〇人は睡眠時に通常の意思が抑えられ、その代わりに無意識や超意識が入り込みやすくなる、通常の夢は普段抑圧されている無意識が現れるのであるが、悪夢と言われるものの場合、超意識がかかわってくる。ガイドが掲示や警告を通常の覚醒意識の時ではなく、夢の中で与えるのは、通常の意識状態のときには、与えようにも与えられないからである。覚醒時の意識状態では私たちの考え・思い・雑念が強く、ガイドなどの超意識からの声は届きにくいのである。逆に言えば覚醒時でも、心を空っぽの状態、つまり無の状態に持っていくことができれば超意識からのメッセージは届くのである。
〇無欲無心の境地で事に当たるとうまくいく場合が多いのは、それが霊的成長にとって大切なことだからである。
どうも超意識というものは欲の心を毛嫌いするようである。欲を超えた心、欲を離れた心、無心、無欲が大好きである。そういう状態へ自分の心を持っていく事が出来たら、願望は叶えてもらえるのである。どうして、そういうことになっているのかというと、欲を超えることが霊的な成長をもたらすからである。
超意識の願いは、私たちの霊的な成長である。無欲の境地を体験することがとても大切なのである。それを体験できると、それに対して大きな褒賞を与えてくれるのである。無欲、無心がいいのはもう一つの理由がある。そういう状態で超意識とつながることができるからである。何かに没頭し、それに精魂を込めていくと、無心の状態になる。この状態で超意識に繋がり、その手助けを得やすくなるのである。
〇滝行や水行をして禊をすると、どうして内なる霊が湧出してくるのか?
この原理は案外簡単なのである。霊とは「人生を生かすのは霊である」と聖書の言葉にもあるように、我々の肉体を生かしている生命力そのものである。そして生命の根源であるこの気=霊気は生きた人体にあっては「熱」として存在している。死してなお熱があった例がないことを思えば、それはうなずけるはずである。
厳寒に身を切られるような冷たい滝に打たれたりして、肉体を一時急激に冷やすと、体は36度5分の体温を保とうとして、必死に熱を沸かすようになる。すなわち、生命力が雄飛してくると病気は治り虚弱な体質は一変してどんな病も受け付けない体になる。また、霊が湧出してくるとになり、細胞のバイブレーションは上がり、細胞に付着していた悪しきものは洗い流されて、悪因縁は切れやがては実相の真我が出てくるのである。
病気になったり忍耐に悪しき現象が起こったりするのも、結局その部分の細胞に悪しき罪によって神の完全無欠な理念が浸透しないでいわば神の理念の「停滞磁場」が形成されて、細胞が神の意志通りの働きをしないで怠けたり、勝手気ままな不完全な働きをするようになるから、その結果、病気になったり、身体に不調をきたすようになるのである。神の霊を神の霊を雄飛させ人体の隅々にまで浸透・貫流せしめて、その停滞磁場を破壊してやれば細胞は本来の正常な働きを取り戻し、病は癒えていくのである。
滝に打たれ、霊のボルテージが上がってくると、霊はそのはけ口を求めて身体に霊動を起こすようになる。即ち手足が霊に捉えられて無意識のうちに動き出すようになる。これを神道では「振魂」と呼んでいるが、その動きはその人の罪や穢れの程度・種類によってさまざまな動き方をする、ある程度穢れが払われてくると、優雅な舞とか踊りになることがある。
〇何々になりたいという言葉はいつまでたっても、なりたい自分を実現させてしまう。自分は何々だ。それが同調に使い言葉の前提である。また、何々でないようにという望む言葉は、何々であるようにと同じ意味にとらえられるという点は注意が必要である。なぜなら脳の根底は言葉の理屈を理解できないからである。加えて自分に対する思いも他人に対する思いも同様に脳の根底は理屈を区別できない。他人の不幸を望むのは自分の不幸を望んでいるのと同じである。
次はそうなっている自分への感謝である。そうなる前からそうなったとこに感謝する。それだけである、量子物理学的には、現在も過去も未来も同時に存在する。だからこそ「何々でありがとう」それが同調に使う言葉である。
今日抱いた望みをかなえるために、昨日から状況が変わりつつあるというのも、量子物理学的な観点からすればあり得る話である。健康でありがとう。安全でありがとう。裕福でありがとう。そうした本当に単純で簡単な言葉を発するだけのその威力を一体でどれだけの人が認識しているか。
望むものと同種の物事に対して普段から感謝や与えという行動をとって良いエネルギーを蓄積していく、飽和状態に達するまで続けていく。
断定した結果の言葉、それに感謝する言葉。それを一体として発するだけである。それが同調である。そんなものが本当に有効なのかという前にやってみるといい。その脅威とも呼べる力を実際に感じてみるといい。
〇与えを続けていると、その中で何か守られ導かれているのを感じるものである。守られている、導かれている実感とは、自分が目標とする同調のエネルギーの集合体が同調反応して時分に作用するとき、そのエネルギー自体の作用の方向性いわば意思が現れるという現象である。それを意識するとますます同調反応が加速し自分を取り巻くエネルギーの集合体のその力が発揮される。まさに量子物理学的な現象である。
何かを求めるとき、得ようとして求めるのは、「得る求め方」、大半の人がそういう求め方をする。そして得られずにいる。逆に与える求め方をする人はどんどん求めるものを得ていく。例えば、お金を得たいために商売をする人にとって、お金を得たいという得る求め方をすれば、大抵その商売はうまくいかない。逆にその商売によって、世の中のため人のために貢献したい、という求め方をする人はその商売で成功していくのである。










