〇聖書の戒めは、正しく振る舞うにはどうすべきなのかという見解に立った道徳ではなく、平衡状態を乱さないようにするためにはどうふるまうべきかについての勧めである。ところが、私たちは幼少心理の残滓を引きずているため、聖書の戒めを受けて入れる際に、次のような言葉と重ね合わせてしまう。「ママが、騒いじゃいけないって。言う事を効かなきゃ、お仕置きだってさ」だが実際、聖書の戒めに背いたものを懲らしめようとしてだれも腰を上げたりはしない。人々は聖書の戒めを道徳として受け入れることによって、平衡状態を乱し、自分自身で問題を作っている。戒めはただこうしたことを警告しているだけなのである。
 すでに述べたように、罪悪感は、コマ、すなわち多くの場合は人形遣いが、人間を操るときに使う糸になる。この場合の人形遣いとは、「お前は罪を犯したのだから、私の言うことを実行しなければならない」とか、「お前は正しくないのだから、私はお前よりもましだ」というような決まり文句によって行動する人々の事を言う。彼らは、自分たちの「被後見人」に罪悪感を押し付けようとする。目的は、自分たちの「被後見人」をコントロールするためか、または自己否定のためである。このような人形遣いたちは、外見城は「正しく」見える。彼らにとっては、ずっと以前から、何がいいことで何が悪いことかが確立されている。彼らはいつも正しい言葉を口にする。だから、いつも正しい。彼らの行為もすべて非の打ちどころなく正しい。
 しかしながら、正しい人々がすべて他人をコントロールしようとする傾向にあるわけではない。人形遣いたちが説教したり操ったりしたいという欲求は、一体どこからくるのだろう。実は、人形遣いたちの心が常に疑惑や自信のなさで苛まれているということが、そうした欲求の原因なのである。こうした内なる戦いを、人形遣いたちは、周囲の人々からも自分自身からさえも巧みに隠している。真に正しい人ならば持っているはずの内部の核となる定見というものが、人形遣いたちには欠けているため、他人を犠牲にすることで自己肯定へ向かおうとする。説教したり操ったりする欲求はは、被後見人を低く見ることで、自分の立場を確かなものにしたいという願望から生じている。そして、依存関係が築かれる。平衡力が人形遣いたちに、各人に応じた当然の報いを与えるのならば結構なことだろう。けれども、過剰ポテンシャルは、緊張状態が存続し、エネルギーを人形遣いに渡すため、ポテンシャルを生み出さず、その結果、人形遣いは罰せられずに活動することになる。
 誰かが罪悪感を自分に受け入れる姿勢を示すや否や、人形遣いたちがまとわりついてきて離れず、エネルギーを吸い取りに掛かる。彼らの影響下に陥ることの無いようにするためには、罪悪感と縁を切るだけでよい。あなたは、誰の前であれ、弁解する必要はなく、誰に対しても、何の義務も追っていない。もし本当に罪があるのならば、罪を受けることはできる。だが、責めを負った状態のままでいる事だけはやめた方がよい。自分の親しい人たちに何か義務でもあのだろうか。それもない。なぜなら、あなたが親しい人達の心配をするのは信念によるものであって、強制されてやっているわけではないからだ、これは全く別の話なのである。もしあなたに、つい弁解してしまう傾向があるのならば、それと決別すべきである。そうすれば、人形遣いたちは何を利用してもあなたをつかみ寄せられないことを察し、そっとしておいてくれるだろう。
 ちなみに劣等感を抱くそもそもの原因はとは罪悪感である。もしあなたが劣等感をどこかに抱いているのであれば、その劣等感は他者との比較によって出来上がったものだ、あなた自身が自分に対する裁判官となり、取り調べが行われる。だが、裁判官はあなた自身であるように思われるだけで、本当は、何か別の事が起こっている。最初からあなたは、とにかく自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っている。何の理由で、という事はさほど重要ではない。ただ罪を負うことに大筋同意している。被告になって罰を受けることに、一度同意している。自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つ事をあなたは容認している。他者にその権利を渡し、他者があなたよりもましだと考えることを容認したのは、あなた自身であることに気付いて頂きたい。彼らはきっとそんな風には考えていないはずなのに、あなた自信でそう決めつけて、他者の名において自分に対する判決を下す裁判官のように振る舞ったのである。あなた自身が自噴を裁判にかけたがために、彼らはあなたを裁くことになった、というわけである。
 自分自身でいる、という本来自分が持つべき権利を取り戻し、被告席から立ち上がろう、もしあなた自信が罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。他人にあなたの裁判官となる特権を与えることが出来るのは、あなただけである。中身のない身勝手な主張を行っていると思われるかもしれない。もしあなたが本当の短所を持っているのなら、それを見つける人たちが必ずいるものである。本当にそういう人たちはいる。しかし、それはあなたが自分の短所に対する罪を自分で背負う傾向にあると彼らが感じた場合に限られる。もしあなたが他人よりも劣っていることに対する罪悪感から解放されているならば、あなたを犠牲にして自己肯定に励もうなどとは、だれの頭にも思い浮かばないのである。常識的な観点からは、こんなことを信じるのは100%難しい、しかしながら、私は言葉では何も証明することが出来ない。信じられないと思われるのであれば、実際に試していただきたい。