〇愚痴・不平不満・悪口・文句などの五戒を一切言わなくなってから3ヶ月~半年ぐらいたつと突然に頼まれごとが始まる。それは、ある日突然である。自分が五戒を行ってないつもりでも知らず知らずのうちに言っていれば頼まれごとは始まらない。頼まれごとが始まったら…はい、はい・と言って引き受ける。ただし3つの「し」には気をつける。脅し・騙し・儲け話・あとは自分にどうしても不可能な事も断っていい。借金の申し出や人数合わせなどだれでもいいことも断っていい。自分しかできないようなら引き受ける。頼まれごとをやり続けて行くと自分の使命が見えてくる。どうやったら自分の達成目標や努力目標を達成できるかより、いかに頼まれるかが重要。流れているままに生きるだけである。自分が身を委ねているのだから、神様が守護霊がその人間をスポイルするわけがないのである。


〇悩み・苦しみ・苦悩・煩悩とは、何かを自分の思い通りにしようとした瞬間に生まれるのである。あなたの悩み、苦しみは自分だけの力で自分の人生を創っていると思っているところから起きている。最終的に売れるとか、広まるとか、成功するということは、本人の力ではない。決定的な部分はすべて周囲のおかげ、また目に見えない4次元の存在のおかげということがわかったら、あとはただ感謝であり、ありがとうと手を合わせることが出来るのである。
 戦争とは、自分が善人で正しいと思い込んでいる人間同士の戦い。自分が間違っているかもしれないと思ったら争いにはならない。憎しみや恨みというものは、すべて自分が正しいと思ったところから始まるのである。正義感は悪魔の側にある。
 「許すものは許される。許さぬものは許されない。裁くものは裁かれる。裁かぬものは裁かれない」自分が楽しいことが宇宙から降ってくる、という人生が欲しいのであればたくさん投げかけること。嫌がられるようなものを投げかけていると、自分にとって嫌な状態に囲まれて生きていくことになる、次から次へと面倒くさいことが起きてくる。
 人間関係の中で相手が何か理不尽な事をしたとしても、この人をどうにかしようと思うのではなくて、ただ丸ごと認めると楽。この人をどうにかしよう、変えようと思うから苦しいのであり、思い通りにならないのである。いま、すべきことは目の前の事、人、モノを大事にするだけ。死ぬまでの間にどれほどの人に喜んでもらえるかをひたすら考えるだけなのである。


〇宇宙の仕組みは「執着」しないとその望みは叶うという事である。「執着」があると全然叶わない。執着すればするほど手に入らなくなるどころか、反対の現象が迫ってくるという構造になっている。こうなったらうれしい、楽しい、幸せと思うのは構わないが、そうでなきゃいやだ、だめだ、ねばならないと思った瞬間にそうならなくなる。
 宇宙は二重構造。求めたものと反対のものが与えられる。与えると与えられる。執着、掴んでいる手を離さないから、その願いが取れない。つかんだまま、力んだままでなく、その手を離せばよい。


〇悟りは一回限りではない。何千回何万回とある。悟りとは受け入れること。いまの自分の人生は生前自分の魂が描いたシナリオ通り。
 実践とはどんなことがあっても腹を立てない。怒らない。怒鳴らない。すべての人に寛大公平で喜ばれる存在になること。どんなことがあっても怒らない、怒鳴らない。声荒げない、イライラしない、腹を立てない。そういう人になったとき、超能力の扉が開く。
 嬉しい楽しい幸せ、そういう気分になりきること。それを維持するとアルファ波以下の脳波になれる。執着が残っている間は、脳波はβ波のまま。何も考えずひたすら「ありがとう」を繰り返す。これが、潜在意識の開発に役立つ。そして「ありがとう」を繰り返していくと自分の守護霊とつながる。自分の世界を広げる物、読書、旅、人の話、自分が今日に至るためには、すべての因果関係が必要だった。そのすべてにありがとうと手を合わせられたら人生が変わる。神が好むものは謙虚さ、自分がすごい人だと思わないこと。特別だと考えないこと。選ばれた人だと誤解しないこと。どんな時もイライラしなければ自分の潜在能力の85%が使える。超能力は心の問題。


〇本当の自分というのは、今やる羽目になっていることを100%やること。強さとは主張を通すことではなく、競争することではなく、傷つかぬように身を守ることでもなく、バカにされ、罵られ、辱められ、笑われても、笑顔でそこから立ち上がってくること。
 「私の人生はついていなかった」というよりは、驕り高ぶり以外の何者でもない、生きていること自体が奇跡の連続なのである。人からどのような評価を受けても落ち込んだりはしないのである。その代わり、人から高い評価を受けたり、褒められたりしても、有頂天になったり、自惚れたりもしない。人の評価によって自分の気分が変わるという事自体が幼児性の現れなのである。
 幸せの本質とは足るを知ることにある。努力の反対は感謝。怒らせる人イライラさせる人がいるのではなくて、自分が勝手に怒っているだけである。恵まれている人は何でも当たり前なので不満が多くなる。恵まれていない人は何でもありがたいので、感謝が多くなる。悟りとは、平気で死ぬことではなく平気で生きることである。


〇こうでなければいやだと執着を強く持つのではなく、そうならなくていいけどなったらうれしい、楽しい、幸せだと思ったとき、不思議な力が助けてくれるのである。おもいは二つ「思い」=経済的な未練。「想い」=人に対する未練。おもいは重い、想いは重い。
 記憶と執着は関係していて執着がなくなるにつれて過去の記憶もよみがえってくる。前世などの記憶が戻ってくることがある。自我の強い人は自分の思いをどんな手段を使っても実現させようとする。いろんな事に執着すればするほど苦しくなる。お金が入ってくる人の共通項は、お金が「入ってこなくてもいい」と思っていることである。こだわっていない人には入ってくるのである。どうしてもお金が欲しいと思っている人には入ってこない。なぜかというと執着している人には超能力が使えないからである。
 超能力者になるためには執着を捨てることが絶体である。執着とは要するに接着剤を自分の体にペタペタとくっつく接着剤をつけていると思っていただきたい。こうでなければならないという接着剤。必ずどうしてもという接着剤。瞬間に固まるのではなく永久に固まらない接着剤である。体中が接着剤だらけだから自分の超能力である85%の潜在能力が出せなくなるのである。
 「そうならなければ嫌だ」「絶対にそうなってほしい」と思った瞬間にそうならなくなる。そうならなくてもいいけどなったら幸せだ。そうならなくてもいいけどなったら楽しい。そうならなくても良いけどなったらありがたい。というように喜びだけを上乗せするのである。喜びの想念だけを宇宙に向かって投げかけると面白い現象が起こる。執着があると潜在能力が使えないので、自分の実力でしか戦えない。面白がることがものすごく重要である。
 このように喜びだけを投げかけると神様や「お陰さま」は喜ばれたくて喜ばれたくて仕方がない方たちなので、その喜びを与えたいと思うのである。ところが「そうでなければ嫌だ、そうでなければ不愉快だ、悲しい悔しいと思う人には、そのような現象が起きない。

 


 

〇旅行に行くと怪我をするというときは、必ず前兆がある。その旅行の申込書類を書く段階で申込書にシミを作ってしまったり、字を書き間違えたり、ケガをしたり、赤信号にばかり捕まる。ホームに行くと電車が行ってしまう。なんだか気にかかるトラブルが続いて起こる。これが俗にいう「シグナル」である。つまり、ガイドたちが必死に「そっちに行っちゃいけないよ」ってあなたに伝えようとしているのである。このサインはあなたがレールの上から外れた瞬間から始まる。それは、元の流れに戻そうとするガイドたちのシグナルである。


〇人の未来というのは確定的に決まっている。その人が生まれ育った家庭環境で努力を続けてその通りになるというシナリオを書いて生まれてくる人がいれば、家庭環境によっては全く努力をしないシナリオを描いて生まれてくる人もいる。「努力をしたらこうなる」というシナリオを書いているか、「努力をしないでこうなる」という結果を書いているかというどちらかである。すなわち、生まれた瞬間にもう死ぬ時が決まっているという事は、生まれてから死ぬまでのシナリオが全部決まっているという事である。
 今は過去の集積である。ある投げかけや動きで行為行動をしなければ、次の動き行為行動にはならないという事。投げかけたものが倍になって宇宙から返ってくるという法則がある。その人の現象現実を見たときに、あなたは過去の姿を推定することが出来る。超能力ではなくて現在の現象を見ていると過去の現象を読み取ることができる。そして、現状を見ると過去の現象を読み取ることが出来る。現状を見ると未来が推定できる。そういう風に因果関係が作られている。
 過去の言動を見れば今の自分が見えてくるし、今の自分を見れば未来の自分を予言できる。投げかけたものが倍になって宇宙から返ってくるという、この法則を知るという事もまた、生まれる前にシナリオとして準備されていた。こういうことを知らずに人生を終わる人もいる。
 因果関係を知るというのもシナリオである。「そうか、そういうことで自分の人生は成り立ってきたのか、じゃあこれから自分の人生を誠実に正直に生きていこう」と決めたときに、人生は一転するのである。それじゃ昨日までの人生と全く変わらないじゃないかということになるけれども、変わるっていうのは本人がそう思っているだけで、実は宇宙的にそのシナリオは何も変わっていない、そのようなシナリオが描かれただけなのである。自分が気が付かずに投げかけてきたことの集積としてそういう状況に囲まれているだけである。その心が関係するというものがわかってくると、「じゃあ今日からこうすればいいじゃないか」っていうのが自分の中でわかってくる。
 人間の生きやすい生き方というのは一言で言ってしまうと、「誠実に生きる」ということである。自分の投げかけた結果として現在がある。いま、投げかけている結果としての未来があるという事がわかってくると、過去と現在と未来がドミノ倒しのように、一列に因果関係で並んでいるという事がわかるのである。そう考えると、そのドミノ倒しの因果関係の結果として、ある時に死を迎える。という事はその通過時点である一つ一つのことも全部予定通りであるという結論になってしまう。未来的なものというのが自分が生まれたときから死ぬときまで過去のことも含めて全部シナリオが描かれているらしいと思ったら、もう過去のことについて何を悔やむ必要もない。
 「人生は今をどうとらえるかの訓練である」「過去のその時に選んだ選択は全部シナリオ通りであり、最善のベストの選択であった」あなたは受け入れにくい話かもしれないが自分が描いたシナリオで現象が、全部起きてくるのであるから、過去のことについて悔んだり後悔をしたりする意味がないという事を自覚するべきである。
 過去のどんなことも、あの時ああすれば「こうすればよかったのに…」という事は一切ない。全部その通りになっていた、それしか起きなかった。そこしか選択の道は無かった。そして全部自分がシナリオを描いて生まれてきたのだという事がわかると未来的にこんなことが起きるんじゃないか、こんなことが起こったらどうしようって心配することは無意味である。
 今この瞬間からあなたは自分の人生に何も心配も懸念も持つ必要はない。全部自分がシナリオを描いて、その一つの事件について自分がどうとらえるかの訓練を今生でやっている。だから、目の前に楽しい思いをして楽しかったというのは人生の達人からすると初級である。
 そして、普通に目が見えること、呼吸ができるような誰もが喜べないような当たり前のことを喜べるようになった人を人生の達人の中級者という。さらに病気だとか事故だとか様々なトラブル、艱難辛苦に対してさらにそこに手を合わせてうれしい、幸せ、ありがとうと言える人を人生の達人、上級者と呼ぶ。
 私たちは自分の人生を自分でシナリオを描いているのである。その目の前に起きてきた現象について、どう反応し、どう評価するのかということを死ぬまでにやっていく。
 あなたは人生をどう生きていくかという事についてああだこうだと考えることはない。いま、目の前の人を大事にする。その積み重ねだけ、それしかできないという事である。過去にも未来にも参加することはできない。
 人生がこれほどシンプルで楽であることをわかってしまうと何にもエネルギーをとられる必要がないから、ただ目の前の事と人を大事にするだけ。
〇人間の心のレベルが上がると、不幸という名の試練がやってくる。その時に怒ったり、怒鳴ったりイライラしたりしないか試されている。世の中の99%の人が文句を言うであろうことで穏やかにいられたら合格。四六時中イライラして起こって、怒鳴って威張り散らしている人には、その試験はこない。
 心のレベルが上がった人にこの試練が来る。その試験に合格すると楽しい出来事が起き始める。心の中で何を思ってもいい、口に出す言葉は綺麗な言葉を出した方が良い。喫茶店でコーヒーが欲しいと強く念じながら紅茶をくださいといえば紅茶が出てくる。思いより言葉の方がパワーが強い。試験に不合格したら、自分が間違っていないとか、自分は正義であるとか、相手が間違っていると思ったときには、怒鳴ったり、威張ったりする。この世の全ての人が自分は間違っていると思ったら、戦争は起きないだろう。どんな時でも私が間違っていると思い続けることが謙虚。

 

 

〇テレパシーは時空に影響されれない、そのことがわかってからは過去の成功してきた体験とか、今日一日うまくいったことを、夜寝る前に延々と頭の中で繰り返す。今日はこんないいことがあった。あの時はこんなにうまくいったと前日のことでも一週間前のことでも、うまくいったことをいつも思い出すようにするのである。つまり、過去の自分に情報を送るのである。これを毎日する。こうすれば、明日の夜寝る前の自分も同じように、その日のうまくいったことをテレパシーで発信していることになる。今日の自分は、明日の自分から成功するように誘導されているのと同じことになる。そこには成功の道がすでにあるからである。
 仮に本来の可能性が3通りあるとすれば、一番成功した未来を選べるのである。未来の成功している自分から情報をもらって、成功する方向に自分で導いていく。このやり方を実行し始めればあなたの成長が早まるのを約束する。


〇自分の念を強くするために歩幅を広げて歩くとか、挨拶を置きな声でするとか、この両方とも、吐き出しを強くさせる効果がある。背中から吸収するプラーナを前から吐き出している。その吐きだしが強いと、他の人間の影響を受けづらいのである。
 周波数を合わせないために、誰かに同情しない。どうしようもないことを思い煩って過去に念を送らない、忘れてしまうことである。
 念を過去に送るとは、5次元で見ると大きく変わる。そして現在も変わる。例えばネガティブな思考で念を送り付ける場合、ネガティプな意識が過去に行き、ネガティブな次元が強く発動して現在をネガティブな次元へ誘うのである。つまり、自分自身の思考に本来、もっと注意を払うべきである。


〇次元操作のやり方はいろいろあるが、まず「自分が次元の中に生きている」という事を自覚すること。次元操作をするコツとは、願いをかけるときに例えば「主人が出世しますように」ではなくて、自分自身が「主人が出世した次元に入れますように」とイメージすればよい。人の次元を移動するよりも、自分の次元を移動した方が早いのである。
 次元操作のコツは、運命があることをしっかりと意識することから始まる。そして、自分の運命を自分が操作するという意識を持つことで、自分が移動したい運命へのアクセスの方法を、宇宙があなたに提示してくるのである。この世界は細胞【宇宙】である。あなたと同じように生きていて意思がある。宇宙も地球もあなたも全員が繋がっている。この繋がりの中の細胞の一つである。
 あなたが思うその一瞬一瞬の感情が次元層を仕掛ける。あなたは思う通りの世界にい続けている。あなたが次元捜査を仕掛けていくつもある次元の中で一番自分の望む最高に幸せな世界に入るには、まず自分の意思、つまり、望む周波数を自分の中に創り出して移動したい座標点を宇宙に示す必要がある。
 あなたが最高にお金持ちになりたいなら、体験するであろう生活の周波数をその服を試したり、あこがれのお店のパンフレットや車の試乗など、あらゆることからしっかりとした感覚「周波数」をつかんで感情を体験すること。その感覚と感情が新しくあなたがこれから入る平衡現実の次元への座標軸となる。これが次元操作するという事である。
 宇宙に、あなたがその意思を伝え、心の中で思い描くとき、その同じ感情を体験できる場所を宇宙が手配する。あなたの望む感情体験のできる世界へとあなたを誘うために宇宙は残りの70億人のだれかを動かして、あなたの望んだ現実移行するように動かす。そして、宇宙の手配が済んだら宇宙はあなたが望んだ現実に移行るように動かすタイミングを計ってくれる。だから、自分の気持ちに意識を向け体験こと。サインはそこにある。
 いつも苦しければ苦しい次元への移動が確定するし、いつも楽しければ楽しい次元への移動が確定する。うまくいっていない次元に自分が入るのではなく、うまくいっている次元に入ればいいだけ。そしてタイミングの悪い人はやってみてもらいたいことがある。例えば、奥さんに「ちょっと玄関に出て」と言われたら黙って玄関に出て宅配便からの荷物を受け取る。娘の願い事をその場でやってしまう。それを繰り返するタイミングが良くなる。自分を優先にしているから、タイミングが悪くなっていく。
 実は周囲の人があなたが次元を上手に移動するように時間操作をしてくれているのに、あまりに自分優先にしてタイミングが合わなくなっているのである。これと同じに、まるっきりすべてがうまくいかない人が、あるとき、開き直った瞬間にうまくいくようになったと聞くのは頻繁にある。これはなぜかというと逆らうのをやめたから元の一番いい流れに乗れただけである。
 私たちは周囲によって人生が御前立てされている。そして、自らの宇宙との調和度を高く保つことで宇宙の流れに乗ることが出来る。例えば、車を運転しているときは急いでいるが、皆で同じ方向を向いているときは事故は起こらない。同じように明け方の運転で皆が寝ている時間は運転手もゆっくりぎみだ、だから自分がしっかり目が覚めていてもゆっくりぎみに運転すれば、決して事故にはならない。
 全ては周囲の流れに乗って周囲のサインに耳を澄まして目を開ける。怒鳴り声やたとえわずかでも、嫌な感じのする方へは直感を信じて進まない。逆に笑い声や調和や光を感じる流れの周波数を選べば確実である。人はて繋がっていて全員で次元の中を移動している。ほんの1~2か月他人優先の行動をすることでタイミングのいい人間になる。

 

〇儀式魔術が同じ場所で長期間にわたって続けられると、空間のエーテル領域内にその儀式と関連した高密度のエネルギーが定着し、そのエネルギーは定着させた人間によって破壊されるときまで持続する。さらに、もしもそのエネルギーが創作者の死あるいはその他の理由で、そのままの状態で残され、特定の知識を持つ別の人間、あるいは超常的な能力生まれついて持っている人間が、それと接触したとしたら、その人間は残存エネルギーを即座に、利己的にも利他的にも利用することが出来る。


〇環境の持つ雰囲気の力とは、意想外に、その環境を構成する人々の念波によって左右されている。霊が人に感応するように、波長が合うならある人の波動は、他のある人によってキャッチされる。それを受け取った人はふと同様な想念を抱き、そうだ、そうなのだと同様な想念を強く意識する。その時この強化された年はさらに発信され、再び波長のあった人にキャッチされる、これが念のキャッチボールによる強化である。であるから、世界とは多くの人々が念のキャッチボールをしあっている大きな集団である。
 時流とか流行とか、世論とかはこうして作られる。しかし、念波は一度そこを通ると、波長の合う人には影響を与えるが、波長の合わない人は素通りして、どこか宇宙の果てで消える。仮に波長があっても、その時、その人が何か別のことに心を集中していれば受信されずに通り過ぎてしまう。例えば、甲が乙に向かってある念を発しても、その時乙が別のことに一心になっていれば全く効果はない。
 実は人が想念を発するとき四方八方へ念波を発するが、想念が一部は念体となる。例えば、甲が乙を呪ったあと、甲はその後反省して呪を解いた。しかし、呪の念体はすでに独立していて、確実に乙に作用する。念体がある限り反省したところで追っつかないのである。反省すればそれで事が済むというものではない。
 その呪の後始末をするには、甲は乙に対して改めて自己犠牲の愛の行為を実行しなければならない。償いとはこの行為のことである。さて、念体が念波と違う点は、例えば、呪の念波は四方へ広がり、同じ波長をもった不特定多数の人々に影響を与える。つまり、世の中の害である。しかし、その念波が通り過ぎるとき、もし乙が何かのことに心を集中していれば、その念波は目指す乙には何の影響も与えない。呪は無効である。
 甲の呪は一方では念体を形成する。念体は独立した霊と同じ作用をする、であるから、この呪の念体は乙の周辺にまといつく。そうして、乙が放心状態にある時、あるいは寝入りばなとか睡眠中とか、要するに自我の統制が緩んだスキを見つけて、確実に乙に作用する。そしてその効果は怨年の霊魂が作用するのと同じく、乙を病気にさせたり、災厄に合わせたりする。
 このように目的を持った念体は不特定多数には影響しないが、目指す相手にはチャンスを見つけけて必ず作用する。
 世の中には頑固な人が色々いる、唯物論者とか、偏見の持ち主とか、誤解から他を憎んでいるものとか。こういう人たちは口で説得しようとしてもうまくいかない、逆にいっそう偏屈になるばかりである。しかし方法がある、思想というものは肉体・幽体や霊体に一層印象付けやすいものである。物質より幽体や霊体の影響がずっと思想によって左右される精妙なものなので、相手に思念を送ればいいのである。誠心誠意を込めて一心に相手に向かって念を送ること。念波と念体の作用によって口よりもさらに大きな効果を及ぼすのに驚愕することだろう。
 その意味で愛とか祈りとかは、計り知れない大きなエネルギーなのである。世の中を変え人を変えるほどにも、ただし、自己のための祈りは、確実に邪霊と同じ働きで自己を害す。他者の幸福のための祈りこそ他者を生かし、かえって自己を生かすものである。
 生きている人間も霊である。どうも事業がうまくいかない、子供が思うようにならない。あるいは病気になる。霊からの障害と同様に、生きている人間からの念の憑依や感応であることがしばしばある。
 さて、甲が人を呪っても「穴一つ」の場合がある。もし乙が高潔の人なら波長の法則により、念波も念体も乙には何の作用もない。それどころか、甲の呪は念波と念体は跳ね返るのである。まっす乙に向かって返っていく。ちょうど壁に向かってボールほ投げたようにである。跳ね返る強さは、甲が投げたボールの強さに比例する。そして乙が高潔であればあるほど、その投げたボールの跳ね返る力は強力となる。それはカーテンに向かって投げるより壁に投げた方が強いのと同じである。こうして乙は何の異常もないのに甲は自分の呪の念によって倒れる。相手が高潔であればあるほど、その傷は深いのである。人は自分の念によって死ぬこともある。
 あなたは気が付いていないけれども、自分に向っても同じく影響を与えているのである。しかし、事実は医学が思っているよりも、はるかに大きい。病気だけでなく、様々の災厄の背景に自念障害がある。自念は霊を引き寄せる磁石である。しかし、この自念そのものも自己の身体や幸不幸に作用を与えているのである。強い自念は強い念体を作る。この念体は自己に付きまとう、そして繰り返し同じ念を本人が抱くごとに、その念は肥大する。この付きまとっている念体そのものが本体に作用して本人に繰り返し同じ事を考えさせるのである。
 例えば、胃がんではないかと思い始めるともうてっきりそうだと思い込んで、人がなんと言っても受け付けない。極端な人は医者ががんではないというと、自分を安心させるためにだましているのだと思う始末で、こうしてこの人は本当に癌になってしまうのである。胃がんにしてやろうと怨念を持っている霊と同じ作用を自念体がするからである。この胃がんに限らず、人は日常どんなに多くの自念によるつまらない念体を作り上げているのか。誰しもいくつかの不格好な念体をぶら下げて歩いている。それは自念体憑依である。その人の偏見、凝り固まった思念どうしようもないそれらは、この自念体のせいである。この自念体の作用が人間の精神だけでなく、身体にも、事業・家庭の不幸にも霊と同じく作用している。人は良く病気になったり、事故にあったりすると邪霊の作用だろうと考える。その中のあるものは自念障害によるものである。ただこの場合はたいてい邪霊が働いている。それは自念が波長によってその邪霊を呼んだのである。この場合は、まず、自念のしこりを解消しない限り邪霊は払っても払っても戻ってくる。

 

〇人体から放射されている磁気性オーラと電機性オーラは暗闇の中に閉じ込められている地縛霊には明かりのように見える。自我意識がしっかりしていないために無意識の内にそれに近づくのであるが、その際に、明かりとみられている人間が霊的感受性が特別に強いと、そのオーラに引っかかってしまう。本来なら拒絶反応(一種の防御本能)が働いてすぐに離れるのであるが、両者の間に何らかの因縁がある場合には、憑依状態がエスカレートして霊魂の意識の働きがその人間の脳の働きにまで響くようになる。二重人格と言われているのはそういう状態を指す。これが一つの霊魂でなく複数の霊魂が一人の人間のオーラに引っかかっているときが多重人格と言われている症状である。


〇よくあることであるが、自分がすでに死んでいることに気付いていない魂が再び物質と接触すると、死の際の断末魔をもう一度体験するのである。この場合も同じだった。いろいろと尋ねていくうちに、その魂は首を吊って自殺していた。その時もまだ地上に釘付けにされていて、それまでの地獄のような精神的苦痛を述べ、さらにこう続けた「肉体から離れてすぐ私の愚かな行為の原因が分かった。私たち一家の幸せない生活を妬む、教会関係の人たちの念によって引き寄せられた邪霊の一味が、私のすぐそばに立っていて、うまくいったとばかりにほくそえんでいる姿が見えたのである。なんとかしてもう一度肉体に戻りたいと思ったが時すでに遅しであった。」


〇死は自然にそして簡単に推移するので、多くの人間が肉体から離れた後もその移行に気付かずまた、霊界の生活についての知識を何一つ持ち合わせないので、彼らはそれまでと全く別の生活環境に入っていることに少しも気づかない。肉体の感覚器官を取り上げられているので、物質界の光を見ることもできず、また、より高い人生目的の理解も欠いているので、彼らは霊界に盲目であり、バイブルで暗黒界と呼ばれている薄暗い境界にいて、地上圏に属する領域に彷徨っている。
 死は罪多き人間を聖人にするものでなければ愚か者を賢人にするものでもない。その個性は生前と同じであり、地上時代と同じ欲望・習慣・信条・間違った狂気・来世に関する無知や不信といったものをそのまま携えて霊界入りするのである。そして、地上時代の精神状態がそのまま具現化した容姿をして、幾百万もの魂がしばしば、地上圏にとどまり、多くの場合、地上生活を送った場所にいて、地上時代と同じ習慣や趣味を誇示しているのである。 
 霊界入りしている魂が訪れても死者とか幽霊と思って恐れ、たとえ友人が会いに来ても、それを友人と認めようとせず、自分の置かれている身の上を理解しようとしないのである。深い睡眠状態にある者も多く、途方に暮れ、困惑した状態にある者もいる。その迷いの心は奇妙な闇の恐怖に付きまとわれ、また良心の呵責を覚え始めたものは、地上生活中の行為のために恐れと後悔の中で苦しんでいる。
 一方には利己的で邪悪な性向に動かされて、その欲望のはけ口を見出そうと適当な人間を探し回っているものもいる。彼らはこうした破壊的な欲望から脱して、魂が悟りと光を求め、高級な魂による救いの手が差し伸べられるまで、その状態にとどまっている。こうして憑依した魂は、霊的に過敏な体質のその人間に自分の想念を押し付け、自分の感情を移入させ、その人間の意志の力を弱めさせ、しばしばその行動まで支配し、大きな問題や精神的混乱や苦痛を生ぜしめるのである。
 昔から悪魔と呼ばれていたのは、こうした地縛霊のことなのである。実質的には人間に由来するものであり、利己主義や間違った教義、無知などによる副産物であり、何も知らないまま、霊界へ送り込まれて無知という名の束縛にとらえられているのである。世の中の不可解な出来事や不幸の原因は実はこれらの地縛霊の影響なのである。清らかな生活や正しい動機、高い知性が必ずしも憑依からの防御を約束してくるものではない。唯一の防衛手段は、こうした問題についての認識と知識である。
 地縛霊の侵入を受ける側の肉体的条件は多様である。生来の感受性・神経の衰弱、急激なショックなどによる事が多い。肉体の不調も憑依を招きやすい。生命力が低下すると抵抗力が弱まり、魂の侵入が容易になるのである。その際、憑依される人間も、憑依する魂の方も互いに、相手の存在を意識していないのである。
 魂の侵入はその人間の性格を一変せしめ、人格が変わったように見え、多重人格症ないし人格分裂症、単純な精神異常から、あらゆるタイプのヒステリー、てんかん、憂鬱症、戦争認知症、病的癖、白痴的行為、狂言、自殺狂、その他記憶喪失、神経衰弱、渇酒症、不道徳行為、獣的行為、凶悪等々の犯罪行為を起こさせる。地上人類は、高尚な人生の目的を理解していない、無数の死者の想念に取り込まれていると思ってよい。その事実を認識することによって、ふとした出来心、激情、奇妙な予感、陰鬱な気分、イライラ、不可解な行動、不合理な癇癪玉の爆発、コントロールできない熱中、その他の無数の精神的奇行などの原因が理解できる。


〇低次元の霊は、人間の記憶の中に侵入してくると自分の記憶は失ってしまう。彼らの個人的な記憶は死とともに失われ、もっと内部的な記憶だけが残る。ただ彼らは自分が憑依などをさせてくれた人間とは別の人間だという事には気が付き、それ故に別人だと主張し、それを相手の人間に信じさせようとする。
 だか彼らが自分の個人的記憶を失ってしまうのは患者の記憶を借着してしまうために起こる現象のようだ。また精神分裂症の程度がひどい段階では霊は自分の記憶以上のものをもって振る舞うこともある。そうなると、人間は自分がしたことでもないことをしたと信じるようにさせられてしまう。例えば妄想とは実際に起きもしないことを起きたと信じることに他ならない。
 患者の中には「自分は死んで埋葬されてしまった、今の人格は他人の人格だ」といったように言う者がいる。霊が肉体の人間だったことの記憶を残している場合に彼らが人間に深く憑依すると人間の方はセルフ・コントロールを失い、自分の人生の中にいられなくなる。そして、ただの憑依の対象だけになってしまう。
 ただ、重い精神病の場合とは霊が記憶をたくさんに持っていて、それを病人を通してより完璧に表す霊なのだろうと推測できるだけである。重い精神病患者とは自分自身とのノーマルなコンタクトも失い、自分に対して何やらしゃべり続け、奇妙な行動を続ける者のことである。だからこういう場合には、患者は死んで他の者が生きているのだという言い方は、シンボリックな意味で正解なのである。

 


 

〇水晶や黒曜石の中に映像を見るのはとても時間がかかる。また、ただ漫然と見ていると、何年も時間を無駄にする。というのも映像はアクティベートしてないことには出てきにくいのである。
 海のように膨大な情報倉庫から何か引き出すには、テーマを明確に打ち出すと良い。質問事項をハッキリさせる。何があっても質問の回答を得る事が肝心である。そのことで膨大な海のようなところから、特定の成果を引き上げることと、もう一つは目の位置から映像を水晶に投射するためのフォーマットが決まるのである。この時鉄則がある。テーマを決めた場合「そのターゲットに関らず100%接触している」という事である。すでにその情報は手に入っている。しかし、その回答がわからないという場合、私たちは意識の表面に引き出せていないことになる。引き出そうとしても途中にブロックが掛かるのである。この場合、映像以外の情報であることもある。どんな兆候も無視しないようにすること。
 ある場所にいろいろな形で色の塊が出現する。一番出やすいのは紫色や紺色などである。また水晶全体が何かの色で染まっているという事もある。この場合には、その色で判断する。物には何でもオーラがあり、水晶はエーテル体の増幅装置であるから、この水晶の周りやその中に色彩を持つオーラが現れてくるのは、当然のことである。水晶は受信機であるから、そこに反映されるオーラを見ることは質問に対する回答を得ることとなるのである。これを「クラウド」という。


〇誰かに対してイメージを送信する場合、これも一度だけでなく繰り返し行う方がよい。ほとんどの人は知らず知らずの内に、無意識にリラックスしたりした時に、この送られてきたイメージを何か映像に置き換えたりしながら受信する。例えば天体の影響もこの何かのイメージに置き換えて想起する。
 人から送られてきた場合には常に自分を思い出すことになる。実際には非常に頻繁にこのように思い出すのである。それに対して受け取った人は、それにむやみに従うことはない。受信した事柄に対してどう対処するか心の中で決定する。また、想念の濃度というか振動密度が低く、物質密度が高いものになるほど強い押しを持つようになる。ただし、思うよりも強い感情を伴うことである。さらに濃くしてエーテル物質に乗せると伝わりやすいのであるが、行き過ぎると呪いになってしまう。


〇神呪という言葉があるが要するに呪文なので、意味など全く分からない。なぜならばそれは暗号だからである。神伝禊法で唱える祝詞や神呪は一人一人の修行者が指導する霊魂団に対して何かしらアピールするためのものである。しかしながら高級な世界ほどこの世の人たちの唱える言葉が通じることはないし、思いも伝わらない。そのために高級な世界と約束事をするのである。そうすることにより例えば拝礼の次に「ア」の音が何度も繰り返されれば水に入る前の段階であるとかあるいは水に入る直前であるとか、そうしたことが祝詞や思いが通じなくても分かるのである。
 高級な霊魂と人間との距離は遠い。ここでいう距離は物理的な距離ではない。霊的な距離である。それを物質の世界で例えてみる。仮にあなたが川の反対側から禊を行う人たちを見ていたとする。距離があるのでお互いに声は聞こえても話の内容まではわからない、しかし、禊の参加者たちが拍手が拝礼をすれば禊が始まったことはすぐにわかる。そのうち、何か言っているのがわかるが何を言っているかわからない。
 しかし、事前に約束事が出来ている。拍手の次の祝詞は高級霊魂が人間に幽的な接触を試みる時間である。一つ一つの音が約束通りなので霊魂たちはその響きを前提にして修行者の幽体から出るオーラを観察したり、音を発するときの幽的な力などを把握できるのである。こうして霊魂たちは参加一人一人の霊的状態を把握する。
 霊魂によっては、修行者の幽体に質の低い幽気がついていることを把握して対策を考える。そうした様々なことが短い時間に行われれている。そこで起きることは人それぞれである。それは一人一人の霊的状態が違うために、皆同じにはならないからである。祝詞や神呪は高貴な霊魂との契約があって初めて成立する暗号であって、それを流派以外の者が密に持ち出しても決して意味をなすことはない。


〇印の意味を事前に指導霊団に伝える事さえできれば、印を組んだだけで担当する霊魂たちは人間が何をしようとしているのか、そうしたことが理解できるからである。霊魂の世界は思いが直接伝わる、そのため言葉がない。そのうえ、高級な霊魂の思いは下の世界の霊魂には伝わらないという法則がある。これはこの世の人間には実に困ったことである。この世ではお互いに言葉で会話するが、逆に思いは何を思っていても伝わらない。霊魂の世界とは反対である。
 どんな立派な人の思いでも言葉を発すれば誰にでも伝えられる。しかし、この世の人間と霊魂との場合はそうはいかない、次元の壁があると言える。次元という言葉が適切かどうかは別として、要するにまるで違う世界なのでお互いに思いが伝わりにくいのである。そうした時、印は実に有効である。指導をお願いする霊魂は当然のことながら、この世の人間よりも霊的には上のランクである。そうなると人間の思いは簡単には伝わらないのである。補助的な霊魂に間に入ってもらってやっと多少伝わるという程度である。しかし、それでは指導例が何かを行うべき瞬間を逃してしまうかもしれない。その点、印は人間の側の意図を瞬時に伝えられる可能性がある。実に有用な技術なのである。霊魂の世界を信じる人の中にはわざわざ印を組んだり、細かい作法を覚えなくても、霊魂に「こうしてください」と言えばいいのに、という人もいるらしい。しかし、それは実際の霊魂を何一つ知らない人の発想である。次元の壁を何一つ考えていないといえる。

 


 

〇第2の身体は実感を伴う、額から第2の身体が蛇のように飛び出し、水晶の周囲を取り囲むということを創造し、それがリアルになったときには、ハッキリと額から飛び出ていると実感することになる。水晶を見ていないときでも、この額から垂れ下がるのが何者かということが実感できるので、いつもと比較した場合、違和感がある。しばらくは、何をするときも額から新しい身体が飛び出ているという実感が続く、それが何かに当たると、当たった感覚がある。当たったものは物質ではなく、物質の周囲にあるエーテル体である。
 「第2の身体」は物質を透過するので物質に当たって、痛いと感じることはないのである。第2の身体で飛び出した額のアームは慣れると違和感はない。腕が2本あることに違和感を感じる人はいない、それと同じことである。第2の身体は始めは想像力によって創り出しそれを繰り返すことでやがてそれに従属するという性質がある。想像力にすぐに従うことはない。習慣づけてそれが当たり前になるとそれに従うのである。
 ジムで運動してもその効果がハッキリしてくるのは3ヶ月後であるというのと似ている。2~3回額から第2の身体が飛び出て水晶を取り囲むという想像をしても、それが定着することはない。それは、ジムで2~3回運動したが、体に変化はなかったというのと同じである。
 感情はすぐに変化することが可能である。しかし感情よりも下の振動密度にあるエーテル物質は、すぐには変化しない。そこで繰り返しによるパターン化が必要である。一度型が出来ると元に戻らないのである。そのため額から出るアームというのは習慣化すると定着する。定着の加速を促すもう一つの要素は強く濃い情念を伴うかどうかという点である。
 エーテル物質は感情の一番低いレベルと同一の振動で、つまり感情としては濃くしつこい、粘性を帯びたものである。粘性というのは早い動きに対して足手まといになるような性質であるが、この粘性こそある振動に対してより振動密度の低く物質密度の高い振動がまとわりつくことを意味する。振動が高くなると物質密度は薄くなり、振動が低くなると物質密度は濃くなるという反比例の関係で考えると、感情が濃くなるにつれて、それはしつこくなり動きに抵抗する。そして物質に近づく。繰り返し行うこともまた濃くすることである。うどん粉に水を入れてこねているうちにだんだんと固くなる。それと似たイメージである。
 第2の身体は繰り返しと強く濃い感情の投影という2点で変化が定着する。この2点を使って第2の身体を自ら動かすことが出来るようになったら、その人はこの行為に熱中してしまう。自分でそれを動かすことが出来た強い達成感がやってくる。というのも、これは自分で人生を変えることが出来たのと同じことなのである。型が決まったものを変えるには抵抗がある。例えば怠け癖を変えるには大変な労力が必要である。繰り返されたものに対して、さらに繰り返すことで変えていくということである。それが出来たら大きな達成感が得られるのは当然だといえる。私たちは第2の身体のリズム、言い換えると月の御餅的な素材に刻印されたスタイルによって人生の型が決まっている。それを変えることはまるで生まれ変わったような印象ともなるのである。短期の徹底した集中力で何かしようとしても達成できる物はあまり多くはない。むしろ、日々繰り返してその新しい型が消えなくようになったら、それは変化が定着したとみなされる。水晶透視の練習をして繰り返しパターンを作ること。水晶を見始めると額のスイッチがガチっと入るような条件反射的なものが定着すると良いのである。


〇第2の身体まで連動させてしまうような濃くて強い感情というのは自身のいつもの平常さを保つ「保護膜としての球体の限界点」を超えてしまった取り返しのつかないことをしてしまったという実感を感じる。
 そして人によってはそれは恐怖に感じることがある。しかし、その恐怖の感じ具合が強いのは自尊心によるものなので、これは人によって感じ方が違う。濃い感情・強い感情は特定のことにしか働かないように習慣化されている。それはスワディスタナチャクラの鋳型(カルマ)の支配である。感情の濃い部分は第2の身体領域に直結している。第2の身体は鋳型を持ちそんな柔軟には変わらない。つまり特定の慣れたものにのみ濃い感情が働くのである。
 例えば、男女や家族、好きなものなどである。これは、スワディスタナチャクラの型はムラダーラチャクラから上がってくるクンダリーニ的な力の方向性を支配する。つまり単独的な方に染まっていないムラダーラチャクラの力を盗み出して鋳型の方向に分散させている。例えば野球に夢中になる人とか、何かに情熱を傾けている人といったところである。これらの行為はたいていの場合、クンダリーニ的な力の上昇がスワディスタナチャクラで特定の鋳型として方向づけられて、そこに大量にエネルギーを投入することで行われる。そしてマニプラチャクラで積極的な行動性を生み出すが、しかし、そこで止まる。特定の鋳型にはまってしまうとその後、エネルギーはアナハタチャクラに上昇する道を失ってしまう。すると特定の分野に全生命をかけてしまうような行為をする人も登場する。野球を通じて発達するという事と、野球に夢中になるというのでは全くその意味が違ってくる。
 水晶で映像を見るのも現代では失われた回路であるが、反復していくことでこの道筋が出来上がり、段々とこの行為はリアルになってくる。その繰り返しの中では益々実感が強まるが、こうした多くの人が持っているわけではない回路を作るにはそれなりの身体の抵抗にあってしまうという避けられない面もある。

 


 

〇「決心」することが原子核の集合体を成長させる。=「行動」というのは「決心」をしたときである。要するに、なんだかわからないけれど、まだ決められないで悩みながらとりあえずこうしておくという、これは「行動」ではない。これでは原子核の集合体の原子核は増えない。ところが「本質はこういうことをやった方がいいな」と思いながら顕在意識では「あれもこれも起きちゃうかもしれない」と心配をするけれど「とりあえずもう思い切って決心してしまおう」とそういう風に思うと、途端に原子核の集合体の原子核の数が増える。
 つまり、受振と発振の装置が増えるのである。その結果どうなるかというと、受診でたくさん情報が入る準備ができ、発信で同じ問題に対して解決策が必要だという周波数をたくさん発信する。「決心」するということは、原子核の集合体の原子核の数が増えるということである。
 そうすると自分の身の回りで起きている全ての現象は、自分が発進した振動波と同調した時にその現象が起きるわけであるから、当然今まで目の前を通り抜けていたような振動数と同調できるようになる。
 それまで自分が不調和な振動数のために同調することができず通り過ぎていっただけの振動数も、自分が「決心」して調和の取れた振動波に入ると同調しやすくなるのである。その状態が瞬時に起きる。だから「決心」する前と「決心」をした後では全然違うのである。「波動」は「まるで」違う。「波動」で理解できていない文化だからそれに気づいていないのである。現象でしかとらえないから奇跡とか偶然になってしまうのである。これは奇跡でも偶然でもない。「波動」で理解できる文化のレベルになれば、当然のことである。
 「決心」するという事は「損か得か」ではない。即、答えであり迷いがない。入ってきた情報が自然の法則にかなっているから、調和がとれた「本質」に「直観」という形で入ってきている。それをストレートに受入れてそれを実行すること。これは自然の法則にかなって調和がとれている。
 実行しようと「決心」したことによって、原子核の集合体の原子核の数がなぜ増えるかの説明はここでは省略させていただく、自然そのようにできているのである。これについてはいずれ他の機会に詳しく述べる。


〇病気になった、癌になった、エイズになったという人はそれらを憎んで殺してやると言う「顕在意識」の創り出したもので、そのウィルスが今自分にメッセージを送っているのだと理解することである。そして、「メッセージをありがとう」という意識がもし生まれたら「顕在意識」は間違いなく調和の取れた方向に意識変換している。これが一番早く病気が治る方法である。
 病気は直すのではないし、戦うのではないのである。調和の取れた状態に戻すということである。そのためにまず最初にやることは、人間の「顕在意識」を正常な方向に意識変更することである。そして、「本質」に入ってきた情報を素直に実行すること。実行した結果、原子核の集合体の原子核の数が増え安定して周波数がまた上がる。その繰り返してどんどん調和の取れた振動数になり、自分のボディも調和が取れていく。つまり、中性子・陽子・電子が正常になっていくのである。明らかな周波数が高くなって長期安定している人のボディは中性子・陽子・電子が正常化している。これなら病気が治る方向に進むのは当然である。
 健康で長生きしようという「意識」を持つということは、個人的欲望であり、病気を本質的に解決することにはならないのである。調和の取れた結果が健康になり、長生きしてしまう状態だということである。

 

〇科学技術史をさかのぼると、大発見、大発明が入眠状態における思い付きにヒントを得ていたという事が実に多いのである。それは、偶然だった場合もあるが、いつの間にかこのテクニックを自分で発見して目的意識に入眠状態に入った人もいる。発明王のエジソンはこの典型で考えに詰まると「ちょっとうたた寝してくる」と言って自分の部屋の愛用の椅子にうえでうたた寝をしたという。うたたねと言っても本当に眠り込んでしまったらダメである。思いがけないアイデアが生まれる入眠状態というのは、眠るか眠らないかの境目のトロンとした部分なのである。


〇体外への脱出方法
 大事なのは第一に恐怖心を取り除くこと。第二に心身を完全にリラックスさせる事である。そのためには暗い部屋の中でベッドの横になり眠りそうだけれど眠りに落ちない、睡眠と覚醒の中間の状態を保つのが良い。眠りそうになったら意識を何かに集中させて眠り込んでしまわないようにする。次に意識を何物にも集中させず、全くの空白状態に持っていく。あらゆる感覚がすべて消え失せ、何も感じないが意識だけは保たれているという状態にする。次に意識を頭の真上2メートルくらいのところに集中させ、振動を探る。その時、全身に振動が広がるのが最初のきっかけである。そういう振動の発生を意識的に願うのである。
 振動をつかんだら、それが一定のリズムで全身を往復するように念じる。始めは頭から足の先まで、十秒くらいで往復するようにし、そのリズムは徐々に早めていく。やがてそれはどんどん早くなって行き、高周波の振動となり、やがてそれは振動というより一種の温感としか感じられなくなる。そこまで行くと、対外離脱の準備は完全に整い、あとはちょっとしたコツを飲み込むだけで容易に肉体から離れれるようになる。コツというのは、例えば、「寝返り法」と言って肉体の内部で寝返りを打つようにすると、肉体をそこにそのまま残して内部の自分が回転するようにして肉体から離れることができる。


〇あらゆる宗教の始まりには、根源的宗教体験がある。その本質をなすものは神との直接のコミュニケーションである。あらゆる宗教の開祖は自分自身が神を見た、あるいは、神の声を聞いたというところから、その宗教活動を開始している。その人々がそのような体験をどこでどのようにして得たかということを調べていくと、実は感覚遮断状況が関係していることが多いのである。感覚遮断といっても、隔離タンクに入るような完全な遮断ではない。例えば、肉体を徹底的にいじめることによって生じてくる、日常的な感覚の狂い(変成意識状態)がそれである。
 宗教体験はしばしば厳しい行の果てに得られる。砂漠や山奥深くなど険しい自然の中に身を置き、完全な孤独状態の中で何日も過ごし、断食し、夜も眠らず祈り続ける。お経や呪文などを唱え続けるなどして、肉体を極限状態まで追い詰めたときに神との出会いが起こることが多いのである。人間の感覚というのは単調な繰り返し刺激に弱い。刺激を与え続けると、感覚器官が生理的には生きていても機能的に死んでしまうということが起こる。つまり、一種の感覚遮断状態に陥るのである。宗教上の行や儀式でしばしば太鼓などの打楽器が連打され続けたり、皆で単調なステップを踏みながら祈りの言葉を唱和し続けるなどの宗教的ダンスが行われたりするが、ああいうものを長時間続けると会衆が皆トランス状態に陥るということが良く起こる。

 

〇とにかく常に自分が「観察者であり続けること」を決意し、どのような思考や感情に対しても少し距離をおいて「これは自分自身ではない」という視線で眺めることを続けていくうちに、いつの間にか喜び溢れる繊細な感情や躍動する命のフィーリングが湧いてくることに気付いてくる。これは何か特別な出来事が起きなくても、何も大喜びすることがなくても、ただひたすら、至福感覚を味わえる事に気付いていく。
 それは、この観察者という立ち位置が永遠なる至福と命への情熱という性質で成り立っているからなのである。そこは神聖なる静寂であり同時に喜びや情熱や祝福を溢れ出させる性質で成り立っているからである。
 すべてを拡大発展させていくエネルギーを浮上させる性質で成り立っているからである。その至福の喜びの状態であなたが存在していくとき、不愉快で嫌なことが現実に起こるわけがないのである。それどころかその状態にあるとき、どんな願いも望みも追いのままである。しかもその願望は必ず周りと調和しているはずである。周りに貢献できる願望のはずである。


〇物質や現実的出来事を作り、その出来事をきっかけに肉体から生まれた「感情エネルギー」をあなたという意識がしっかり気づき受け止めなければ、その感情は流されず、成仏できず、光に戻れず、肉体内部にブロックされたまま放置されている。細胞の奥に隠され、忘れられ、無かった事になっていく、これが心の傷と呼ばれるものである。このような感情エネルギーのブロックがある時、肉体はその感情を浮上させて溶かそうとする。
 それでもあなたが、無視をして拒絶していると、あなたが新しく意図し、願う通りの現実が想像できない。出来事から湧き起こる正直な感情反応を知りたいと思って現実を作ったのであるから、その結果を受け入れて感情を知ることが必要である。


〇あなたが真に望む現実を引き寄せるためには、今までの全てはあなた自身が作って来たのだということを、明確に認めて自覚することから始まるのである。今の目の前の状況はすべてあなたの創造物である。その責任を認識すること。そうすることであなたのもとへ、あなた自身の創造のパワーが戻ってくる。そして、そこにあるすべての現実、結果が大切な価値あるものとして実感できるようになっていくのである。
 あなたが真に望む現実を創れないたった一つの理由それはあなたが「心のドア」を閉じたままだからである。そのドアには「拒絶と拒否」という名前がついている。目の前の結果をいったん作っておきながら、あなたは拒絶というドアを用意して結果を受け入れず、通過させず、終了させないままでいる。この3次元の物理空間においては、異なる現実が同じ瞬間に同時に体験することはできず、古い結果が集結しない限り新たな欲しい現実は作れない。
 貧困と富裕は同時に体験できない。新たな望む現実に移行したいのであれば、古い物を通過させていくことを拒絶・拒否しないこと。つまり、心のドアを開くことである。
 「拒絶と拒否」という「対立」のエネルギーは、古い集合意識の特徴である。このような対立エネルギーが今も地球上の溢れている。そこから無益な戦争も引き起こされたりする。しかし、その古い集合意識と対立し、それを拒否し嫌うことをしていては、ますます、対立エネルギーが強くなり、結果的にそのような現実状況を外に創り続けることになる。


〇鼻腔振動呼吸術
 正座が苦手な人は柔らかいソファーなどに腰かけて構わない。しかし、背骨はまっすぐになるように座ること。光については特に気にしなくても良いが、明るすぎると集中しにくいし、暗すぎると邪気が起こるので適度な明るさを保つこと。また、悩み事などがある場合はその悩み事をある程度解決して、心が軽くなってからこの訓練を行うこと。
 脳の覚醒にとって一番大切なのは呼吸である。どのような呼吸が良いかというと、鼻腔の一番奥の上部に小さな振動音を発するような呼吸である。
 呼吸には息を吸う吸気と、吐く呼気とがある。息はずうっと吸い続けることはできないし、ずうっと吐き続けることも出きない。「吸って吐いて」あるいは「吐いて吸って」をワンセットとして呼吸をしている。しかし、その呼吸も、ほんの一時ならば止める事が出来る。その場合、吸ってから止めるのと吐いてから止めるのと2通りがある。同じようなもののように思われるが、実際にやってみると、この2通りにはかなり違うことがわかる。また、吐いて吸うという呼吸にしても、ゆっくり細く長く息を吐いてから吸うのと普通に吐いて吸うのとではかなり体の状態が違ってくる。
 このように、一口に呼吸といっても、実に様々なやり方があるのである。脳を覚醒させるための呼吸は、吸気と呼気を途切れさせない呼吸である。吐いて吸って、吐いて吸ってというように呼吸を止めることなく繰り返すのである。そのような呼吸を鼻腔の奥のところを振動させるようにして行うと、やがて鼻腔と脳幹が接する部分が振動し始める。以上のような呼気を5~6分続けると、その他の効果として手や足が暖かくなってくる。そうして、心地よさが全身を包むようになる。一日に数回この呼吸法を行えば、だれでも幸福感が得られるようになる。その幸福感が体内を良いバランスに保つ。この呼吸法を身につけるカギは心にある。吸気と呼気に気持ちを上手に乗せることができれば無理なくこの呼吸法を行うことができるようになる。