〇愛はポジティブなエネルギーを創り出し、あなたをそのエネルギーにふさわしい人生ラインへと運んで行ってくれる。一方、理想化は、過剰ポテンシャルの解消へと向かう。平衡力の作用は、それぞれのケースによってさまざまであるが、結果は一つである。概して、結果は「名声の失墜」という言い方で特徴づけられる。こうした名声失墜は必ず起こり、理想化の対象や程度によって違いはあるが、常に否定的な結果がもたらされる。こうして平衡状態が回復される。
 もし愛が依存関係に移行するならば、過剰ポテンシャルの発生は避けられない。自分にないものを所有したいという望みは、エネルギー上の「圧力差」をもたらす、依存関係は、「もしあなたが~ならば、私は…」という条件がある事によって明らかとなる。例えば、「もしあなたが私を愛しているのなら、すべてを投げ出して、一緒に世界の果てまで行こう」もしあなたが私と結婚してくれないなら、あなたは私を愛していない」「もしあなたが私をほめてくれるなら、私はあなたと仲良くしよう」「もし君が僕にスコップを渡さないなら、砂場から追い払うぞ」等々。
 一つのものがほかのものと比較されたり、対比されたりする場合にも、平衡状態は崩れる。「我々はこうだが、奴らは違う」例えば、民族の誇りである。これをどの民族と比較すればいいのか。例えば、劣等感である。これを誰と比べるのだろうか。もし対比が起こると、ポジティブかネガティブかは問わず、ポテンシャルを解消しようとして、必ず平衡力が働き始める。あなたがポテンシャルを生み出したなら、平衡力の作用は何よりもまずあなたに対して向けられる。その作用は、対立する二つの対象を引き離すか、または結びつけて合意形成に向かわせるか、それとも引き寄せて衝突に至らせることになる。
 すべての紛争は、比較と対比に基づく、まず、基本的な確認がなされる。「奴らは我々のようではない」。次にそれは展開していく。「奴らは我々よりもたくさん持っている。奴らから取り上げるのだ」「奴らは我々よりも少ししか持っていない。我々は奴らに与えねばならない」「奴らは我々よりも劣っている。奴らを変えなければならない」「奴らは我々よりも勝っている。我々は自分自身と戦わねばならない」「奴らは我々のようには振る舞わないこれを何とかしなくてはならない」。様々なバリエーションのある、これら全ての対比は、個人的な魂の不快から始まり、果ては戦争や革命まで、いずにせよ争い事へと導く。平衡力は、和解か対決を用いて、発生した対立を解消しようとする。しかし、このような状況では、コマがエネルギーといううまい汁を吸おうとして、対決へと事を進めることが多い。
 過大評価は、人に実際には本人が持っていない質を与えることである。これは精神レベルでは悪気のない幻想という形で表れる。しかし、エネルギーレベルでは過剰ポテンシャルが生じる。ポテンシャルは何らかの質や量のレベル差があるところならどこにでも生まれる。過大評価とは、実際にはそれが存在しない場所で、特定の質を思考モデル化して濃縮する。これには二つの亜空間が存在する。そのうちの一つ目は、過大評価を受ける対象が存在する場合、すなわち具体的な人がいて、その人に本人のものではない質が与えられている場合である。発生した異質性を解消するために、平衡力は拮抗するものを設けるはずだ。
 例えば、ロマンティックで夢多き若者が自分の愛する人を「純情可憐な天使」として創造の中で思い描く、だが、実際のところ、彼女は、宙に舞う天使とは程遠く、地に足がついていて、笑い転げる事の大好きなどこにでもいる女の子で、とても相手の若者が抱いているイメージを分かち合える存在ではない、人は偶像を作り上げ、それを高い所に祭ると、遅かれ早かれ神話が地に落ちるようなことが起こる。
 次に、二つ目の亜空間についてである。これは対象があるはずの場所に何もなく、そこにバラ色の夢や空中楼閣など現実不可能な質が人為的に築かれるというものである。ぱっとしない現実から逃避しようとして、夢想家はあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらす。これによって夢想加は過剰ポテンシャルを創り出す。平衡力は空中楼閣を破壊しようとして、こうした場合は、常にロマンチストが過酷な現実と遭遇する方法を選ぶ。たとえ、このロマンチストが、自分の思想によって非常に多くの人々を魅了し、コマを作り上げたとしても、どのみち、ユートピアは破壊される。なぜなら、この何もない場所では過剰ポテンシャルが生み出され、それによって発生した平衡力が早晩このコマを止めようとするからである。
 もう一つの例を挙げよう。過大評価の対象が理想の中だけで存在している場合である。ある女性が自分の夫の肖像画の中で思い描くとしよう。夫はこうであらねばならいという彼女の確信が強ければ強いほど、過剰ポテンシャルもそれだけ強くなる。そして、このポテンシャルを消す事ができるのは、完全に正反対の特徴を持っている夫だけなのである。この後、彼女は、驚いてこう言いうしかない。「私の目は節穴だったの」これと逆の例もある。もしある女性が飲酒と暴力を非常に憎んでいるとしたら、彼女はあたかも罠に掛かるようにして、自分の伴侶にアル中か乱暴者を見つけてくる。人はそうあってほしくない物を受け取る。なぜなら、自分の憎悪の周波数で思考エネルギーを放射し、そのうえ、過剰ポテンシャルを生み出すからである。しばしば人生は、互いに大変不釣り合いと思える様々な人たちを一緒に結びつける。このようにして、平衡力は、対立するポテンシャルの解消に向かうのである。
 子供にはこのような平衡力の作用が特に顕著に表れる。なぜならエネルギーの観点から見ると、子供は大人よりも感受性に優れ、自然に振る舞うからであるる赤ん坊は必要以上に褒められると、そうされることが有害なことから、すぐに駄々をこねる。あなたが赤ん坊におもねると、赤ん坊はあなたを軽蔑するようになるか、または少なくとも敬意を払おうとしなくなるのは確かである。子供を良く躾けられたお利口さんに育てあげようとして全力を注ぐと、ほどなくその子は通りをうろつく不良グループと付き合い始めるだろう。子供を天才児にしようとすれば、学業に全く興味を失うだろう。子供をありとあらゆるクラブや塾へと積極的に通攻めようとすると、その子が灰色の人格を形成しながら育っていく確率はその分高くなっていく。
 過剰ポテンシャルが生じないような最良の教育原則や子供への対応は、子どもたちに対して客人と同様に接することである。つまり、自分の意思に無理やり従わせるようなことはせず、子供たちに配慮し、尊重し、選択の自由を与えるというものである。こうした対応の仕方は、あなた自信がこの世界において客人以上の何者でもないという考え方と基本的に共通している。もしあなたがゲームの規則を受け入れ、極端に走ろうとしないのであれば、あなたにはこの世界にあるものすべてを選択することが許されるのである。
 ある人々がほかの人々にポジティブに接する場合と、ネガティブに接する場合と同様に、それが広がって行く。この場合、何らかのバランスが保たれる。憎悪の輪が広がることもあれば、愛の輪が広がることもある。平等で良好な対応は、過剰ポテンシャルを発生させない、評価が額面通りの値に対して明らかに変異した場合に、ポテンシャルが発生する。変異の尺度におけるゼロメモリに相当するのは、無条件の愛と考えられる。この場合、依存関係は起こらず、過剰ポテンシャルも生まれない。しかし、そのような愛に純粋な姿でお目に掛かることはめったにい。大抵は、純粋な愛に、占有権、依存症、過大評価の交じり合ったものが添加されている。占有権を打ち切ることは難しい。なぜなら愛の対象を占有することは、両極端に走らない限りは、極めて自然である、普通は正常なことだからである。それでは、両極端に走った場合の占有権を見てみよう。
 一つ目の極端というのは、あなたに全く属しておらず、そのような望みを抱くことすら思いもよらないような愛の対象を持ちたいという望みである。これは片思いの古典的ケースである。報われない愛はいつもたくさんの苦しみを生み出すものである。しかしながら、メカニズムは思ったほど単純ではない。ふたたび花の例を思い出していただきたい。あなたは、花に囲まれながら散歩したり、花をめでたりするのが好きだとしよう。しかし、花たちがあなたを好きかどうかについて、おそらくあなたは一度も考えたことがないだろう。それでは、花たちがあなたについて何を思っているか、ここで想像してみるとしよう。好ましくない憶測が次々と出てくる。恐怖、危惧、反発、無関心、反発があなたを愛するはずがない。あなたは花を両手に抱えたいという強う気持ちに駆られている。それがだめなら、花壇で咲かせておこうか、それとも高値だ売り払おうか。こうなると、もはや愛ではなく、依存関係である。あなたの内部ではネガティブな感情が生じている。

〇一般に、平衡力の作用は、取り巻く世界へのあなたの影響を減少させる方向に向かう。これは非常に単純で、あらゆる手段を用いて行われる。例えば、あなたの職業、仕事、給料、住居、家族、健康などである。老年世代があのような暮らしに行き着いた家庭からも明らかなことである。
 さて、ここでこの問題を別の側面から見てみよう。逆に、自分を取り巻く世界に喜んでいるとしたら、平衡力はすべてをダメにするか、またはあなたを遠くへ押しやるのではないか、との類推が働くかもしれない。しかしながら、そのようなことは起こらない。もちろん喜びがぬか喜びに終わったりしなければという条件付きである。第一に、事象選択の法則によれば、あなたは建設的なエネルギーを送っており、それがあなたを肯定的な人生ラインへと移動させる。第二に、このようなエネルギーは、平衡力が解消に向かうような破壊的なポテンシャルをもたらさない。
 愛は世界を作った創造的な父からであるという点で、哲学や宗教の様々な解釈が一致しているのは、故あっての事である。言葉の一般的な意味で愛というもがある。平衡力は生を創造した力による産物であるという事は理解できる。平衡力はこの世界で秩序を維持しようと努めるが、平衡力を生み出したエネルギーに対抗することはできない。
 事象選択の観点からいえば、様々なつまら異なことで不満を口にするという有害な習慣は、私たちの邪魔をする。反対に、たとえささやかなことであっても小さな喜びを感じる習慣は、非常絵に有益である。結論は一つ、古い習慣を新しい習慣に取り換えることである。
 習慣を取り換える方法はとても単純である。第一に、悪いことにもどこかに良いところがあるという事、これは陳腐に聞こえるかもしれない。しかし、もしあなたから見て否定的と思わわれる何らかの現象の中に肯定的な部分を見つけ出すことを目的としたら、労せずに週間の取り換えが実現するだろう。それをゲームにすればよい。そのゲームに常に興じていたら、有害な習慣は新しい習慣にとってかわられるだろう。新しい習慣は、あなたにとっては非常に有益であるが、破壊的コマにとっては悪夢のようなものとなる。
 第二に、万が一、どこをどう探しても喜ぶべきところなどありえないような災難に本当に見舞われていまったら、ソロモン王から例を引こう。王は何か言葉が刻まれた腕輪をはめていたが、その部分が内側を向ていたので、何が刻まれてあるのかは誰にもわからなかった。王は災難や解決困難な問題に直面した時に、腕輪を回して、次の言葉を読んでいた。「これも通り過ぎるさ」
 不満を口にする習慣は、ネガティブなエネルギーを摂取する破壊的コマの影響によって人類にもたらされたものである。しかし、新たな習慣を身に着けたあなたは、ポジティブなエネルギーを生み出すようになり、このエネルギーは力強い流れとなって、あなたをポジティブな人生ラインへと運んでいく。
 こうした展望に励まされて、あなたは習慣を取り換えるやり方を実践し始めたとしよう。ところが、そのうちにこの練習を行う回数が減ってきて、習慣を取り換えようと思ったことすら忘れている自分に気付くようになるかもしれない。これは致し方ないことである。なぜなら、習慣とは非常に根深いものだからである。ちょっと手綱を緩めると、コマはすぐにあなたの調子を狂わせるネタを探し出してくるのだが、あなた自身は自分のエネルギーをコマに与えていることになかなか気付かない。だが、あきらめてはいけない。固い決意を持って臨めば、あなたは目標を達成できるだろうし、破壊的コマも最後はあなたをそっとしておいてくれるようになるだろう。自分自身の決意を頻繁に思い出すことだけは必要なのである。
 私たち全員委がこの世界では客人である。自分が作ったのではないものに対して非難する権利は誰にもない。コマによっては成り立つこの世界では、このことを理解しなければならない。もし不満を引き起こさせる破壊的コマにあなたが抗議するとしたら、自分の状況をもっと悪化させるだけである。従順な子羊に甘んじる必要はないが、取り巻く世界を相手に公然と対決するのはやめにすべきである。コマがあなたを個人攻撃してくるならば、コマから身をかわしたりコマを手なずけたりする手段を用いることが出来る。コマがほかのコマとの戦いにあなたを借り出そうとするならば、それがあなた故人にとって本当に必要かどうかを自分自身に問いかけてみよう。
 あなたにとって気に食わない展示品の話にもう一度戻ってみたい。自宅にいるようにくつろいで構わないのだが、あくまで客であるという事を忘れてはならない。だれにも非難する権利は与えられていないのだが、客人は選択する自由を持っている。コマにとっては、あなたが激しく不満を述べ立ててくれる方が有益である。こんな疑問が出るかもしれれない。もし立ち去るべき当てがないとしたら、そんな妄言をあなたに吹き込んだのもコマなのである。ここではあるはずのない束縛からどうやって逃れるかについて書いている。
 世界の理想化は、不満の裏返しである。物の見方はバラ色の色調を帯び、多くのことが実際以上によく思われる。お分かりのように本当はそこにないものがあるかのように思われると、過剰ポテンシャルが生じてくる。
 理想化するとは、過大評価する、高所に祭り上げて称賛する。崇める、崇拝の対象を創る、という意味である。世界を作り、動かしている愛は、逆説的に聞こえるかもしれないが、それが本質的に冷静なものである点で、理想化とは異なっている。無条件の愛とは、所有権のない感情、崇拝なしの喚起のことである。別の言い方をすれば、それは、愛するものと愛される対象との間に依存関係を創らないことにある。この単純な公式は、どこで感情が終わり理想化が始まるのかを突き止めるときの助けとなる。
 あなたが花と緑に埋もれた谷間を散歩しているとしよう。この素晴らしい景色がすっかり気に入り、新鮮で芳しい空気を胸いっぱいに吸い込み、あなたの魂は幸せと安らぎで満たされている。これは愛である。
 この後、あなたは花を積み始める。花も生き物だという事を考えずに、摘み取って、両手でぎゅっと握る。すると花は次第にしおれて行く。この後、あなたの頭には、花から香水や化粧品を作ったり、そのまま生花として販売したり、または花を崇拝するカルト教団を創設して、偶像のように花を拝む事もできるなどという考えが浮かぶ、これが理想化である。なぜなら、いずれにせよ、あなたとあなたがさっきまで愛していた対象である花との間には、依存関係が築かれてるからである。あなた方にはの風景をただ満喫していたあの瞬間にその存在していた愛は、もはや跡形も残ってはいない。この違いを感じていただけたであろうか。

 

〇不満とは自分の業績や資質に満足していないことや、人の短所を断固として受け入れなられないことから生まれる。そのような短所を自覚してもそのことで強いコンプレックスを感じないでいることは可能である。それができないと、短所の存在は心の平穏をもたらしてくれず、大きな意味を持つようになり遂には過剰ポテンシャルを解消する作業に取り掛かる。そして、平衡力の作用は、長所を伸ばすか、短所と戦うか、二つのうちのいずれかの方向に向かう。これと呼応するように、人もまたどちらかの方向に向かう。戦う方を選ぶ場合が多いが、そうなると矛先は自分に向けられることになる。短所を隠すことは無駄なことであり、取り除くことは困難である。結果は、全く正反対のものとなり、状況はますます深刻化する。例えば、自分の内気な性格を隠そうと努めると、人に隷属するようになるか、逆に、度を過ぎた無遠慮となる。
 もし自己完成のきっかけとなる程度の不満を自分の短所に抱いているのであれば、平衡は保たれている。この場合、取り巻く世界に影響は及ばされず、内部のバランスのずれはポジティブな行動によって補われる。もし自己呵責を始めてしまったら、自分に腹を立てたり背たりするようになる。そうなると、魂と理性のいがみ合いという危険なケースが生じる。なぜなら、あなたの魂にとってはこんな関係になるいわれがないからだ。魂は完璧であり自己満足している。あなたが抱えるすべての短所は、理性にとっての短所であって、魂にとっての短所ではない。とはいえ、コレは大変に大きく複雑なテーマであり、それだけで別に書き始める必要がある。ここでは、工事レベルでの自分自身とのいがみ合いは無益であるとだけ述べるにとどめたい。魂は自分の世界に閉じこもり。理性は勝利を収め、その結果、生活するにおいて、完全な反目が起こることもあり得る。あとで精神分析医に掛かることの無いよう、まず自分を解放し、すべての自分の短所を許して上げること。もしまだあなたが自分を好きになれないならば、少なくとも自分自身と戦うのはやめて、今ある状態を受け入れるようにしてみよう。この場合に限っては、魂が理性の同盟者となってくれるだろう。それも、大変強力な同盟者なのである。
 あなたは自分を高めることを中途半端なままでやめるわけにはいかない、好きなだけ自分の長所を伸ばせばいい。本当は自分の短所との戦いを中止すればいいだけである。あなたはそんな戦いで、やはり有害無益な過剰ポテンシャルの維持に向けてエネルギーを浪費するとになる。しかし、あなたがその戦争を終わりにすれば、解放されたエネルギーはあなたの長所を伸ばすことに向かうはずである。
 以上のことは、ありふれた内容に感じるにもかかわらず、それでも、非常にたくさんの人々が、自分との戦や自分の短所の隠蔽に途方もないエネルギーを費やしてる。そのような人々は、ギリシャ神話の巨神タイタン一族のように、重たい荷物を背負って人生を歩んでいる。あるがままの自分であることを許し、重たい荷物を投げ捨てるだけで、すぐに人生はずいぶんと楽で気取らないものになる。エネルギーは短所と戦う事から長所を伸ばす方へと向けられる。また、こうした放射のパラメーターは、長所が短所に勝っている人生ラインに相当する。ではこんな例を考えてみたい、どのようにしたら素晴らしい身体を持つ人生ラインへと移ることが出来るか、というものである。ところが、あなたは始終体つきに不満を抱き、あれこれ悩んである。そうなるとあなたはそうあってほしくないものを受け取ることになってしまう。
 時分に対する不満を抱いている場合は、自分の魂との葛藤に突入することになるのに対し、世界に対する不満を抱いている場合は、大変な数のコマと対決することになってしまう。コマたちとの戦いについては、全く考えない方が得策である。
 不満とは十分に物質的な放射であり、その周波数は、あなたが不満とみなす事柄がもっとハッキリと現れてくる人生ラインに相当している。あなたはこれらの人生ラインに引き寄せられていると感じつつ、益々強い不満を抱き、そのラインへ到着するまでこの調子でずっと続き、到着後は、そのラインで年老いて病気を患い、気が付くと、何かを変えるにはあまりに無力な人間になっている。自分と似たような境遇の仲間とこの世界への愚痴を言い合ったり、昔はすべてが良かったと振り返ったりすることにしか慰めを見出せなくなってしまう。
 どの世代も暮らしが悪くなったことを確信している。いや、暮らしが悪くなったのは、各世代の特定の個人に限ってであり、それもより具体的に言うと、この世界への不満を漏らしながら、もがく事に慣れっこになってしまった人たちについてのことである。そうで無ければ、人類は本物の地獄へと転がり落ちていることだろう。おぞましい光景である。これは世界に不満を抱いた場合の第一の側面であり、人生は悪化する方向へと加速度的に導かれるのである。
 しかし、不満を表すという事の有害な習慣には、別の側面もある。平衡状態が乱されるという事である。あなたの不満は、それが正当な者であるか否かにかかわらず周囲を取り巻くエネルギー空間において、過剰ポテンシャルを生み出す。そして、過剰ポテンシャルはバランスを回復しようとする平衡力を発生させる。状況を良い方向へと変えるために平衡力が作用するならば、結構な話である。だが、残念ながら、正反対の方向へと作用することが多い。平衡力は、この世界に対するあなたの不平不満ができる限り小さな比重しか持たないようにするため、あなたの鼻っ柱をくじこうとする。平衡力にとっては、あなたが不満に思う全てを変えるよりは、この方がずっと簡単である。想像していただきたい、。もし為政者が自分の国で起こるすべてのことに猛然と不満口にするようになったらどうなるか。その際、同期の良し悪しは問題ではない。このような為政者は追い出されるか、または抹殺されてしまうだろう。どこの国の歴史を見ても、それは証明済みである。

〇過剰ポテンシャルは、目にも見えず感じることすらできないにもかかわらず、人々の暮らしの中で強い影響力を持つ。また、それだけでなく、意地悪な役割を果たすことが特徴といえる。こうした過剰ポテンシャルを解消するように働く平衡力の作用は、多くの問題を生み出す。意地悪な役割とは、しばしば意図したものと全く逆の結果を得ることによる。こうなると、いったい何が起こっているのか、全く理解できなくなる。こうしたことから、まるで何らかの説明できない悪意のある力、つまり、一種独特の「卑劣さの法則」が作用しているように感じるのである。私たちはそうあって欲しくないものをなぜ受けるのかという事について考えた際に、すでにこの問題に触れた。望んでいることがいかに簡単に手から滑り落ちてしまうのか、次の例で見てみよう。
 仕事に全身全霊を捧げたら、優れた成果を得ることが出来るという意見があるが、それは間違っている。平衡という観点からは「仕事に打ち込む」という事は、天秤皿の一方に仕事を乗せ、他方に残り全部を乗せるということになる。均衡は破れ、それにより、長く待つことを自分に強いるのは無理となる。結果は期待していたものと全く反対のものになるだろう。
 もしあなたにとって、より多く働くという事が、より多く稼ぎ、または自分の能力の強化を意味するのであれば、もちろんある程度の努力はする必要があるし、それで何も問題は起こらないだろう。しかし、すべてに置いて節度を心得る必要がある。もしあなたがひどく疲れたり、仕事が苦役になったと感じるのならば、テンポを緩めるか、全く別の仕事に就く必要がある。節度を超えた努力は、必ずや否定的な結果をもたらすことになるだろう。
 そうしたことはどのようにした起こるのかを見てみよう、仕事のほかに、あなたには一定の価値体系がある。それは家、家族、趣味、自由時間などである。もしあなたがこれら全てに仕事を対置させたとすると、あなたは仕事の場に非常に強いポテンシャルを築いたことになる。自然における全てのものは平衡状態へ向かうわけだから、あなたの意思とは関係なく、過剰ポテンシャルを減少させる方向に働く力が発生する。力の作用の仕方はさまざまである。例えば、あなたが病気になったとしたら、給料がどうのこうのと言っていられなくなる。あなたをうつ病が襲うかもしれない。あれなたにとって重荷と感じる事を自分に強いたら、病気にならないわけがない。理性は「さぁ、金を稼ぐのだ」と繰り返す。しかし、あなたの魂は驚いてこうつぶやく、「まさか私は、苦しみもがくためにこの世に生を受けたわけではあるまい。私にとってこれらすべてのことは、いったい何のためなのだろう」結局、あなたは慢性疲労に陥る。こうなっては、生産性云々の話どころではなくなる。生活をもっと楽にするため、あくせくと働いてきたのに、何の甲斐もなかったという気がすることだろう。
 この時、あなたは、隣にいるほかの人々が、はるかに小さな努力で、ずっと大きな成果を達成している事に気付くかもしれない。それはつまり、あなたが自分の仕事に与えている意義が、ある段階に達した後、限界を超え始めていたという事である。あなたにとっては、仕事に置く比重が重ければ重いほど、ますます多くのありとあらゆる問題が発生してくることになる。こうした問題発生の全ては当然な事、つまり仕事の過程で生じた仕方のないことであるとあなたには思えるだろう、しかし本当は、あなたが自分の「重要性のハードル」を引き下げさえすれば、問題はずっと少なくなるだけのことである。
 ここらか導き出される結論は一つ。過剰ポテンシャルを解消するために、仕事と自分との関係を意識して見直す必要があるという事である。仕事外で、好きなれことに携わる事の出来ない人は、仕事も出来ない。職場に来たら、自分をリースに出すのである。自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしない。職場のコマはあなたの全てのエネルギーを欲しがっている。しかし、あなたは職場のコマのために働くことだけを目的に、この世に生を受けたわけではなれい。自分の過剰ポテンシャルを解消し、コマから解放されたならば、あなたの仕事の効率は目に見えて上昇するだろう。
 自分をリースに出し、非の打ちどころなく活動せよ。つまらないしくじりをしてはいけない。つまらないしくじりは、初歩的な怠慢として非難されてしまう。あなたの義務も、もれなく履行すべし。自分をリースに出すことは、だらしなく無責任に働くことを意味するわけでは決してない。これは、過剰ポテンシャルを創らず、執着せずに行動することを意味し、この際、あなたに要求されたことは、しっかりとやり遂げなくてはならない。さもないと、不快な出来事が発生する事もあり得る。たとえば、あなたの周囲には、あなたと違って、仕事漬けの人々が必ずいるだろう。彼らは、無意識のうちに、あなたが特段の努力もせず、効率よく働いている事を感じ取っている。こうした勤勉家は、ライバルがしでかすミスを暴いてやろうと直感的に探し始める者である。あなたがミスをするや否や、彼らは待っていたとばかり、あなたに襲い掛かる。ミスというのは初歩的なものであるだろうし、だからこそ腹立たしくもなる。例えば、あなたが遅刻したとか、何かを忘れたとか、見落としたとかというものだろう。もしあなた自身も仕事にどっぷりと浸かっていたならば、彼らはミスに目をつぶってくれただろう。しかし、仕事漬けではなかったあなたがつまらないミスをした今となっては、仕事に不熱心だとして非難される立場に置かれるのである。
 似たような状況は職場だけでなく、家庭や知り合いとの付き合いでも起こりえる。だから、あなたが自分をリースに出す場合は、いかなる状況においても攻められたりしないように、自分の義務をきちんと果たす必要がある。手抜かりがないかどうかは、内なる観察者、つまり見張り役が見守る。さもないと、再びコマのゲームに没頭することになってしまう。内なる観察者と述べたが、これは二重人格とは全く関係のないことである。距離を置いて眺めてみることで、自分が何をどう行っているのか、あなた自身で気づくだろう。
 「一心不乱に自分の仕事をする」などという事はあり得ない、と異議を唱える向きもあろう。それは仕事次第なのである。「仕事にのめりこむ」ことが正当化されるのは、唯一仕事があなたの目的である場合だけである。何があなたの目的なのかについては、ずっと先に述べることにする。もし仕事が目的ならば、それは成功へと導いてくれる懸け橋となる。そういう仕事であれば、かえってエネルギーを充填してくれるだろうし、喜び、高揚感、満足感などをもたらしてくれる。もしあなたがまれにみる幸せ者の一人で、自分の仕事について、これこそ目的であると自信をもって宣伝できるならば、何も心配はいらない。

〇自然にあるすべてのものが平衡状態を目指そうとする。気圧差は風によって均一化される。気温差は熱交換によって調整される。いかなるエネルギーであっても過剰ポテンシャルが生じたところならばどこでも、不均衡を解消しようとする平衡力が働く、私たちは物事のこうした状態に慣れっこになっているため、いったいなぜそうなるのかという疑問すら抱こうとしない。それにしても、なぜ平衡の法則(物質系の平衡が圧力・温度などを変えることによって乱されたとき、その変化により生ずる影響をなるべき小さくする方向に平衡が移動するという法則。天秤の平衡を保とうとする力。)が働いているのか。
 自然における全ての法則は、平衡の法則から二義的な派生したものである。平衡の法則は一義的であるためどういう理由によって自然には平衡の法則が存在しなくてはならないのか、より正確に言うと、平衡の法則がどこからきていったいなぜ存在するのか、説明することは不可能である。私たちが平衡の法則が存在しない世界とはどのようなものか、推測する事だけは可能である。無定形のどろどろしたものか、または、強い活性を持つ灼熱状態になるだろうか、しかし、こんな世界がみすぼらしいからと行って、それが平衡の法則の存在理由にはやはり成りえない。そのため、私たちとしては、平衡の法則を事実として受け入れ、私たちを取り巻く空間の完璧さに驚嘆し、そして、いったい何がこうしたすべてを操っているのかと考えあぐねるしかない。
 人生には白黒の縞模様があり、成功と失敗とか入れ替わるという事に慣れてしまっている。これはすべて平衡の法則による現象である。なぜなら、幸運も不運も平衡を欠いた状態だからである。完全なる平衡というのは、全く何も起こらないときのことであるが、絶対的な平衡状態というのはあり得ない。いずれにせよ誰もこんなことにお目にかかったためしがない。世界には常に変動がみられる。昼と夜。満潮と干潮、生と死等々。真空世界においてさえ、素粒子の絶え間ない誕生と消滅が起こっている。
 世界全体を、揺れ動き、静まり、たがいに作用しあうたくさんのコマという形であらわすことが可能である。それぞれのコマは隣のコマたちからの回転を受け止め、自分の回転を隣のコマたちに伝える。この複雑なシステムを解除する主な法則の一つが平衡の法則である。結局のところ、あらゆる物は平衡状態へと向かう。あなた自信も、独立したコマである。もしあなたが平衡状態を破りたいという気分になり、どちらかの方向へ大きく傾き始めたら、あなたは隣にあるコマたちを刺激し、それによって自分の周囲に乱れをもたらし、それが後であなたに向かってくる。
 平衡状態を乱すことは、行動によってだけではない。思考はエネルギーを放射する。物事が物質化した世界では、あらゆるものにエネルギーの裏付けがある。目に見えないところで起こっていることもすべて、目に見える物質の世界に反映されるる私たちを取り囲む世界に影響を与えるには私たちの思考エネルギーはあまりにも弱すぎると思われるかもしれない。しかしながら、もし思考エネルギーが外部に何も影響を及ぼさないのであれば、すべてははるかに単純だっただろう。
 とはいえ、エネルギーレベルで何が起こっているかを推測するのは、混乱して完全に身動きが取れなくなってしまいそうなので、やめておく。ここでは、簡略化された平衡のモデルを取り上げるだけで用が足りるからである。もし過剰エネルギー・ポテンシャルが現れたら、それを解消しようとする方向への平衡力が起こる。という事を考えればよい。
 何らかの対象に非常に大きな意義が当たられると、思考エネルギーによって過剰ポテンシャルが出来る。例として、二つの状況を比べてみよう。自宅の床の上に立っているあなたと、崖っぷちに立っているあなたがいる。前者の場合、あなたを不安にさせるものは何もない。後者の状況は、非常に大きな意味を持っている。もしあなたが少しでも不用意な動きをした途端、取り返しのつかない事態が起こってしまうからである。あなた方が立っているという事実は、エネルギーレベルでは、前者の場合も、後者の場合も、同じ意味になる。しかし、崖っぷちに立っているあなたは、自分の恐怖感によって緊張を増大させ、エネルギー場における異質性を創り出している。そこで、こうした過剰ポテンシャルを解消する方向に向かう平衡力が生じる。あなたはその作用を現実のものとして知覚する事さえできる。説明のつかない力が、一方では、下向きに引っ張り、他方では、崖っぷちから退いて遠ざかろうとする方向へと引っ張る。なぜなら、あなたの恐怖感の過剰ポテンシャルを解消するため、平衡力に求められているのは、あなたを淵から引き離すか、または下へ放り投げて終わりにするか、これら二つのうちのどちらかという事だから、そのため平衡力の作用をあなた感じるというわけである。
 エネルギーレベルではすべての物質的対象が同じ意味を持つ。それらに一定の質を会えるのは私たちである。良い・悪い、楽しい・悲しい、美しい・醜い、善・悪、単純・複雑、等々。この世界にあらゆるものは、私たちによる評価を受ける。しかし、評価そのものは、エネルギー場における異質性を形成したりはしない。自宅の安楽椅子に腰かけているあなたはこう評価する。ここは安全だが、崖っぷちに立つのは危険だと、だが、この瞬間、こうした事があなたを不安がらせたりはしない。あなたはただ評価をしているだけなので、平衡が破られることは決してない。評価に必要以上に大きな意義が与えられる場合に限って、過剰ポテンシャルが現れる。
 大きな意義を持つ評価が現実をさらに大きくゆがめているのであれば、ポテンシャルの値は増大する。一般に、対象が私たちにとって非常に重要であならば、その質を客観的に評価することはできない。例えば、崇拝の対象には威厳が、憎悪の対象には欠陥が、恐怖の対象には畏怖させる質が、それぞれ必ず必要以上に与えられている。思考エネルギーは、一定の質を、実際にはそれが存在しないところで、人為的に再現しようとする。このような場合に、過剰ポテンシャルが形成される。そして、過剰ポテンシャルは平衡力の風を発生させる。
 あなたの評価が次の二つの方向に向かうとき、現実は歪められる。対象に過度の否定的な質を与える時か、あるいは、過度の肯定的な質を与える時だ、しかしながら、評価上の誤り自体は何の役割も果たさない。もう一度注意を喚起したい。あなたの評価が大きな意義を持っているときにだけ、過剰ポテンシャルを生み出す。あなたにとって具体的な重要性だけが、評価にあなたのエネルギーを分け与える。

〇どんな失敗でも、少なくとも、教訓として役に立ち、あなたをより強く鍛え、経験豊かにしてくれる。あなたの身に起こるどんな現象でも喜ぶこと。そうすればあなたのいる世界は楽園に代わる。これはもちろん普通とはかなり違った行動様式である。だが、目的も普通とは全く違う。自分の望みを実現する魔人になるのだから、ありきたりのやり方で、こうした目的が叶うと思ってはいけない。
 とはいうものの、これを実行する事は最初は大変である。望ましくない者に対して、ネガティブに反応する古い習慣がしつこく立ち現れるからである。忌々しい状況に陥ったときには、必ず、コマがあなたをつかみ寄せようとしていることを思い出すよう学習するのである。思い出しさえしたら、すぐに意識して選択できるはず、自分のネガティブな感情をぶちまけてコマにエネルギーを渡すのか、それともコマに何も与えることなく、それによって勝利をもぎ取るのか。二つのうちのどちらかを選ぶのである。
 もしあなたがうまく思い出したならば、コマから身をかわすか手なずけるかは、もうそれほど難しいことではない。私たちはいつも無意識のうちにコマのエネルギーを与えている。コマは私たちの感情の意図を引っ張る。私たちの思考を乗っ取る仕掛けを始動させる推進力は、私たちの習慣である。本章を読み終え、思い出すことを課題にしたとしても、再びあなたは望ましくないものにネガティブな反応をしてしまうこともあるだろう。もちろんそのあとで振り返り、「あの時はただ忘れていただけで、つい習慣によって無意識に行動してしまったのだ」と悔しがるかもしれない。しかしそうこうしているうちに、あなたがタイミングよく思い出す時がやってくる。すると、すぐに状況が本当に自分のコントロール下に入ったことを実感するだろう。しばらく後に、あなたはこんな独り言をつぶやいてニンマリするに違いない。「ああ、お前さん、コマか。近頃の私は、やすやすと引っ張られないよ」これであなたはもう操り人形ではない。駒を意識的に受け入れるか遠ざけるかは、あなたの自由なのだ。
 もしあなたがこうした手法を粘り強く実践すれば、そのうちに古い習慣が新しい習慣に入れ替わるだろう。しかし、習慣の交代がまだ起こらないうちは、コマは事あるごとにあなたを引き入れようとしてくる。たくさんの腹立たしい事件が、あてつけがましくあなためがけて襲い掛かってくるかもしれない。そこであきらめてはいけない。それらは不快なことであっても、まだ小粒な方である。もしあなたが屈することなく、思い出すことを身に着けたならば、大変に感動的な勝利がもたらされることだろう。それは今にわかる。
 幸運の波の振動に合わせるために良く行われている手法の例を一つ考えてみよう。様々な状況の中で、人は時として無意識に幸運の波に合わせようと試みる。例えば、一日の初めに、売り子たちは最初の客に大幅な値引きをしてあげようと待ち構える。売り子たちは、最初の客が非常に大事であることを直感的に感じている。その日初めての商いを行い、実を結ばせることが大切なのである。事象選択の言い方では、商売繁盛のラインの周波数に合わせる、と表現できる。自分の思考をこの周波数にただ単にに集中させるのは難しい、だが、最初の客は現実的な希望と自信を与えてくれる。それによって、周波数のチューニングはひとりでに出来てしまう。売り子は商売繁盛の波に乗り、しかるべきパラメーターを持つ思考エネルギーを放射する。売り子自身が、商品はすぐに売り切れると信じ、客にそのことを言いかけるや否や、売り子のエネルギー放射にたちまち「ひきつけられた」客は、今日は運がいいことを納得したうえで、言われるままに買い物をする。
 もう一つ例を挙げると、市場で働く売り子は、時々独特な魔法の儀式を行うことがある。自分の商品を紙幣で軽くこするのである。もちろんこうすること自体、何の力も持ってはいない。だから魔法なのであって、本質的には何でもない。しかし、もし振り子がこの儀式に力があると信じているならば、こうすることは売り子が商売繁盛のラインの周波数に同調するのを手伝ってくれる。周波数のチューニングは無意識に行われる。儀式は説明できない何かによって効いてくるという事を、人間は理性によって上辺だけは認識している。儀式は本当に効果があるのだが、それ自体が効果を生み出すのではなく、劇場の小道具のような働きをする。主役を演じるのは俳優の思考エネルギーの方である。
 様々な職業で、様々な状況において、このような「魔法」の儀式が数多く存在する。順調な人生ラインの周波数に同調し、幸運の波に乗ろうとするため、人々は魔法の儀式を信じてうまく取り入れている。その際、人々がどちらを信じるのか、儀式が持つ魔法的な特性の方が、または幸運なラインの周波数に同調する方か、という事は基本的に意味がない。あなた自身、お分かりのように、大切なのは実際の成果だけである。

 

〇破壊的なコマのゲームを受け入れる代わりに、あなたのためになるゲームを行うコマを探してみよう。これはいいことやポジティブなことすべてに注意を払う習慣を身につけることを意味する。何かいいモノ、楽しいもの、希望の持てるものについて、あなたが見たり、聞いたり、読んだりしたら、それを自分の思考の中に定着させて喜んでいただきたい。森の中を歩いているあなたをイメージしてみよう。そこには、綺麗な花々が咲き乱れている。毒と棘を持っている直物もある。あなたは何を選ぶだろうか。もしあなたがニワトコの花を引き抜いて家へ持ち帰り花瓶に行けたら、まもな頭痛が始まることだろう。何であなたはこんな選択をしたのか。破壊的コマに反応することも、これと同様に有害なのである。ジャスミンの鼻を引き抜いてきて、世話してやり、芳しい香りを楽しむ方が良かった。あらゆるポジティブなものを自分の中に取り入れると、あなたは進む道では、より多くの良い知らせや好ましい機会と巡り合う事だろう。
 さて、あなたが精神の高揚や歓喜を味わったとしよう。しかし、その後、日常の決まりきった仕事が再びあなたを手繰り寄せる。祭りの日は過ぎ去り、また普段の生活に戻る。祭日の状態を自分の中でどうやって維持すればいいのだろうか。そのためには、まず、祭日を思い出すのが良い。私たちは習慣から、単調な日常生活に没頭するあまり、楽しかったことを忘れてしまい、祭日の記憶は封印され、私たちを喜ばせてくれなくなる。これは悪い習慣である。それを忘れるよう私たちに強いるのはコマである。
 祭りの日を自分の中で灯し続け、その感覚を大切にすることが必要である。人生がどのように良い方向へ変わっていくのかをじっくり眺め、ごく小さな喜びでもよいからしっかりと掴み、あらゆるところで好ましい兆しを探し求めるのである。少なくともそれは、退屈なことではない。あなたは事象選択を行っており、意識的に自分の夢へと向かって進んで、つまり自分の運命をコントロールしているのだという事を一瞬たりとも忘れてはならない。これだけでも安心、自身、喜びといった気持ちを植え付けてくれるから、祭りはいつもあなたとともにあることになる。祭りの日の感覚が習慣になってきたら、あなたはいつも幸運の波の上に載っていることになる。
 今持っているものすべてに対して喜ぶべきである。これは、単にそうすれば幸せになることが出来ると主張するだけのものではない。満足することがとても難しい状況になることは時々ある。だが、不満を口にすることは、極めて実践的な観点から、大変に不利益な事である。なぜなら、あなたはすべてに満足出来る人生ラインにたどり着きたいはずだから、しかし、あなたによる思考エネルギーの放射が不平不満でいっぱいだったら、どのようにしてそこに行きつくことが出来るだろうか。それどころか、こうした放射の周波数は、あなたの気分が悪くなってしまうラインに合致しているのである。良いラインは、そこにいることが好ましく、あなたの思考が喜びと満足感であふれているという特徴を持っている。
 良いニュースはそれほど興奮させず、すぐに忘れ去られる。反対に、悪いニュースには脅威が潜んでいることから、強い反応を引き起こす。自分の心、すなわち自分の人生に悪いニュースを入れてはいけない。悪いニュースは遮断し、いいニュースのための窓を開けておこう。あらゆるポジティブな変化を見逃さないようにして、大切に温めておこう。それはたとえどんなに些細なことであっても、以前のようにすぐに忘れてしまわないで、反対に、よく嚙み締め、よく調べ、その続きを追いかけよう。そのニュースを様々な視点から深く考え、喜び、予想を立て、この先の好転を期待しよう。こうしてあなたは幸運の波の周波数で考えるようになり、そのパラメーターに同調していくことになる。良いニュースは増えていき、人生は好転してくるだろう。情報をフィルターにかけるのは、神秘でもなければ、人間心理の特性でもない。悲観論者は世界を黒ずんだレンズを通して見るのに対して、楽観論者はバラ色のレンズで見るだけである。そして、あなたは自分の思考エネルギーの放射パラメーターに相当する人生ラインへと移動する。それが現実なのである。
 自分と周囲の世界といい関係にあるならば、あなたによる調和の取れた放射は、周囲の世界に伝播する。全てがうまくいくよう調和して振動する場をあなたは身の回りに創っている。ポジティブな気分はいつも成功や創造へと導いてくれる。
 反対に、ネガティブな思考傾向は、常に破壊的であり、荒廃へと導く。例えば、問題を探し回ることばかりしている人々がいる。解決方法を探すのではない。彼らは、複雑な問題を活発に論議し、もっと多くの新たな障害を見つけてやろうと身構えている。通常、こうした人々は、現実的な出口を提案する事は出来ない。なぜなら、彼らは最初から解決そのものではなく、問題を探すことの方に気持ちが向いているからである。問題探しに気持ちが向いていると、問題はたっぷりと出てくるが、事はその場からピクリとも動かない。否定的な面を探しては批判するだけ、というのは常にそれなりの結果をもたらすだろうが、有害なものばかりで、役に立つものは何もない。周りをよく見ると、必ずこうした人々がいるものである。彼らは、悪い人たちではないが、いい人たちでもない。ただ彼らは破壊的なコマの罠にしっかりとはまってしまっているだけなのである。
 大多数の人々が、自分の人生で起こった望ましくない事柄を邪険に扱う。通常、私たちが望ましくないと思うことは、私たちが用意したシナリオに乗っていないことである。反対に、私たちは、期待にかなうものだけを、幸運として迎える。極端な例の一つとして、こんな人がいる。飛行機に乗り遅れたために爆発自己を免れたのだが、その後、すっかり調子を崩してしまったという。これば逆である、こんな滅多に起こらない事故に遭遇しなかったのは、それがこの人の予定には入っていなかったからである。と考えるべきではないか。
 人が自分を取り巻く世界について悪く考えれば考えるほど、この世界はその人にとってますます居心地の悪いものとなる。失敗によって意気消沈すればするほど、新たな不運がこちらめがけてどんどんやってくる。泣き面にハチである。こんなことをしていら、毎日、正反対の事象選択に励んでいるようなもの。本物の地獄が待つ人生ラインへ滑り落ちていくだけとなる。まったく逆のやり方を行ってほしい、面当てに失敗を喜んでみよう。失敗の中にほんのわずかでもいいから役立つことはないか探してみよう。これはいつでも可能である。コップは半分からなのではなく、半分まで水が入っているのである。「終わり良ければ、すべてよし」とよく言われるが、これがあなたの信念ならば、間違いなくその通りになるだろう。良い方向への目標設定を頑固に堅持し、きっかけがどんなものであれ、腹を立てたり悔しがったりする古い習慣を断つ必要がある。

 

〇波は、来ては去るもののように思われる。しかし、実際は、幸運の波は、動いたり、力を蓄えたり、弱まったりはしない。わかりやすくするために、「波」という専門用語をモデルの中に取り入れた。既に触れたように、幸運の波は、好ましいラインの集積という形で亜空間に静止した状態で存在する。あなたが人生ラインの上を移動しながら、波という異質なものを何か、つかみ取り、自分の中に取り入れるのか、それとも、コマで頭がいっぱいで、幸運の波から遠ざかるのかは、あなた自身が決めることである。
 波はあなたに関心はないから、取り逃がしてしまうことも多い。あなたの脇を通り過ぎて戻ってはこない。このことから、一般論として、幸せの鳥を捕まえることは難しいという事に納得がいくだろう。しかし、本当は、幸運の波を自分の意のままにしようと努力する必要はない。それはあなたの選択にかかっているだけである。もしあなたが幸運の波を自分の人生に受け入れたならば、それはあなたとともにいることになる。もし破壊的コマの影響に屈して、コマのネガティブなエネルギーがあなたの内部に充満してしまったら、あなたは幸運の波から遠ざかることになる。「持っていると大切にせず、慣れてしてしまうと泣き悲しむ」。人々はいつもこんな風に振る舞う。幸せの鳥は、あなたの手のひらからエサをついばみたくないわけでは決してない。幸せの鳥を捕まえる必要はない。あっちへ行けと追い払わないだけで十分である。
 これは選択の自由のもっとも逆説的な側面の一つである。人々は本当に幸運と幸福とを自分で選ぶことが出来る。その一方で、人々は、幸運の波から遠ざけようとするコマから自由な状態にはない。ここで再び前のテーマに戻るとしよう。選択の自由を自分で手に入れるためには、依存状態を断ち切ることが不可欠なのである。もともと関係のないはずのよそのコマの影響から自由になる権利も私たちにはある。どのようにしてこうした権利を自分で手に入れることが出来るのか、次に説明する。
 たいていの人は、始終頭の中で何らかの思考を巡らせている。もしこうしたプロセスをコントロールできないとしたら、ネガティブな感情に頻繁に支配されてしまう。私たちの感情を何よりも波立たせるのは、恐れ、動揺、不安、苦悩、不満などを引き起こすものである。数千年の間に人間の心理状態は、破壊的コマの影響を受けて、こんな風に形成されて来た。コマにとって、人間が恐怖に慄いているときの方がうまく操れるので都合がいい。まさにそのため、人間は何を本当に欲しているかという事については漠然としかイメージできないのに、何を望んでいないかについては正確に知っている。 
 思考をネガティブに攪拌されるままにしておくことは、破壊的コマとのゲームに入り込み、コマの周波数でエネルギーを放射することになる。これは非常にためにならない習慣である。自分の思考を意識的にコントロールするよう習慣を変えることがあなたにとって有益なのである。あなたの意識が特に働いていないとき、例えば、交通機関を利用しているとき、ただ散歩をしているとき、周囲を集中しなくてもよい仕事をしている時などには、必ずポジティブな思考のスイッチを入れてほしい。達成できなかったことなどは考えないで、これからやり遂げたいことを考えるようにすれば、そうなるはずである。
 例えば、今住んでいる家が気に入らないとしよう。「この家には嫌気がさし。あるものすべてが腹立たしい。引っ越せたらうれしいのに。でも、今のところはどうすることも出来ない。ああ、嫌だ、嫌だ」とあなたは自分で思う。このような思考を続けていたのでは、期待する物を手に入れるのは不可能である事を忘れてはならない。たとえもし引っ越すことが実現して、も組んだ委が解決されたかに思えても、新居ではがっかりすることが山のように待ち受けていることだろう。
 「私はこのあばら家に見切りをつけて、豪邸に引っ越してやる。」あなたが雨露をしのいできた住居への恨みつらみが大きければ大きいほど、新しい豪邸であなたを待ち受けている予想外の不快な出来事もその分多くなる。不快な出来事とは千差万別である。蛇口が壊れる、ペンキが剥げる、壁が崩れる、隣人に悩まされる等々、あなたのネガティブな放射パラメーターを維持するために、ありとあらゆることが起こりえる。住居の新旧は関係ない。これまで同様あなたを不満にしかさせない諸条件の完備された人生ラインがいつでも見つかるのだ。亜空間には、あなたが地獄にいるような気分にさせてくれる豪邸がたくさん存在している。
 もし当面どこへも引っ越すことが出来ないならば、嫌でたまらない状況の中でこれまで通り生活し続けるしかない。なぜなら、夢の家が持ち構えている人生ラインの周波数にあなたが同調していないからである。いまのあなたは、気に入らない事を考え、ネガティブなエネルギーを放射しているため、そのパラメーターはあなたが今いるラインと丁度ぴったりしている。そのため、自分の放射周波数を変えない限りは、今のラインにずっとい続けるほかに成す術はない。
 ところで、思考エネルギーの放射周波数を変えるのはそんなに難しいことではない。第一に、感情を鎮めて、不平不満や恨み・つらみを口にするのはやめること。ささやかな喜びのために、いつでも好ましい面や理由を見つけられるものである。たとえ今の家が気に入らないにせよ、せめてあなたを守ってくれたことに対しては感謝すべきである。外は風が吹き、雨が降る。いまの家はそのすべてを引き受けて、あなたを守り、温めてくれる。これが感謝に値しないといえるだろうか。もしあなたが今持っているものに感謝し、あなたを取り囲んであなたの暮らしを助けてくれるもの全てに愛情を感じているならば、あなたはポジティブなエネルギーを放射していることになる。そうすると、お望みならば自分の住居条件が向上する事は十分に期待できる。もし引っ越すことになれば、あなたを取り囲んできたすべてに必ず感謝しよう。放り出しておいたものにまで感謝すべきだ。このような時、あなたからは周囲の世界にネガティブな振動が伝播していて、その振動は必ずあなたに戻ってくる。
 第二に、欲しいと思う家について考えてみるようにしよう。これを実行することは、現在あなたを取り囲むものに苛立つことよりも難しい。しかし、これは考える価値のあることである。カキ貝のように外部の刺激に対して十年一日のごとき反応をするのと、ちょっと努力して自分の習慣を変えてみるのとでは、どちらがいいのか。住宅の写真が乗っているパンフレットを見て、調度品を売っている店を歩き回り、欲しいものをいつも考えることで自分を元気づけよう。私たちは常に、しっかりと心をとらえるものや状況を自分のものにすることが出来る。私たちの思考は常にブーメランのように私たちのところへ戻ってくるのである。
 ネガティブな対応をすると、どれほど人生にダメージを与えるかについては、計り知れない。例えば、あなたは南の地で休暇を過ごす予定だとしよう。あいにく現在こちらは悪天候に見舞われている。通りを歩くと、寒風に身を縮め、冷たい雨に降られ、全身濡れねずみとなる。こんな天候で喜べないのは当たり前である。それなら、この破壊的コマを無視すべく、せめてニュートラルな状態にしてみよう。もしあなたが天候について不平不満を並べ立てると、コマを受け入れて、それをさらに勢いづかせることになる。
 ネガティブなエネルギーを自分に取り込まないというだけで不十分なのは明らかである。このほかに、自分でもネガティブなエネルギーを放射してはいけない。例えば、あなたが腹を立てて誰かを怒鳴りつけたとしよう。これに続いて、何らかの不快な出来事や問題が起こることはまず間違いないだろう。この場合、あなたの放射パラメーターは、あなたを憤慨させるたくさんの人生ラインに合致している。そして、間もなくあなたはそこへと移動させられる。それらのライン上では、不快な出来事の密度が平均以上の数値となっている。この不快な出来事はどうしたって避けられなかったようだ、などと言い訳して、自分を慰めてはいけない。このことについては私があなたを説得したり証明して見せる必要もないだろう。あなたがネガティブな反応をした後には、新たな腹立たしいことが続いて起こるものだという事を自分自身で注意して観察すればよいだけである。
 ここからの結論は非常に単純でわかりやすい。つまり、あなたによる思考エネルギーの放射に見合うパラメーターを持つ人生ライン上に、あなたはいつも存在する、という事である。あなたが自分の中にネガティブなエネルギーを取り込むと、不快な事象があなたの人生に生じる。あなたがネガティブなエネルギーを放射すると、それは新たな問題となってブーメランのように舞い戻ってくるというわけである。

 

〇あなたは、破壊的なコマから解放されて、自由を手に入れた。しかし、目標のない自由は、宙ぶらりんの状態でもある、もしあなたが自分を取り巻く様々なコマから身をかわしたり、手なずけたりすることに没頭していると、あなたは真空状態に陥るリスクを冒していることになる。以前に起こった葛藤はどこかへ行き、あなたを苦しめていた悩み事は薄れ、揉め事も滅多に起こらず、心配や不安も静かに消え失せようとしている。まるで嵐がゆっくりと静まるように、すべてはいつの間にか変化している。
 しかしながら、このことにはもう一つの面があることに、あなたは間もなく気付くだろう。かつてあなたは出来事の中心にいたのに、今ではあなたと離れたところで出来事が起こる。周囲の人々にとって、あなたは以前よりも意義が薄れ、注目される事もまれになってきた。心配は減ったけれど、新たな望みは訪れない。外の世界からの圧力は弱まったが、それによる報酬もたらされない。問題の数は減ったのに、収穫は増えないのである。
 一体どうしたことか、実は、人間存在のために全ての環境がコマの上に築かれているので、コマから完全に遮断されると、砂漠にいるような気持ちになってしまうのである。宙ぶらりんの状態というのは、コマに依存しているときと比べて、それほどいいわけではない。例えば、何でも十二分に与えられている子供が「これ以上欲しいものがない」ことで散々苦しむことがある。子供自身が苦しみ、周囲の人々もその気まぐれによって苦しめられてしまう。人間というものは、いつも何かを目指そうとするように出来ているのである。あなたが自由な状態にいるのは、本来縁のないよそのコマから独立しているということである。
 ところで、ほかならぬあなたにとって有益なコマも存在する。それはあなたのコマである。それを見つけるには、まずあなたの目的がコマによって押し付けられたものかどうか識別する必要がある。押し付けられた目的をあなたが追いかけようとすると、自分本来の幸せな人生ラインからどんどん遠ざかってしまう。自由な状態を保ちつつ、あなたの本当に成功と個人としての幸せが持ち受けているような人生ラインを自分に選ぶという事が課題になってくる。
 コマは、人間が意識して行動しているならば、人間にとっての絶対的な悪にはならない。また、人間はコマから完全に自由にはならない。問題は、どのようにしてコマの影響に屈することなく、自分の利益のために意識して利用するか、という事にある。事象選択は、これをどうすればいいか、具体的な方法を提案している。コマの影響から完全に自由になることは不可能であり、また不必要でもある。それどころか、結局のところ、まさにコマこそが人間の夢を実現してくれるのである。


〇どのようなコマが建設的と呼べるのかという宿題の回答であるが、そんなコマは存在しない。どんなコマでも唯一重要な目的は、信奉者からエネルギーをもらうことにある。もしエネルギーがもらえないのならば、コマは止まってしまうのである。
 コマは自分に対してだけ建設的であって、あなたに対してそうなることはあり得ない。何が建設的、創造的かと言えば、あなたからエネルギーを奪い取ることにおいてである。もちろん様々なコマが存在するため、破壊的、攻撃的と言っても、その程度もさまざまである。例えば、ビーチバレーのクラブが寒中水泳のクラブと敵対することは想像しにくい。それにビーチバレーのクラブに加入していることが、あなたの人生の破滅につながるとも思えない。とはいえ、このコマも信奉者たちのエネルギーをもらっているから、メンバーたちが運動に飽き飽きしたら、クラブは衰退する。しかし、逮捕されたり命まで奪われかねないギャング団の仲間であることと比べたら、ビーチバレー・クラブに所属していることは大したことではない。
 では、フィットネス・クラブに通うとしたら、そこでは自分だけの運動を行うわけだから、クラブのコマにどのようにして自分のエネルギーを与えるのか。こう反論する向きもあろう。いずれにせよ、フィットネス・クラブで自分のためだけの運動をしつつも、一定の規則を守る義務を負うことになる。自宅でなら好きなようにできるが、クラブ内では会員たちはどうしたって同じ方向で活動し、システムできめられた規則を履行することになる。こうして、まとまったエネルギーがコマに供給されることになる。もしクラブの全会員が退会したら、コマはエネルギーをもらえなくなり、停止する。
 そこではこんな質問をしてみよう。あなたのエネルギーを必要としないエネルギー構造が存在するだろうか。実は、存在するのである。この一つが、幸運の波、またはあなた個人にとっての状況の幸運な重なり合い、とでもいうものだ。各人には自分の幸運の波というものがある。なぜだかツキがあると思っていると、その後、予期していなかった良いことが他にも滝のように次々と思ることが時々ある。人生が幸運の白い帯に突入したようである。こんな幸運続きは決していつも起こるわけではない。しかし、最初の幸運があなたに大きな喜びと気分の高揚をもたらした場合に限っては、それは必ず起こる。
 「運命の車輪」や「青い鳥」というのは、ただの抽象的な隠喩ではない。幸運の波は、あなたに幸せをもたらす人生ラインの集まっているところである。亜空間には全てがあり、そこには金脈も含まれている。もしあなたが橋の方にある異質のラインに偶然紛れ込み、幸運をつかんだとしたら、そのまま惰性で別のラインが集積しているところへと滑り移り、そこでも新たに幸運な状況が立て続けら起こるかもしれない。しかし、最初の幸運の後に、再び不運の黒い帯が来てしまったら、それはつまり、破壊的コマがあなたをつかみ寄せ、金脈の外へと連れ去ったことによる。
 幸運の波は、エネルギーを奪うことなしに、幸せをもたらしてくれる。それは、力尽きた泳者を岸へ打ち上げてくれる海の波に例えてもよい。幸運の波はあなたを人生の幸せなラインへと運んでくれる。幸運の波にとっては、コマの場合と同じく、あなたの運命がどうなろうと関係ない。しかし、あなたのエネルギーを必要とはしない。幸運の波に乗りたいのなら乗ればいい。運んで行ってくれるだろう。乗りたくいのなら、幸運の波は平然とあなたの脇を通り過ぎていく。幸運の波は一時的現象で、他からエネルギーを奪ったりしない。だから、最後には岸辺で砕ける海の波と同じように消えてしまう。
 幸運の波は、その訪れについて、吉報という形で知らせてくれることがある。幸運の波はほかの人生ラインから情報を運んでくる。こうした反響ともいうべきものが、今いる人生ライン上では吉報として知覚される。この投げ出されたロープにつかまって、吉報がやってきた方向にあるラインへと自分を引き寄せることが大事である。そこには良い知らせだけではなく、幸運な状況があるはずだからである。

 

〇あなた自身が相手から何かをやってもらいたいのに、相手は自分の問題に汲々としていて、あなたの助けになろうという気分ではない場合、前途の手法を使ってみると案外うまくいくかもしれない。例えば、あなたの手には上司の承認が必要な書類があるとする。まずは、上司にハッキリとわかる好ましいものによって「餌を与える」ことで、上司もあなたのためにやるべきことを全部やってくれるだろう。
 回るのをやめたコマのエネルギーは、いったいどうなるのか。それはあなたに移るのである。問題を処理したあなたは、前よりも快調になる。次に同じ問題が発生しても、もう困難とは感じないだろう。そうでもない?   いずれにせよ、もし問題を張っていさせたコマとまともに戦うことになれば、あなたは大変なエネルギーを失ってしまう。
 コマから身をかわすか、またはコマを手なずける実例については、心理学者精神療法士等が専門的な治療方法として熟知している。その意味で、紹介した方法は基本的に新しいものではない。しかし、応用心理学の両方に不案内な人にとっては、コマを手なずけることによる心理学上の防御作用が、なぜ、そのように機能するかについて明瞭に理解できるため、価値あるものとなるだろう。
 コマから身をかわしたり、駒を手なずけたりする方法のもう一つの応用価値は、あらゆる問題の解決に役立つというとにある。それは、人生における厄介や状況、葛藤、不利な形成、困難又は単なる課題などに応用できる。あらゆる複雑な問題には、簡単な解決方法がある。解決への鍵はいつも見えるところにある。用は、それをどうやって認識するかだけである。問題を生み出したコマがそれを認識することを邪魔しているのである。 
 破壊的なコマは、あなたからエネルギーを受け取ることを目的としている。このため、コマにとっては、あなたが問題について思考し、エネルギー放射の周波数を固定してくれる事が必要となる。そのためには、問題が複雑であるという事をあなたに信じ込ませることが手っ取り早い。もしあなたがこのようなゲームの決まりを受け入れたとしたら、あなたの手をそっと取って、複雑に込み入った迷宮へと連れていくことが可能となる。「案ずるより産むがやすし」というのは、いつも後になってから出てくるセリフである。
 人間は、脅かされたり、不安に陥れられたり、狼狽させられたり、抱いているコンプレックスに触れられると、問題が厄介なものだと簡単に思い込み、罠にはまってしまう。しかし、怖がらなくてよい。そうで無くても多くの問題には、一筋縄では解決しないという定説がある。人は誰でも一生の間に、常に様々な困難と遭遇するが、特にそれが新しい道のものであれば、困難はなおさら大きくなる。そんなところから、危惧の念やときに畏怖の念さえ抱いて問題にあたるという習慣が、私たちにしっかりと根を降ろす事になる。その際、私たちは困難に対する自分の処理能力を常に疑問視する。その結果、危惧の念を抱きながら問題にあたる傾向が、操り人形の糸に変質してしまうのである。
 コマは自分の信奉者たち、すなわち問題にからめとられた人々を介し、生き物以外を介したりして、行動することが出来る。コマは思考エネルギーの放射を一定の周波数に固定させ、その人が問題にさいなまれている間は、エネルギーを吸い取る。コマが周波数をある対象に固定させているときは、私たちに神経を集中しやすくさせているようだ、それが問題の完結をどれほど妨げているか計り知れない。
 コマは私たちの思考を情報フィールドの非常に狭いセクターに固定する。解決方法はこのセクターの外にある。結局、人間はこの狭い廊下の中で考えたり、行動したりしており、問題をもっと広い視野で眺めてみる機会をもつことができない。独創的で直感的な解決策は、その人がコマから解放され、別の方向で思考する自由を手に入れたときに、はじめて思い浮かぶ。天才たちの秘密は、コマから自由であるという点にある。一般の人々の思考の周波数がコマに乗っ取られてしまっても、天才たちの思考の周波数は自由に切り替えることが可能で、情報フィールドの未知なる分野へと入り込んでいくことが出来る。
 どうすれば思考を乗っ取る罠に落ち込ませないようにすることが出来るのか。問題に深くはまり込んではいけない。またコマのゲームに引きずり込まれてはいけない。仕事などのために自分の両手と頭は貸し出すことがあっても、心は常に開放しておくこと。その場合、ゲームの参加者としてではなく、外部の観察者として、いつものように振る舞うのである。状況から一歩退いて観察して見る。あなたの手をつかんで迷宮へ引き入れたり、怯んだり、不安になったり、狼狽したりしてはならない。簡単な解決方法が常に存在することをまず思い出し、あなたを巻き込もうとしている厄介そうなものを受け入れてはいけない。 
 もしあなたが問題や障害に突き当ったら、そうしたものと自分との位置関係を把握するように心がけよう。問題が混乱、恐怖、憤懣、落胆などを引き起こしている可能性がある。発生した問題への習慣化している対処方法を、それと正反対のやり方に変えるべきである。そうすれば、問題はひとりでに解消するかもしれないし、短期間にわけなく解決できるかもしれない。これまで繰り返してきた紋切り型の考え方や習慣に逆らい、どの問題に対しても、克服すべき障害としてではなく、通り過ぎる必要のある道の一部として臨んでみる。自分の中に問題の残滓を残してはいけない。問題に対しては空っぽの状態でいることが肝心である。
 もし熟慮を要する何らかの課題を解決しなければならない場合、すぐに理屈にかなった判断に飛びついてはいけない。あなたの潜在意識は直接的に情報フィールドと結びついている。あらゆる課題の解決策はすでにそこにある。だから、解決に当たっては、まずリラックスして、解決する事についての恐怖感や不安感が少しでもあれば、そのような感情を払拭してもらいたい。自分を解放し思考を止め空っぽの状態を思い浮かべること。こうすると、解決策、それも非常に単純なやり型がすぐに浮かぶことが良くある。もしそうならなくても、嘆いたりせず、思考機関のスイッチを入れてほしい。また次の機会に試したらうまく行くだろう。こうしたことを実践すれば、いわゆる直感的な「知」に到達する能力をうまく開発できる。そうすることを自分に収監付さえすれば、それでよいのである。
 あなたがもし振り子から心を解放することに成功したのなら、この方法は本当によく効くことだろう。とはいえ「言うは易く行うは難し」ともいう。ここではこの後に、コマの新たな対処法が述べてある。このテーマは始まったばかりである。