〇人は睡眠時に通常の意思が抑えられ、その代わりに無意識や超意識が入り込みやすくなる、通常の夢は普段抑圧されている無意識が現れるのであるが、悪夢と言われるものの場合、超意識がかかわってくる。ガイドが掲示や警告を通常の覚醒意識の時ではなく、夢の中で与えるのは、通常の意識状態のときには、与えようにも与えられないからである。覚醒時の意識状態では私たちの考え・思い・雑念が強く、ガイドなどの超意識からの声は届きにくいのである。逆に言えば覚醒時でも、心を空っぽの状態、つまり無の状態に持っていくことができれば超意識からのメッセージは届くのである。


〇無欲無心の境地で事に当たるとうまくいく場合が多いのは、それが霊的成長にとって大切なことだからである。
 どうも超意識というものは欲の心を毛嫌いするようである。欲を超えた心、欲を離れた心、無心、無欲が大好きである。そういう状態へ自分の心を持っていく事が出来たら、願望は叶えてもらえるのである。どうして、そういうことになっているのかというと、欲を超えることが霊的な成長をもたらすからである。
 超意識の願いは、私たちの霊的な成長である。無欲の境地を体験することがとても大切なのである。それを体験できると、それに対して大きな褒賞を与えてくれるのである。無欲、無心がいいのはもう一つの理由がある。そういう状態で超意識とつながることができるからである。何かに没頭し、それに精魂を込めていくと、無心の状態になる。この状態で超意識に繋がり、その手助けを得やすくなるのである。


〇滝行や水行をして禊をすると、どうして内なる霊が湧出してくるのか?
 この原理は案外簡単なのである。霊とは「人生を生かすのは霊である」と聖書の言葉にもあるように、我々の肉体を生かしている生命力そのものである。そして生命の根源であるこの気=霊気は生きた人体にあっては「熱」として存在している。死してなお熱があった例がないことを思えば、それはうなずけるはずである。
 厳寒に身を切られるような冷たい滝に打たれたりして、肉体を一時急激に冷やすと、体は36度5分の体温を保とうとして、必死に熱を沸かすようになる。すなわち、生命力が雄飛してくると病気は治り虚弱な体質は一変してどんな病も受け付けない体になる。また、霊が湧出してくるとになり、細胞のバイブレーションは上がり、細胞に付着していた悪しきものは洗い流されて、悪因縁は切れやがては実相の真我が出てくるのである。
 病気になったり忍耐に悪しき現象が起こったりするのも、結局その部分の細胞に悪しき罪によって神の完全無欠な理念が浸透しないでいわば神の理念の「停滞磁場」が形成されて、細胞が神の意志通りの働きをしないで怠けたり、勝手気ままな不完全な働きをするようになるから、その結果、病気になったり、身体に不調をきたすようになるのである。神の霊を神の霊を雄飛させ人体の隅々にまで浸透・貫流せしめて、その停滞磁場を破壊してやれば細胞は本来の正常な働きを取り戻し、病は癒えていくのである。
 滝に打たれ、霊のボルテージが上がってくると、霊はそのはけ口を求めて身体に霊動を起こすようになる。即ち手足が霊に捉えられて無意識のうちに動き出すようになる。これを神道では「振魂」と呼んでいるが、その動きはその人の罪や穢れの程度・種類によってさまざまな動き方をする、ある程度穢れが払われてくると、優雅な舞とか踊りになることがある。


〇何々になりたいという言葉はいつまでたっても、なりたい自分を実現させてしまう。自分は何々だ。それが同調に使い言葉の前提である。また、何々でないようにという望む言葉は、何々であるようにと同じ意味にとらえられるという点は注意が必要である。なぜなら脳の根底は言葉の理屈を理解できないからである。加えて自分に対する思いも他人に対する思いも同様に脳の根底は理屈を区別できない。他人の不幸を望むのは自分の不幸を望んでいるのと同じである。
 次はそうなっている自分への感謝である。そうなる前からそうなったとこに感謝する。それだけである、量子物理学的には、現在も過去も未来も同時に存在する。だからこそ「何々でありがとう」それが同調に使う言葉である。
 今日抱いた望みをかなえるために、昨日から状況が変わりつつあるというのも、量子物理学的な観点からすればあり得る話である。健康でありがとう。安全でありがとう。裕福でありがとう。そうした本当に単純で簡単な言葉を発するだけのその威力を一体でどれだけの人が認識しているか。
 望むものと同種の物事に対して普段から感謝や与えという行動をとって良いエネルギーを蓄積していく、飽和状態に達するまで続けていく。
 断定した結果の言葉、それに感謝する言葉。それを一体として発するだけである。それが同調である。そんなものが本当に有効なのかという前にやってみるといい。その脅威とも呼べる力を実際に感じてみるといい。


〇与えを続けていると、その中で何か守られ導かれているのを感じるものである。守られている、導かれている実感とは、自分が目標とする同調のエネルギーの集合体が同調反応して時分に作用するとき、そのエネルギー自体の作用の方向性いわば意思が現れるという現象である。それを意識するとますます同調反応が加速し自分を取り巻くエネルギーの集合体のその力が発揮される。まさに量子物理学的な現象である。
 何かを求めるとき、得ようとして求めるのは、「得る求め方」、大半の人がそういう求め方をする。そして得られずにいる。逆に与える求め方をする人はどんどん求めるものを得ていく。例えば、お金を得たいために商売をする人にとって、お金を得たいという得る求め方をすれば、大抵その商売はうまくいかない。逆にその商売によって、世の中のため人のために貢献したい、という求め方をする人はその商売で成功していくのである。

 


 

〇感覚を研ぎ澄ませるために効果的なトレーニング「水鏡」
 これは場所をとらずにどこでもできるし簡単である。出来れば人の出入りがなく、電話が来ない静かな部屋で行うようにする。直径30センチ程度の洗面器や桶に水を入れ、水面に自分の顔を映して、ひたすら見つめるだけの修行である。
 行う時間帯は午前中、それを過ぎたとしても日が高いうちに行うようすること。1日30分程度をめどに続けていくと、適性がある人であれば数日から1か月ほど、能力が鋭敏でない人でも、1年ほどで、自分の顔の周囲の霊的なオーラが見えるようになる。
 湯上りの身体から湯気を上がっているようなものが見えたらあなたの霊的オーラである。最初の頃は目を凝らして集中力を高めないと見えない霊的オーラが慣れるにつれて、さほど時間をかけずに見えるようになる。そうなってくると、水鏡を通さなくても、自分や人のオーラが見えるようになってくる。(色はないので注意)


〇何か否定的な状況に遭遇した場合、すべての原因を相手に押し付けようとするときは、ここでも心の侵略者によるマインドコントロールが生じていると考えるべきである。それに気づかない限りは冷静な状況判断はできない。憎しみによって状況はどんどん悪化するだけとなってしまう。このように心の侵入者(憑依霊)は感情が満たされる瞬間を常に狙っている。そして、人格を乗っ取り、より大きな破壊的状況を創ろうとする。この負のループを断ち切るための簡単な手段が、自分を見つめる黙想をする時間を作るという行為である。 
 それは、否定的な状況を生むために必要な要素の一つを削除することになる。その行為は新しいカルマとなって違う状況を構築していく。何かの状況を変えるためには、それを構成している要素の一つのどれかを削除するか変更してバランスを変えさえすればよいということが理解できると思う。
 同じように幸運で幸せな人生を実現するためにもすべての条件が満たされる必要がある。どのようにしていくかというと、肯定的なカルマのループが生じるための最初の小さな行動をとるのある。
 一つの肯定的な行為がカルマとなり、新しい状況を生み始める。それがまた次のカルマを生じさせる。「持続は力なり」という格言があるが、これはこのカルマの原理を利用したループ構成の有効性を示しているとも考えられる。
 肯定的なループを生むために最初の波紋となる要因を作ることは簡単である。自分がしてほしいことを他人に対しても行えばよいのである。ことあるように、幸運が訪れやすくするための重要なカギである。もし自分がしてほしくないことばかりを他人に対して行うと、何が起きるかは簡単に想像できるはずである。


〇誰かと会話をしているとき、あなたの話にいきなり割り込み辻褄が合わない意味不明な話を始めたとしたら、その相手には重度の憑依現象が起きていると考えるべきである。そういう状況に遭遇した時は、必ず相手の目を見ること。ふつう、本人の人格がストレートに表れている場合は、濁りのない目をしている。しかし、強い憑依を受けると目の透明感を失い濁ってくる。


〇悲しみが強い場合、その悲しみに自分が気づいてしまうのではないかという恐れがそのブロックの表面を覆ってしまうことがある。こういう人の場合は「恐れ」がブロックの表面を固く覆っているため、何事に対しても、心を解放できなくなってしまう傾向にある。こういう場合はいくら瞑想などを繰り返しても、基本的な「恐れ」が癒されない限り、潜在意識領域では外界に対して緊張が連続することになり、なかなか変性意識になりづらく、高い次元の感覚も受け取りにくくなる。そして同時に「恐れ」を持っている人は共通して、スピリチュアルに対して知識欲が旺盛な傾向がある。

 


 

〇直観に基づいて決心するとき、私たちは自分の感覚を信頼する。あなたが初めてそうした時転機となる。その瞬間から自分に対する自分が築き上げられ、もう過去を振り返ることはない。あなたに正しい方向を指し示してくれるこれらの感覚やサインに気付き、敬意を表して、それに基づいた行動をしなければならない。


〇呼吸法の修練による集中法
 瞑想する体制に入ったなら、目を閉じ息が鼻孔から入ってきて、また鼻孔から出ていくのに合わせて呼吸の動きに注意を払う。あなたの心を鼻孔に集中させ、始めから終わりまで、呼気と吸気の通過以外には考えないこと。
 息が肺まで行くのや空気中に還っていくのを追ってはならない。鼻孔を出入りする呼吸の流れだけを見つめる。もしできるなら、出たり入ったりする際の呼吸の微妙な感覚に注意する。ドアマンがドアを出たり入ったりする一人一人を注視するように、各々の呼気と吸気とを鼻孔を通過する際に意識する。呼吸の感覚に意を用いよ。呼吸を想像したり、視覚化したりしようとするな。あるがままに正確にあなたが感ずるとおりに、呼吸の感覚を注視せよ。
 鼻孔のヘリで、あるいは鼻のすぐ内側で又は、上唇の上で、あなたは呼吸を感ずるかもしれない。あなたが感ずる感覚は変化するだろう。呼吸がときには、羽毛の軽い接触と感じられるかもしれないし、鈍い振動、唇の上一点の圧加、あるいは無数のほかの感覚として感じられるかもしれない。呼吸を感じるのに「正しい」感じ方はないのである。ただ、あるがままに感じること。
 あなたの心が、ほかの思考に移って行ったり、あるいは、背景の物音にとらえられたりするのに気付いたら、すぐにその都度、あなたの注意を呼吸の安らかで自然なリズムに戻す。あなたの呼吸を支配しようとはしないこと。呼吸をただ注視する。
 早くても遅くても、浅くても深くても、呼吸の性質は問題ではない。呼吸に対して注意を完全に向ける良い方法は数を数えることである。もし自分の心を呼吸上にとどめておけないならば1から10まで数え、また1に戻って数えなおすことを繰り返す。そうでなければ、自分の心を呼吸の上につなげておくために、あなたは時に強い慎重な呼気と吸気を行ってもよい。
 その後で、あなたの呼吸を正常なテンポに戻すことである。自分が何か他の事を考えているのを実感したら、あなたの意識を呼吸の上に戻す。
 思考と戦って打ち負かそうとしてはならない。それらの思考が通過するのに任せておく、もし、音響があなたの気を散らせるなら、やはり同じことをする。音が存在するのを放っておき、ただあなたの呼吸を再び注視するように。
 もし痛みやかゆみに邪魔される場合には、ゆっくりと体を動かすか、それでもダメなら、痛みやかゆみがなくなるように体を移すこと。しかし、そうしている間も、心を呼吸の上にとどめておくこと。あなたの心はさまよい、ふらつくだろうし、初期の瞑想の段階では、どれほど心というものが活動的であるかに間違いなく気付くだろう。そのことに煩わされるな。何であれ、心がさまようところの対象が移り行くままにしながら、あなたの呼吸の上に注意を戻し続けよ、自分の思考を放ちやること。


〇あなたが、座禅の瞑想を実践しているなら、自分の思考を停止させようとはするな。思考を思考自体によって停止させよ。もし、何かがあなたの心の中に入ってくるならば、それが入って来るままに、また出ていくままにせよ。思考は長くとどまりはしないだろう。
 自分の思考を止めようと試みるときは、あなたはその思考によって妨害されていることを意味する。何者によっても妨害されるな。何かがあなたの心の外からやって来るということがあるときは、実際には、それはただの心の波に過ぎず、もし、あなたがその波に悩まされないなら、徐々にその波は静かに、静かになっていくのである。
 多くの感覚が生じ、多くの思考あるいは心象が生じるが、それはあなた自身の心から生じる単なる波である、何物もあなたの心の外からやってはこない。もし、自身の心をあるがままにしておくならば、それは静寂になるだろう。その時心は大きな心と呼ばれる。
 物事をただ起こるがままにさせておくこと。全ての心象・思考・感情が起こるままにしておき、悩まされたり、判決を下したり、執着したり、それらと自分を同一視したりすることなく、過行くままにさせよ、大きな心を持ち、すべての波が寄せては返すのを注意深く顕微鏡的に観察する人間になること。この態度は、バランスと静寂の状態を急速に引き起こすだろう。
 常に起こっていること、呼吸であれ、感情であれ、思考であれ、その起こっていることに対して心を鋭い意識のうちに保つようにせよ。それぞれの瞬間にバランスの取れたリラックスした心をもってその対象に注意を集中せよ。

 


 

〇自分を祝うということは、自分を認めることになる。よく頑張っているというハッキリとした行動である。表面意識がしっかりと自分を認める事で感情が満たされる。感情の象徴であるインナーチャイルドが満足して気持ちが落ち着くと、感情のエネルギーが出ている腹のエネルギーセンターがくるくると気持ちよく回ってバランスよくなる。どんどん中から美しい黄色の光があふれてくる。


〇人間が誰かを批判や中傷すると、その人やその事柄にとても関心があるということになる。夢中になっていると思って、同じような別の現象を探して現実化してくれる。宇宙レストランで「これはまずい」と叫ぶと、同じようなまずいものをまた持ってくるのである。
 「これは素晴らしい」とほめると素晴らしい別の物をまた持ってくる。まるで、注意を向けるものは何でも注文と思ってしまうようである。この辺の宇宙の特徴を知っておくことは、日常生活でとても大切である。
 素晴らしいと自分が感じるものを見つけて、それに注目していれば、次々と素晴らしい現象を引き寄せるのである。これは日常生活で大いに活用できる。ぜひ試していただきたい。
 どんなに遅れそうでも、必ず間に合うと信じて、ホッとしている未来の自分をイメージしたら、本当にそうなるものである。


〇人体にはいくつかのエネルギーセンターが存在している。これをチャクラと言、このチャクラはそれぞれ異なった欲望に対応している。人はいろいろ欲望を持っているが、欲望をかなえようとすると、その煩悩に対応した、エネルギーセンターからエネルギーが漏れて行く。
 つまり、チャクラから気が外側に漏れていくわけである。ところが、気の操作がある程度できるようになると、そこから漏れ出す気の流れを意識的に止めることができ。この作業はいつでもどこでも、例えば、自転車に乗りながらでも出来る。
 こうしてチャクラからの気の漏れを止めるとどうなるか。そのチャクラに対応した煩悩が止まるようになる。「もちろん、エネルギーはもともと漏れる傾向にいある。それに対して集中によって気の流れを止めるわけだから、それなりの集中は必要だけど、ものすごく静寂になる。心は全く動かない」心が煩悩によって振り回されなくなり、静寂の状態に至る。まさに聖者の境地である。
 さて、このようにして、煩悩破壊に向かったとき、逆に気の流れを最も強烈に感じるようになるというから面白い。
 経験的に煩悩による、とらわれを放棄し、煩悩から解放されるようにしていくと、エネルギーの上昇が強烈になっていく。また、自分自身を守りたいという自己保全の考えをつぶし、四無量心の実践をするときも、物凄いエンパワーメントを感じ、エネルギーがすぐに上昇する。四無量心とは、聖慈愛‣聖哀れみ、聖称賛・聖無頓着という利他の心である。自分自身の煩悩を弱め、他を制する実践をしようとしたとき、最もエネルギーが強まり、心は静寂に向かう。


〇良い偶然が繰り返し起こるのは、変化を迎えているときが多いもの、精神が高揚し、情熱が沸き上がっているときである。例えば恋に落ちたときや何かを決心した時、新しいことを始めようとしたときなど、精神的にも忍耐的にも、人が動いているときにこそ偶然は生まれる。
 よい偶然が重なると、自分が進んでいる道は正しいのだと確信が持てる。あるいは、不安があるときなら、後押しをしてもらえる。背金の常識に反した判断をしようとしているときや、合理的説明のできない行動をとろうとして糸岐でも、竹簡に従う勇気をくれる。
 人はいつでも孤独ではない。目に見えない援軍がついているのだと教えてくれるのである。偶然を引き寄せるのは、例えば、隣り合わせの愛と危険、燃え盛る情熱が物事を動かす磁場を生むのである。
 「危険が大きくなると救いの力も大きくなる」一方良くない偶然が重なり、逆風が吹くのは、変化を拒もとしているとき、自分の殻に閉じこもっているときである。この乗り物でよい偶然と出会おう。そう心に決めて、出かけてみること。それが果たせるか否かで今のあなたに偶然を引き寄せる力がどれだけあるか、テストできる。
 移動手段は列車でも、バスでも、自分の車でも、あるいは歩いてスーパーに行くときでも構わないが、そうした身近な場所でこそ実りある偶然は豊富に見つかるのである。


〇心のおしゃべりが静かになると、あなたは自分の中で変化している微かなエネルギーにもっと気付ようになる。そんなことは不可能だと思うかもしれないが、自分の考えが心に入ってきたり、出て行ったりするのを観察していられるように訓練できるのである。その心の動きはまるで流れる水のようである。すると間もなく心に浮かぶ考えは、あなたの顕在意識への影響力を失うことになる。自分のサイキックあるいは直感の導きのシステムを開発するには、内なる静けさに心地良さを感じられるようにすることが重要である。

 


 

〇人間は自己の本性を悟れば悟るほど自分の霊的軌道によって全宇宙に働きかける力が増し、自分自身もまた環境の力の影響を受ける度合いが少なくなる。


〇人間は一日のうち目を覚ましている16時間は自己意識が肉体にある。それから眠って夢を見ている間は自己意識は幽体にあって幽界人と同じように向こうでも自由に創り出すことができる。
 また、夢も見ないほど十分に睡眠が深いときは、数時間意識を観念体に移す事ができる。このような眠りには、心身の疲労を回復させる力がある。夢を見ているときは、意識は観念体ではなく、幽体にあり、このような睡眠には十分な回復力はない。


〇【気】の訓練である小周転・大周転法を深く行っていくと、体が全体的にジーンとしびれたような感覚が広がる。次に体が解けたようになって手足がどこにあるかわからない。体が一つの球になったような感じが生じてくる。さらに訓練していると、体が浮いたような感覚が生じ目を閉じていると空間にポカンと肉体感覚のない自分が浮かんでいるように感じられる。
 最初は息をしていない自分にハッと気がついて、慌てて息を再開するのであるが、慣れてくると呼吸が停止した状態を楽しめるようになってくる。この状態をヨーガ・スートラでは呼吸と止息の流れを断ち切るという表現で、第4の調気というわけである。この状態では、肉体の存在が自覚できにくくなるので、内外の対象を排除したともいえるし、非常に快適感を伴うので、苦痛や不安はなくなる。そして、脳が身体からくる膨大な情報を処理しないで済むために生じると思われる意識だけで存在した状態がやってくる。
 仙道では、この第4の調気の状態を【胎息】すなわち胎児の呼吸と呼んでいる。ここで注意しておかなくてはならないのは、この呼吸停止の状態はねあくまで「気」プラーナをコントロールできるようになった結果なので、呼吸を停止することを目標に訓練することは不自然である。やりすぎると身体に害を与える可能性がある。


〇気の能力が飛躍的に高まるとき
 気の能力が高まるときは「気」の流れが歪んでくる。これは気を訓練しない人には無縁なものであるが、自然や人との出会いの中で大きな気づきが起きて気の新しい回路が覚醒するときに気の変調がしばしば起こってくる。気の能力アップの時にも、気の流れは歪むものである。この時、頭の深いところ大きな動きが起こっていて、大量に生体エネルギーを必要とするために、身体の方に生体エネルギーが回ってこないような状態が生じる。風邪のひき始めのような少し頭がボーっと熱を持つ、身体がだるいという感覚が数日間続く。そして気の能力アップの過程が進むと、スッキリして何か地平が明けたような感じとなる。


〇「願掛け」の具体的な方法
 まず、日数のコースを決める。この間はたとえば、お茶や酒、甘いものなど、自分が好きなものを断つ。そして、願掛けを始めるにあたって、神社があればそれでいいが、できれば先祖代々、そこに縁もゆかりもあるという神社が一番いい。それから、神棚に毎日手を合わせる。手を合わせるときには、そこに常に神様でいると思ってお参りして「新しい注文が来るように」とか、「大きいプロジェクトが来るように」とか、「社運をかけてやっているこのプロジェクトが成功するように」「新商品が売れるように」というように願い事をハッキリ具体的に決めてやる。そういう風に思いを一つにまとめてぶれないようにする。しかも習慣的にそれを意識することである。
 まとめると、まず、好きなものを立って願掛けの日数を決めその期間、毎につ必ず神棚に手を合わせる。これが「願掛け」の具体的な手順である。ここで注意亭置きたいことは、鍵掛を始めると、必ずと言っていいほど、「魔が差す」ような出来事が頻発するようになるのである。
 願掛け中に仕事の依頼や遊びの誘いがきて拝む時間を確保できなくなるような出来事が起こったりする。思わぬアクシデントやトラブルなど、拝む気持ちになれなくなるような出来事も起こる。でも、願掛けは一日でも欠いてしまえば、水の泡になってしまう。そこで拝むことをやめてしまっては、もうおしまいである。願掛け最中は、絶体に拝む時間を確保して、ほかの活動を優先させないようにすることが肝心である。
 ある会社は100日間「願掛け」して経営を立て直ししたが、その後のフォローが大事なのである。結果が出た後に気を緩めて、何もしなくなってしまうと、その反動が来る。せっかくうまくいっても急降下することになるから、結果が出たら必ず御礼参りをすること。
 「こんなに一生懸命祈っているのに、なぜうまくいかないんだろう」その人が拝んでいた対象は、自分自身の邪心が生み出した、黒蛇化した想念である。本心の部分では、経済的に苦しい状態に荷らだっており、祈りの中に清浄な気持ちの欠片さえもなかったのである。「お金が足りない、生活が苦しい、もっと稼げるようにしてくれ」という欲と、「商売敵など打ち負かしてしまえ。うちの仕事を邪魔するものは片っ端からいなくなりますように」という邪念の塊になってものすごい形相で拝んでいたのである。
 このように心にゆとりも余裕もない拝み方をしていると、神様や神様のお使いは守護してくれない。その代りに祈る人の邪心に同調した「低級霊」が近寄ってくる。低級霊は供物を消費するだけで何の結果ももたらさない。やがて祈る人やその家族の運気を下げて病気、事故、ケガなどのネガティブな出来事に見舞われるようになるだけである。

 


 

〇大周転法の外気の訓練
 広くは意識の訓練を行っていく上で最高のコツの「ありありとイメージでき、そうなると確信出来たらそうなる」このコツは人が思いを実現していこうとするうえで、単純明快、実行しやすく速攻があって、万能に近く、しかも副作用がないという非常にありがたいコツで、ナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィー、ポール・マイヤーなどの成功指導の専門家たちはこのことだけを何十冊もの著書で書いている。このありがたいコツは、①イメージ力と②確信力の2つの要素から成り立っている。
 まず一つは気功法によって確信力を付ける方法がある。それは外気という意識エネルギーが物や生物に作用して、現実に一定の効果を生じるという経験を、繰り返し繰り返し自分に注入することである。
 たとえば、物の味を変えるといった簡単な外気の訓練でも、一人で気が充実した時に行い、友人が見ている前でするのである。生物、人間に対しても同様の経験を繰り返して外気が当たり前の感覚となるまで、「ありありとイメージでき、そうなると確信出来たらそうなる」ことを確認する作業を物の次元、生物の次元で、ステップを踏んで行うわけである。そして意識のエネルギーが現実化することに確信力がついたら、実現したい「思い」をより高度なより良いものとしていくのである。


〇外気功のコツ
 ①ありありとそうなった、または、そうなりつつあるイメージを描く。
 ②そうなるると確信を持つ。イメージを持つときに大切なことは、もうすでにそうなってしまった完了形でイメージ化するか、またはそうなるのに時間がかかりそうだったり、自分がなかなかイメージできそうにない事象の場合は、徐々にでもそうなりつつある進行形でイメージ化することである。 
 我々は物質的制限の多い世界に住んでいるから、なかなかの外気という「気」のエネルギーが何かの効果を発生させるというイメージを持つ事が難しく、自分で否定したり、数回やって見てうまくいかないとすぐに諦めてしまう。
 しかし、この進行形でイメージ化すればすぐに効果が現れなくても、徐々にそうなっていると自分に納得させることができ、あきらめたり、自分がだめだと否定しなくて済む。練習をやめなければ、大地に埋もれた種が地下で生命の活動を開始し、時節が到来して日の目をするように必ずその効果を発揮するのである。
 外気功は3つの条件さえ満たせれば誰でもできる。第一はそうなりたいと思うこと。第二は練習を開始すること。第三は練習をやめないこと。というのが決まりである。


〇イメージ力と確信力の鍛え方。
①小さな体験を積み重ねる。
②やり易い場面、やりやすい対象から繰り返し行う。
③徐々に難しい対象にチャレンジする。
④わかってくれる感性の良い友人を作り競い合う。
⑤誰もが持っている能力を覚醒させるということをできるだけ論理的に納得する。
⑥結果を必ずフィードバックする。出来れば科学的測定をする。
⑦上手な人のまねをする。
⑧出来るわけがないという制限する概念をなくす。
⑨イメージは、五感+気感を総動員する。
⑩失敗して関心が揺らいでも前向きプラス発想で行く。
 例えば、物を空中に浮かす時、それが実際に浮いてしまっているイメージを脳の中に創り出し、人々が浮かんで見ている現実と、イメージの像がダブって見えるようになると浮きはじめ、イメージのとおりに自分の肉眼に見えたとき、物が浮かび上がるという。これは、もう一般に言われるイメージというよりは、リアルな視覚化とでもいうべきである。

 


 

〇呪殺と防御
 防御的なものを創造する場合、便利なのは、植物と鏡である。植物の物神は簡単に制作することができる。それは鉢植が可能な低木や多年草や気候に強いものの種や苗木に欲望を刷り込むことから始まる。その欲望は防御である。
 可能な限り数回にわたって能動的ノーシスにより種を魔術化すること。次に土、鉢などにも同様の方法で欲望を刷り込み、最後にノーシスと補足としてのドラッグ、不眠、苦痛等を利用して種に複写を視覚化し、土に埋めて育てればよい、ある程度育ったならば、そこにあなたの一部を入れた人形を用意し(これも魔術化していること)そばに置くと良い。
 鏡の防御システムは2枚のコンパクトな鏡と防御したい人たちの写真を用意する。2枚の鏡面ではない面に写真を張り接着する。この物に欲望を刷り込む。あなたが合わせ鏡を前に制作した接着鏡をより複雑に映し出しながら魔術的行動をなすならば、どのような知性体もあなたに触れることはできない。これとは逆の攻撃の物を作成する場合その対象者を殺害したいのか、そこまでしなくてよいのかを考える。この場合、殺害するならば、それは死の物を作ればよい。簡単なのは、精肉店で買えるだろう牛・豚・鶏の心臓と対象者の一部。そして蓋のできる容器である。容器の中に対象者の一部と心臓を入れて欲望を刷り込む。欲望は腐敗だ。
 次にこの容器を所有する庭などにおいて腐敗させる。完全に腐敗が進行する中で対象者は死の冷酷な一撃を知ることになる。
 わら人形などは殺害のためのものであるというより、重症・怪我・不幸のための物であることを念頭において、人形等を物として魔術化することにより、それを傷つけることが結果を引き寄せる。
 対象者の人形を葬式を真似て扱い、苦痛の感情によりその人形が活性化されるような術は不幸の結果を対象者に与えるだろう。
 妖術をある程度極めることは武器のチャージ、また物理神殿での操作を練習することになる。魔術行動の要となる基礎実験の半分は、妖術が持っていることを忘れてはならない。


〇指導者なしで小周転法を自習する場合に大切なことの一つは、まず初めに頭から下降する経路を徹底的に活性化して開通しておくことが必須である。下降する経路に沿って、頭部では涼感、ジーンとした気感、頸部から下腹部までは暖かい感じの流れるベルト状の通路が明確に感知出来れば、下降する経路を開通したといえる。


〇外気のクオリティーをイメージを使って変化させ、飲み物や人に作用させて味の変化の仕方や、受け取る気の感じの変化を観察すること。治療で言えば白銀の満月の気は漢方の湯に相当し、発熱や興奮を鎮める時に使え、黄金の朝日の気は補に相当し幅広く機能の低下した状態に使える。またこの黄金の朝日の気は、外気の訓練としてだけではなく、健康増進の方法とても非常に効果が高いのでぜひ試みていただきたい。
 では、治療とは逆の破壊的な外気のクオリティーを変化させることは可能なのか。実はこれも可能である。例えば、怒りに任せて外気を出すと、受けた人は非常に迷惑をこうむるが、実は自分が後でさらに心身の不調をきたすことになる。こういうと怒ることのない聖人君子のようには、なれないという反論が出ると思う。その通りで普通に怒る分には問題はなく、気のエネルギーを怒りのような破壊的なクオリティーに変調して出さない方がよいというだけのことである。
 外気を色のイメージで変調して出力する技術をマスターしたら、好みに従って神仏や過去の偉人などをイメージして外気を出す訓練をして、気感の変化や自分の感情の変化を観察してみるのも面白い。

 

 

〇風邪をひいて鼻が詰まったときや、鼻に病気があって口で呼吸しなければならない場合に急に体力が衰えたり、気力が失われていくことで納得することができる。
 口からではプラーナをわずかしか吸収することができず、空気中の化学物質だけしか吸収されないからである。だから、息を吐くときは、鼻か口を適当に使って構わないが、吸うときは原則として鼻から吸うのだと覚えておくこと。


〇まず、ゆっくり息を吐いていく。吐くことだけに意識を持ち、吸うときは、一瞬無意識のうちに吸うこと。これは難しいことではなく、吐くことだけに集中していれば、知らない間に気が付いたら吸っていたというようになる。
 吸うときは素早く、吐くときはゆっくり静かに、が原則である。息の音は決して立ててはいけない。
 次に全細胞が緩んできたというイメージを持つ。緩んで細胞と細胞の感覚が広がり、一個一個の細胞も大きくなったと想像する。その緩んだところに宇宙の気エネルギーがスーッと浸透してきて、やがて、満ち溢れたと想像する。すべての細胞に気が満ち溢れたとイメージすること。その時点で今度は自分の心と体から、四方八方ににエネルギーが放射され始めたとイメージする。
 全身を緩める。意識をふわっと丹田におとす。この感覚を体でつかむと、気は体内で充満し、パワーとなる。


〇呼吸法
 息を足の裏から吸い上げ、百会まで上げた後、意識を丹田に落としてゆっくりと息を吐いていく。実際には鼻から吸うのだが足から吸う感覚をとらえる。その時、各種の呼吸パターンにより腕、手、腹、首など、様々な体の部分をねじり緩める。
 ゆっくりと吐く息とともに、体の中心から緩みを膨らませていく。とはいえ最初は体の中心から「風船」のように膨らむものなどまるで分らない。また、膨らんでくるものが途中からしぼんだり、消えてしまったりする。しかし、それでよい、稽古を始めたばかりのころは、わからない、わからないなりにやることである。
 そのうちに、「あれ、この感覚は何か、これが風船のように広がっていくものなのか」、と、体の中でひらめくものがある。ヒラメキ。呼吸法の稽古の中で重要なのがこのヒラメキであるといってよい。これかと思うヒラメキがのちに体の感触を通して大したものではないことを知り、ガッカリすることもあるが、ヒラメキによる感触が、上達するための大きなウエイトを占めているように思えてならない。「風船」が膨らむ感覚も、いかに体を緩めるかというためのものだ。まずゆっくりと息を吸い体の中で「風船」が膨らむ感触を探した後、そこに息を吹き込むつもりで吐いてく。稽古をするうちに「風船」のように膨らむ感覚が実感としてとらえることができるようになる。膨らんでいく「風船」=ゆるみが首、頭と範囲を広げながら登っていく。この時、非常に心地のいい快適感が味わえるが、次の動きに対して満を持しているという気分が全身にある。

 


 

〇私たちは、自分自身を知った程度に応じた分だけ世界(世の中で起こっていることの意味)を知り、他人を理解することができるということである。つまり自分自身を本当に知らなければ周りの世界を認識できないということである。
 過去の失敗した経験や不調和な出来事に関して、それがなぜ起こったのかを反省し、その原因を究明し、さらにそこから学んだことを心に銘記した時、その出来事は各人の悟りの材料と変わり、個々の向上の糧となっ育ということである。
幸せは条件や環境が整って得られるものではなく、既に与えられている環境その他の恵みから私たちがどれだけの愛を感得できるかということである。この愛を感得する能力が高まる度合いは幸福感の深まる度合いと比例している。そして、その幸福感の深まった心で生活していくとき、私たちの周りに幸福な環境が展開され、ますます幸福感が深まってくいのである。

 


〇自己実現への近道は心を浄化させることにある。浄化すればするほど心の中にあったスモッグが取り除かれ、潜在意識の働きが強まるので自然に集中力がついてくる。それは、心の中に抑圧されている恨みつらみ、愚痴、そしりなどの位否定的な思いが雑念となって集中力を妨げているのであるから、心の浄化によってそれらを除けばよいのである。
 心の浄化とともに集中力が増大して来ると、一つのことを思い続けられるようになってくる。するとこの「思い」はラジオの電波のように波動となって広がっていき、同じ波動を持った人々に感応する。その結果「思い」が成就されるために必要な人や物が引き寄せられ、いろいろなことが実現されていくのである。

 

   カルロス・カスタネダ 呪術師シリーズ重要部分 その2
〇「夢見にはわしらのエネルギーすべてが必要だ。もしも、わしらの生活で熱中するものがあったら、夢見が不可能になる。」彼は答えた。
「でも、伊瀬の僕には熱中するものがあったよ。だけど、僕の訓練が妨害がされたことは一度もなかった。」
「とすれば、自分には熱中するものがあると思うたびにお前はそうとは気づかぬうちに妨害されていただけのことだ」ドンファンは笑いながら言った。
「呪術師にとって何かに熱中するということは、自分のエネルギー源がすべてそっちに取られるということだ。お前は完全それに没頭していたわけではないんだ。」


〇「夢見るものは、想像力豊かでなければならない」ドンファンは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「お前には想像力がないんだ。わしは、エネルギー体を動かすには想像力を使わなければならいことをお前に黙っていた。それはお前が独力でその謎を解けるかどうかを知りたかったからだ、お前は謎が解けなかったし、お前の友達もお前の助けにはならなかった。」 


〇ドンファンは内的沈黙を思考が遮断され、人が日常の意識とは違うレベルで活動しうる特殊な存在状態であると定義した。彼は、内的沈黙は内的対話(思考の永遠の伴侶)の中断を意味すること、そして、それゆえに深い静謐の状態であることを強調した。
「昔の呪術師たちはそれを内的沈黙と呼んだ」ドンファンは言った。
「なぜならそれは近くが五感に依存しない状態だからだ。内的沈黙の最中に働いているのは人間が持つ別の能力、その人間を魔法の存在たらしめる能力だ。この能力は今では失われてしまったが、それを奪い取ったのは人間自身ではなく、外部から作用したある力だった」
「人間から魔法の能力を奪い取るその外部から作用する力とは、一体何なの?」私は尋ねた。
「それについては、またの機会に説明しよう」ドンファンは答えた。
「今話題にすべき事柄ではない。もっとも古代メキシコのシャーマンたちが一番真剣に取り組んだ呪術の側面ではあるがな。内的沈黙は、呪術のすべてがそこから生じる立脚点なのだ。言い換えれば、我々がなすことは万事その立脚点へ通ずる。それは呪術師の世界におけるほかの全てと同様、何か巨大なものが我々を揺さぶられない限り、自らの姿を現すことはない」
 ドンファンはさらに話を進めてこう語った。古代メキシコの呪術師たちは、内的沈黙という望ましい状態へ到達するために、自分やほかの呪術の実践者たちを根底から揺さぶる方法を無数に考案した。彼らは、滝つぼへ飛び込むとか、毎晩、木のてっぺんの枝から坂さかさまに釣り下がって過ごすといった、一見内的沈黙の追求とは無関係の常軌を逸した行為こそが、内的沈黙を成し遂げる秘訣だと考えた。ドンファンは古代メキシコの授受した他の論理会社に倣って内的沈黙は集められて蓄積されてきたと断言した。私の場合で言えばドンファンは私の中にまず内的沈黙の核をこしらえさせ、そのあとで内的沈黙訓練するたびに徐々にその核を大きくするよう私を導こうとして奮闘した。彼の説明によると、古代メキシコの呪術師たちは時間の点から見て、人にはそれぞれ異なる内的沈黙の入り口があることを発見した。それゆえ内的沈黙は、その個人特有の入り口に達して作用できるようになるまでの間、個人個人が維持しなければならない。
「それらの呪術師たちは何を内的沈黙が作用している印と考えたの、ドンファン?」私は聞いた。
「内的沈黙はそれを蓄積し始めた瞬間から作用する。昔の呪術師たちが追及したのは、個人特有の沈黙の入り口へ到達するという、最終的かつ劇的な結果だった。才能豊かな実践者の中には、求めている目標へ到達するのにわずか数分の沈黙しか要さない者もいた。才能に劣る他の者たちは、その望ましい結果へ達するのにもっと長い沈黙、たいていは1時以上の完全な静寂を要した。この求めている結果を昔の呪術師が人間本来の姿の立ち返る瞬間なのだ。昔の呪術師たちは、これを完全な自由とも呼んだ。それは奴隷の人間が自由な人間になる瞬間だ、自由になった人間は我々の直線的想像を超えた知覚の働かせ方ができるようになる」
 ドンファンはさらにこう断言した。内的沈黙は判断の完全な一時停止へと通ずる道である。判断が完全に停止した瞬間、宇宙全体から発散されている感覚データは五感によって解釈するのをやめる。またその瞬間には使用と反復とによって世界の本質を決定する力となっている認識力も働きをやめる。
「内的沈黙の活動が開始するためには、呪術師破壊点を必要とする」ドンファンが言った。
「破壊点は石工が煉瓦の間に詰めるモルタルみたいなものだ。モルタルが固まってようやくバラバラの煉瓦が一個の構造物になる。」
 ドンファンと交流を持った最初から、彼は私に内的沈黙の価値と必要性とを叩き込んできた。私は全力を尽くして、教えられたとおり内的沈黙を少しずつ蓄積しようとした。この蓄積の効果を図る手段はなかったし、自分が何らかの入り口補到達したかどうかを判断する方法もなかった。私はただ内的沈黙を蓄積することを執拗に目指した。単にドンファンを喜ばせたかったからではない。蓄積する行為そのものが努力目標になっていたのだ。


〇内的沈黙の到来を容易にするものとしてドンファン教わった方法がある。ベッドに座って膝を曲げ手でくるぶしをつかんで両足を引き寄せ、両方の足裏をくっつけるというやり方だ。前にドンファンからもらった太いこん棒を私はどこへ行くにも携えていた。長さ14インチの丸い木の棒で片方にクッションがついている。この棒を脚の間へ立ててクッションのついている側へ額を乗せ、前のめりになった頭を支える。私はこの姿勢をとると、いつもほんの数秒でぐっすり寝行ってしまう。


〇私はドンファンの勧めを1から10まで忠実に守った結果、夢の構成要素へ意識を固定させておくことに成功した。ドンファンが提示した考えは、望ましい夢を意図的に見ようとするのではなく、自然に見る夢の構成要素へ注意を固定しておくことだった。次にドンファンは古代メキシコの呪術師達が夢見の源と考えているもの、すなわち集合点の移動について事細かに教えてくれた。それによると、集合点は睡眠中に極めて自然移動するが、移動を見るのは少々難しい。というのは、それには攻撃的な気分が要求されるからだ。
 古代メキシコの呪術師たちはそうした攻撃的気分を理屈抜きに好んだ。彼らは自分たちの呪術の全体となるものを一切を、この攻撃的気分によって発見したのである。
 「それは捕食者の気分と言ったらいいか、非常に貪欲な気分なのだ」ドンファンは説明を続けた。
「そうした気分になるのは、ちっとも難しくはない。なぜって人間は本来、捕食者なのだからな。お前だってその気分になれば、この小さな村の誰でもいい、あるいは遠方の誰でもいい、その人間が眠っているところを攻撃的に見ることができるだろう。相手は誰だって構いやせんのだ。重要なのは、完全に無頓着な気持ちの域に達することだ。さぁ、お前も何かを探し求めそれを手に入れるために出かけていくがいい。いまから誰かを探しに出かけて行け、そして猫のように猛獣のように、襲い掛かる相手を探すのだ」
 私があからさまに失望の色を浮かべたのを見て、ドンファンは笑い声をあげると、このテクニックの難しさは気分にある。見るという行為においては受け身であってはならない。なぜなら視覚はただ観察するためのものではなく、働きかけるためのものであるからだ。と語った。彼の言葉の力強さに影響されたからだろうか、その日、いろいろな話を聞かされた後で私はビックリするほど攻撃的な気分なっていた。体中の筋肉がエネルギーに満ち溢れ、夢見の訓練の中で実際に誰かを追いかけた。相手が誰であるのかには関心がなかった。私が必要としているのは、眠っている人間なのだ。私の知っているある力に---と言っても、その力を完全に意識していたのではないが---導かれて、私は目指す人間を見つけた。それが誰であるかは知らなかったが、その人間を見ている間、ドンファンの存在を感じた。それは私がかつて経験したことのない意識レベルで起こっている未確認の近接感によって、そばに誰かがいるのを知るという奇妙な感覚だった。私に出来のはただ、休んでいる当の個人に注意を集中することだけだ。その人間が男であるのはわかったものの、どうして男だとわかったのかは、今もってわからない。エネルギーの球体がわずかに平べったいことから、男が眠っているのかがわかった。人間のエネルギー球体は普段は真球なのだが、この時のそれは横へ広がっていたのだ。


〇「お前が時間と空間の観点から物事に取り組むのが難しいのは」とドンファンは続けた。
「お前の自由になる空間と時間の中への何かが降り立った時にしか気づかんからだ。そして、新な空間と時間は極めて限られておる。一方、呪術師たちは何か異質のものが降り立った時に気付くことができる広大な領域を有しておる。宇宙全体からたくさんの存在が、意識は有するが有機体は持たない存在が我々の世界の意識の領域へ、あるいは対をなすもう一方の世界の意識の領域へ降り立つ。だか、普通の人間はそのことに気付かない。我々の世界の意識の領域へ、あるいはもう一方の世界の領域へ降り立つ存在は我々の世界やもう一方の世界と併存している。また別の世界に属している。宇宙全体には、有機体と非有機体の意識の世界がギッシリ詰まっているのだ」ドンファンはさらに説明を続けてこう語った。
 我々の一対の世界とはまた別の世界に属する非有機の意識が、呪術師たちの意識の領域へ降り立つと、呪術師たちはそれに気づく。呪術師たちは地上の人間ならだれもがするように、意識を持つこのエネルギーの様々なタイプを際限なく分類する。呪術師たちはそれらを非有機的存在という一般的な言葉で知っている。