〇屈強の若者があなたに向かって大槌を振り上げ、渾身の一撃をくらわそうとしているとしよう。あなたは何も抵抗しない。身を守ろうとも反撃しようともしない。この瞬間、あなたはただ心穏やかにわきへ退くと、若者は大槌とともにどこかへ飛んでいく。これはつまり、コマはあなたをつかむことが出来ずに崩れ落ちたことを意味する。
こうした原則は合気道の基本に見られる。合気道では、文字通り、次のようなことが起こる。攻め手の手を取り、あたかも見送るように攻め手と一緒に進み、攻め手のエネルギーの方向へと軽く放り出し、飛んで行くように送る。守り手は攻撃に何も抵抗しないという事が唯一のコツであり。守り手は攻め手のラインに逆らうことなく、ある程度の時間一緒に進み、そうした後で解き放す。そうすると、攻め手のエネルギーはどこかへ飛んでいく、このように守り手が「空っぽ」ならば、攻め手は掴みようがない。
このように柔らかにかわす技術のコツは、コマからの第一撃に対しては逆らわずに受けて、如才なく退くか、またはその動きをあなたにとって必要な方向へと気負わずに送り出してやることである。例えば、頭に血が上った上司はあなたに仕事を押し付けて、自分の考え通りに行われるよう執拗に要求するだが、その仕事は別のやり方で行う方がよいか、または自分の管轄外であることを、あなたは知っている。もしここで反論、口論、弁解を始めたら、上司は服従するようさらに強硬に求めてくるだろう。彼は決断を下したのに、あなたは背いたのだから、そこで正反対のことをやってみよう。最後まで注意深く聞き、すべてに同意し、最初の攻撃で父からを使い果たすよう仕向けてみるのである。その後に、落ち着いて上司と仕事の詳細を話し合う。その瞬間、あなたは上司からの攻撃は、抵抗にあわないため、少々の時間でおさまるだろう。この仕事をどうすべきか知っているつもりだなどと上司に口走ってはいけない。拒否も口論もしてはならない。上に助言を求めるのだ。どうすれば仕事をもっと迅速に旨く仕上げられたか、あるいは、他の人が担当していたら仕事の出来はもっと良かったかもしれない、といった具合だ。そのようにしばらくコマと一緒に回ってみるのである。ただし、ゲームには加わらず、まるで傍観者のように、意識してそうする。上司はゲームにどっぷり浸りきって回っている。これは上司のゲームである。彼が決定を下し、あなたは彼を受け入れたうえで、助言を求める。そうすれば、当初あなたに向けられていたエネルギーは、どこか脇へとそれ、別の解決策か代わりのものへと向けられ始めたと感じられるようになるだろう。こうして、あなた個人にとってのコマは当初の目的を達成し損ねることになる。
もしあなたが事件展開の筋書きが読める状況に遭遇したとしたら、なんでもいいから何かしたそのシナリオに書いていないことをやってみたらいいだろう。そうすればコマは沈静化される。あなたがシナリオに沿って行動しているうちは、コマのゲームを受け入れていることになり、この周波数でエネルギーを与えている。だが、あなたの周波数が大きく異なるものになれば、コマとは同調しなくなり、それによってコマの回転を狂わせることになる。
コマの鎮静化には、ユーモアの精神や想像力が役立つこともある。自分の苛立ちを遊びの気分に転嫁させてみよう。例えば、先を行こうとする通りの群衆や乗客で満員の乗り物が、あなたの前進を阻み、苛立たしく感じさせているとしよう。そこで、あなたは南極にあるペンギンの営巣地にいると想像するのである。群衆はペンギンの軍であり、滑稽な格好で転がったり、せっかちに歩き回ったり、うごめいたりしている。では、あなたは誰だろう。あなたもやはりペンギンなのである。こんな風に頭を切り替えられると、群衆に対しては苛立ちようもむしろ親近感や興味さえ抱くようになってくる。
もちろん文字通りズタズタに引きちぎったり放り投げたりしたいような気分の時に、自分をコントロールする事は難しい。そんな瞬間に、コマがあなたからエネルギーを引き出そうとしていることを思い出そうとするのは至難の業である。コマの挑発に乗ってはいけない。バンパイアが独自の麻酔を用いるのと同じように、駒は刺激に対してネガティブに反応する人間の習慣を利用する。この個所を読んだばかりでも、数分後に忌々しい電話の呼び出し音で読書が中断されると、イライラして対応するかもしれない。しかし、思い出すという習慣をあなたが身につけようと心掛けたら、そのうちに、駒からの挑発に対する免疫ができてくる。
次のことに注意を喚起したい。あなたが腹立たしい状況に出くわし、怒りや不満などをネガティブな気分の状況が持続したり、一層悪化したり、または更なる不快な状況が新たに出現するはずである。こうしたことによってコマは回転する。コマを回しているのは、あなた自身である。そこで、全く正反対にふるまってみよう。無反応でいるというのでもよいし、またはその場にふさわしくない反応をするというのでもよい。例えば、不快なことにわざとらしい情熱を示してもよいし、愚かとも思えるほどの歓喜で迎えることもできる。こうすればコマは消える。不快時はこれ以上続かないことを納得するだろう。
思い出していただきたい。コマはあなたの思考エネルギーを乗っ取ろうとしている。腹立ち状況にネガティブに反応する習慣は、コマによる乗っ取りのメカニズムの推進力となる。もしあなたが次のような自分独自のゲームに興じてみるならば、そんな習慣は色褪せてくるだろう。恐怖を自信に、落胆を情熱に、憤懣を無関心に、そして立腹を喜びに、わざとすり替えてみるゲームである。たとえちょっとした不快時に対してでも良いから、「ふさわしくない」反応を試してみるのだ。失うものは何もない。ばかばかしいと思うかもしれれないが、こんなゲームを行ってみてほしい。そうすれば、コマが付け入るスキはどこにもなくなる。こんなやり方が馬鹿げていると思われる理由は、コマが、自分にとって有益なゲームだけをするよう私たちを習慣づけたせいである。今度はコマにあなた自身のゲームを押し付けてみてはどうか。あなたはこのゲームに満足するだろう。そして、あなた自身、これが非常に効果的なやり方であることを実感して驚くに違いない。原則はただ一つ。コマと共振しない周波数を放射することによって、コマと不調和になるというだけなのである。そうなれば、コマはあなたとの関係においては沈静化されることになり、そっとしてくれるだろう。
コマを穏やかに鎮静化するための興味深い方法がもう一つある、誰かがあなたを苛立たせているとしよう。つまり、あなたにとって問題となっている。そんなとき、その人に何が不足しているのか、その人が何を求めているのか、突き止めてみるというのがその方法だ。では、ここで、何かが不足している人をイメージしてみよう。それは、ひょっとすると、健康、自身、心の平穏かもしれない。考えてみるまでもなく、この三つは自分が満たされていると感じるために必要な基本的な要素である。あなたを苛立たせている人が、その瞬間、本当は何を必要としているのかを考えてみよう。
上司があなたを怒鳴りつけたとしよう。上司は疲れていたのかもしれないし、あるいは家庭でもめ事があったのかもしれない。ならば、上司は心の平穏を必要としている。上司がテレビと暖炉のそばにおかれた安楽椅子で休んでいたり、川岸で釣り糸を垂れていたり、ビール・ジョッキを片手にサウナに入っていたりする姿を想像してみよう。上司の好みをあなたは知っているだろうか。ひょっとすると彼は上の方の役人から圧力をかけられていて、責任問題を恐れているのかもしれない。ならば、彼は自信を取り戻すことが必要である。上司が雪山の斜面を自信たっぷりに滑り降りたり、スポーツカーを運転していたり、パーティーで話題の中心となっていたりする光景を思い浮かべてみよう。それとも、上司はどこかを患っているのかもしれれない。彼が陽気に元気よく海で泳いでいたり、サイクリングしていたり、サッカーの試合に参加している様子を思い描いてみよう。もちろん上司が趣味に興じているところでもよいだろう。理由を推察することが不可欠というわけではない。それはあなたが心配することではない。満足している状態にある上司をイメージするだけで十分なのである。
さて次に、ここで何が起こっているのか考えてみよう。ほら。そいつがあなた宛ての問題を抱えて姿を表した。そいつが持ってきた問題から注意をそらすべきである。こうすれば、とっかかりから周波数ジャックの罠に頭を突っ込まなくても済む。そいつが必要とするものを受け取った姿をイメージしてみよう。そいつが満足している情景を心の中で実写的に思い描いてみよう。それが旨く行ったら、何がその問題に終止符を打ってくれるのか考えよう。コマは理由もなくそんな風に回り始めたりはしないのだから、何かがそいつのバランスを崩してしまったのだ、そいつは意識的または無意識的に自分のバランスを取り戻してくれる物を探している。ある一定の周波数で発せられるあなたからの思考エネルギーは、たとえそれが間接的な方法であったとしても、そいつが求めているものをを与えてあげることが出来る。そいつはすぐに攻撃を行為に切り替えるだろう。信じがたいと思われるかもしれないが、ぜひ試していただきたい。
この手法はコマを手なずけるという原則に基づいている。コマとして回っている人間が、問題を抱えて、あなたの方へとやってきた。あなたはその問題を、それとわかるやり方ではなく、エネルギーレベルで満たしてあげる。あなたは自分からエネルギーを与えることになるのだが、失う恐れのあった量に比べると、最小限で済む。それに善行も積むことが出来た。一時的ではあれ、必要としているものに手を差し伸べてあげたのである。興味深いのは、この後、その者はあなたへの態度をより友好的なものへと変化させることだ。あなたといるとなぜ心が安らぐのか、その者には一向にわからないだろう。このことはあなたの小さな秘密にしておこう。
〇コマは自分の信奉者たちからも反対者たちからもエネルギーをもらう事ができる。しかし、エネルギーの損失はまだ大したことではない。もしコマがかなり破壊的なものであれば、平穏無事なはずの生活や人生に損害がもたらされる。
誰でも時々ネガティブな情報や好ましくない出来事とぶつかるものであるが、すべてはコマによる挑発である。人はそれが自分の人生で起こることを望まず、二つのうちのどちらかで反応する。情報がそれほど気に障らないものであれば、聞き流してすぐに忘れてしまう。情報の内容が挑発的なために、苛立ったり怯えたりする場合は、心に深く刻み込まれ、コマの罠に陥り、思考エネルギーが乗っ取られ、共鳴周波に調整されてしまう。
その先はあなたもよく知っている展開になる。人は立腹し、憤慨し、心配し、恐怖し、激しく不満を述べ立て、結局、破壊的コマの周波数で活発にエネルギー放射することになる。このエネルギーはコマにだけ届くわけではない。思考エネルギーのパラメーターは、人が回避したいと思うようなことがたっぷりと待ち構えている人生ラインへと移動させる。人の思考エネルギーの放射が一定の周波数に固定されると、その人はそれに相当する人生ラインへと移動させる。人の思考エネルギーの放射が一定の周波数に固定されると、その人はそれに相当する人生ラインへ移動するという事を思い出していただきたい。振り子の破壊的な役割は、ここでは、乗っ取るための罠を用いて周波数を固定することにある。
あなたが大事故や自然災害の情報を聞き流すとしよう。こうした情報があなたに影響を及ぼさないのであれば、余計な心配を抱え込むことはないだろう。この場合、通常、事件はどこかで起こっているものだが、あなたはその犠牲者ではなく、傍観者になっている人生ラインにいる。あなたが犠牲者となっているラインは少し離れたところにある。反対に、もしあなたが自分の中に事件や事故の情報を取り込み、知り合いと話題にして嘆くならば、あなた自身が犠牲者になるラインへ間もなく移動する可能性は十分にある。
つまり、何かを回避したいと思う気持ちが強ければ強いほど、それを受け取る確率は大きくなる。あなたがそうあってほしくないものと積極的に戦おうとすることは即ち、それがあなたの人生上で起こるよう、全力を尽くすることとなる。望んではいない人生ラインへ移るためには、何らかの行動を必ず取らなければならないというわけではない。感情を伴ってネガティブに思考するだけで十分なのである。あなたは悪天候が苦手で、雨がどれほど嫌いかを考えてはいないだろうか。あなたは騒々しい隣人に苛立ち、隣人たちと頻繁に口論したり、あるいは彼らを静かに憎んだりしてはいないだろうか。あなたは何かを恐れていて、それがあなたをひどく不安にさせてはいないだろうか。あなたは今の仕事にうんざりしていて、仕事への嫌悪感を募らせてはいないだろうか。
あなたがそうあってほしくないと強く思っていること、すなわち、あなたが恐れ、憎み、蔑んでいることは、あなたがどこへ行こうともあとを追いかけてくる。一方、避けたいようなことはたくさんあるのだが、目下のところそれらはあなたをそれほどは不安がらせていないというのであれば、そうしたことは起こらない。要するに、あなたが望んでいないことを自分の中に取り込んだ途端、心は嫌悪感で占められ、その感情は増幅されて、望んでいないことがあなたの人生で必ず物質化されるというわけである。
望んでないことを自分の人生から排除する唯一の方法は、あなたの思考エネルギーを乗っ取ったコマの影響から解放されることである。そして、その後もコマの挑発には乗らず、そのゲームにも加わらないようにする。破壊的コマの影響下から脱出するには、二つの方法がある。駒から身をかわすか、またはコマを手なずけるか、である。でどうすればよいのか詳しくみていく。
コマと戦うのは無駄なことである。すでに述べたとおり、駒と戦うことは、すなわち、駒に自分のエネルギーを与えることだからである。そうならないために一番大事なことは、駒との戦いを拒絶することである。第一に、あなたが忌々しく思っているコマから逃れようとしてもがけばもがくほど、駒はますます迫り寄ってくる。「私をそっとしておいて、私を放っておいて」というセリフをあなたは永久に繰り返す事になるかもしれない。あなたはコマの手を振りほどこうとしていると思っているだろうが、実際には、あなたはコマに自分自身のエネルギーを供給している。だからコマはいよいよあなたに密着してくるのである。
第二に、あなたはこの世界において非難したり変更を加えたりする権利を何に対しても持っていない。展覧会の絵のように、好むと好まざるとにかかわらず、すべてを受け入れなければならない。展覧会では、良いと思えない絵もたくさん展示されていることだろう。だが、それらをそこから撤去することは思いもよらない。これと同じことなのである。あなたがコマの生存権を認めたならば、あなたにはコマから立ち去ってその影響を受けないでいる権利が生じる。大事なのは、コマと戦う事でも、非難することでも、苛立つことでも、怒りに我を忘れることでもない。なぜなら、これらすべてはコマが主催するゲームにあなたが参加していることを意味することになるからである。逆に、穏やかな気持ちで、コマを仕方のないもの、避けることの出来ない悪、として認めてやる必要がある。そうした後で、そっと立ち去るのである。どんな形であれ、断固たる受け入れ拒否を表明すると、あなたは振り子にエネルギーを渡してしまうことになる。
選択するという事が何を意味するのかを理解する前に、縁を切るという事を学ばなくてはならない。自分が何をしたいかについて、人々はほぼ例外なく、ぼんやりとしか想像できない。ところが、何をしてほしくないかという事については、皆正確に知っている。望まない事柄から解放されようとして、多くの人が全く正反対の結果をもたらす行動をしている。縁を切るためには、受け入れなければならない。ここで「受け入れる」とは、とは、自分の中に取り入れるという事ではなく、生存する権利を認めたうえで無関心な態度でそばを通り過ぎるという事である。受け入れて向こうへ行かせる、すなわち、自分をやり過ごしてもらい、さようならと手を振ることである。反対に、受け入れて留めるという事は、自分の中に取り入れた後、親しくなる、または抵抗するという事である。
もしあなたが気に入らないあることについて考え悩んであるのであれば、その気に入らないことはあなたの人生に居座り続けることになる。ある人がリンゴを大嫌いだとしよう。その人はリンゴが憎くてたまらず、吐き気を催すほどである。リンゴにただ注意を向けないようにできればよいのだが、自分が住むこの世界にリンゴのように不快なものが存在するという事実が耐えられない。リンゴが目に入るたびに、その人は腹を立て、不快感を猛然とまくしたてる。これは物質レベルでの話である。しかしながら、エネルギーレベルの話になると、次のように形容できる。その人は我を忘れてリンゴにとびかかり、大口を開けてかみつき、むしゃむしゃと食らい、「俺はリンゴが憎い」と甲高い声でわめき、ポケットにも押し込み、そして、息が詰まりそうになりながら、「リンゴにはうんざりだ」とまた愚痴る。これでは、リンゴというコマの思うツボである。もしリンゴが嫌いなら、自分の人生からただ放り出せるという事が、その人には思い浮かばない。
あなたが何かを好きだろうが嫌いだろうが、それはどちらでも構わない。大事なのは次のことである。もしあなたの思考が、ある感情を繰り返すようなら、思考エネルギーが一定の周波数に固定されているため、あなたはコマに乗っ取られた状態にあり、しかるべき人生ラインへと移動することになる。そして、移動先の人生ラインでは、愛情がそのように固定される対象がたっぷり転がっている。
もしあなたにそうあってほしくない何らかの状況があるならば、ただ単にそのことについて考えないようにして、無関心な態度でそばを通り過ぎれば、そのことはあなたの人生から消えてなくなる。人生から放り出すという事は、敬遠することではなく、無視することである。この場合、「敬遠する」を自分の人生に入り込むことを許可するものの、猛然と逃れようとすること、と定義したい。「無視する」とは何も反応を示さない、したがって、ある状況に陥らない、という事になる。
あなたがラジオ受信機だとしよう。毎日、あなたが眠りから覚めると、憎むべきラジオ局の番組を聞くことになる。ラジオ局の番組はあなたを取り巻いている世界である。もしそうならば、あなたはほかの周波数に合わせ直すべきである。
あなたと世界との間を鉄のカーテンで遮断したら、あなたは好ましくないコマたちから自分自身を守ることが出来ると思われるかもしれない。これは幻想以外の何物でもない、鉄の鎧を身にまとい、あなたはこう他人事をつぶやく、「私は、のっぺりした壁だ。何も見ない。何も聞かない。何も言わない。私へとたどり着く道はない」こんな保護バリアを維持するために、エネルギーを消費しなければならないそれも膨大なエネルギーをである。世界から意図的に隔絶しようとする人間は、常に緊張を強いられる。それに加えて、保護バリアのエネルギーは、その影響から保護されたいコマの周波数に合わせてある。コマはまさにこれを必要としている。コマにとっては、好かれようが嫌われようが、エネルギーがもらえるのなら、どちらでもいいのである。もし私が空っぽであれば、私をつかみ寄せることはできない。私はコマのゲームに加わる事はしないが、コマから身を守ることもしない。私は単にコマを無視する。駒のエネルギーは、私には構わずに飛んでいき、空中で消え失せる。コマのゲームは、私を不安に陥ることも悩ますこともない。コマに対して、私は空っぽである。
コマの主な目的は、なるべく多くの信奉者を引き込み、彼ら仮エネルギーをもらうことにある。もしあなたが駒を無視したら、駒はあなたをそっとして杵ほかのものに標的を切り替える。なぜなら、駒は、自分のゲームを受け入れてくれる、つまりコマの周波数で放射してくれるものによって回転するからである。
大雑把なたとえ話をしよう。犬が吠えながらあなたに付きまとっている。もしあなたが振り向くと、犬はますます大きな声で吠える。犬と本気で向き合い、ちょっとしたことでも犬といがみ合うようになると、犬はもっと長い、あなたを追いかけてくる。なぜなら、犬の目的は、騒ぎを起こす相手を見つける事にあるからである。しかし、もしあなたが無視していたら、犬は他の標的に切り替える。ここで、あなたが注意を向けてくれないことで、犬が侮辱されたとは少しも思わない事に気付いていただきたい。犬はエネルギーを受け取るという自分の目的で頭がいっぱいなので、ほかのことなど考えられれない。犬に取って代わるのが、よくもめ事を起こす人間である。その場合もこのモデルは正しく機能する。
もし誰かがあなたを苛立たせるならば、破壊的コマのモデルをその者に適用してみるとよい、おそらく、あつらえたようにぴったり合致することだろう。もしうるさく付きまとうものを消し去ることが出来ないのなら、ただ挑発行為には乗らずに無視すべきである。自分のエネルギーを与えることをやめない限り、この者はあなたのもとから立ち去らない。その者と言い争えば直接的に、あなたはその者にエネルギーを与えている事になる。エネルギーの提供を注視することは、その者について全く考えない、頭から追い払う、という事である。単に「失せろ」と独り言をつぶやけば、その者はあなたの人生から立ち去るだろう。
しかしながら、コマをただ無視しようとしてもうまくいかないこともよくある。例えば、職場の上司があなたを呼びつけて叱責するとしよう。単なる反論や弁解はエネルギーの損失を意味する。なぜなら、どちらであってもコマと戦うことになるからである。こうした場合、あなたはコマとのゲームに参加するふりをしていればよい。遊び半分でゲームに入るのを意識することが肝心である。
〇どのようにしてコマは自部の信奉者たちに自発的にエネルギーを出せるようにしているのか。例えば、大きくて強いコマであれば、自分の信奉者たちに対し、決められた規則に従って行動するよう強制することが出来る。だが、力の弱いコマはこれをどうやっているのか。人間が他人に何らかのことを指せる強制力を持っていない場合、その者は、筋の通った論拠、主張、説得、約束などを利用する。これら全ては、自然の力から遠ざかった人間社会の身に固有の弱々しい方法である。コマも時々こうした方法を用いるが、もっとずっと強力な武器も持っている。コマはエネルギー情報体という本質を持っているため、この世界の存在にかかわる強力でゆるぎない法則に服従し、またそれに従って行動するのである。
人間はコマの共鳴周波数で思考エネルギーを放出することで、コマにエネルギーを与える。人間にとっては、コマを利するように意識して自分の思考を向けることは義務ではない。あなた自身が理解しているように、人々の思考や行動の大部分は無意識のうちに行われている。人間心理のこうした特性もコマは利用する。コマは、自分の信奉者たちからだけでなく、容赦ない反対者たちからも抜け目なくエネルギーを受け取る。どのように行われるのか、あなたはもう推察できるだろう。
ベンチに腰かけている老婆たちのグループをイメージしてみよう。彼女たちは口を極めてその国の政府を罵倒している。彼女たちは政府のコマの信奉者ではない。そして様々な理由で政府を憎んでいる。ここで一体何が起こっているのだろうか。老婆たちは政府に対して怒っている。凡庸で、腐れきっていて、恥知らずで、愚かな政府にである。しかしその結果、老婆たちは、政府のコマの周波数で集中的に思考エネルギーを放出してしまっているのだ。実際、コマにとってはどの方向から回してもらおうがかまわない。重要なのは、放射される周波数が共鳴可能なものであればよい。
このようにコマにとっての一番の関心事は、人の痛いところを突いたり傷つけたりすることにある。その者の思考を占領することが出来れば、どんな手段を使おうが、情報番組は、通常、悪いニュースが大半を占めている。それらは、強い感情、不安、恐怖、憤懣、怨恨、憎悪を引き押す。記者たちの課題は耳目を集めることにある。マスコミはそれ自体がコマであり、より強力なコマに使えている。マスコミが声高に叫んでいるのは、あらゆる情報への自由なアクセスである。だが、本当のことはただ一つ…可能な限りの手段を用いて、必要な周波数に合わせてもらう事なのだ。
あなたのエネルギーを取り込もうとしてコマが最も好んで使う方法の一つが、平静を失わせるというものだ。平静を失ったあなたは、コマの周波数で「揺れ動くこと」をはじめ、それによってコマを揺さぶるというわけである。例えば、物価が高騰したとしよう。あなたは否定的な反応を示すだろう。憤慨し、文句を言い、知り合いたちと情報交換したりする。非常にまともで状況にふさわしい反応である。だが、これはまさしくコマの思うつぼである。あなたはコマの周波数で回りの世界に負のエネルギーを放射し、コマはそのエネルギーを受け取ると、さらに勢い良く回る。そして、状況は一層深刻化していく。
コマがあなたを引っ張ってピクリとさせる一番太い糸は恐怖である。これは起源が最も古くて、最も強い感情である。あなたが何を恐れているかには意味がないのだが、とにかくあなたの恐怖がコマの何らかの面と結びつくと、コマはエネルギーをもらうことになる。心配や不安は弱い部類だが、それでも十分に堅牢な意図である。こうした感情は、思考エネルギーの放射をコマの周波数にうまく固定してくれる。もしあなたが何かに不安を感じると、ほかのことに集中することが困難になる。
罪悪感も、駒があなたからエネルギーを繰るためのもっとも幅の広い通信チャンネルの一つである。私たちは幼少時代から罪悪感を押し付けられている。操るためにはこれは都合の良いやり方である。「もしお前さんが悪いのなら、私の言うとおりに行わなければならない」という具合に罪悪感は利用される。罪悪感を抱いて暮らすのは不快なので、私たちはそこから脱出しようとする。だが、どうすればそれができるのだろうか。罰を受けるかまたは何かをして罪を償うかのどちらかしかない。どちらの方法であっても、従属、服従、それに一定方向での試行作業を意味する。義務感とは、しばしば罪悪感のことである。何かをしなければならないという事は、つまり罪の故に何かに義務を負い、それを履行しなければならないという事でもあるからだ。結局、真の意味であれ、こじつけられた意味であれ、「罪びと」は混乱した頭を抱えてオロオロ歩き、コマに自分が納めるべきものをエネルギーの形で差し出す。罪悪感が引き起こされるよう誘導するのは、操る側の常套手段である。
コマが自分の操り人形を引っ張るときに使う意図の種類。正義感、自尊心、虚栄心、名誉心、愛情、反感、貪欲さ、気前良さ、好奇心、興味、飢餓感など、ほかにもいろいろある感情や欲求。感情と関心は思考の流れを一定方向に固定させることができる。テーマが感情や関心を引き起こさないのであれば、そのテーマに思考を集中させる事がとても難しい。そこでコマは人間の感情や欲求を掻き立てながら、思考の流れを乗っ取る。
普通、人々は外部からのネガティブな刺激に文句ん切り型の反応をする。否定的なニュースは不満を、物騒なニュースは不安や恐怖の反応を、そして、侮辱は敵意などを引き起こす。習慣は思考を乗っ取る仕組みを始動させるための威信力となる。例えば、些細なきっかけで苛立ったり、心配したりする習慣、挑発に反応する習慣、ネガティブな刺激にネガティブな反応をする習慣などがあげられる。ネガティブな思考や行動からはいいことはなにももたらされないと人間は認識できるのに、例によって、いつも過ちを繰り返す。
このように習慣はしばしば問題をもたらし、非効率な行動を強いるが、こうしたことを避けるのは難しい、習慣は、快適さの幻想である。人間は昔から知っているものの方に、より大きな信頼を抱く、新しい物はすべて心配の種である。古くて馴染んだものは実証済みである。それは、あなたが仕事の後で座って休む古い椅子のようなものである。新しいものはもっと便利だろうが、古いものはよりしっくりする。安らぎは、利便性、信頼性、肯定的な経験、予測可能性という概念によって特徴づけられている。新しいものにはこうした面が十分ではない。そのようなわけで、新たな行いが習慣化するまでには、かなりの時間が必要となる。
さて、ここまでコマが人間に対して作用する方法を全般的に検討してきた、人はコマの影響から自らを解放することが果たして可能なのだろうか。駒から解放される方法についてはもう少し先の方で述べることにしよう。ところで、だれかが立ち上がって、自分を意のままに支配してきたコマについて、公然と批判する演説を始めるという出来事は、しばしば起こる。一人の人間とコマとのこうした決闘では、批判した人間の方が必ず敗北する。駒に打ち勝つことの出来るのは、ほかのコマだけである。一人の人間では何できない。そのものがコマによる服従状態から脱却して戦いを挑んだとしても、ただただエネルギーを失い、システムの外へ投げ捨てられるのが関の山である。悪くすると踏みつぶされて命を失ってしまう。コマが定めた決まりをあえて破った信奉者は、無法者とされる。表面的には、これはそうした行動に対する非難であ。しかし実際は、行動そのものに罪があるのではなく、信奉者が服従状態から逃れ、コマへのエネルギー供給を停止したことに問題があったというわけである。
「罪を認めて悔い改めたものは処断されない」それは、自分の罪を受けいれた者は、コマの権力に服従する用意が完全に整っているからである。信望者が自分のしでかした行為を悔いることは、コマにとっては意味がない。意味がいるのは、失ったコントロールの回復だけである。コマがあなたを操る事ができるようになったら、途端にコマは愛層が良くなる。もし罪を犯した者が服従しようとしない場合、その者からはこれ以上エネルギーを受け取ることが出来ないので、排除してもよいことになる。コマの本当の動機は、道徳規範というベールで常におおわれている。自らの行為を悔いるものはそれほどの悪人ではないと言われる。コマが一体なんであって、その本当の目的がどこにあるのかと問うことをあなたが常に思い出せば、どこで道徳規範が働いていて、どこでシステムの利益が損なわれているかを、自分で簡単に見分けられることだろう。
〇破壊的なコマの主な特徴は、それが人々を自分の側に引き寄せるために、ほかのコマを積極的に滅ぼそうとしている点にある。そのため、始終コマは、自分の信奉者たちを使って他の人々にけしかけさせる。「我々はこうだが、奴らは違う。悪いのは奴らだ」というように、この戦いに巻き込まれた人々は、自分の進むべき道から外れ、自分の目的と誤認した偽りの目的に向かって進まされることになる。ここにコマの破壊性が見て取れる。よそのコマの信奉者たちを相手にする戦いは無益であり、自分たちも相手方も人生の崩壊へと導かれる。
信奉者を得るための究極の戦いである戦争を取り上げてみよう。自分の側の信奉者たちを説得して戦争へと向かわせるためコマは具体的な歴史上の時代からとってきた論拠を展開したりする。大昔に行われていたもっとも原始的な手法は、ただ他の人々の持ち物を奪い取って来いと命令を下すことだった。社会が次第に文明化されてくるにつれて、論拠はより洗練された形をとるようになって来た。ある民族が最上級であり、他の民族は衰退途上にあると宣伝される。発展の遅れた民族を高いレベルへ押し上げてやるという立派な目標が掲げられる。もし彼らが抵抗を示したら、力ずくで押さえる。近代の戦争概念はおおむね次のようなものである。森の木にミツバチの巣がある。そこには野生のミツバチが住み、蜜を取り、幼虫を育てている。そこへコマがやってきて、配下の信奉者たちに「この野生のミツバチたちはとても危険だ。根絶やしにしよう。それが無理なら、せめてあの巣を破壊しよう。信じられないというのか?見ていれば分かる」ここでコマは棒で巣を揺さぶる。すると、ミツバチたちが飛び出してきて、信奉者たちを刺し始める。駒は勝ち誇ったように言う。「ほうら、ごらん。奴らはとても攻撃的なのだ、奴らを根絶やしにしよう」
戦争や革命はどのようなスローガンで正当化しようとも覆い隠せないものである。本質はただ一つ…信奉者を求めてのコマ同士の戦いに尽きる。戦いの形は様々だが、唯一の目的はできるだけ多くの信奉者を獲得することにある。新たな力はコマの生命にとって不可欠であり、それなしではコマは止まってしまう。だから、コマ同士がその存在のために新たな信奉者を求めて戦うのは、当然であり避けられないことである。
攻撃性の面では戦争や革命に譲るものの、十分に熾烈な戦いがある。販売市場を求めての戦い、政党間の競り合い、経済分野の競争、あらゆる種類のマーケティング、宣伝キャンペーン、イデオロギーのプロパガンダなどだ、人々の存在する環境は、コマの上に築かれているため、活動のあらゆる面で競争が強いられている。国家間の論争から始まって、果てはクラブチームの選手間や個人間に至るまで、競争はすべてのレベルで行われている。
新しくて聞きなれず理解しづらい事が広まるには、常に困難が伴う。なぜなのか。思考に惰性が巣食っているだけのことなのか。主な原因は、新米のコマの出現が古参のコマにとって不利益となる点にある。なぜなら新米のコマは古参のコマの領分へと手を伸ばし、信奉者を奪っていくからである。例を挙げてみよう。都市環境にあれほど有害な内燃機関は、とうに過去の遺物となっているはずだった。なぜなら、生態系を汚さない新エネ・モデルという選択肢が数多く開発されたからである。しかし、それでは石油会社というコマの生命が脅かされることになってしまう。そこで、古参のコマたちは、発明家たちによって表舞台からやすやすと追い出されないよう阻止しようとする。今のところ優勢を誇っている石油会社というモンスターたちは、新型エンジン・モデルの特許を文字通り買い占めて、発明品が低い効率性しかないと発表する。そして、その後は、ひたすら隠ぺいし続けことまでやってのける。
コマは、物質レベルで自分の構造を実現しつつ、財務資金、建物、設備、それにもちろん人的資源の面でも、自分の状態を強化する。人間ピラミッドの頂点には、振り子のお気に入りたちを吸える。お気に入りたちとは、ちょっとした幹部から国家の大統領に至るまで、あらゆるランクの指導者たとのことである。一般論として彼らが最高に傑出した資質の持ち主である必然性はない。そうした地位に就くことが出来るのは、コマの構造にパラメーターがより良く調和するような信奉者である。お気に入り自身は、自分の人生において個人的資質の身によって大した成果を上げたものだと感慨深く思っていることだろう。それはある程度まではその通りである。しかし、お気に入りたちを登用するという作業の多くの部分は、コマの自己組織化構造が行っただけなのである。したがって、もしお気に入りのパラメーターがシステムの要求にこたえることをやめたならば、その者は躊躇なく解任されてしまうだろう。
コマ同士の戦いは、信奉者たちにとっては快適と言える。なぜなら、信奉者たちは、トップの意思を履行しているのに、個人的信念によって行動しているかのように思い込んでいるからである。彼らの個人的信念は、多くの場合、コマによって乗っ取られた後の者である。人間がコマの周波数に同調するや否や、コマと人間との間でエネルギーレベルの相互作用が起こる。信奉者たちの思考エネルギーの放射周波数は固定され、コマのエネルギーによって維持される。次にコマによるある種の選挙が行われ、フィードバック式の罠が作動する。信奉者はコマの共鳴周波で放射し、コマの方も影響を維持するために、信奉者にエネルギーを少し補給してやる。
私たちは、物事の現実化の段階で、このような相互作用を見慣れた光景として目にしている。例えば、政党のコマは先導を行い、信奉者を引き寄せ、正義感、満足感、自負心、有意義性といった感情の形でエネルギーを与える。信奉者は、自分が状況をコントロールしている、つまり選択することが可能である、と思っている。しかし、本当は、信奉者の方が選択され、管理下におかれているのである。表面的には、信望者が確信をもって自らの意思を具現化しているように見える。だが、信望者の意思は借り物であり、知らず知らずのうちにコマから押し付けられたものでしかない。信望者はコマの情報フィールドに陥り、自分とよく似た者たちと「熱い」テーマを話題に交流し、エネルギーの受け渡しを行うとで、自分の周波数を固定していく。その後、信奉者の期待が裏切られることもあり得る。それまで崇拝していた偶像に反対する考えが起こり、放射周波数が落ちこむと、補足されていた罠が抜け出る。補足する力の強さは、コマの力量によって異なる。罠から脱した元信奉者が立ち去る後姿をただ見送るコマもあるだろうし、こうした信奉者を拘束したり、または命を奪ったりするコマもあるだろう。
周波の乗っ取りとは、わかりやすく例えると、次のようなことである。あなたが何かメロディーを口ずさんでいるとしよう。しかし、この時、大音量の別の曲が耳に飛び込んできた。別のメロディーが耳に入ってくる今となっては、先ほどまで口ずさんでいたメロディーを続けることは非常難しくなってしまう。
コマと信望者との間でエネルギー面でどのようにして相互作用が生じるのかは、事象選択の目的にとって重要なことではない。私たちはこの相互作用を、このメロディーの例のように日常から連想できる簡単なモデルで考えるだけで充分である。本当のところ、何がどのように行われているのか、詳しく正確に説明する事は誰にもできない。なぜなら、そうしようとすると、「本当のところ」というのはいったいどのように解釈すればいいのか、という疑問が出てきてしまうためである。そして、その後も、知るためのプロセスが際限なく繰り返される。それは、やりがいのない作業である。だからこそ、ささやかな収穫で満足せざるを得ない。ともかくも理解可能なことがいくらかある人に対して、私たちは喜ぶべきである。それでは、駒が信奉者たちをどのようにして操るか見てみよう。
〇どのコマも本来は破壊的である。なぜなら自分の信奉者たちのエネルギーを奪い取り、彼らを支配しようとするからである。振り子にとっては各々の信奉者の運命などどうでも良いというところに、コマの破壊性が現れている。振り子の目的はただ一つ、信奉者のエネルギーを頂くことであって、信奉者の利益につながるかどうかなどは意味のないことである。システムの影響下に置かれた人間は、システムの決まりに従って自分の人生を築かなければならない。さもなければ、その者はシステムによってかみ砕かれ、吐き捨てられてしまう。破壊的なコマの影響下に置かれてしまったら、自分の人生なと簡単に打ち砕かれてしまう。脱出しようとしても、無傷で済むことはまず考え難い。
もし運のいい者がいたとして、システムの中に自分の居場所を見つけ、水を得た魚のように感じることもあるだろう。その者は信奉者となり、コマにエネルギーを与え、一方、コマの方は、その者が存在するための環境を提供する。しかし、信奉者がシステムの決まりに違反するや否や、その者の放射振動数はコマの周波数と共鳴しなくなる。コマはエネルギーを得られないので、このわがままを言う信奉者を追い払うか、または、抹殺してしまう。
もし人間がその者にとって好ましい人生ラインから遠く離れた所へ連れていかれたとしたら、本来縁のないはずのよそのコマのシステム内で送る人生は、苦役になるか、または憂鬱なだけの生活に代わってしまう。このようなコマは、信奉者にとっては快適である以外の何物でもない。こうしたコマの影響下に陥った人間は、自由を失ってしまう。その者は、好むと好まざるとにかかわらず、自分を束縛する規則に従って生活し、巨大なメカニズムのちっぽけなねじくぎとならなければならない。
コマの庇護を受ける立場に置かれ、抜きんでた成果を収める人間もいる。ナポレオン、ヒトラー、スターリンなどは、すべて破壊的なコマの寵児である。しかし、いずれにせよコマには自分の信奉者たちの幸福を気遣う意思など毛頭なく、自分の目的のために彼らを利用し続ける。後年、ナポレオンは、本当に幸福であった時があったかと聞かれ、自分の人生の中から数日だけ数え上げたという。
コマは新たな信奉者をおびき寄せるために、蛾が光へと飛んで集まるような手の込んだ手法を用いる。駒による宣伝にひきつけられた人々は、自分のすぐ隣で幸せが待っているにもかかわらず、そこから遠ざかっていくことがよくある。軍隊に入って非業の死を遂げる。学校へ入って自分の専門とはなりえないはずのことを無駄に習得する。自分に向いていないはずなのに、その権威にひかれて仕事を選び、泥沼にはまって溺れる。自分の人生を他人に結びつけてしまい、あとになって苦しむ。
コマは高潔そうな仮面を冠り、自分の動機を隠そうとする。そして、しばしば信奉者たちの運命は、コマの活動によって破壊へ取れ導かれる。破壊的なコマの影響下に陥った人間にとって一番の危険は、駒が自分の信奉者を幸せの得られそうな人生ラインから遠くへ連れて行こうとするところにある。コマの特徴を挙げてみる。
▽コマは、自分の信奉者たちのエネルギーを受け取り、それによって回転を増大する。
▽コマは、より多くのエネルギーを受け取ろうとして、できるだけ多くの信奉者を自分に引き付けようとする。
▽コマは、自分の信奉者たちのグループを他のすべてのグループと対立させる。(我々はこうであるのに、奴らは違う。奴らの方が悪いのだ)
▽コマは、信奉者になりたくない者なら誰であれ攻撃的に非難し、自分の側に引き入れるか、無力化するか、または排除するかしようとする。
▽コマは、自分の行動を正当化し、より多くの信奉者を獲得するために上品で魅力的な仮面をかぶり、高尚な目標を掲げて装い人々の感情を掻き立てる。
コマは本質的に、人間集団による共同の精神力や思考力の結果として、非物質的に発生する規則正しいエネルギーの塊でエネルギー情報的本質を持つ者である。しかし、この表現ですべてを言い表したわけではない。コマの概念は、人間とエネルギーの情報的本質との間における相互作用の微妙な陰影まで含めた総隊をすべて反映しているわけではない。駒は、人間の人生において、思った以上にはるかに大きな役割を果たしている。
コマがどのようにして自分の信奉者たちのエネルギーを飲み込むのかについては、次の例がわかりやすい。観客で満員の競技場を思い浮かべていただきたい。緊迫したサッカーの試合が行われている。熱狂は頂点に達し、ファンたちは荒れ狂っている。すると、その時、一人の選手が言い訳できないようなへまをしでかし、それが相手チームの決勝点につながってしまった。ファンたちの憤懣はこの選手に浴びせられ、八つ裂きにでもしてやろうかというぐらいだった、どれほど途方も無い負のエネルギーがこの不運な選手に注がれていることか、想像していただきたい。このように並外れた打撃を受けたら、その選手はその場で死んでしまっても不思議はない。だが、実際にはそんな事は起こらず、彼は自分の犯したミスのために、たとえうなだれてはいても、無事に生きている、では、選手に送り込まれたはずの大量の負のエネルギーはどうなったのだろう。これ取り込んだのがコマなのである。もしそうでなければ、群衆の憎悪の的は絶命してしまっただろう。また、もしこれが喝さいを浴びる人気絶頂のアイドルならば、空高く舞い上がってしまうかもしれない。
コマが命を持った存在なのか、それとも単なるエネルギー形態なのか、という事を判断しようというのではない。そんなことをしても、事象選択の手法にとっては、何の意味もない。大事なのは、コマの腹を読み、自分のためにならないゲームには乗らないようにすることである。破壊的なコマかどうかを簡単に見分けられる一つの特徴がある。それは、常にコマが自分と似たようなコマとの間で人々の獲得競争を行って、張り合っているという事にある。コマの目的はただ一つ。なるべく多くのエネルギーを得るために、出来るだけたくさんの信奉者を獲得することである。信奉者獲得競争においてコマが攻撃的にふるまえば振る舞うほど、ますます破壊的な性質がむき出しになり、個々の人間の運命にとっては危険なものとなる。
慈善団体、自然保護団体、動物保護団体などもあるのに、それらの組織団体のどこが破壊的なのか、と異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、あなた故人にとって、こうした組織団体は、いずれにしろあなたのエネルギーを摂取する存在であって、あなたの幸福や平穏無事な暮らしには一切関心を持っていないのである。彼らは、あなたに対しては無関心でいるのに、他人に慈悲深くあれと訴える。こうした仕事に従事していて、あなたはこれで満足であり、本当に自分が幸せだと感じるのなら、それは天職と考えてよく、あなたは自分のコマを見つけたことになる。しかし、ここであなたは自分の気持ちに正直になる必要がある。あなたは庇護者の仮面を冠っていないだろうか。他人の幸せのために本当に心から自分の労力や金銭を提供しているだろうか。それとも、自分の気持ちを楽にしたいがために、慈善行為のまねごとをしているだけではないだろうか。
破壊的コマは、人々が自分の運命を選ぼうとするのをやめさせる。なぜなら、もし人間が自由に選択できるようになると、その者は独立性を勝ち得る事になるからである。そうなると、コマはその者を自分の信奉者として取り込むことが出来ない。けれども、私たちの意識は、運命が天から与えられたものであるという考え方に慣れてしまっており、もっと気に入っている別の運命をただ選ぶことが出来ると信じるのは、実際、とても難しい。一方、コマとしては、信奉者をコントロール下に置いておく方が都合がいい。そのためコマは自分の手先を使って操るために、ありとあらゆる手段を発明する。
事象選択の場合を考えてみると、もしそこから熱狂的崇拝や運動や宗派などが生まれれば、コマになりえる。もちろん様々なコマが、程度の違いはあるが、それぞれ破壊的な面を持っているのだが、事象選択は、最悪の場合でも破壊的性格から最も遠い存在になるだろう。なぜなら何らかの共通な外部目標になりえず、個人個人の幸せだけを求めるからである。そのため、このようなコマは、自分の運命だけに関心を寄せる個人によって構成される集団であるから、あったとしても大変に風変わりなものであろう。ついでにここで宿題を出しておくことにしよう。どのようなコマが建設的と呼べるのだろうか?
〇総じて現代科学では理解も説明も困難なことが非常にたくさんあるが、その成果を利用できなくなるわけではない。なぜどのようしてそのように機能しているのかという疑問で、自らを悩ませないでいただきたい。何かを説明するという割に合わないことには立ち入らず、亜空間モデルの成果をただ利用することにしよう。すべてを知って全てを理解するという事は私たちには出来ないのである。
亜空間モデルからは私たち自身が自分の運命を創るという事が導かれる。しかし、事象選択における運命の概念は、広く知られている運命の概念とは異なっている。どこが違うのか?それは、自分の幸せは選らぶことができ、得ようとして格闘しなくても良い、というところである。亜空間モデルをすぐに受け入れようとしたり、または性急に拒絶したりしてはいけない。ただ自分に次の質問をしていただきたい。自分の幸せを求めて周りの世界と戦い、うまくいったためしが何度あっただろうかと。各人が自分のために自分で決めるのである。この調子で続けていくか、それとも、とにかく他のやり方を試してみるか?戦いに一生涯を費やしても、やはり何も得られないことがある。世界の方からあなたに向かって手を差し伸べてくれる方が楽ではないだろうか。なぜなら、世界はあなたの選択を現実化することだけに専念してくれるからである。
選択された注文は、常に無条件で執行される。だが、選択は願望ではなく、別のものである。願望はおとぎ話の中だけで叶うのである。願望を叶えることは非常に難しいか不可能であると一般に考えられているのには、それなりの訳がある。次からなぜ願望が叶わず、夢が実現しないのか、すぐにお分かりいただけると思う。
〇私たちは子供のころから、だれかの意思に従い、義務を果たし、祖国、家族、政党、会社、国家、理念などに使えるようしつけられてきた。使える相手は誰でもよいのだが、自分に使える順番は一番最後である。だれにでも、程度の差こそあれ、義務感、責任感、使命感、罪悪感と言いう感情がある。そして、だれもが様々な何らかのグループや組織に「使えている」。例えば、家庭、クラブ、学校。起業、政党、国家などである。これら全ての構造は、人々のそれぞれの集まりが同じ方向で思考したり行動したりすると、発生して成長し始める。その後、新たなメンバーが加入する事で、このような構造は拡大強化され、勢力を増していく。そして、定められた決まりに従うようメンバーたちを強制し、ついには社会の大きな層を服従させるようになることもある。
このような構造は、物質的現実世界では、共通の目的で一つにまとまった人々と、建物、施設、家具、設備、機械などの物質的対象物とから構成されている。では、エネルギーレベルで見ると、こうしたものの向こうにある目に見えない部分には、いったい何があるのだろう。人々の集団の思考が一つの方向を向くと構造が出現することから、思考エネルギーのパラメーターが同一であるといえる。同じ集団に属する人間の思考エネルギーは集まり、まとまった一本の流れとなる。この時、エネルギーの海の真ん中で、ここに独立したエネルギー情報体、即ちエネルギーのコマが生まれる。この構造はそれ自身が一つの生命のように独立して回り始める。そして、この構造の中で活動する人々を自分の決まりに服従させる。
なぜコマなのか、なぜなら、より多くの人々、すなわち信奉者たちがコマに自分たちのエネルギーを与えるようになると、コマはその分大きく回転するようになるからである。どのコマも自分特有の周期を持っている。例えば、ブランコは一定の感覚で押すようにしないと、大きく揺れるようにならない。この感覚のことを共鳴周波と呼ぶ。ところで、もしコマの信奉者の数が減少したら、コマの回転は弱まる。そして、信奉者が一人もいなくなったら、コマの回転は止まり、死滅するのと同じになる。止まってしまったコマの例をいくつか挙げてみよう。古代の異教、石器、古代の武器、昔の流行トレンド、ビニール製のレコード盤ソノシート等々。これらは、言い換えれば、かつてあったが、今は利用されていないものである。
本当にこれが全部コマなのかと、驚くかもしれない。その通り、人々の思考エネルギーによって創られ、自分の属性を持ついずれの構造も、コマである。一般的に言えば、一定方向にエネルギーを放射出来るどんな生物でも、遅かれ早かれエネルギーのコマを作ってしまう。自然界の生物によるコマの例としては、バクテリアのコロニー、生物の個体群、魚群、動物の群、森林帯、大草原、アリ塚など、生物体による多少なりとも秩序だっていて均質な構造はどれもそうである。
各生物体自らがエネルギー単位であるから、基本的にコマである。こうしたエネルギー単位としてのコマが集まり、一緒に回転し始めると、グループとしてのコマが出来上がる。グループとしてのコマは自分の信奉者たちの上に上部構造のように君臨し、別個の独立した構造として存在し、自分の信奉者たちのための決まりを定める。決まりとは、自分の信奉者たちをつなぎ止め、新たな信奉者を獲得するためのものである。このような構造は、自らの決まりによってひとりでに成長を遂げていくという意味で、独立した存在である。信奉者たちは、自分の意思によって行動しているのではなく、コマの決まりによって行動しているという事に気付いていない。例えば、官僚組織は、個々の役人たちの意思とは関係なく、独立した行動として成長する。もちろん有力な独自の決定を下すことが出来るが、こうした決定がシステムの決まりと矛盾する事はできない。さもなければ、そのような信奉者は排斥されることになる。一人の人間であっても、自分を代表するコマであるが、常に自分の動機を自覚しているとは限らない。エナジーバンパイヤが好例である。
〇今いる人生ラインの上で何かを変更することは不可能である。あなたが絵画展にいるとして、自分の好みに合わない展示品を撤去したり、配置換えしたりすることが出来ないのと全く同じである。そこではあなたが主人ではない。けれども、もっと気に入ったものを見ようとして、後戻りし、別のホールへ移動する事は誰も禁止していない。もちろん各人が必要と感じる人生ラインへの乗り換えは、単に望めばできるというものではない。すべての思考が現実化されるわけではないし、すべての望みが達成されるわけでもない。ここでの問題は、思考の内容にあるのではなく、その質にある。単なる夢や望みは、まだ選択ではない。夢は叶えられない。一定の条件を履行する必要がある。その条件については、これから読んでいただければお分かりいただけるだろう。
亜空間には、各人にとっての運命ラインが無限に存在する。私たちには自分の運命に腹を立てる根拠はない。なぜなら、私たちには選択する権利が与えられているからである。問題は、私たちがそれをうまく行使できないという点だけである。世界は多様な姿で現れる。まるであらゆる欲求をを満足させるために築かれたかのように。この世界では、各人が心にかなうものの全てを見つけることが出来る。この世界は知識の様々な分野においても、私たちが見たいと思う面を見せてくれる。唯物論に対しては、この世界は幻想にすぎないという理論に同意してくれる。唯物論に対しては、これと反対のことを論証しても、世界は異議を唱えるわけではない。人々は世界に対する自分の見方をたがいに押し付け合い言い争うのだが、世界は彼ら全員が正しいことを示してくれる。なんと素晴らしいことだろう。亜空間はいわゆる幻想ともいえるだろうが、そこにあるものがこの物質的世界で現実化されると理解していただきたい。そして、常に私たちは選んだものを受け取るのである。
イスラム教の原理を知っているものなら、「人間の宿命は天の書に示されている」という言葉を知っているだろう。宿命は事前に全て予定されており、そこから逃げ出すことはできない。似たような教えは、ほかの宗教にもみられる。実際に人間の宿命はすでに決められている。しかし、運命は一つではなく無限にある。宿命からは逃れられない。そしてそれはある程度正しい。なぜなら亜空間のシナリオを変更することは出来ないからである。自分の運命を変えようとして自分を取り巻く世界と戦うことは、大変に困難で割に合わない仕事ともいえる。シナリオを変更しようとはせず、ただ自分が気に入った事象選択をすればいいのである。
もちろんこうしたことの全てがはなはだ尋常でなく、だれもが疑念を抱くものであるという意見は、最もである。しかし、亜空間モデルをすんなり受け入れてくれるとは期待していない。私自身、事象選択が機能する、それも順調に機能するという事を確信するまでは、信じられなかった。何らかの絶対的な真理を得る目的のためだけに、あるモデルを特別扱いしても意味がない。重要なのはモデル事態ではなく、モデルによって享受できる実際の世界化の方である、一つの物理現象は様々な数理モデルで表現することができる。解析幾何学の専門家が、突如、数理解析に戦いを挑み、幾何学が唯一信頼のおける数学科目であることを証明し始めたとしたら、滑稽ではないだろうか。数学者たちはお互いに折り合いをつけているようだが、哲学者たちや宗教活動家たちにはそれができないでいる。
亜空間とはどこにあるのか?この問いに答えるのは非常に難しい。私たちの持つ三次元の知覚からすれば、亜空間はどこにでもあるし、どこにもないといえる。無限の平面を創造願いたい。始めも終わりもない。そこには二次元の人間たちが住んでいる。彼らは、三次元が存在する可能性に気付いていない。彼らにとっては平面こそが唯一の世界であり、平面の彼方の向こうにまだ何かがあるかもしれないとまでは理解が及ばない。しかし、私たちは、このモデルを三次元に拡張する意味があることや、こうしたモデルを無限に作り出せることを知っている。そのようなわけで、パラレルワールドが私たちの世界と並列して、なぜ無限に存在できるのかわからなくても心配ない。
パラレワールドが本当に存在すると信じるのは難しい。だが、その一方で、相対性理論なら簡単に信じられるだろうか。その理論によれば、物体の速度が増すと、質量が増え、寸法は縮み、時間は遅れていく。しかし、非人的な経験によってこれを確かめることは、まず不可能である。私たちが理解するかどうかが重要なのではなく、どのような実益をここから引き出せるかが重要である。
無限空間ではどのモデルが有利かを議論するのは、愚かしくつまらない事であり。距離が無限に増大するという事を創造していただきたい。遠くを眺めても終わりがない。距離が無限に減少するというのも、不思議なことではあるが、終わりはない。私たちは目に見える宇宙の限られた一部だけを観察する事ができる。望遠鏡にも顕微鏡にも限界がある。ミクロの世界の方向に横たわる無限性は、マクロの世界の方向に横たわる無限性と何ら差はない。
私たちの目に見える宇宙は「ビッグバン」の結果生じたという仮説がある。この説によると、ビッグバンの瞬間からこの宇宙は絶え間なく膨張しているという。天体は宇宙空間をものすごい速度で動いている。けれども、その一方で、途方もない距離を考えると、宇宙の膨張は非常に長い時間かけてゆっくりと起こっているようにも思える。
真空中では何もないところからひっきりなしに素粒子が生まれてはすぐに消えていくという事も知られている。時空の相対性を考慮に入れると、それぞれの粒子を、私たちの住む宇宙に似たような個々の宇宙として、詳細に挑める事も可能である。なぜなら、素粒子の構造自体はわかっていないからである。物理学者にとって素粒子とは、ある時は波の形で現れ、またある時は粒子の形で表れるものである。ミクロの世界に深く分け入ると、相対的距離は途方もないものになり、時間も内部の観察者にとっては再び遅くなってくる。私たちの宇宙は、外部の観察者にとっては、真空中で誕生と消滅を繰り広げる粒子のように、一刹那しか存在せず、内部の観察者である私たちにとっては、宇宙は数十億年も存在していることになる。
コーヒーを一口の生んだ時に、いったいいくつの宇宙を飲み干したか、考えていただきたいい。無限数である。無限数というのは割ることが出来ない。ミクロの世界の内部へ「飛んでいく」としたら、外の宇宙の果てしない空間へ飛ぶのと同じように、遠く長くかかる。時間は、空間と同様に、前後が無限である。時間の断片は果てしなく小さく、また果てしないく大きい。時間の断片の任意の点は、出発点とみなすことができ、出発点の両端には、元の時間が広がっている。時間の断片に沿って出発ラインが移動しても、前も後ろも何も変化しない。
互いに入り組んでいる様々な世界のこうしたすべての無限性が同時に存在している。宇宙の中心は、任意の点において、同じ瞬間に存在る。なぜなら、任意の側にある点は、常に同じ無限性によって取り巻かれて居るからである。そして、すべての事象は同時に同じ理由で存在し、その同じ理由によって宇宙の中心は同時に任意の点に存在する。これは想像することが難しい、しかし、無限性というものも一瞥でとらえる事はやはり不可能である。あなたが宇宙について何度思考を巡らせたとしても、その先には同じ無限性が広がっている。他にもっとややこしい理論がある。それは、私たちの目に見える宇宙は、四次元空間において有限な球体になるというものである。だが、これで私たちが楽になるわけではない。なぜなら、理論上はここでも無数の次元が存在するからである。こうしたすべてをイメージすることが出来ずに、私たちは自分の狭い視野で満足し、何か分かったようなふりをするしかないのである。
〇「海、山、惑星、宇宙といったすべてが、自分の思考エネルギーの放射による産物であるという事になるのか」と反論するかもしれない。人間は時折、自分が宇宙の中心だと考える事がある。本当は人間この無限の空間におけるほんの小さな場所しか占拠してはいない。我々の住む世界には、たくさんの有機生物が住んでおり、それぞれが現実を形成するにあたって、それなりの貢献をしている。そて、各々の存在が思考エネルギー放射の独自のパラメーターを持っている。植物によるエネルギー放射を思考によるものとすることが腑に落ちないのであれば、別の呼び方をしてもよい。しかし、本質は変わらない。また、無生物は有機成分のエネルギー放射に似たものを何も持っていない、と断定することもできない。我々が神と呼ぶ、あらゆる存在を貫いている統一された精神については、言うまでもない。それぞれの存在が自分の意識を持つ、自分の世界の層を形成している。この世界にあるすべては神の一部を担っており、このようにして神は全世界支配しているという事もできるのである。
各人が自分の人生ラインに沿って進んでいる。まだ同時に、全ての人々が同じ一つの世界に住んでいる。物質的世界は全にとって一つであるが、各人にとっての具体的な現実化は自分だけのものである。あなたが旅行者であり、風光明媚な街を歩いていると仮定しよう。名所旧跡に見とれ、美しい建造物に感嘆の声を上げ、花壇、噴水、公園の並木道、人生を謳歌している市民たちの笑顔などを目にする。いま、あなたが通り過ぎようとしている同じ場所に置いてあるごみ箱のそばで、ホームレスが立ち止まった。彼は別次元にいるのではなく、あなたと同じ世界にいる。しかし、目にするも物は、あなたと全く違う。ごみ箱の中の空き瓶、薄汚れた壁、先を越されて奪い損ねた空き瓶を虎視眈々と狙うライバルのホームレス、横目遣いでいぶかしげに見る警官等々。そのホームレスはこうしたものを見ている。あなたはある人生ライン上で暮らしているが、ホームレスは別の人生ライン上で暮らしている。二人の別々の人生ラインは、亜空間の一点で交差した。だから、物質として現実化したこの世界は、二人にとって一つなのである。
物質的自然のあらゆる現象は、エネルギーに裏付けられている。エネルギー場が最も重要であり、残りの物理的現象は副次的である。学者たちは、エネルギーの様々な現象を統一理論の枠内でまとめようと試みており、間もなく成果がもたらされると思われる。しかしながら、物事が現実化する形の数が無限にあるためまた何かを組み合わせざるを得ないだろう。ここではこうしたことの詳細には立ち入らず、エネルギーを目には見えないが他に劣らず客観的な存在である何からの抽象的な力、として検討してみることにしよう。いまは人間の思考エネルギーは、十分に物質的であると理解するだけでよい。思考エネルギーは人間の頭の中に閉じこもってめぐっているのではなく、空間に広がっていき、周囲を取り巻くエネルギー場と相互に作用を及ぼし合う。この事実つに異議を唱える人は、現在では少数である。
ここで便宜的に思考放射のパラメーターとして、その周波数を、ラジオ電波の周波数とみなしてみよう。あなたが何かを考えるときに、あなたの思考エネルギーの周波数は、亜空間における一定領域に調節される。思考エネルギーが亜空間のその領域を担当するセクターに当たると、そこの亜空間が物質化される。エネルギーは複雑な構造をしており、この世界にあるすべてを透過する。エネルギーは、人体を通り抜ける間に、思考によって変調され、出て行くときに、こうした思考に相当するパラメーターを帯びる。送信機はこのような原則に従って作動しているわけである。エネルギーのパラメーターは、思考の特徴を自分の中に取り入れる。こうして、出ていくときには、亜空間の特定セクターを物質化させるような思考エネルギーの放射となる。あなたが良い事や思いを考えると、亜空間に思考エネルギーを放射することになる。変調されたエネルギーは特定のセクターに当たり、あなたの生活に対してしかるべき変化をもたらすのである。
人生の状況は具体的なふるまいだけではなく、人間の性質によっても形作られる。もしあなたが世界に対して敵愾心を抱いたら、世界も同じやり方で答えてくるだろう。あなたが常に不満を抱いているのなら、不満を抱く原因はもっと増えていくに違いない。あなたが現状に対して否定的態度をとりがちであれば、世界はあなたに悪い面を向けて来ることになる。また、反対に、前向きな接し方は、あなたの人生を好転させる最も自然な方法となるはずである。人間は選んだものを受け取るのである。好むと好まざるとにかかわらず、これが現実である。
思考に方向性に目立った変化がなければ、あなたは人生の同じライン上にい続けることになる。現状への対応が何らかの方向へと変化するや否や、思考放射のパラメーターが新たな特徴を帯び、あなたの世界の層における物質化が別のラインへと移ることになる。そこではあなたからの放射のパラメーターに従って、これまでとは別のシナリオによることが展開する。何らかの理由でそのシナリオが気に入らなければ、あなたは常軌をうを変えようとして戦う事だろう。障害に遭遇したものは誰でも不満を表したり、意気消沈したりして、否定的な反応をするものである。そうして、あなたの思考放射は、障害がもっと多くなるラインへと波長を合わせ直すのである。その結果、あなたの人生は斜面を転がり落ちていくことになる。
制御不能に思えるこのプロセスは、あなたが自分の思考によって、自分の人生の現実化を亜空間のにおける問題含みの領域へと誘導した結果である。あなたは自分の行動によって障害を克服することを考えている。だが実際は、自分自身で選択したものを受け取っているのである。障害との格闘を選択するのは、障害を過剰なほどたくさん抱え込むことである。問題で頭が一杯になればなるほど、あなたの人生にはいつも問題がついて回る。あなたはこんな人生ライン上で、状況の変化を期待して行動するが、亜空間におけるシナリオを変更することはできない。あなたが出来ることは、ほかを選ぶことだけである。シナリオに乗っている気に入らない箇所を変えようとして、まさに好ましくないことについて考えている。そうすることで、あなたの選択はまんまと実現されてしまい、あなたは欲していないことを受け取ることになる。
〇海の波は、亜空間における物事の現実化を具体的に説明してくれる、もう一つのアナロジーとなるだろう。地震によって海に波が発生したとしよう。波は海面をこぶ状の形になって移動するが、この際、水自体はその場に止まる。大量の水が移動するのではなく、エネルギーポテンシャルの現実化されたものが移動するのだ。海岸付近でだけ、水は陸地に跳ね上がる。他のどんな波もこれと同じ振る舞いをする。このアナロジーについては、海は亜空間であり、波は物事の現実化である。
このように物事の現実化は時空の中で展開する一方、亜空間はその場に止まり、永遠に存在する。そう考えると、いったいどういう事になるのであろう。あらゆるものが過去、現在、未来、と存在し続けるという事だろうか。いや、むしろ、なぜそうであってはいけないのかと思う。実際、時間は空間と同様、静的である。時間の流れは、映画フィルムが回り、スライドが次から次に映し出されないと知覚されない。映画フィルムを広げて、すべてのスライドを同時に見て見よう。時間はどこかへ行ってしまう。すべてのスライドが同時に存在するからだ。私たちがスライドを次々に見ようとしないうちは、時間は止まっている。人生ではまさにスライドを次々とみているように進行するため、あらゆるものが来ては去っていくという考え方が私たちの意識の、奥深くに根付いている。
実際、情報フィールドに記録されていることの全ては、常にそこにあって、これからもそこの場所に止まっているのだ。人生ラインは映画フィルムのように存在する。起こったことは消滅せず、残っている。これから起こることは、今既に存在している。人生の現在の断片は、人生ラインのこの断片における亜空間で現実化しているものである。
多くの人々が困惑して、次のような疑問を投げかけることだろう。「私の人生の無数の亜空間が常に存在するなどという事がどうして可能か?なぜ、だれにとって、そんな事が必要なのか?」それでは、座標平面にある点をイメージしていただきたい。まだ学生の頃、私たちはこんなモデルを与えられた。平面上の点は任意の座標XとYはマイナスからプラスまで無限にあるどんな値でも構わない。なぜ点は任意の座標を持つことが出来るのか?このような疑問が、どうして誰れの頭にも思い浮かばないのだろう。ここで関数の線に沿って運動している一つの点が、次のように驚いている様子を創造願いたい。「あなたの通ってきた道はじっと存在してきたし、これからも常に存在している。あなたがこれから進む道も、前もって決まっている」しかし、天の通り道を上から眺めているあなたにとって驚くべきことは何もない。
亜空間は鋳型であり、どのようにして物事が現実となって表れるべきかを定めている。暗い森とランプを持った人間とを創造していただきたい。人間は森の中を歩き、自分の周囲のさほど広くない場所を照らす。現実化は、光が当たったスポットとして現れる。暗い森全体は亜空間であり、照らし出された場所は、その場所における亜空間の現実化である。では「照明器具」は何に当たるのだろう。言い換えると、何が「火をつける」のか、つまり何が鋳型である亜空間から物事を物質化するのだろう。
この質問への答えとして、もう一つの出発点を選択しなくてはならない。我々の時代では、「思考」が「物質的」であるという事実に疑いの余地はないだろう。ところで、現実は自らを二つの形で示してくれる。つまり一方では、存在が意識を決定するという事であり、他方では、意識が存在を決定するという、反論不可能な全く逆の論証が存在うという事である、思考は人間が行動する上での動機となるだけでなく、周りを取り巻く現実に対しても直接的に作用する。例えば、我々が抱くよくない予想は、概して実現する。もちろんここでは、思考の物質化などではなく、来るべき不快な出来事への予感が生じているとの論議は可能だろう。実際、超常現象に書いては、不可解でさまざまに解釈できる多くのことが存在する。かといって現実に直接影響を受けた現象を無視してよいという事にはならない。周りを取り巻く現実に対する思考の直接的影響を証明する多くの事実は存在しているのである。
ともかく人間の意識はその者の運命を形作る。出発点として、思考エネルギーの放射は潜在的亜空間を物質化する、という事を取り上げる。そうする価値は十分にある。意識に影響されて現実が形になることがあるからである。これは日常生活の事実からだけでなく、量子物理学上の実験らかも確かめられている。しかしながら、思考エネルギーの放射と亜空間との相互作用の仕組み自体をここで追及しても意味はない。情報伝達のプロセスがどのようにして行われるのか、エネルギーを基盤とするのか、それともほかの別のものに基づくのかは、今に至るまで解明されていないからである。そこで、便宜上簡略化して次のように考えたい、思考エネルギーの放射は亜空間の一定のセクターに「スポットライトを当てる」ことになり、その結果、亜空間は物質的に具現化する、という事である。思考エネルギーの放射はセクター同様、特定のパラメーターを持つ、思考エネルギーの放射は自分のセクターを見つけ、亜空間が現実化される。こうして実際に意識が現実を定める、という事になる。
けれども、これは現実が形になる一つの可能性にすぎないという事を忘れてはならない。座ったまま瞑想にふけっているだけでは、自分の現実を形作ることは不可能である。空中から物体を本当に物質化して取り出すことのできる人々もいるにはいる。しかし、そうした人々はごく少数であり、彼らも自分の能力を見せびらかしたりはしない。とにかく思考は、具体的な行動と同じように、人間の運命に強く影響を与えるのである。人々は、あきらかに自らの行動が原因となった結果が生じる事には慣れている。ところが、思考による影響の方は、知らぬ間に現れるため、説明がつかず予知することもできない。思考とそれに続く事柄との間のハッキリした因果関係を突き止めることは、大変に難しいと思われるかもしれない。だが、人間の思考は非常に直接的なやり方で現実を形作るという事を納得されることだろう。人間は自分自身で選んだものを受け取るのである。
〇私たちは、物質の運動を法則として表しているが、自然の中では、この運動は、無限の数の原因と結果として、ありのままの形で存在している。大雑把に言うと物質の運動が可能なすべての点に関するデータは情報フィールドとでもいうような亜空間に保管されている。亜空間には、過去、現在、未来に関するすべての情報が含まれている。
亜空間は、物質的情報構造である。これは無限の情報フィールドであり、起こりうるあらゆる事柄の全事象を内包している。亜空間には全てがあるといえる。こうした情報はどのようにして保存されているのか、というような推論は行わない。そうすることは、私たちには意味がない。亜空間は時空における物質のあらゆる運動の鋳型であり、座標目盛である、という事だけが重要である。
空間の各点には、何らかの事象事態の亜空間が存在する。わかり易くするために、亜空間がシナリオと舞台装置から構成されていると考えよう。シナリオとは、物質がそれに沿って運動する道のことであり、舞台装置とは、現象の外観又は形である。亜空間は便宜的に領域に分割することが出来る。各領域は自分のシナリオと舞台装置を持っている。領域同士の間の距離が大きくなればなるほど、シナリオや舞台装置も大きく違ってくる。そして、人間の運命も多くの亜空間によって表される。
亜空間は無限であることから、人間存在のシナリオと舞台装置には、理論上いかなる限界も存在しない。任意の些細な事柄が、運命の転換に影響することがある。人間の人生は、ほかのあらゆる部室の運動と同様に、原因と結果の鎖である。亜空間において、結果は常にその原因に近接するところに配置されている。ある一つのことの次に別のことが続くため、運命の領域は列を作って人生ラインとなる。こうした同じライン上にある領域のシナリオと舞台装置は、多少の違いはあれ、類似している。人間の人生は、シナリオと舞台装置を変化させることが起こると、運命は転換し別の人生ラインへと移る。
あなたが劇を観たとしよう。翌日、あなたは同じ劇を観るために再び劇場へと足を運んだが、劇は別の舞台装置で行われていたとする。これは近くに配置されている人生ラインである。翌シーズンにあなたは、かなり変更を加えられたシナリオによって同じ役者たちが演じる劇を観たとしよう。この人生ラインは先の方に配置されていることになる。それでは、同じ劇を別の劇場で見たが、内容は全く異なる解釈になっていたとしよう。その場合、その人生ラインは最初のラインから全く遠いところにあることになる。
亜空間の数が無限にあるというまさにそのことから、現実は多様な形で現れる。あらゆる出発点から、因果関係の鎖が始まる。出発点が選ばれると、そこから物事が次々と現実化して行く。物事は、選択された出発点から続く人生ラインに沿って展開するのだ。つまり、各人が選択したものを受け取るのである。だから、亜空間がすでに無限に存在している、というまさにこのことによって、あなたは選択する権利を持っていることになる。あなたが心の赴くままに自分の運命を選択することを、だれも禁じてはいない。運命のコントロールもすべて、選択を行う、という唯一の単純な事柄に帰するのである。事象選択は、これをどうやって行うかか、という問題に答えるものである。
このように独自のシナリオと舞台装置を持つ無限の数の潜在的な可能性を含む情報構造が存在する。物質的現実化の展開は、この構造に何が入っているかに応じて生じる。亜空間を通過する物質の運動過程は、次のような思考実験の形で示すことが出来る。
水の入ったパイプをイメージしていただきたい。パイプの外側に沿って、冷却リングがゆっくりと移動する。そのため、水はリングの内側に近い部分だけが急速に凍結する。こうして、水の入ったパイプの内側に沿って、氷の結晶が移動して行く。水に分子はほぼ同じ場所で相対的に自由な状態でとどまる。リングが通過する瞬間に、リングの内側に近い水の分子は一定構造の凍結結晶となって固まり、その後、この場所の氷は解けて、分子が自由に動けるようになる。結晶自体は動いたりしない。言い換えれば、この場合、氷は水中を泳いだりしないという事である。水の入ったパイプの中を移動するのは、氷の結晶自体ではなく、構造、すなわち凍結した状態の方である。
パイプの中の水に相当するものが亜空間であり、水の結晶化は亜空間の物質化である。水の分子は人々であり、結晶構造の状態にある水の分子は、運命の亜空間として現実化されているわけである。冷却リングは何に当たるのかという質問が出てくるかもしれないが、一つの意味に限定された答えはない。この質問は、なぜ、どのようにして、情報構造が物質に転換されるのか、という質問に置き換えられる。ミクロの世界では、物質はエネルギーの塊として現れる。真空ではごく微粒子が誕生しては死滅する過程が間断なく繰り広げられていることが知られている。物質は存在しているようでも、同時にそれは固有の物質的実態を持っていない。唯一明らかなのは、触ることのできるものは、蝕知できないエネルギーの基盤を持っているという事だけである。
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