〇解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟ったその時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して、問題解決のための光を求めて祈る完全権利があるといえる。そして、その導き、その光を手にするはずである。なぜならあなたの周りにいるもの、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからである。例えばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然である。
 その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるために祈りもある。つまり、肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して、本来の自我を見出したいと望む魂の祈りである。これは必ず叶えられる。なぜならその魂の行為そのものが、相応しい当然の結果を招くからである。このように一口に祈りといっても、その内容を見分けたうえで語る必要がある。


〇祈りとは魂の行である。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段である。真の祈りとは魂が正気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い換えれば、より多くのインスビレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であるといえる。それによって神の意思との調和が深められるべきものである。
 自己を内観することによって、そこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為である。


〇事故の現場に居合わせる人も災いにあう確率が高い=事故に遭遇した当事者だけでなく、事故現場の周りにいる人の全ての人が、そういった事故にあう可能性を持っている人だと思っていただきたい。事故現場を見ている人、遭遇する巷の火事現場にどういうわけか駆けつけている人もその一人である、つまり、その現場にいるという人は同調してそこにいるということになるからである。 
 普通はまず行こうと思ってもそこに行くことができない。災いに遭遇しない人は事故が起こる場所でそれとマッチしていても気がつかずに通り過ぎていく。だか、事故は同時刻に起きてその人は傍らを通っていたはずである。しばらくして人が集まってきて何かが起きたと気付く。その人の意識の中に自己と同調するものが全くないから無関係にその場を行き過ぎていく。


〇「印」は手を組んだ文字に魂が宿るものである。印は言霊と同様に魂が宿るが、若干の方向性の違いがある。印を組めれば、その人の周りの雰囲気が変わる。印の形を作ると、雰囲気が変わるのは、そこに言霊が宿るからである。言霊が宿るだけであれば、これは祝詞になるが、印は祝詞にプラスして力が加わる。
 印の力は扱うもののレベルによって歴然とした差が現れてくる。印の祓いの力を強くするためには、5年10年20年と繰り返し修行をする。修行した人間の印ははるかに高レベルな印を結んでいく。
 「印とは魂宿る力の世界である。魂宿る力を操るのが、印を組む人間である。人間の手の結ぶ印は自と開かれ、その力がその方向性を持ち、結果として現れる。その結果とは、祓いであれば祓いの力、浄霊であれば浄霊の力であり、あらゆる印を組んだその形はすべて力に現れる。」
 この印を結ぶことによってそこに宿る九字の印を意識を込めて何回も形通り行って行く。そうすればどんな事情であれ、正規な形で印を組めばそれは文字であり、言霊であるから、魂は多かれ少なかれ、宿るはずである。印を組む理論からすれば、そうなる。言霊を1回結べば、1回の言霊はそこにある。繰り返していけば、その言霊は次第に力を増していく、滝行、水行、断食、苦行の精神修行を行うことで、精神集中をすれば、そこに込める魂の力は強くなり、祓いができる。自力で繰り返して10年もたてば、その言霊の力は強くなる。

 


 

〇あなた方の懸念は無意味であり、根拠がない。しっかりとした手に守られている。これまでもずっとそれによって支えられてきた。もし、そうでなかったら、とうの昔に地上を去っている。霊的なものにとって「恐れる」という事が何よりも強烈な腐食作用を及ぼしている。恐怖心と心配の念は私たちが特に普段の警戒を要する敵である。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからである。


〇恐怖心こそ人類最大の敵である。恐怖心は人の心を蝕む、恐怖心は理性を挫き枯渇させ、麻痺させる。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ寄せ付けない。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こす。
 努めて恐れの念を打ち消すこと。真理を知った者は常に冷静に晴れやかに平静に自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはならない。霊の力、即ち神の力であり宇宙を絶対的に支配している。ただ単に力が絶体というだけではない。絶対的な英知であり、絶対的な愛でもある。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのである。


〇心霊能力はどうすれば身に着けることができるのか。=心霊能力は何か持ち物を手に入れるような具合に自分の所有物とするのではない。心霊能力が働くその通路となるということである。
 心霊能力は例外なく「潜在的に」すべての人間に宿されている。それは肉体を去ったのちの生活で自我を表現するための手段である。それを未発達の状態で所有しているのである。普段一般の人は使用していないが、霊媒が使用して見せているわけである。と言っても、各自の能力が皆一様に同じ発達段階にあるわけではない。潜在意識の表面まで来ている人は、霊媒になろうと思えばなれる。霊視能力というのは霊体の目で見ることであり、霊聴能力というのは霊体の耳で聞くことである。


〇人間が恐れを抱くと周りの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くする。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信(すべての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切ったそういう確信)がなければならない。


〇ガイドという存在は地上で詩人であった人は詩人を探して、音楽家だった人は音楽家を探す。そして死後に身につけたことの術を惜しげもなく授けようとする。問題は波長の調整である。インスピレーションが一瞬の出来事でしかないのは、私たちの側が悪いのではない。2つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば、別の言い方をすれば、地上の人間が両界の自由な交信が完全に理解されれば、地上の人間が両界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の世界の位置が人間を通して、ふんだんになばなるほど。要は、私たちの側から発信する物を受信する装置がなければならない事、そして、その装置がどこまで高い波長の通信を受け取れるかという性能の問題である。
 すべてのインスピレーション、すべての英知、すべての心理、すべての知識は、人間側の受信能力にかかっている。


〇祈りは叶えられるときもある。祈りの中身と動機次第である。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをする。
 そもそも、祈りとは人が何かを要求してそれを我々が聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違う。祈るということは叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために、自分自身の波長を高めて少しでも高い階層との霊的な交わりを求める行為である。


〇心に念じたことは全部その霊に通じるのはその霊と波長が合うか合わないかによる。合えば通じている。バイブレーションの問題である。何か要求事をされると、そこにバイブレーションが生じ、その波が伝わる。それを受ける受信装置が人に備わっているからである。地上と霊界の間でも魂に共感関係があれれば思念や要求の全てがすぐさま伝わる。


〇解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも、力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して、問題解決のために光を求めて祈る完全な権利があるといえる。そして、きっとその導き、その光を手にするはずである、なぜならあなたの周りにいるもの、霊的な目をもって洞察する霊はあなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからである。例えばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然である。
 さて、その種の祈りとは別に宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもある。つまり、肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して、本来の自我を見出したいと望む魂の祈りである。これは必ず叶えられる。なぜなら、その魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招くらかである。このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けたうえで語る必要がある。

 


 

〇誰でも宇宙エネルギーは身体に入ってくるが、精神を安定させた時や祈りなどの時に入りやすい状態になる。精神を安定させたときや祈りなどの時は性エネルギーの道筋にある副腎霊中枢のエネルギー変換率が高くなり、綺麗なエネルギーになる。
 副腎霊中枢はストレスに関係がある。他人に対して利己主義感情を放ったり、仕事上のストレスがあると副腎霊中枢のエネルギー変換率が低くなる。変換率の低いエネルギーは汚れたエネルギーとして最上位にある松果体霊中枢に吸収されることなく、大脳に入って興奮しやすい状態になる。そしてきれいなエネルギーは松果体霊中枢に吸収され、脳天から抜けていき、宇宙エネルギーと合一するわけである。さらに宇宙エネルギーは脳天から身体に入り、脳下垂体霊中枢を浄化、覚醒し、脳下垂体霊中枢から愛のエネルギーが溢れ出す。その時、身体は活性化されるのである。


〇魂にも年齢がある「肉の年齢」に対し、「魂の年齢」である。その魂により経験の幅が違うのである。経験なき魂にその器以上の学びがあれば、その魂はつぶれてしまう。また、大きな器を持つものがたやすい試練としか出会わなかったならば、充実して生きた心地がしないであろう。目的に反するのである。人の言う幸せなもの、不幸なものがあるのは、そのためである。苦労をしているもの、楽をしているものがあるのは、そのためである。
 「魂の年齢」にかかわるわけである。いわばこの現世において、幸せと見えるものがいても、それはある意味、まだ魂が成熟しきっていないからともいえる。困難多き者は、それなりの耐えうる器を持ち、自らが自らに試練を与えたともいえるのである。


〇悪霊にはいくべき家がない。自分からここが自分の住みかと思い定めているため自分の周囲以外は暗くて恐ろしいし、どうすることもできないである。これがもし、家や土地に執着がなく、また、金や物や名誉や地位やその他、地上のあらゆる物への執着の心を捨て愛と平和の心になると、天上界の天使たちがその者を光で照らし、本人のいくべき場所にちゃんと案内してくれる。心がすべてを決めてしまう。それが次元の異なる意識の世界なのである。


〇人の肉体にあの世の霊が入り込んだ時の状態は、天使ならいざ知らず、地獄霊の場合は、人格がまるで変ってしまう。こうした現象はもう数限りなく見てきているので別に驚かないが、しかし、人格が変わるといっても、もともと生きている人の内面の隠された面が地獄霊を通して出てくるので、地獄霊も本人も同じ意識だと言えるのである。


〇恐怖心こそ人類最大の敵である。恐怖心は人の心を蝕んでしまう。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、麻痺させる。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ寄せ付けない。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こす。
 努めて恐れの念を打ち消すことである。真理を知った者は常に冷静に晴れやかに平静に自信にあふれ、決して取り乱すことがあってはならない。霊の力、即ち神の力である宇宙を絶対的に支配している。ただ単に力が絶体というだけではない。絶対的な叡智であり。絶体的な愛でもある。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのである。

 


 

〇くれぐれもいうが、スピリチュアルなエネルギーを支配のために使ってはいけない。それは努力の浪費だ。遅かれ早かれ、きっとまた空っぽになる、突然転落してしまう。それは全くの浪費だ、だが、それを抑えるのは非常に難しい。なぜならあなたは自分の能力に気付くからだ。
 例えば、あなたが病人に触れてその人が治ったりしたら、ほかの病人に触れようという誘惑にどうして抵抗できるだろう。もし抵抗できなかったら、あなたはエネルギーを浪費してしまう。せっかく何かが起こったのにすぐに意味もなく捨て去ってしまう。そて、マインドは実に滑稽だから、「自分は直すことで他者を助けている」とか考えてしまう。それは、往々にして、マインドのトリックだ。
 もしあなたに愛がなければどうして他人の病気について、他人の健康についてそれほど心配するだろう。実は心配などしていない、本当にところ、それはパワーだ。もし治すことが出来れば、それによって相手を支配できる。たとえあなたが「私はただ彼らを助けているだけだ」と言ったとしても、その助けることでさえも、他人を支配しようという企てだ。そうすれば、あなたのエゴが満たされる。それがエゴの糧となる。だから昔の教えはすべて「気おつけなさい」という。なぜ気をつけるのかと言えば、エネルギーが生じてくるとき、あなたは危険な地点にいるからだ。あなたはそれを浪費もできるし、捨てることもできる。
 だからエネルギーを感じるときには、秘密にしておくのである。だれにも知らせてはいけない。エネルギーの生じてきた人間が、多くの人々の前で祈っていたら、みんなすぐに「彼には何かが起こっている」と気づくだろう。だから、「祈りは真夜中にするとだ。みんな寝静まった深夜がいい。そうすれば誰もあなたに起こっていることに気付かない。自分に起こっている事は誰にも言ってはいけない」だが、マインドは実におしゃべりだ、もし、何かが起こったら、きっとあなたはすぐに出かけて言って何かが自分に起こったという「よい知らせ」触れ回る。そうやってあなたはそれを浪費してしまう。
 そして、人々が驚いたとしても、それで得るものはと言えば、彼らの中で評判になるくらいだ。それではあまり良い取引とはいえない。
 待つのだ。いつかそのうち、エネルギーが蓄積してある地点に到達し、一つにまとまって変容する。その時には、自分で何もしなくても、いろんなことが周りで起こる。そうして総じてあなたは他人を手助けでき、それによって相手は自分自身の主人となる。(もしあなたが自分の主人であるならばだ。何であれ、スピリチュアルな技法を通じて得たものは秘密のままにしておくことである。ふれ回ったりしないとこ。どんな形であれ使わない。使わずにそのままにしておく、そうして初めて内的な変容のために使えるようになる。外側の用途に使ったらそれは浪費になる。)


〇正しい生活を実践することがなぜ必要かというと、人間の身体には目に見えなエネルギーが働いており、このエネルギーは性腺から性エネルギーとして始まり、上昇して副腎霊中枢できれいにエネルギーに変換されるが、日々の道徳的正しい生活の実践により、副腎霊中枢において、聖エネルギーの変換率が非常に脳天から抜けると、宇宙エネルギーと合一するのである。


〇自分自身が浄化されるようになると、自分の脳下垂体霊中枢から出るエネルギーを使って他人を浄化するようになり、脳下垂体霊中枢から流れるエネルギーを掌に導くことによって接手療法や手かざし療法が可能になる。
 「自分を癒すことが出来るようになると、他人も癒せるようになる。」といったのは脳下垂体霊中枢からエネルギーが流れるような状態を指している。このような状態になるまでには、瞑想をやり始めてから性エネルギーの解放、性エネルギーの上昇と副腎霊中枢のエネルギーの変換から松果体霊中枢のエネルギー吸収、脳天からのエネルギー放出、脳下垂体からのエネルギーによる低位霊中枢の浄化では相当な長い年月を必要とするが、人によっては一生かかる人もいれば、一生かかっても性エネルギーの解放さえ出きれない人もいるし、4・5年で浄化作用まで行く人もいる。このように差が開くのはどこが違うのかというと、自分の心の状態を観察し、悪い感情を落とす気があるかどうかである。
 日常生活においてこのようなことに努力実践している人はエネルギーの循環が早くなってくる。エネルギーの循環を早める方法はただ一つ、否定的感情を使わないこと、思わないことに尽きる。逆に言えば、「建設的な想いと感情」を使うことによってエネルギーの循環を早める。エネルギーの循環を早めることは瞑想の技術の習得を早めるのと同じである。

 


 

〇心が原物質をかたどる中心であることを知れば、絵が物質化しないのは、基本原理に反する何かをしているからに他ならない。絵を頻繁に変更することから、このような破壊要因が起きてくる。何度も変更してから、自分が求めていたのは最初の絵だったのに、なぜ物質化しなかったのだろうとあなたは考える。
 あなたの心が扱う現物質はどんな高感度フィルムよりも敏感である。撮影中に使用済みフィルムを使っていることを突然思い出せば、どちらの像も不完全になることが予想できる。現像して2重写しが現れても、あなたは写真の原理に文句を言わない。なぜこんな結果になったのかと考え込むこともないし、きれいな指針をとれないとあきらめもしない。最初に戻って新しいフィルムを入れて慎重に撮影に挑めばいいだけである。
 心のフィルムにも同じように挑めば完璧な結果が得られる。視覚化の法則は写真撮影を支配する法則と同じて崩すことができない。事実、写真技術は視覚化所産である。願望の実現が人や出来事に左右されると考えて、視覚化の技を誤れば不完全な結果しか出てこない。
 創造の原理は、人や場所や物に依存しない。そこには過去もなく「永遠の今」だけが存在する。
 想像力は活動するための媒体を自ら作り出すので、心に描く今の絵は過去の経験とは無関係である。なので想像力にとっては不自然かもしれない経路を通して、望みを叶えようとしてはならない。たとえそれがあなたにとって合理的な見えてもである。自分が心から良くしているものも意識も正常であり、自然であり、自分の一部であり、進化のためにあるという気持ちが大切である。これが来ていれば、絵が実現する喜びを邪魔する力はなくなる。


〇霊感は生まれつき備わっている場合もあるが、修行よって霊感を磨いて鍛えることも可能とされる。霊感を高める基本は、精神統一である。これには諸法あるが、その1法として部屋の光を薄暗くし、正座の姿勢をとる。
 正座の仕方は、
①両足の親指を重ね合わせる。
②膝頭の感覚は握りこぶし1つか2つ分くらい開ける。
③腹を心持全貌に突き出すようにする。
④背筋を伸ばし顎を引く。
⑤腕に余計な力が入らないように注意して合唱する(合唱の手の高さは胸の上あたりにする)
⑥目を1度閉じてからゆっくり開き、半眼よりもやや薄く開ける。
 このように正座したら呼吸を整え、腹式呼吸をする。すなわち、鼻から空気をゆっくりと吸い、腹の中に送り出すのである。コツは吸う息よりも吐く息を長めにする。そして雑念を払い、祈りの言葉を唱える。祈りの言葉は「天照大神」「南無阿弥陀仏」「六根清浄」など各自が信奉している神仏の名称や念仏や真言などでも良い。この状態で意識を眉間に集中する。これを続けているうちに、精神が統一され、霊格や霊能が開け、霊視などもできるようになる。


〇第三の目のエネルギーは普通の両目に働くエネルギーと全く同じである。そのエネルギーが新しいセンターで動き始める。第三の目はすぐそこにある、だが、機能していない。普通の目が見えなくなって初めて、第三の目は見えるようになる。そのために必要なのは、エネルギーがそこに入ることである。
 そのエネルギーは両目に入らなければ第三の目に入る。第三の目に入ると両目は見えなくなる。両目はそこにあるが、物を見ることはできなくなる。見るのに必要なエネルギーがなくなってしまい、新たなセンターへと言ってしまう。そのセンターは両目の間にあってすでに完全な姿で存在している。いつでも機能できる。だが、機能するにはエネルギーがいる。同じエネルギーが方向を変えるわけである。


〇第三の目は「見る」技法と深い関係にある。実際、この技法は第三の目を開くためにある。もし、両目が完全に止まったら、もし、両目が石のようにやっと静止し、全く動かなくなったら、エネルギーは両目に流れなくなる。もし、両目を停止させたら、エネルギーはその両目に流れなくなる。エネルギーが流れなくなるからこそ目は動くのである。その波動、その動き、そこには、エネルギーがあるからこそである。もしエネルギーが流れなかったら、目はまるで死者の目のようになる。石のように生気がなくなる。
 目をよそに動かさずに、一転をじっと見つめれば、目は静止する。突然、今まで両目に流れていたエネルギーが両目に流れなくなる。だがエネルギーは動くものである。エネルギーは静止できない。目は静止できるが、エネルギーは静止できない。もし、エネルギーが両目に入れなくなったら、もし、突然扉が閉じられ、エネルギーが両目に流れなくなったら、エネルギーは新たな通路を探ろうとする。
 第三の芽はそのすぐそばにある。両眉の間深さ半インチ(1センチ強)ほどのところである。エネルギーがが両目を離れたらまず第一の可能性として第三の目に流れていく。それは、ちょうど水の流れ出ていいる穴を塞ぐようなものだ。すると水は別に何をする必要もない。この物質的な両目の場合、必要なのはエネルギーが目に流れるのを止めることだけ、そうすれば、エネルギーはひとりでに通路を見つけ第三の目に流れるようになる。
 このように第三の目に流れることによって、あなたは変容し、別の世界に入って行く。いままで見たことのないようなものが見えるようになり、今まで感じたことのないようなものが感じられるようになり、今まで一度も嗅いだことのないようなものが嗅げるようになる。


〇第三の目が機能していれば、その人間が死にかけていることをあなたはすぐに感じ取る。どのように感じ取るのか。
 死は衝撃力を持つ。人が死にかけているとき、死はすでにその影響を投げかけている。その影はいつでも第三の目によって感じられる。第三の目を使う訓練を深く積み重ねてきた人は子供が誕生したその時に、その子がいつ死ぬかわかる。だがその時の影響は非常に微妙だ。しかし、あと6ヶ月で死ぬという人がいたら、第三の目が少しでも機能していたら、6か月前からその死がわかる。影が暗くなる。実際、その人の周りを暗い影が取り巻きそれが感じられる。だが、その両目によってではない。第三の目によってオーラは見えるようになる。すると誰がやってこようとも、もうあなたは騙されることはない。その人がなんと言おうとも、本人のオーラと対応していない限り、全く意味がない。と言えば「自分は決して怒らない人間だ」といっても赤いオーラが見えれば怒りに満ちていることがわかる。
 オーラに関する限り騙すことはできない。本人はオーラについて全く気付いていない。だから彼のいうことが嘘か本当か、オーラで判断できる。第三の目で放射のオーラが見える。

 


 

〇呪いが飛んできて金縛りにかかった場合は、何が何でも絶対に説いてやるという気持ちを起こして手足を動かすよあに一生懸命努力する。エイッ、やっと言って動かしてやればもう吹っ飛んでしまう。その瞬間に跳ね返せる。
 それから呪いの力で悪夢を見ることがあるというが、いろんな化け物が出てきて首を絞められたり、殺されそうになるというイメージ、ビジョンの夢が出てきたりする。そこを逆に対峙するとか、やっつけるとか、そういうストーリー転換することができるかどうかである。それはもう無理やりでもそう持っていくわけである。自己暗示ということも非常に大きい。


〇水行は憑物を払うという以外にも、祈りのパワーを増幅させる効果もある。気を強める、念を高める、願望を成就させたいとか、そいうときに行うといい。やり方は風呂場で桶に冷たい水を入れて、パシャッとやる。頭からかぶるのである。これを108回行う。この時お経とかマントラを唱えたりとかしてまた、パシャッとかぶってマントラ、お経を唱える。そのような行をすることで精神力を高める。つまり精神鍛錬になるのである。


〇神は自分の身近にいる親しき存在と自覚して祈ってこそ効果が期待できる。(まずは神の存在を信じること、それでこそ祈りの効果が生じてるわけである。)
 祈とは、常識では説明しがたい超自然現象と思える劇的な変化が肉体又は種々の現象として起こることを示す。あなたの今の考え方があなたの未来を創り出していく。よいことを思えばよいことが起きる、悪いことを思えば悪いことが起きる。(量子力学でいう意識が現実を創造すると同じ概念である。)


〇身近な願望の実現を祈る。その願望は情熱・信念・時間をかけた総和によって実現する、始めは信念が弱くても不安に思うことはない。何回も繰り返し思うことで願望は実現へと近づいていく。(思念のパワーの効果である。)


〇瞑想中に、この世を去った親しき人の面影を脳裏に描いて語りかける。すると向こうでも何かを語りかけてくるし、警戒の実在を心から信じられるようになる。


〇閃きは神の囁きである。人は誰でもある種の閃きを覚えたことがあろう。それは自分の脳が生み出したのではなく、大体が至高の存在によって与えられたものなのである。閃きこそ神の囁きで、瞑想による思念のエネルギーの集中によって啓示を求めれば内なる神は必ずや多くの啓示を与えるであろう。


〇人々をコントロールしようとしている人間が、内側で調和平衡を創造するには、この上なく難しいとこである。


〇真実は心を解放し、自由にし、心のパワーを増幅する。ほとんどの人間はいわゆる集合パーソナリティーの持つ特徴である「誰かを責めること、自分を守ろうとすること、言い訳をすること」などで自分の個人的なパワーを無駄遣いしている。


〇行為に個人的関心を持たず、超然としていることの中に未来のカルマを創らぬ秘訣がある、
 愛といえども非個人的な愛、中立的な愛、執着の無い愛を持って遠ざかっている愛でなければならない。そうでないと、未来に新しい絆(カルマ)を作ることになる。


〇心の絵に情熱を注げば注ぐほど物質化は早まる。情熱は願望を秘密にすることによって強められ誰かに打ち明ける瞬間に弱まる。あなたの力、引き寄せの磁力はまだそれほど強くなく、遠くまで届かない。秘密にすればするほど、引き寄せる力は強くなる。


〇視覚化についてほとんど理解せずに、1日か2日、願望を絵に書くことはあるが実際には1時間かそこらの事が多いものである。自分が望むものや結果に囲まれているのを執拗に描き続けるならば、その方向に想像的エネルギーが源物質を送ってくるのがわかる。
 思いを絵に定める利点がそこにある。心の絵に情熱を注げば注ぐほど物質化は早まる。情熱は願望を秘密にすることによって強められ、だれかに打ち明ける瞬間に弱まる。人はつらいことがあると、他人に打ち明け、軽くしようとするものである。思いが出ていけば力は分散する。このような時は、一人でそれを話してから、紙に書いてすぐに破棄すること。

 


 

〇祈願をする場合「断ち物」はした方がいい。神様に願い事をするならば何か好きなものを一つ断つというのが流儀である。しなくても良ければ、どうしてもその分だけ弱まる。つまり、何かを自分は耐えるとか、こういう努力をするということをまず神に言わなければ動いてくれないのである。また、一番好きなものを断つことが念を高めるということになるのである。
 食事を抜く必要はないが食べ物のなかで好物を断つというのはOKである。例えば4つ足の動物の肉は食べないというのもアリである。 
 賭け事やゲームを断つと言いうのは、そういうことが大好きでそれがないと生きられないという人はそれでも良い。であるが、なるべくなら生理的欲求に関係するものを断つのが本来的である。生理的欲求は生存本能に関係してくるからである。


〇ブラックの拳族が憑いてしまうとその時は願いが叶っても、その代わり何かを失う羽目になるという可能性は高いというのはある。こういうのは取引となってしまうが、ブラックな眷属は霊格の低い拳族であるから見返りを求める。勢いは強いので邪霊として相手を攻撃してくれたり、いい思いをさせてくれるが、それも束の間の話で、すぐに運気も落ちる。最悪の場合、自分の命を見返りに取られる。


〇念を強めるためには「丹田」を鍛えることである。具体的には呼吸法である。気功とヨーガと気。光の玉のイメージを浮かべてそれがおなかのちょっと下の方に入っているということをイメージ化するような方法などが初歩的なトレーニングとしては有効である。そういうのがハッキリおなかの下に入ってポカポカしてくるとか、そういう感覚が湧くようになってきたら、それがエネルギーの気や念が強まってきているという一種の主観的な証拠である。


〇祈るときは何よりも願望が実現するシーンをしっかり「イメージ」することが大事である。とにかく念じた通りの結果が現実に現れるのであるから。特定のこういうことをしたいとか、なんでもいいのであるが、それをピンポイントで頭の中に描くことである。額のところにスクリーンを描くという形でイメージして、眉間のところに映画のスクリーンのようなものがあって、そこに自分が目指している状態を具体的に焼き付けていく。そういったことが大事である。
 受験だったら発表会場に自分の受験番号がハッキリ出ているというイメージ、病気ならば健康になって退院するイメージである。家が欲しいという人は家の外観やインテリアを具体的にイメージしていく。壁の色とか、場合によっては絵に描いてもいいかもしれない。その場合、すでに家が建ったということをイメージすることが重要である。


〇7日間なら7日間一生懸命祈る、それが終わったらすっぱり忘れるということも大事である。メリハリというか、切り替える。意識のスイッチを切ってしまうのである。忘れるということは、意識の外へ出すということ。つまり、執着がなくなるということである。力を抜いてしまうのである。するとその瞬間に願いが届くということが良く起こる。これはもう経験則であって理由は不明である。
 ゼロがしばらく続いてある日突然効果が現れる。ゼロの期間は潜在学習、練習しても、何も結果・効果が出ない。祈りの場合もこれと同じで最初いくら拝んでも祈っても、何の効果も出ないという期間がある。
 ひたすら祝詞を唱えて「ある現象が起きますように」という願い事を拝むわけであるが、最初は何も効果がなくてダメからと思ったら、ある日突然現象がボーンと出てきて驚くことが何度もある。力を抜いたというか、執着を捨てたことによってある壁が突破できたという瞬間がある。一心不乱に祈った後にスパっと忘れるというメリハリが大事である。


〇祈願終了後叶わないかもしれないと不安になってしまうと、「出来ないんじゃないか」という思いが半分頭をもたげてくると、叶わない。こういうものは100%信じるという信いの世界だからそれを疑うと言いうようなビジョンとか、思いがかすめると、瞬間的に消えてしまう。疑う気持ちがどこかにあるのだったらやめておいた方がいいということである。
 例えば、ESPカードの実験で念が強い人がこれを気味悪がって自分で否定してしまうと、途端に当たらなくなる。つまり、疑う気持ちがあると、逆の方向に作用するのである。願ったことと逆のものが起きる。こんなはずじゃ無かったという思いからとんでもないことが起こったりする。

 


 

〇テレパシーによる暗示のやり方を詳しく考察するとあらゆる心霊的攻撃の基礎をなすことがわかる。肉体を持たぬ存在であろうと、異なる進化の秩序に属する存在であろうと、奈落の悪魔であろうと、単に結果を無視して有形の生に執着している利己的な友人の狼狽した魂であろうと、どの場合でも出だしは同じである。
 オーラが貫通されぬ限り、魂への侵入はあり得ない。オーラは常に攻撃者に対する恐怖心や対抗心によって内面から貫通されるのである。もし、このような本能による感情的反応を押さえられればオーラの幕は突き通されないであろうし、心霊作用による侵入に対して防衛となるのと同じである。しかし時には攻撃者との関係が前世で結ばれている場合がある。したがって攻撃者はいわば裏門の鍵を持っていることになる。これは非常に難しい問題であり、解決するには外部の助力が必要である。
 被害者はしばしば攻撃者との関係を立つのを嫌がることもある。攻撃者が肉体を持っていようといまいと、魅力や純粋な愛情の絆で結ばれているからである。このような場合は、解決はますます困難になる。


〇心霊作用による干渉を大いに和らいでくれる非常に簡単な方法
 攻撃が心霊的中枢を通して行われることは明らかであるので、この中枢を閉ざせば被害者には多少とも免疫が出来る。周知のことであるが、鈍感で物質主義的人間は、敏感な人間なら発狂したり自殺したりするような幽霊屋敷で、無事に暮らすことができる。
 やはり周知のことであるが、胃に食物が入っていると心霊力を使った作業はできない。最高の結果が得られるのは、必ず断食しているときである。これらの事実から引き出せる明白な結論は心霊的中枢を閉じておきたければ胃を殻にしてはいけないということである。心霊作用による攻撃に直面しているものは空腹状態にしてはいけない。


〇自我の機能が下がるといわゆる「潜在意識」と呼ばれているものが表に現れてきやすくなる。そうするといろんなものがイメージやビジョンとして体験されるのである。透視とか、人の心がわかってしまうというテレパシーとか、そういうことも体験できるようになる。それは超能力でもなんでもなく、もう本能といってもいいぐらいの人間がもともと持っている力である。こういうのは動物の方が強いのである。生存のための本能である。
 祈祷師は拝んでいる間は「変成意識状態」になる。真言を何度も唱えているうちに、自然に変成意識になってくる。その時は全くと言っていいほど自我はない。自分という感覚もない。ひたすら拝んでいるだけだから。つまり祈る力というのは、変成意識状態になったときに思いきり強まるのである。


〇眠りに落ちる直前は変成域になる。あの状態をずうっとキープするのである。もちろんそこで寝てしまってはダメである。寝る直前のある状態をキープしている中でいろいろなイメージが出てくるはずである。全の世界では出てきたものは捨てなさいというのであるが、むしろ願望実現であればこう言ったことをしてほしいとか、これが叶えばいいのにとかそういうことを強くイメージするのである。

 


 

〇人から親切を受けても同じように親切な行為をすぐに誰かに向けなければバランスが崩れるということがわかる。その相手は初めに親切にしてくれた人でも良いし、別の人であってもかまわない。その区別はさほど重要なことではない。
 何かを受け取り新しい品を買ったりしたときは、必ず誰かに物を与えるようにする。新しい知識を得たなら、その知識を人にも知らせるとか、その知識の使い方を他の人にも教えるようにすればバランスがとれる。要するに、どんなことでも自分の内部に溜まらないようにするのである。これをやらないと、アンバランスが強くなって、後で精算をしなくてはならなくなる。精算には苦痛がともなう。
 私たちは、自分自身を「通路」と考えるのがいい。これを「祝福通路」または「キリストの通路」という。この通路が自分にあると考え、物や事が淀みなく流れていくようにするべきである。


〇自己暗示は自分自身の意識から潜在意識へと行われる暗示である。ここでなぜ「暗示という装備に頼らずに、直接自分の潜在意識に命令できない」という疑問を抱く人もいるかもしれれない。この問いに対する答えは非常に単純である。潜在意識は意識よりも進化より初期の段階に属しており、事実言語の発展以前の段階に属しているのである。したがって言葉を用いて潜在意識に語り掛けるのは、その人の知らない言葉である人に話しかけるようなものである。このような人を扱うには手話の助けを借りなければならない。潜在意識も同じてある。
 潜在意識に向かってこれをしなさい、あれをしてはいけないなどといっても無駄である。我々は潜在意識にさせたい行為の像を心に描き、それが潜在意識へ沈潜し始めるまで意識に留めていなければならない。潜在意識はこの像を理解しそれに従って行動するであろう。
 舞台上の気後れを直したい役者は自分の潜在意識に向かって「あがるな」といっても盲目の馬に向かってウインクをしたり、うなずいたりするのと同じで効果はない。同様に舞台上の気後れというのは潜在意識の自己に向かって「こうしてはいけない」と言ってみても結果は悲惨であろう。というのは潜在意識の自己にとって「~するな」という禁止の言葉は意味を持たないので、像を見ても否定語を省いてしまうからである。
 潜在意識を効果的に扱うには無意識に、させたい行為の像を心に描いて潜在意識がその影響を受け、進んでその行為を行うようになるまで繰り返し像を描くことによって、意識に留めなければならない。
 これがすべての暗示の最終結果であり、暗示の様々な種類は最終結果の相違によってではなく、潜在意識へと入る入口によって区別されるのである。自己暗示は自分自身の意識から生じ、意識があるときの暗示は他者の心に生じて我々の心へと話ことばや書き言葉という普通の回路で送られてくる。催眠術による暗示は意識に全く影響を与えることなく、潜在意識に直接入ってくる。


〇攻撃者が人間の魂という町に侵入するには2つの門しかない。自己保存の本能と性の本能の2つである。催眠術はこの2つの両方、または一方に訴えかけなければならない。どのように攻撃者は事を進めるのか?
 内面の世界で犠牲者の魂の周辺に一つの雰囲気を創り出すのである。これは攻撃者が犠牲者のことを考えつつ自分の意識内に同じ雰囲気を作らなければ達成できない。
 心霊作用による殺人を起こそうとするなら、攻撃者は自分自身の魂を激しい殺意で満たし、その思いを溢れさせる。心霊作用による殺人を犯そうと思うなら、自分の魂を肉欲と残酷さでいっぱいにしなければならない。この種の行為を効果的に行うには冷酷な激情が不可欠である。さて、攻撃者がこのようなことを実行すると、どうなるであろうか。彼は、「深淵」に一つの基調を鳴り響かせたのである。答えが返ってくるであろう。この基調を自らの性質の基とするすべての存在即ち「堕天使的存在」らが応答し、その行為に加わるであろう。しかし彼らは犠牲者に直接働きかけず、攻撃者を通して働きかけるのである。

 


 

〇私たちは力の強弱にかかわらず、常に念を出していて、その結果を刈り取っている。念の波は、自分と他に影響するだけではなく、引き合う力も出している。心を大きく占める念の性格に応じて、他の思い、物、環境、人間運を引き寄せる。
 愛の思いは他の愛を引き寄せ、その思いに応じた環境、同じ思いの人を引き寄せる。怒り、憎しみ、妬み、悪意、嫉妬の念は同じ念を他から引き寄せ同じような悪念を呼ぶ環境や、不和をもたらす人を引き寄せる。
 強念、長く保っている念はそれに応じる他の念を引き寄せる中心になる。類は友を呼び蒔いた通りに刈り取る法則が、念の世界にも存在するのである。


〇①カルマを単に否定的なものとみなしてはならない、カルマには連続性と応報性という2つの面がある。
 ②連続性という面から見ると、宇宙的な理法・法則に反しない行動はその効果が継続する傾向がある。努力は決して無駄にならない。
 ③したがってある生涯培った能力や才能はその後の引き続いて起こる生涯にも存続する傾向を有する。しかし、ほかにカルマ上の人生状況が働くと、それによってこのような才能の発現が抑制されることもまま起こりうる。
 ④また、性格の特徴、興味、態度なども生まれ変わるごとに持ち越される傾向がある。内向性や外向性のような基本性格も、カルマ上の新しい要因が入ったり、バランスへの努力をしない限り、やはり継続する傾向を持っている。
 ⑤カルマの応報(固縁に応じて吉凶禍福の報いを受けること)についてマイナスの作用を説明すれば、ほかの生命単位(個人や団体、動物までも含めて)の幸福に害を及ぼすいわゆる「悪行」は与えた害の程度と性質に応じて正確な「処罰」を受ける。
 ⑥3種類の応報カルマ
Aブーメラン的応報=過去生で他人を盲目にした人は今生で自分自身が盲目になっている。
B生態的応報=ある生で暴飲暴食をした人は、次の生で消化器官の故障に悩むことがある。
C象徴的応報=過去生で他人が助力懇願した時に「耳を貸さなかった」人は今生で文字通り「耳の聞こえぬ」状態になる。別の例でいえば清教徒が魔女狩りをした時代に「魔女たち」に冷たい水の中につける仕置きをしたある人は、今生で遺尿症(寝小便)に苦しんでいる。
 ⑦応報カルマは肉体面でも心理面でも作用する。
 ⑧他人を嘲ったり非難したりすればその報いは、心理と肉体の両面に出てくる。つまり他人を嘲笑したり非難したりすれば、その理由や対象そのものを自分の身に受けて苦しむ(他人のどもりをバカにすれば来世で自分がどもりになるような例)
 ⑨過去生で配偶者に不実を働けば今生で自分の妻〈あるいは夫〉から同じ不貞の憂き目にあう。
 ⑩ひどい孤独や孤立は前生で自殺をした報いであることが多い。
 ⑪カルマの発芽は時として何回もの生まれ変わりの間押さえられることがある(一種の執行猶予)例えば、平安時代に残虐な行為をした人がその後5回6回の生涯ではその「精算」を行わないでいたが、今生になってとうとう「報い」にあったという例もある。
 ⑫カルマの執行猶予は次の3つの根本的理由によって必要とみられる。
aカルマの負債を弁済するためには、その時代の文化的要因がなければならない。
b肉体(肉体を取り換えつつ進化していく人間の本体、魂。)は自分のカルマを裁くのに足りる十分な内面能力を開発する必要がある。
c実態がカルマの「借り」を支払うためには、ほかの実態と適当な結びつきが成り立つことが必要な場合があるので、弁済の相手もまたこの世に生を受けるときまで待たなければならない。
 ⑬心理上の異常性質の原因を過去生の経験に突き止めることができる場合がある。動物を怖がったり、水を恐れたりすることや、閉所恐怖症と呼ばれるものなどは、このような恐怖の対象に関連のある恐ろしい経験(そのために死亡なども含めて)を前世で舐めたのが原因である場合が時々発見される。
 ⑭どんな人の魂も自由意志を持っている。この意志を利己的な目的に、あるいは過度の官能的満足のために悪用・誤用した場合のみ生命のカルマ法則が働いて自由意志は抑制される。
 ⑮ある魂が生まれ変わってカルマの宿題を果たそうとする場合、自分にとって必要な遺伝形質を備えた、肉体と生活環境とを与えてくれる両親に引き付けられる。このような磁石的引力によって受胎が起こる。
 ⑯無意識の中には実態が過去のすべての生において経験したあらゆる人生内容的な記録、または、現れた記憶が含まれている。
〇人類的敵心や憎悪のカルマ罰には、もう一つ別の種類がある。これは、外側からくる環境的な応報の苦痛よりも、もっと直に切実に迫ってくるものである。この処罰は、心身相関的なもので、これは人の心締め付ける感情を長く心に蓄えていると、否応なしに肉体に圧迫的な結果が現れる。という事実からきている。このことは心身相関医学の専門家によってハッキリ証明されている。
 憎悪・怨恨・憤激などは広い範囲の影響を肉体に及ぼす。例えば心臓病・動脈硬化・血液循環の障害など、その他たくさんの病気がこの原因から起こる。どんな感情にもすぐに肉体的結果が伴うものであるが、それが蓄積してハッキリした形に現れるためには、相当の時間の経過を持たなければならないこともよくある。
 普通の場合なら、結果は今の生涯に現れる。しかし、今まで見て生きたように、現在の肉体が過去を密接につながっているならば、また肉体が無意識内の要素を外部に投影するものとするならば、私たちが過去生で抱いた憎悪や憤怒に対する「罰金」を現世の肉体が健康や美の欠乏という形で支払うことがあるという可能性が明らかなる。
 「あらゆる病気は罪から発する」と断言する。そして、胆石、関節炎、視力減退・結核、心臓病などの病症について、その原因は立腹・憎悪・悪意・嫉妬・怨恨・自己心の様な感情にあることを突き止めている。
 「敵意や怨恨を心に抱く人は、後で直面して当惑・狼狽しなければならなくなる状態を自分で作り上げている」すると、人種的な敵意はそれがハッキリした攻撃行動に現れない場合でも、先々には、そのような悪意を持った本人の身の上に重大な形で害を及ぼすということが明らかになる。勝った方も負けた方も、このことをよく覚えておく必要がある。不当な攻撃を仕掛ける側の狂った憤怒も圧迫を受ける側の心にくすぶる憤激と憎悪もともに同じように重大な結果を我が身に招く可能性がある。
 自主的優越感に駆り立てられた人間によって自分の妹が強姦されたり、家や財産を滅茶滅茶にされたりした場合、その加害者を憎むのは人としてはごく自然の情であるが、しかし、このような自然の憎悪でさえも、結局は自分にとって不利に働くのである。
 ある人間が愚かで残酷であり、勝手気ままの残忍性をあらわにしたという理由によってその人を憎むのは、ある意味では高校生が小学校2年生を捕まえて、「お前は代数も分からないのか」と言って憎むのと同じくらい筋の通らぬことである。
 私たちは一つの石ころをそれが石ころであるからと言って憎んだりしない。自然の秩序の中に割り当てられた場所に意思が存在するという事実をそのままに受け入れるだけなのである。これと同じように霊性が未発達であるために、浅薄で獣性を脱しきれない人々の手にかかって、不当と仕打ちを受け苦しんでいるときには、そのような人々を「石ころ」なのだと思うのが賢明である。
 進化の道程においてまだ初歩的な理解レベルにあるからこそ、そんな非人間的な行動にも出るのであるから、同時にまた、白色人種が全人類の中で最上位にあることが好きな人々とも実は白人の中にも未発達・浅薄・野卑な人間がたくさんいて、世界中のもっと温良な種族から白人が嫌われているという事実を思い出すべきである。