〇罪悪感には、他に二つの興味深い側面がある。それは権力と勇気である。罪悪感を持っている人々は、罪悪感を持っていない人々の意思に常に従う。もし私が何らかのことで罪を犯しているかもしれないとの認識を潜在的に抱くとすると、私は無意識のうちに罰を受ける準備をしており、そのことはとりもなおさず、複縦への用意があるという事を意味する。それではもし私に罪悪感はなく、他人を犠牲にして自己肯定しようと吸う欲求があるとした場合、私は人形遣いとなる準備が整っていることになる。人々は人形遣いと操り人形とに分類されると言いたいのではない。ただ法則性に注意してもらいたいのである。君主や権力者の罪悪感は、可能な限り小さいか、またはほとんどないだろう。罪悪感は、冷笑家やその他良心を持たない人々にとって、全く無縁の感情である。人の頭や亡骸を踏みつけていくのが彼らのやり方である。しばしば権力の座にあくどい者が座ることも驚くに値しない。ここでも断っておくが、これは権力とは悪いものであり、権力の周辺にいる人々も悪い、という事を意味するのではない。それどころから、権力のコマのお気に入りたちばかりで無く、たぶんあなたの幸せも、コマのお気に入りとなることにあるのだろう。自分の良心をどうやって秤にかけるかは、各人が自分のために自分自身で決めるのであって、そのことについて他人にとやかく言う権利は誰にもない。ともあれ、いずれにせよ罪悪感とは縁を切る必要がある。
 もう一つの側面は勇気である。これは罪悪感欠如の兆しである。恐怖の本質は潜在意識にあり、その原因は、畏怖させる正体不明のものだけではなく、罰を受けるという恐怖でもある。もし私に「罪がある」のであれば、私は罰を受けることに潜在的に同意していて、それ故に私は恐れる。実際、勇敢な人々は良心の呵責に苦しむことがないだけでなく、どんな些細な罪悪感に苛まれることもない。彼らは何も恐れない。なぜなら、彼らの内なる裁判官は、彼らのすることが正しいと太鼓判を押してくれるからである。これとは反対に臆病な犠牲者は全く異なる立場にあることが特徴的である。「私の行為が正しいかどうか自信がない。私を非難されても仕方ないし、だれでも私を罰することが出来る」こうした罪悪感は、それがどんなに弱いものであろうとも、また、それがどれほどの深みに潜んでいても、罰を受けるために潜在意識の扉を開ける。もし私が罪悪感を覚えるのならば、略奪者やならず者に私を襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがために私は恐怖する。
 人は罪の過剰ポテンシャルを消し散らそうとして、ある興味深い方法を考え付いた。それは許しを乞うことである。これは本当に効果がある。もし人が罪悪感を持っているとしたら、その人はネガティブなエネルギーを維持しようとして、過剰ポテンシャルをため込む、許しを乞うことで、人は過剰ポテンシャルを放出し、エネルギーが徐々に消えていくことを可能にする。許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈る事、懺悔することなど、これら全ては罪のポテンシャルから解放される方法である。何らかの方法で自分に免罪符を交付することにより、人は自分自身でもたらした攻めを解消し、気分を楽にする。一つだけ気を付けなくてはいけないことは、懺悔が人形遣いたちへの従属関係に移行しないようにする点である。人形遣いたちは、まさにこの機会を狙っている。あなたはポテンシャルを投げ捨てるために、許しを乞い、自らの過ちを認める。人形遣いたちは、この過ちを幾度となくあなたに思い出させ、あなたの中に罪悪感が維持されるよう挑発する。彼らの挑発に乗ってはいけない。過ちに対する許しを乞う権利は、一度行使したら、それでおしまいなのである。
 情け容赦のない環境、すなわち牢獄、強盗団、軍隊、裏町などで生き抜くためには、罪悪感と縁を切ることが最も効果的な方法である。犯罪社会において、「信じるな、恐れるな、助けを求めるな」という不文律が生きているのも、それなりの理由があってのことなのである。このおきては、過剰ポテンシャルを生み出さないようにと教えている。好戦的な環境の中、人に悪事を働かせる際に役に立つポテンシャルの基本にあるのが罪悪感である。自分の安全確保を可能にするには、自分の力を誇示すればいい。一番強い者しか生き残ることの出来ない世界では、このやり方が効力を発揮する。しかし、実はこれは非常に効率が悪い、はるかに効率の良いり方は、潜在意識に潜んでいる罰を受けるあらゆる可能性を排除する事である。分かりやすくするため、こんな例を挙げることが出来る。旧ソ連邦では、政治犯は、その意思をくじくために、わざと刑事犯の牢獄に収容された。しかし、政治犯の多くは、その並外れた人格により、嘲笑の餌食になるどころか、逆に、刑事犯たちの間で権威を勝ち得たのだった。つまり人格の独立性と尊厳は、力よりも高く評価されというわけである。肉体的な力は多くの者が持っているが、人格の力というのはまれにしかお目にかかれれない。個人的な尊厳を勝ち得るための鍵は、罪悪感を持っていないという事にある。本当の個人の力は、のどを鷲掴みにすることにあるのではなく、その人格が罪悪感からどれほど自由でいられるかにある。
 逃れるということは、つまり戦うという事である。しかしながら、事象選択は戦うとか自分に強制するという事とは関係がない。別のことが行われるのである。それは、関係を立ち、すなわち、選ぶ、という事である。自分の中から罪悪感を絞り出す必要もない。自分の信念に従って生きることをただ容認するだけで十分である。あなたを裁く権利は誰も持っていない。あなたはあなたである権利を持っている。もし自分自信でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると、驚くべきことが本当に起こる。だれもあなたを侮辱しようとはしなくなる。たとえ、あなたがどこにいようともである。牢獄、軍隊、強盗団、職場、裏町、酒場など、どこにいても。だれかが暴力で脅すような状況に遭遇することも全くなくなるだろう。他の人たちは時として何らかの暴力にあうだろうが、あなたは違う。なぜなら、潜在意識から罪悪感を追い払ったためである。これは、つまり今いる人生ライン上では罰を受けるシナリオは単に存在しないといただそれだけのことなのである。