分の情に従って生きている。もし人が過剰ポテンシャルを免れたら、どうしても固守しなければならないものはなくなる。なぜなら、その人の内面は自由で、自分に満足しており、より多くのエネルギーを持っているからである。グループの他メンバーと比べて、こうした優越性の存在がその人をリーダーたらしめている。
 あけ放たれた小窓がどこにあるか、もうお分かりだろうか。「これは全て私のことではない。私はこの事で苦しんではないのだから」と思われるかもしれない。自分を欺く事はやめにしよう。どの人も程度の差こそあれ、自分の周囲に過剰ポテンシャルを発生させる傾向がある。しかし、もしあなたが事象選択の原則に従って行動するならば、劣等感や優越感はあなたの人生から消えてなくなるのである。

 

〇他の人々を非難する、とりわけ軽蔑するときに、平衡状態が大きく崩れる。エネルギー面ではいい人も悪い人もない。あるのは、自然法則に従う人と現状に擾乱を持ち込む人だけである。後者は結局崩れたバランスを元に戻そうとする力の作用をいつも被ることになる。
 もちろん非難を受けるような状況は、誰にでも起こりえる。あなたが非難されたらどうだろうか。これは暇つぶしに質問しているのではない。もし誰かが他ならぬあなたに嫌がらせをしたら、それによってその人はまずバランスを崩したことになり、あなたはというと、不健康なポテンシャルの発生源になるのではなく、バランスを回復しようとする力に道具として利用されることになる。つまり平穏を乱した人は、当然の報いを受ける。あなたがその人についての思いを洗いざらいぶちまけることもあるだろうし、それでは済まずに、良識の範囲内で一定の行動に出ることもあるだろう。しかし、もしあなたが非難している対象が、あなたに具体的に何も悪いことをしていないならば、あなたにその人を責める資格はない。
 この問題には自分の損得を良く考慮したうえで臨みたい。テレビ画面にオオカミが羊をかみ殺す光景が映し出されるのを見て、あなたがオオカミに苦しみを抱くことは馬鹿げているという点で異論はないだろう。私たちはいつも正義感に突き動かされれていろいろな人々を非難し、それはすぐに習慣となってしまう。そして、歳月を経て、多くの人々が非難する事に関してはプロ化してしまう。あなた個人に向けられたわけではないある人の考え方や行動を理由に、その人を非難することは極めて有害な習慣である。ほとんどの場合、何があなたを駆り立てて、そのようにふるまわせたのか、非難されている当人にはさっぱりわからない。あなたが逆の立場にいたら、もっと始末に負えなくなっていたのではないだろうか。
 こうした非難を行った結果、あなたは自分自身の周りに過剰ポテンシャルを生み出している。なぜそうなるのか。相手がとても悪質なのに対し、あなた自身の方は何も落ち度がないはずだからである。一度相手に角や蹄が生えてしまうと、あなたは天使にならざるを得ない。とはいえ、あなたに翼が生えてくるわけではないから、バランスを取り戻す力が作用し始める。こうした力が用いる手段は、それぞれの具体的な状況によって様々である。だが、結果は本質的に一つで、あなたが鼻っ面に一発食らうという事である。あなたが行った非難の強さや形態によって、この一発はあなたも気づかないほどの場合もあれば、あまりにきつくて一番ひどい人生ラインの一つに移動させられてしまうこともある。
 あなた自身が、非難の種類とその結末に関する長いリストを作成してもよいだろう。ここでは、わかりやすくするために、いくつかの具体例を挙げることにする。
 どんな理由があろうとも、決して人を軽蔑してはいけない。軽蔑とは非難のもっとも危険な種類である。なぜなら、平衡力が働く結果、あなたは自分が軽蔑した人の立場に陥る可能性があるからだ。失われた調和を回復するためには、こうすることが平衡力にとって最も手っ取り早くて簡単な方法である。乞食やホームレスを軽蔑できようか。自分自身が財産や家屋敷を失う事もある。そうなればバランスは回復する。身体障害者を軽蔑できるだろうか。あなたが事故に遭うのもわけない事である。アルコール依存症や覚せい剤常習者を軽蔑できようか。難なく彼らと同じ立場に陥るのである。そうなるように生まれたわけではないのに、様々な人生の状況によってそうなってしまったのである。このような状況はあなたを避けてくれるはずだなどと、なぜ考えられるだろうか。
 何があろうと、自分の職場の同僚を非難してはいけない。あなたも同じ間違いを犯すかもしれない。悪くすると、あなたにとって何の利益にもならない争いが起こることもある。たとえ、もしあなたが完全に正しい場合でも、職場から追い出されることだってありえる。
 着ている服装が気に食わないという事だけであなたが人を非難すれば、あなた自身がその人よりも一段低く見られてしまうだろう。なぜなら、あなたはネガティブなエネルギーを放射しているからである。
 人が自分の成功に誇りを感じたり、または自分で自分自身にほれ込んでしまう場合、何も悪いことはない。自分への絶対的な愛はすべて満ち足りているという事であるから、だれの邪魔にもならない。平衡状態が崩れるとしたら、他人の弱点、短所、または控えめな成功などを軽蔑する姿勢が、水増しされた自己評価と対置される場合である。そうなると、自己愛はうぬぼれへ、誇りは虚栄心へと変質する。平衡力の作用がもたらす結果は、これもやはり鼻っ面に一発食らうものとなるだろう。
 軽蔑と虚栄心は、人間の持っている欠点である。動物はそれらが一体何なのか知らない。動物は自然法則にかなった意図に基づいて行動し、それによって完全無列な自然の意思を執行する。野生の自然は理性的な人間よりも完成されている。オオカミは、ほかの猛獣と同じく、自分の獲物に対して憎悪も軽蔑も抱かない。しかし、人間はやむことなない過剰ポテンシャルの中で、他人と自分とのお互いの関係を組み立てていく、動物や植物の偉大さは、そのことを意識しない点にある。意識するというとは人間に大変有益な特典をもたらしたが、虚栄心、軽蔑心、罪悪感、劣等感などのように有害なゴミまで備えてくれた。
 優越感や劣等感は、純粋な形での依存関係である。あなたの質がほかの人々の質と対比される。そのため、過剰ポテンシャルが作られるのは避けがたい。あなたが他人との比較で自分の優越性を公言したり、またはひそかに自分を祝福する事は、エネルギーレベルでは何の意味も持たない。しかし、自分の優越性を公言した場合に、周囲から反感以外に何ももたらされないことについては、証明の必要がないだろう。自分を有利にするために自他を比較することは、他人を犠牲にしてまでわざわざ自己肯定を行おうという事である。こうした姿勢は、もしそれがあからさまな表現ではなく、傲慢さのほんの微かな影であったとしても、常にポテンシャルを生み出す。この場合、平衡力の作用はいつも鼻っ面に一発お見舞いする形で表れる。
 自分を取り巻く世界と比較しながら、人間は自分の存在意義を証明しようとすることは理解できる。だが、比較による自己肯定は幻想にすぎない。このことはハエが窓ガラスを突き破ろうとするのに似ている。すぐ隣にある換気用の小窓は解放されている。人が世界に自分の存在意義を知らしめようとする際、人為的に創られた過剰ポテンシャルを維持する事のためにエネルギーが消費される。これとは逆に自己完成は実際の長所を伸ばしてくれる。このためエネルギーは空費されず、有害なポテンシャルも生まれない。
 対比することに使われるエネルギーはとるに足らないと思われるかもしれない。実際には、かなり強いポテンシャルを維持するために大量のエネルギーが奪われる。ここで主な役割を果たしているのは、ある方向へエネルギーを向けようとする意図である。もし長所を身につける事を目的としたら、そのような意図が人を前進させる。もし世界に自分の勲章を誇ることが目的であるとしたら、その者はエネルギー場で異質性を形成しながら、その場で空回りすることだろう。世界は勲章のきらめきに「鳴動し」、平衡力が作用し始める。平衡力の選択幅は狭い。取り巻く世界の褪せた色彩を活気づけるか、またはこの場違いな星の輝きをかき消すかのどちらかである。一番目の選択肢は、もちろん大変に骨の折れる仕事である。そうなると、残るは二番目だけとなる。二番目を実行に移すにあたって、平衡力は有り余るほどの手段を持っている。平衡力はこの野心家から必ずしも勲章を奪い取るわけではない。高慢な鼻をへし折るために、ありとあらゆる腹立たしく不快な出来事を献上することで充分に事足りるのである。


 

〇ある場所にあなたの愛する対象があり、別の場所にあなたがいて、愛の対象を独占したいと思っている。これは、すなわち、過剰なエネルギー・ポテンシャルを生み出していることになる。大気団が気圧の高い地域から低い地域へ向かおうとするように、このポテンシャルは望みの対象をいつもあなたの方へ引き寄せいる推測してもよいのだろうか。いやいや、飛んでもない。平衡力にとっては、何を利用するのであれ、平衡状態が達成されればそれでよい、そのため平衡力は別の方法を選ぶこともあり得る。それはあなたの愛する対象をもっと遠くへ引き離すというものである。そうなるとあなたは中立化され、すなわち嘆き悲しむことになる。加えて、ほんの小さな不幸であっても、あなたが状況をますます芝居じみたように表現する傾向が強まると、そのような思考があなたを相思相愛の遠のく人生ラインへと引きずっていくことになる。
 独占したい望みや報われる愛への望みが強ければ強いほど、平衡力の働きも強くなる。もちろん、もし平衡力があなたとあなたの愛する人を接近させる方向を選んだならば、ハッピーエンドで終わることだろう、平衡力が働く方向は、愛が芽生えるそもそもの時点で簡単に判定することが出来る。もし、相思相愛の関係を築こうとしても、あなたの心は落ち着かず、始めからどこかうまくいかないのであれば、急遽、戦術を変更する必要がある。それはつまり、見返りを求めずに愛することである。そうすれば、平衡力の不安定な振動を引き寄せて、あなたを助ける形で働くようにすることが出来る。さもないと、状況は雪崩のようにコントロールが効かなくなり、何かを変えようとしてもほとんど不可能になってしまう。
 結論は一つ。相思相愛を実現したいと望むなら、愛されようとは務めずに、ただ愛すればよいのである。その場合、第一に、過剰ポテンシャルは創られないから、平衡力があなたに抗って働く確率の50%は防止できる。第二にももしあなたが相思相愛の関係を築こうと努めなければ、片思いをめぐるコントロール不能の芝居じみた思考も発生したりせず、あなたからのネガティブな思考放射がそれに相当する人生ラインへとあなたを引きずり込む心配もない。それに、もしあなたが占有権を主張することをせず、ただ単に愛するのであれば、放射のパラメーターが相思相愛の実現する人生ラインを満足させるようになる。なぜなら相思相愛の場合も依存関係は存在しないからである。もし穴がそれでに相思相愛の関係を築いているならば、占有権についてあれこれ販売する理由などどこにもない。占有権の主張と縁を切ることだけで、あなたのチャンスがどれほど高まることか、考えてみていただきたい。それに加えて、無条件の愛は大変に稀有な存在であるからこそ、これだけが強い関心と共感を呼び起こすのである。だれかがあなたをただ愛するだけで、何も求めないというなら、あなたにとっては不愉快であるはずがない。
 占有権の二つ目の極端な形は、もちろん嫉妬のことである。この場合、平衡力にも働き方で二つの亜空間がある。もし愛する対象がすでにあなたに属しているならば、最初の亜空間は、もっととあなたに接近させるものとなる。実際、一部の人々は愛する人からの嫉妬をある程度好ましい者と感じている。だが、平衡力の働き方のもう一つの亜空間は、嫉妬を生み出した原因である愛そのものを破壊する結果となる。この際、嫉妬の感情が強ければ強いほど、その分、愛が葬られる墓穴も深くなる。
 以上述べたことはすべて、男性にも女性にも同じように当てはまる。だが、まだこれでおしまいではない。事象選択の別の概念を検討する際に、本件にまた戻るつもりである。すべてはこんなにも優しく、そして難しい、難しいのはなぜかというと、愛する人はまともに判断する能力を失っているため、こうした助言をしてあげても、無駄に終わる公算が強いからである。とはいえ、だからと言って、落胆するわけでもない。なぜなら、あなたから感謝していただく権利を丁重に辞退しようと思っているからである。