〇過剰ポテンシャルは、目にも見えず感じることすらできないにもかかわらず、人々の暮らしの中で強い影響力を持つ。また、それだけでなく、意地悪な役割を果たすことが特徴といえる。こうした過剰ポテンシャルを解消するように働く平衡力の作用は、多くの問題を生み出す。意地悪な役割とは、しばしば意図したものと全く逆の結果を得ることによる。こうなると、いったい何が起こっているのか、全く理解できなくなる。こうしたことから、まるで何らかの説明できない悪意のある力、つまり、一種独特の「卑劣さの法則」が作用しているように感じるのである。私たちはそうあって欲しくないものをなぜ受けるのかという事について考えた際に、すでにこの問題に触れた。望んでいることがいかに簡単に手から滑り落ちてしまうのか、次の例で見てみよう。
仕事に全身全霊を捧げたら、優れた成果を得ることが出来るという意見があるが、それは間違っている。平衡という観点からは「仕事に打ち込む」という事は、天秤皿の一方に仕事を乗せ、他方に残り全部を乗せるということになる。均衡は破れ、それにより、長く待つことを自分に強いるのは無理となる。結果は期待していたものと全く反対のものになるだろう。
もしあなたにとって、より多く働くという事が、より多く稼ぎ、または自分の能力の強化を意味するのであれば、もちろんある程度の努力はする必要があるし、それで何も問題は起こらないだろう。しかし、すべてに置いて節度を心得る必要がある。もしあなたがひどく疲れたり、仕事が苦役になったと感じるのならば、テンポを緩めるか、全く別の仕事に就く必要がある。節度を超えた努力は、必ずや否定的な結果をもたらすことになるだろう。
そうしたことはどのようにした起こるのかを見てみよう、仕事のほかに、あなたには一定の価値体系がある。それは家、家族、趣味、自由時間などである。もしあなたがこれら全てに仕事を対置させたとすると、あなたは仕事の場に非常に強いポテンシャルを築いたことになる。自然における全てのものは平衡状態へ向かうわけだから、あなたの意思とは関係なく、過剰ポテンシャルを減少させる方向に働く力が発生する。力の作用の仕方はさまざまである。例えば、あなたが病気になったとしたら、給料がどうのこうのと言っていられなくなる。あなたをうつ病が襲うかもしれない。あれなたにとって重荷と感じる事を自分に強いたら、病気にならないわけがない。理性は「さぁ、金を稼ぐのだ」と繰り返す。しかし、あなたの魂は驚いてこうつぶやく、「まさか私は、苦しみもがくためにこの世に生を受けたわけではあるまい。私にとってこれらすべてのことは、いったい何のためなのだろう」結局、あなたは慢性疲労に陥る。こうなっては、生産性云々の話どころではなくなる。生活をもっと楽にするため、あくせくと働いてきたのに、何の甲斐もなかったという気がすることだろう。
この時、あなたは、隣にいるほかの人々が、はるかに小さな努力で、ずっと大きな成果を達成している事に気付くかもしれない。それはつまり、あなたが自分の仕事に与えている意義が、ある段階に達した後、限界を超え始めていたという事である。あなたにとっては、仕事に置く比重が重ければ重いほど、ますます多くのありとあらゆる問題が発生してくることになる。こうした問題発生の全ては当然な事、つまり仕事の過程で生じた仕方のないことであるとあなたには思えるだろう、しかし本当は、あなたが自分の「重要性のハードル」を引き下げさえすれば、問題はずっと少なくなるだけのことである。
ここらか導き出される結論は一つ。過剰ポテンシャルを解消するために、仕事と自分との関係を意識して見直す必要があるという事である。仕事外で、好きなれことに携わる事の出来ない人は、仕事も出来ない。職場に来たら、自分をリースに出すのである。自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしない。職場のコマはあなたの全てのエネルギーを欲しがっている。しかし、あなたは職場のコマのために働くことだけを目的に、この世に生を受けたわけではなれい。自分の過剰ポテンシャルを解消し、コマから解放されたならば、あなたの仕事の効率は目に見えて上昇するだろう。
自分をリースに出し、非の打ちどころなく活動せよ。つまらないしくじりをしてはいけない。つまらないしくじりは、初歩的な怠慢として非難されてしまう。あなたの義務も、もれなく履行すべし。自分をリースに出すことは、だらしなく無責任に働くことを意味するわけでは決してない。これは、過剰ポテンシャルを創らず、執着せずに行動することを意味し、この際、あなたに要求されたことは、しっかりとやり遂げなくてはならない。さもないと、不快な出来事が発生する事もあり得る。たとえば、あなたの周囲には、あなたと違って、仕事漬けの人々が必ずいるだろう。彼らは、無意識のうちに、あなたが特段の努力もせず、効率よく働いている事を感じ取っている。こうした勤勉家は、ライバルがしでかすミスを暴いてやろうと直感的に探し始める者である。あなたがミスをするや否や、彼らは待っていたとばかり、あなたに襲い掛かる。ミスというのは初歩的なものであるだろうし、だからこそ腹立たしくもなる。例えば、あなたが遅刻したとか、何かを忘れたとか、見落としたとかというものだろう。もしあなた自身も仕事にどっぷりと浸かっていたならば、彼らはミスに目をつぶってくれただろう。しかし、仕事漬けではなかったあなたがつまらないミスをした今となっては、仕事に不熱心だとして非難される立場に置かれるのである。
似たような状況は職場だけでなく、家庭や知り合いとの付き合いでも起こりえる。だから、あなたが自分をリースに出す場合は、いかなる状況においても攻められたりしないように、自分の義務をきちんと果たす必要がある。手抜かりがないかどうかは、内なる観察者、つまり見張り役が見守る。さもないと、再びコマのゲームに没頭することになってしまう。内なる観察者と述べたが、これは二重人格とは全く関係のないことである。距離を置いて眺めてみることで、自分が何をどう行っているのか、あなた自身で気づくだろう。
「一心不乱に自分の仕事をする」などという事はあり得ない、と異議を唱える向きもあろう。それは仕事次第なのである。「仕事にのめりこむ」ことが正当化されるのは、唯一仕事があなたの目的である場合だけである。何があなたの目的なのかについては、ずっと先に述べることにする。もし仕事が目的ならば、それは成功へと導いてくれる懸け橋となる。そういう仕事であれば、かえってエネルギーを充填してくれるだろうし、喜び、高揚感、満足感などをもたらしてくれる。もしあなたがまれにみる幸せ者の一人で、自分の仕事について、これこそ目的であると自信をもって宣伝できるならば、何も心配はいらない。
