〇パニックは最も強烈で急激な誘導移転である。パニックは誘導移転の特徴を一番ハッキリ際立たせている。第一に、スパイラルの巻き込む力が非常に強い、なぜなら、現実的な危険のシグナルが例外なく大変切迫していて、人はすぐに破壊的コマのゲームに入り込んでしまうからである。同じ理由で、コマの回転も、ほとんどモーターのように急激に早くなる。
 第二に、人は自分をコントロールする事がほとんどできなくなり、つまり高感度の受信機と化してしまい、同時にコマの回転の強力な中継器にもなる。そして、最終的にコマ自身が、パニックに陥った群衆という形で理想的に物質化する。残念ながら、これらすべての要素のために、コマから身をかわしたり手なずけたりすることは極めて難しい。この時点で、コマとの戦いを受けて立とうなどという事は誰の頭にも思い浮かばない。
 しかしながら、そんな中にあっても、もし自部を失わず、パニックにも陥らずに踏みとどまっていられたならば、自分自身や親しい者たちの命を救うことのできる確率はずっと高くなるだろう。例えば、今まさに沈没しようとしている船の上では、幾艘かの救命ボートが浮かんでいるものである。周囲を見回すほんのわずかな瞬間が必要なだけ、それにしても、そういうところにこそ誘導移転の狡猾な特徴が表れているといえる。誘導移転は渦巻のように働き、外周にでもひっかけたものはすべて飲み込もうとする。
 常識的に考えて、スラム街で生まれ落ちた何の変哲もない人を金持ちにするにはどうしたらいいのか。犯罪に手を染めるという方法は検討から除外する。億万長者になった人にありがちなサクセス・ストーリーも除外する。そうなってくると、常識に基づいて検討してみたところが、ろくなことにはならない。それでは、おなじみのこの論法からはどんな効用がもたらされるのだろう。事象選択は常識の枠内には収まらないが、不可能と思えることを可能にしてくれる。
 人は常識の枠内で行動し、しかるべき結果を終える。もしその人が貧乏に生まれ落ちたのであれば、貧しい人々に囲まれており、その状態に順応し、窮乏生活のラインの周波数でエネルギーを放射するよう調整されている。もし自分が置かれている貧乏な状態への憎悪、金持ちへの羨望、満ち足りた状態への望みというものだけを抱いているのであれば、裕福なラインへの波長に合わせ直す事は非常に難しい。または、これら三つの感情を持ったまま、裕福なラインへ乗り移ることは、ほとんど不可能とまで断言できる。その理由を解明してみよう。
 人生を始めたばかりのすべての子供たちが最初に発見することの一つは、おそらくこういう事実であろう。それは、もし嫌だなと思っていることがあっても、それだけではそれから免れたことにならない。という事である。時折、心の底から絶望の声が上がる。「私はこれが大嫌いだ、なぜならば私のことをそっとしておいてくれないのか、なぜこれはいつも私に起こるのか」
 憤慨して似たような疑問を自分に突きつけるのは、子供だけでなく、大人にもみられる。もしそうあってほしくないことがあると、いずれにせよそれは起こり、もし憎らしく思っていることがあると、それはしつこく付きまとうことになる。こうした状況と折り合いをつけるのは、確かに骨の折れることだろう。憎らしく思うことはたくさんある。自分の貧乏生活、自分の仕事、自分の肉体的欠陥、街角のホームレス、アルコール依存症患者、薬物中堂独患者、犬、盗人、ならず者、厚かましい若者、政府…。憎しみが強ければ強いほど、人生でそうしたものと遭遇する可能性は大きくなる。そして、あなたはもう理由を知っている。あれがいら立たせてくれるのだ、あなたはあれのことを思っている事だろう。そう思うことはつまり、あなたが不満に思う対象がたっぷりあるような人生ラインの周波数で放射しているわけである。この放射が、「好き」「嫌い」のどちらの極性であるかは問題ではない。しかし、後者の「嫌い」という感情の方が強力なので、より効果的に作用する。また、あなたが不快に感じるものは、あなたにとっての破壊的コマだから自分の心労によってコマをますます速く回すことになる。そして、もしあなたが憎悪を顕わにし始めると、ついに過剰ポテンシャルを生み出すことになる。それを解消しようとする平衡力は、あなたに対抗して向けられる。なぜなら、平衡力にとっては、一部の物を満足させられない世界の方を変えるよりも、一人の抵抗者を排除する方がずっと簡単だからである。人生に対するネガティブな姿勢には、どれほどの有害要因が潜んでいるか、想像していただきたい。
 貧乏生まれ落ちた人の話に戻る。その人は金持ちになりたいという夢を持っている。しかし、周知の通り、望んでいるだけでは何も変えられない。長椅子に横になる、間延びした調子でこういう。「ここにイチゴが一皿分あったらなぁ。でも、どこで採れるというのか。いまは冬なのに」およそこんな風な具合で、その貧しい人は金持ちになりたいと夢見ている。
 もしこの人が、望むものを手に入れるために行動する準備がまだ整っていないならば、望みを叶えられない。どうせ何も起こらいなという確信から、行動に出ないのである。これでは万事休す。望みや願望は何の力も持っていない。指を動かすことだって出来ない。それができるのは「意図」、すなわち行動しようとする決意である。意図の中には、そうありたいという心構えも含まれている。その人はこういうかもしれない「そんなこと、できないわけはないだろう。俺は金持ちになりたいんだから、簡単なことだ」
 それは違う、「よくする」ことと「そうなることへの心構えをする」ことの間には、深い溝が口を開けている。例えば、貧しい人が高価な家具調度品に囲まれたり、高級品店に入ったりすると、居心地悪く感じる。たとえ躍起になって自分の気持ちや周囲の人々の見る目を反対に変えようと思っている。貧しい人が心落ち着けるゾーンには、豊かさというものが含まれていない。それはなぜなら、金持ちである事に不快感を覚えるからではなく、その人がそうしたすべてから遠い存在だからである。新しい意味はもっと快適だろうが、古い椅子の方が落ち着くのである。
 貧しい人は豊かさの外見だけを知っている。豪華絢爛な屋敷、高級乗用車、装飾品の数々、会員制の高級クラブ・・。貧しい人がこうした状況に置かれると、終えちつかなくなって来る。では、もし貧しい人に札束の詰まったトランクを与えたとしたら、どうなるかというと、ありとあらゆる馬鹿げたことを思いつき、結局全てを失うに違いない。その人が放っているエネルギーの周波数は、裕福な暮らしとはひどい不調和となっている。貧しい人が心落ち着ける自分のゾーンに豊かさの属性を取り入れないうちは、また、自分自身が高価な品々の持ち主であると納得しないうちは、たとえもし財宝を発見したとしても、貧しい状態のままとどまる。

 

〇人間が流行病にかかるのは病原体に感染するからである。それは、当たり前過ぎて人生ラインがどうのこうのという話と関係などあり得るわけがない。おそらくあなたはそのように思っているだろう。それは正しい。しかし、実は、病原体に感染する前にあなたがそうなることをまず認めるという過程があることをご存じだろうか。私は、マスクを着用していれば流行病にかからないなどと主張するつもりはないし、そんなことをしたって人の助けにもならない。それでも、純粋に思弁的にこれを証明することが出来ない。しかし、あなただって、カゼが蔓延している時期に、マスク着用で歩き回って、確かめよとはしない。だから、私としても知っていることをただ述べるとする。信じるか、信じないかは、あなたの自由。
 さて、病気の話を始めよう。病気の原因は「流行病」という名のついたゲームに参加しようとするあなたからの自発的同意である。すべては、流行病、例えばカゼが、どこかですでに猛威を振るっているとのうわさから始まる。普通の人の一人であるあなたは、だれでも風邪をひくという考えをそっくり自分に取り込む。頭の中には、あなたに熱が出て来て、くしゃみやセキをしている光景がすぐさま浮かんでくる。これで手続きは終わった。この瞬間からあなたはゲームに参加したことになる。なぜなら、破壊的コマの周波数で思考エネルギー放射しているからである。
 あなたはカゼに襲われることの確証を無意識に見つけ出そうとして、注意力は選択的に働き始める。回りにはくしゃみをする人々が現れる。くしゃみをする人くらいはいつもいるはずであるが、以前のあなたは気に留めなかっただけで、職場でも自宅でも、時折、風の事が話題になる。たとえあなたが特別に確証を探そうとしなくても、また、風の話題であなたがそれほど動揺しなくても、風に襲われるというあなたの予想は、新たな干渉を見つけ出してくる。そうした事が勝手に起こるのである。
 もしあなたがゲームの最初から破壊的コマの周波数に同調してしまったら、意識して参加したかどうかにかかわらず、コマへの結びつきはもっと強くなっているだろう。そして、もしあなたが発病することを嫌がっていないならば、またはそれが運命だとあきらめているならば、もうあなたはコマの最も活発な信望者になっている。または、反対に、病気にならないと決めて掛かり、自分は絶対的に健康であって病気にはならないとの自己暗示をかけるとしたらどうだろう。そうしたって何にもならない。とにかくあなたは病気のことを考えている。という事は、病気の周波数で放射している事になる。思考の方向性が病気に賛成か反対かは無意味である。言い換えると、自分は病気にならないとして自分を説得しようとすれば、そうなる可能性を最初から認めていることになり、どのような説得も功を奏することはない。
 聞こえるように発せられた言葉は単なる空気振動であり、独り言は総じて何でもないことであるが、信じ込むという事は、たとえそれが聞こえなくても、強力なエネルギーである。慌てて予防接種に行っても、あなたは病気から逃れられない。いずれにせよ一定期間、何らかの形で病気にかかる。病気による最初の兆候が表れた時点で、あなたは本格的に病気になるのかならないのかという選択を迫られる。あなたは弱々しく抵抗した後、病気に譲歩してしまう。これによってあなたの思考放射に最終的に修正が加わり、あなたは病気に全過程が繰り広げられる人生ラインへと乗り移ることになる。
 誘導移転はコマを受け入れる瞬間から始まる。もしあなたが本当にこの流行病を頭から相手にしなければ、病気にかかる人生ラインへの移転は起こらないだろう。または、あなたが休暇中でだれとも交流がなく、ニュースも耳にせず、流行病についても何も知らいなのなら、このはあなたに影響を及ぼさないで、どこへともなく消え失せる。
 ところで、医者はどうして病気に感染しないのかと不思議に思った事はないだろうか。多くの医者は勇敢にもマスクすらしないで働いている。彼らが予防接種をしているからというわけではない。それにすべての病気に対する予防接種をしておく事などできるはずもない。医者たちも病気のコマのゲームに積極的に参加しているが、彼らに与えられた役割は全く別なのである。似たようなケースとして、飛行機で働くフライト・アテンダントたちを見てみよう。乗客全員にベルトを着用するよう粘り強く進めるが、自分たちはあちらこちら飛び回っている。あたかも、何かあったときには、ハチドリのように空中で静止していらるかのように。
 「では、エイズに感染してしまった乳児の場合はどうか。乳児も移転エネルギーを放射しているのか」と思うかもしれない。第一に、ここでは流行病についてのみ問題を、傾向として検討しているのである。第二に、いかなる感染も存在せず、あるのは病気の周波数で行われる思考エネルギーの放射だけ、という事を証明しようとしているわけでもない。事象選択はドグマでもなく、真実の最終審でもない。一つの思想たりとも絶対視してはならない。法則性の参考として受け入れるだけである。真実とは、いつも「どこか近くに」あるが、それが一体どこなのか、正確なところはわからない。

〇既に述べたとおり、破壊的コマのゲームに参加すことは、支持する形での場合もあれば、反対する形での場合もあり、その方法はさまざまである。おそらく、反対する形での場合はずっと危険であろう。なぜなら、コマとの遭遇を避けようとする望みは、過剰ポテンシャルを創り出し、それが転移につながる渦巻へと追い込んでいくからである。今日、だれでもほぼ全員が失業の不安を感じている。路頭に迷う状況への誘導移転の手口は非常に狡猾である。すべては当り障りのない小さなことから始まる。それは微弱だが最初のシグナルかもしれない。あなたの勤めている会社の業績が以前ほどは良くないという話が耳に入る。あるいは、あなたの知っている人が解雇されたり、どこかの部署で人員削減が行われるとか、それに似たような噂をどこかで耳にする。
 無意識のレベルでは、あなたが気付かないうちに、赤信号が点滅している。次のシグナル、例えば、インフレ率が大幅上昇するなどがこれに続く、それはあなたを不安にさせ、当然周囲の人々をも緊張させる。そうしたことが会話のテーマとなり、失業のコマはエネルギーの供給を受ける。ここで株式市場が不安定化したとのニュースが報じられ、全般的な緊張が高まる。まもなく不安は警戒にとってかわり、その後、恐怖に代わる。あなたは自分が失業の憂き目にあう人生ラインの周波数で猛烈にエネルギーを発する。
 自分が失業者の一人になりかねないという恐怖を抱くと、「解雇候補」と書かれた札を胸にぶら下げているのも同然と考えてよい。もしあなたが、この恐怖を隠すことが出来ると考えているならば、大きな間違いである。ちょっとした身振りや、声の微妙なイントネーションが、言葉以上に雄弁になりえることもある。自信を喪失したあなたは、もうこれまで通りの有能な社員ではない。以前なら簡単にやってのけた事が、今はうまくいかない。同僚たちとの付き合いに緊張が生まれるのは、彼ら自身も似たような状態に置かれているからである。、とげとげしい雰囲気を家庭にまで持ち込むため、あなたを支えてくれるはずの家族からも攻められてしまう。これで万事休す。ストレスが溜まり、あなたはもう社員ではいられない。胸にぶら下げられている札は「解雇寸前」という表現に書き換えられている。
 解雇される恐怖の原因は、あなたの潜在意識の中でくすぶっているか、または燃え上がっているはずの罪悪感に潜んでいる。だれが最初に解雇されるのだろう。一番仕事のできない者だろう。もしあなたが自分を他の同僚たちよりも劣るとみなしたならば、それはつまり、自分で自分のブラック・リストに載せたようなものとなる。罪悪感とは縁を切るべきである。思い切ってありのままの自分に戻ろう。もしうまくいかなかったならば、ほかの仕事を探す行動に出よう。気苦労による過剰ポテンシャルは、行動によって薄められる。就職して間もないのに新たな職探しを始める人がいるが、そういう人はまたすぐに転職するつもりで職探しをしているのではない。万が一の場合でも、予備の働き口があるようにと保険をかけておくことが、自信につながる。もしあなたが自分の未来に対して安心した気持ちを抱いていれば、平衡力の作用があなたに及ぶことはない。

 

〇戦争は本質的に、取っ組み合いのけんかとほとんど同じようにして起こる。最初は、A国はB国に自分たちの意見をいう。しかし、B国の意見はそれと正反対のため、A国による意見表明は、破壊的コマからの接触のように作用する。B国はこの最初の接触に対して、少し強めに小突いて答える。これに対し、A国は、もっと強いお返しをする。こうして、殴り合いになるまで、どんどんエスカレートしていく。
 二つのコマがますます強く回転して互いに相手を殴り合うという、単純でわかりやすい光景が目の前に展開されているとする。戦争や革命の機運が高まるときには、多くの要因が作用するものであるが、本質は同じである。まず、暮らし向きの悪いことが民衆に告げられる。これには全員がすぐに賛成する。コマからの最初のパスが受け止められたのである。その後、我が国の民衆がよりよく暮らす事を邪魔しているのは、他国の民衆であるという説明がとってつけられる。これは不満を呼び起こし、コマは早く回る。これに続いて様々な面らか扇動が行われ、憤慨の嵐が置き、コマは力を蓄え、戦争や革命への準備が整う。コマによる一撃一撃が反響を呼び、回転に巻き込んでいく。そして、緊張が激化する人生ラインへと雪崩のように移転が起こる。
 状況を変えることが可能なのは最初のうちだけであって、その後は手に負えなくなってしまう。スパイラルが巻き込み始めた瞬間、コマからの最初の接触に対して、ただわきへ避けるか、または平和的に対応するだけで、コマから身をかわすか、またはコマを手なずけるという事が可能である。それをやれば、新たな段階、すなわち新たなラインへの移転も起こらない。しかし、もしコマの回転を受け入れてしまうと、参加者の放射周波数はスパイラルの新段階へと導くパラメーターに近づいていく。
 もし物事に関与した個人個人がコマに反応しないとしても、残念ながら、それで戦争や革命に巻き込まれない補償にはならない。もし強力な渦巻に巻き込まれたら、どう抵抗しても、そこから抜け出すことはほぼ不可能である。だが、コマのゲームを受け入れない場合、巻き込まれてしまったものには、少なくとも生き残り、最小限の損失で脱出する余地は残されるだろう。戦争や革命を受け入れないとはどういうことか、ここでよく考えてみなくてはならない。戦争や革命を憎み、猛然と戦う事はできるだろうが、コマにとって、あなたが賛成なのか反対なのかは、どちらでもよいことである。プラス、マイナス、どちらの符号であろうとも、そうしたエネルギーはコマへと供給される。もしエネルギーが戦争の周波数で放射されているならば、そのラインへの移転が凝るだろう。あなたは戦争を受け入れて参加する。つまり戦場に赴くのである。戦争に反対して戦っても、いずれにせよ戦争はあなたを飲み込んでしまう。
 コマを受け入れれれないという事は、コマを無視することを意味する。もちろん無視することがいつもうまく行くとは限らない。そこに誘導ラインの危険性が潜んでいる。少なくすることがいつもうまくいくとは限らない。そこに誘導移転の危険性が潜んでいる少なくとも、戦争の賛成者や反対者の立場を受け入れてはならない。どの時代にも中立国が存在した。中立国はわきへ引っ込んで関与せず、民族同士が互いに殲滅しあうのを傍観していた。デモや集会に目を向けると、そこでは軍事行動に反対し、怒り声をあげて抗議している人々がいる。コマは自分の反対者との戦いを全面的に繰り広げようとしているから、このような人々、戦いの同盟者と同じく、待ち望んていた献身的な信望者なのである。このように未熟な信奉者たちは、戦争反対のための自分たちの行動の正しさを信じて疑わないだろうが、活発な抗議活動というのは戦争幇助そのものである。平和主義に基づく提案やコマの素顔と同期を暴くことこそが、戦争の火種を消す行動となりえる。野生のミツバチの巣にまつわる話を思い出していただきたい。コマは自分の信奉者たちに、ミツバチは危険なので根絶やしにすべし、と宣言した。しかし、コマにとって本当は何が必要だったのだろう。

〇多くの人々が、いずれにせよ理論的には讃辞に遭遇する可能性はあり得ると考えている。しかし、全員が自分の世界の層にこうした可能性を取り込むとは限らない。もしテレビのシリーズドラマを見ない人々がニュースにも興味を持たないのならば、どこかで誰かの身に起きている出来事がそうした人々を煩わすことはない。彼らは自分たちの層に住んでいて、ほかのコマに信望者となっている。どこかで飛行機が大破しても、彼らが動揺することはない。彼らはそうした出来事に関するニュースを耳にしても、平然と夕食を味わう。自分の心配事で手一杯なのである。
 誘導転移をより多く被りやすいのは、どこか別の場所にいるほかの人々の身の上に起こっている惨事について関心を示し、不安を感じ、心配する人々である。もしある人の人生が心配事や気苦労でそれほどいっぱいではなければ、注意を他の人々の層で起きている出来事に向け、心配事や気苦労でそれほどいっぱいではなければ、注意を他の人々の層で起きている出来事に向け、心配事や気苦労の不足分を補おうとする。こうした人は、扇情的で興味本位の記事を売り物にしている新聞を定期購読するか、テレビのメロドラマを見るか、または惨事や天変地異に関する新たな報道を持っている。低俗な新聞・雑誌やメロドラマは、矮小で悪気のないコマの典型である。そうしたコマに献身する事は、情報、感情、心労の不足分を補うことにすぎない。だが、惨事や天変地異といった破壊的コマに関心を示すことは、自分の中に現実の脅威を持ち込むことである。破壊的コマは強力で攻撃的なのである。
 メロドラマの場合と同様に、似たような出来事に注意を向ける人の思考放射の周波数は、乗っ取られてしまう。ネガティブな情報に関心を寄せる人は、いつもそうした物を過剰に受け取ることになる。最初は傍観者という当たり障りのない立場で、その人は観客席にでも座って、サッカーの試合を観戦しているような気分だろう。だが、次第に試合に引き込まれていき、熱心なファンになっていく、その後、フィールドに降り立ち、まだボールはパスされないまま、駆け出す。少しづつ知らず知らずのうちに、その人はますますのめりこんでいき、ついてボールを受け取る。そうして傍観者がプレイヤー、すなわち惨事の犠牲者へと変わっていく。
 参事はその人の人生の一部となっており必ず犠牲者となる、その人自身が自分の層に惨事を取り入れ、いつの間にか犠牲者の運命を受け入れ、不運な亜空間を現実化してしまったからである。もちろんその人は、犠牲者の役割を引き受けたくは無かっただろう。しかし、それは仕方のないことである。もし人がコマのゲームを受け入れたならば、役割を割り振るのはコマの方なのだから、その他大勢の犠牲者にとってこの災難は破壊的状況の重なり合った結果であるのに対し、その人にとっては、これは法則に乗っ取った理論的帰結という事になる。その主人公にとって、しかるべき時刻にしかるべき場所に居合わせる確率は、すでに平均を上回っている。
 もしあなたが破壊的コマからの回転を無視したならば、参事に遭遇することは決してないだろう。その確率はゼロに近いともいえる。では、災害のことを考えていたとでもいうのか…こうした反論もあるだろう。だが、あなたはこの世界に一人でいるのではない。破壊的コマの下で積極的に活動し、こうしたコマのスペクトルでエネルギーを放射している多くの人々に囲まれている。だれもそのような放射から理想的に遮断されることはできない。放射フィールドはあなたをつかみ取り、あなた自身もそのことをし認識しないまま、同じ周波数で放射を始める。こうした行動の根幹部分は、太古の昔にまでさかのぼる。当時は群棲本能が危険を回避するのに役立っていた。まさにそのため、誘導移転のエネルギー場は、雪崩のように急激に高まり、渦巻のように引きずり込もうとする。
 渦巻の中心からいかに遠くにいられるかが肝心である。これは、惨事や災害に関する情報を自分の中に取り入れず、それらに関心を持たず、思い悩まず、話題にせず、総じて聞き流して置くことを意味する。ここで注意する事は、情報から遠ざかりはしないものの、それを自分の中へは取り込まないという点である。これまでの章からわかるとおり、コマの遭遇を避けようとするのは、コマとの遭遇を求めるのと同じことである。あなたが何かに抵抗し、それを望まず、または憎悪をあらわにしたりすると、そうすることによって、逃れたい事柄の周波数で活発にエネルギーを放射してしまうことになる。自分の中に取り込まないという事はネガティブな情報を無視する、反応しない、という事であり、自分の注意を悪気のないテレビ番組や本へと切り替えることである。
 もし反応しないでいることがうまく行かないのならば、守護天使に期待するしかなくなってしまう。例えば、もしあなたが飛行機に乗る事を恐れるならば、飛ばない方が良い。もし恐怖を感じるのならば、あなたの放射スペクトルには、飛行機事故が起こる人生ラインと共鳴する周波数が含まれているという事である。必ずしもそれはあなたの人生ラインが事故と遭遇することを意味するわけではないが、そうはいっても、その確率はある。もし飛行機に登場する危険性に関する思いが、ただ単に浮かんでこないのであれば、恐れることは何もない。反対に、あなたが飛び立つ前にただならぬ不安を覚えるならば、その便はやり過ごすのが妥当だろう。もしも飛行機を利用しないことが不可能であれば、心のさざめきを聞く方法を学ぶ必要がある。それはいったいなんであって、どうすればできるのか、さらに理解を深めることになる。

〇人間の心理は、ネガティブな刺激に対して、より強く反応するようにできている。ネガティブな刺激は、望ましくない情報、敵対行動、危険、または単なるネガティブなエネルギーの事である。もちろんポジティブな作用も強い感情を引き起こす。しかし、怒りや怖れは、強さという点では、喜びや楽しみをしのぐ。こんな風に釣り合いのとれていない理由は、怒りや怖れれが生き抜くための決定的要因となっていた遠い昔にさかのぼったところからきている。喜びから何の得があったのだろう。喜んだからと言って、身を守ったり、危険から逃れたり、糧を得たりする助けにはならなかった。どの時代を取り上げても、困苦欠乏ばかりがずっと続く人生は、喜びや楽しみよりも怒りや怖れをより多くもたらしてきた。こんなところから、人々は憂鬱や落胆状態れへは簡単に陥るという傾向を持つようになったのだろう。その一方で、喜びはすぐに過ぎ去ってしまう。清浄な人間が過度の喜びに苦しんだという話をどこかで聞いたことがあるだろうか。ところが、ストレスや憂鬱は常に人々を苦しめてきた。
 人間の知覚のこのような特性を積極的に利用しているのがコマ、とりわけマスメディアである。情報番組でよいニュースを耳にすることはめったにない。なにがしかのネガティブな事実が取り上げられ、それが急速に展開し、新たな詳細が表面化し、こうしたすべてが噛んで含めるように、あらゆる手立てを尽くしてドラマ仕立てで報じられるというのが、通常行われているやり方である。
 同様に減速に従って、ほかのネガティブなニュース、つまり、惨事、天変地異、テロ活動、軍事紛争なども報じられる。ある法則性に注意を喚起したい。物事はスパイラル上に展開意するという事である。まず、発端があり、次に急展開が起こり、どんどん緊張が高まり、その後にクライマックスとなり、感情が猛烈に煮えたぎり、ついに終局を迎え、すべてのエネルギーは空中に飛散し、しばらくの間、静寂にが続く、岸へんで砕ける波を思い起こすことだろう。これと同じような原則によって、テレビのシリーズ番組も次々に制作される。客観的に見ると、そこには何の特色もない。すべての脚色は全くの出まかせである。しかし、シリーズ番組を2,3回見るだけで、つい引き込まれてしまう。こうしたメロドラマでは、特に興味をひかれるようなことは何も起こりはしないのに、どうして引き込まれるてしまうのだろうか。なぜなら、思考放射の周波がシリーズ番組のコマに乗っ取られ、注意力がそのセクターに固定されてしまうからである。
 前途したスパイラル上の急展開という仕掛けを詳しく見てみよう。最初に、人は、ある事実に遭遇する。それは、その人を不安にさせないかもしれない。このニュースはネガティブな出来事に関するもので、どこかほかの国のこととしよう。これは破壊的コマからの最初の揺さぶりである。もしこのニュースが、視聴者の誰かを動揺させたならば、その人は働きかけに対して反応し始める。自分の姿勢を表明し、気にかけるようになる。つまり、最初の揺さぶりと同じ周波数によるエネルギーを放射することで応答するのである。その人は、ほかの数千人と同じく、自分の関心を表明して参加するという形で、コマに反応する。放射したエネルギーはコマと共鳴し、このエネルギーは増大する。マスメディアは引き続き自分のキャンペーンを行う。人は関心を持って出来事が展開する様子を追いかけ、コマはまたエネルギーを摂取する。このようにしてコマは自分の網に信奉者たちをおびき寄せ、彼ら仮エネルギーを吸い上げる。関心を示した人々は、自分の中にネガティブなエネルギーを取り入れ、当面は傍観者としてゲームに没頭する。 
 一瞥した限りでは、何ら特別なことは起こらず、よくある出来事のように思える。人が破壊的コマにエネルギーの一部を与えることについては、胴かが得たらいいのか。これは曽根人の健康にはほとんど影響を与えない。しかしながら、本当は、その人はネガティブな出来事の周波数でエネルギーを放射しながら、似たような出来事がますますその人に近いところで発生するような人生ラインへと移動している。人は発端に関与することで、気が付くとスパイラルの影響域にいる。スパイラルは猛スピードで回転し始め、あたかも漏斗のように、その人を自分の中へと引きずり込む、人とコマとの相互作用はどんどん緊密になり、その人は前期のような出来事を、自分の人生にとっては避けて通れないこととして受け入れるようになる。その人の注意力は選択的に働き、様々な国々における新たな事実がいたるところでその人の耳に入ってくる。こうしたニュースを知人や友人たちと話題にし、彼らから関心や同情という形での反響を受け取る。コマのエネルギーは増大し、その人は自分の放射し周波数によって出来事が本当に発生するラインへと益々接近し、すでに傍観者ではなく直接的な参加者になりつつある。
 このように漏斗屁と引き寄せらせる現使用を信望社が墓定期コマからの回転に対するその人の反応とそれに続く回転エネルギーの相互補給は、コマの回転に近い周波数の人生ラインへ転移することを誘導する。その結果、ネガティブな事象はその人の世界の層に取り込まれてしまう。

〇人類は、何らかのパラレル宇宙に住むらしい他の生物の存在を漠然と察している。だが、とりあえずの間、世界に生物のいない空間で物事を現実化するのだろうか、これに関しては、推測することしかできない。最後の生き物が死んだら、世界も消えてしまうのだろうか。もし誰もいなかったら、(私たちが理解するところの)世界が存在していて、それはこうだったと語ることすら全くあり得ない。これでもう十分だろう。この先にある更に込み入った迷路に入るのはやめておくこと。
 事象選択はたくさんあるモデルの一つに過ぎないことを忘れないこと。このモデルで考えた世界と人生に課するイメージの全ては、モデル以上の何物でもない。重要性を与えることについて覚えていただいていると思う。事象選択に外的重要性を付け加えたりしないでほしい、さもないと、無益な思想の擁護者になり、自分の世界観の正しさを皆に証明しなくてはならなくなる。心理とは抽象である。私たちに知らされているのは、いくつかの現象や法則性にすぎない。そして、我々の目的は、事象選択のモデルからいかにして実益を引き出すかという事だけである。
 世代別の世界の話に戻ろう。どの人も一生の間に亜空間のあるセクターから別のセクターへと移動し、こうして自分の世界の層を変化させていく。ある人が不満をあらわにすることが多くなり、ポジティブなエネルギーよりもネガティブなエネルギーの方をたくさん放出すれば、人生の質が悪化する傾向が生じる。人は年をとるとともに物質的な豊かさをコツコツ築き上げるかもしれないがそれによってより幸せになることはない。舞台装置のペンキは色あせ、人生が喜びを与えてくれることはますますまれになる。老年世代の代表者と若者とが、同じコカ・コーラを飲み、同じ海で遊び、同じ山の斜面でスキーを滑り降りる。すべては何十年も前の昔とほぼ同じである。しかしながら、老人は昔はすべてが良かったと感心しており、一方、若者にとっては何といっても今が断然素晴らしい。若者が年を取ったら同じ話がまた繰り返されることになる。 
 これは一般的傾向であるが、個別に見ると、悪化する方向であれ、好転する方向であれ、様々な違いがある。年をとってから人生の醍醐味を感じ始める人もいれば、順風満帆の人生を送ってきた人が突如深い穴に転げ落ちることもある。しかし、総じてどの世代も多少の違いはあっても、年齢とともに人生の質が悪化していくことについては、意見がほぼ一致している。このようにして世代集団の転移が起こる。老年世代の集団は悪化する方向へと転移し、若者世代の集団も遅れてであるが、同じ方向へと転移する。この転移は、楽観的な状況にある内から始まり、段階的に起こる。まさにこの理由から、世界全体が地獄化してしまうことはない。各人には自分で選択した自分の層がある。人は本当に自分の層を選択する可能性を持っていて、そのような選択を自分で行っている。このようにして人は自分に害となるようにその選択を行っているのか、少しずつお判りいただけてきたことと思う。
 時分の層の中に地獄を築かないようにすることについては、これまでの省で述べてきた。それでは、どうすれば自分が元居た世界を取り戻せるのか。子供時代や青年時代のように、色彩と希望で満ち溢れた人生が存在するラインへは、どうしたら復帰できるのか。事象選択の手法を用いると、それは可能である。しかし、まず手始めに、どのようにして幸福と希望に満ちたラインから離れ、「何でこんな暮らしにまで落ちぶれてしまったのだろうか」と言われても仕方のないところにまで至ったのか、解明してみる必要がある。

〇いつの時代でも、「昔はいい時代だった」とだれもが思う。その人にとっては歳月を重ねるにつれて、暮らしがますます悪くなるばかりのように思われる。自分が若かった時代を思い出して見る。すべての色彩がみずみずしく、印象は明るく、夢は叶うものに思え、音楽は心地よく、気候は穏やかで、人々は愛そうよく、ソーセージさえ味が良かった。そして、身体の調子の事は言うまでもない。人生は希望に溢れ、悦楽と満足感をもたらしてくれた。あれから何年が過ぎたことか。いまとなっては、同じような出来事があっても、あれほどの楽しいおもいは得られない。コンサート、映画、祝日、出会い、海辺での休養など、客観的に見てもすべてが喜びの経験だった。祝日は楽しく、映画は面白く、海を温かく包み込んでくれた。だが、今は違う。色彩はくすみ、感情は鈍くなり、興味は消え失せてしまった。
 なぜ、若かったことには、すべてがそんなに素晴らしかったのか。人間の知覚は年を経るとともに鋭さを失っていくのか。しかし、人間化は年をとっても、泣いたり笑ったり、色や味を知覚したり、真贋を見分けたり、善悪を区別したりする能力を失うわけではない。それとも、世界があなたの中へと転がり落ちているのか、本当は、取り巻いている世界自体が脱落しているわけでも、悪化しているわけでもない。世界は個人ごとに見てみると悪化している場合がある。いまその人がいる人生のネガティブ・ラインと平衡して、何本ものラインが存在している。それらのラインはかつてその人がいたことのあるもので、今でもそれらのライン上ではかつてのようにすべてが素晴らしい、人は不満を口にすることで、悪化した道へ進む波長に同調してしまい、悪いラインへと本当に引き寄せられてしまうのである。
 事象選択の原則に従うと、亜空間には全ての人々のためのあらゆるものが存在する。例えば、あるセクターでは、その人にとっての人生はすっかり色あせてしまっているのに、ほかの人々にとっては昔のままの状態に保たれている。人は、ネガティブな思考エネルギーを放射すると、その人の空間の舞台装置が変わるセクターに陥ってしまうこの時、残りの人々にとっての世界は元通りである。人が障害を持つ、家や近親者を失う、酒におぼれる、というように極端なケースは、考える必要はない。人が人生を歩んでいくうちに、ゆっくりとではあるが確実に、舞台装置のペンキが色あせてしまうラインへと滑るように打っていくことは、よくあることである。そうなった後で、その人は、何十年も前には全てがみずみずしく新鮮であったことを思い出す。
 人は、誕生後、ありのままの世界をまず受け入れる。赤ん坊にとって、この先、より良くなるのか、またはより悪くなるのか、単にまだわからないだけである。若者は新鮮な気持ちをまだそんなに失ってはおらず、気難しくもない、彼らには苦情よりも希望の方が多いのである。彼らは、現時点ですべてが悪いというわけではなく、将来はもっと良くなると信じている。ところが、その後、不運に見舞われると、すべての夢が実現するとは限らないこと、ほかの人たちの方がましな暮らしをしていること、日の当たる場所は戦い取る必要がある事などを理解し始める。そして、時がたつにつれて、苦情の数の方が希望余も多くなってくる。不満と愚痴は、人を不運なラインへと押しやる推進力である。事象選択の用語で表現すれば、人がネガティブなエネルギーを放射し、それがネガティブなパラメーターに沿う投影する人生ラインへとその人を移動させるのである。
 あなたが世界について悪く考えれば考えるほど、世界はますます悪くなっていく。子供時代には、世界がいいか悪いかについてなど特に深く考えたことはなく、すべてを当然のこととして受け入れていた。あなたが世界の扉を開け始めたばかりのころ、批判に明け暮れることはなかった。もっとも強い侮辱の矛先は、例えば、おもちゃを買ってくれなかった近親者に向けられたりする。だが、その後、あなたは本気で自分を取り巻く世界を罵り始める。すると、世界が満足感をもたらしてくれる事はますますまれになっていく、苦情をたくさん言えば言うほど、結果はどんどん悪くなる。青年時代を過ぎて大人になった人々はみな、昔は多くの人がよりよかったと思うのである。
 次のように有害なパラドックスがある。あなたが忌々しい状況に遭遇して不満を漏らすと、その結果として、状況はもっと深刻化するというものだ、あなたの不満は3倍の大きさのブーメランとなって戻ってくる。第一に、不満の過剰ポテンシャルはるは、あなたに対抗する形で平衡力を差し向ける。第二に、不満は、コマがあなたからエネルギーを組みとるためのルートとなる。第三に、あなたはネガティブなエネルギーを放射しながら、それに見合った人生ラインへと移動する。
 ネガティブに反応する習慣が非常に根深いために、人間は下等動物にはない優れた利点であるはずの意識を失ってしまったかのようだ、カキガイも外部からの刺激に対して、ネガティブに反応する。しかし、人間はカキガイと違い、外の世界との関係を意識的、意図的に調整することが可能なはずである。ところが、人間はこの特典を利用せず、ほんの些細な不快に対しても攻撃的に反応してしまう。人間は攻撃することが自分の力であると誤って解釈しているが、実際はコマが仕掛けた蜘蛛の巣に絡まって身動きが取れず、もがいているだけなのである。
 あなたは人生が悪化したと思っている。しかし、今の若い人は人生が素晴らしいと感じている。なぜ、そうなるのか。あなたが若かった頃がどんなに素敵だったか、今の若者たちは知らないだろう。それでは、あなたの年配の人々はどうかというと、彼らは必ずと言っていいほど、今の暮らしに不平不満を抱き、昔はよかったと懐かしがる。このようなことが起こるのは、過去から嫌な部分を消し去り、好ましい部分だけを残しておくという人間心理の特性が原因となっているだけではない。なぜなら不満は昔よりも悪化しているらしい現状に向けせれているからである。
 人生は年を追うごとに悪化の一途をたどるという事実を受け入れるとすれば、世界はずっと以前に崩壊していなければおかしいことになる。人類の歴史が始まって以来、幾世代が登場したことだろう。そして、どの世代も世界は悪化したと思っている。例えば、どの年配の人に聞いてみても、コカ・コーラは昔はもっとうまかったと断言する。しかし、コカ・コーラが発明されたのは1886年であり、以来ずっと飲み継がれている。それが今の年配者からどれほど嫌悪感を持たれているか、想像していただきたい。年をとると味覚が衰えることがありえるという事だろうか。おそらくそうではない。なぜなら、年配の人々にとっては例えば、家具や服装などのほかのものも、ことごとく悪くなっているわけである。
 もし世界が全員にとって一つの同じものであるならば、数十世代が入れ替わった後の世界は、地獄溶かしていることになる。世界は全員にとって一つではないという逆説的な事実をどう理解すればいいのか。私たちはみんな亜空間が現実化した同じ世界に住んでいる。しかし、一人一人にとって亜空間は自分だけのものなのである。例えば運命においても、富める者と貧しい者、成功する者と失敗する者、幸せな者と不幸せな者というように、表面上からも明らかな違いがある。こうした人々はみな同じ世界に住んであるが、各人にはそれぞれ自分の世界がある。そう考えると、貧しい者が暮らす街区と富める者が暮らす街区とがなぜ存在するのかという事も分かる。
 さらに、運命のシナリオや役柄だけで無く、舞台装置までが違っている。舞台装置の違いは観察してもはっきりとは分からない。いくつか例を挙げて見よう。贅を凝らしたつくりの高級車の窓から世界を眺める者もいれば、ごみ箱の中から世界を眺める者もいる。祝日で心弾む者もいれば、自分の問題に心を悩ます者もいる。快活そうな若者たちのグループを見かける者もいれば、傍若無人にふるまう不良たちの一団を目にする者もいる。皆が同じものを見ているのに、目に映る光景は、カラー画像と白黒画像のように異なる。各人が亜空間における自分のセクターに調整されているため、それぞれが自分の世界に住んでいる。これらの世界はすべてが互いに積み重なって層となり、私たちが住む空間を形成している。
 これを頭に描くことは難しいかもしれない。ある層を別の層と分離することは出来ない。各人は自分の思考によって自分の現実を形作っている。そして同時に、この現実は取り巻いている世界と交差したり、相互に作用しあったりしている。
 一つの生物も存在しない地球を想像していただきたい。さて、ここで人間が生まれ、これらすべてを観察し始めた。この人間の思考エネルギーは、亜空間の特定のセクターで物事を現実化させ始める。つまり、この世界においてその人間の人生を創り出す。この人の人生はこの世界の新しい層である。別の人間が生まれると、もう一つの層が現れる。人が死ぬと、層は消える。あるいは死の向こう側で形を変えるのかもしれない。

〇筋肉が意志と関係なくひきつるのと全く同じように、人間の思考は重要性によって乗っ取られてしまう。例えばねあなたの心に何かが重くのしかかっているとき、肩や背中の筋肉はひきつったよような緊張状態にある、痛みが現れないうちは、あなたはこの緊張状態に気づかない。しかし、もし折よく思い出し、自分の筋肉に注意を向けたならば、締め付けているものを投げ捨てることが出来る。
 何らかの事柄への準備をしていたら、自分が重要性を与えていることに気付いていただきたい。もしその事柄があなたにとって非常に大きな意味を持つとしても、これ以上圧力をかけることはやめること、効果的な処方箋としては、自然に振る舞う、成り行きに任せる。気軽な対応、というのがあげられる。準備をするというのなら、保険を書けるという形に限る。「真剣に入念に準備する」ことは、重要性を強めてしまうだけなので、決して行ってはいけない。行動をせずに気をもむばかりと言いうのも、重要性をますますエスカレートさせるだけである。重要性のポテンシャルは行動によって拡散する。考えないで、行動すべきである。もし行動することが出来なくても、考えてはいけない。注意を他の対象に向け、状況を解放してあげることが必要である。
 もし注目の中心を執行者としての自分や最終目的からそらし、それを行動が履行される過程へ振り向けると、あらゆる行動において最高の効率が得られることになる。その際、「私は重要な仕事をしてはいない」とか、「仕事は重要ではない」と言い聞かせると、過剰ポテンシャルは解消されていき、平衡力は邪魔をしない。行動は冷静に履行されるべきだが、決してだらしなくとかのんきにという事ではない。なぜ、注目の中心を最終目的からそれらす必要があるのか。最終目的を考えずに、どうやって仕事をやり遂げることが出来るのか。こういった疑問が生まれてくるかもしれない。
 ところで、なぜ時々こんなことが起こるのか。あなたは何らかの事柄に大変気を使い、いつもそれについて考え。それに伴うありとあらゆる厄介事や問題になりそうな状況を常に想定しているのに、結局、すべてはあっけなく上首尾に終わってしまう。これとは反対に、あなたは迫ってきたことに大変軽率に接し、想定外の極めて不愉快な目にあうこともある。一つ目の場合は、事柄を評価する針がマイナスの方向へ振り切れていて、二つ目に場合は、プラスの方向へ振り切れていたからである。最終的に起こった事は、平衡力の作用による結果である。平衡力はあなたによってつくられた過剰ポテンシャルを解消しなくてはならず、ここでもそのように働いていたのである。
 このことから、もし試験前に意図的に最も恐ろしい光景を思い描くとしたら、最高の評定を得るに違いないと思うかもしれないが、これはわざと行った意図である。このような意図は、理性の所産であって、魂のそれではない。あなたは自分を騙そうととすることはできるが、それはエネルギーで裏付けられていないまがい物にすぎない。エネルギー上の基盤を持っているのは「魂の意図」だけである。まさにこの理由から、光景を単に思い浮かべるだけでは、望むものは得られない。しかし、このことについてはまたあとで述べることにする。
 たとえ極めて正当に手に入れたことであっても、どのような状況であろうと決して自慢してはいけない。ましてや、まだ獲得していないとを自慢するなど、もってのほか。こんなことをすると大きな不利益を被ることになる。なぜなら、この場合、平衡力は常にあなたに逆らって作用するからである。
 あなたは自宅にいるようにくつろいで良いが、客人であることを忘れてはならない。もしあなたが周囲にあるコマたちと調和の取れたバランス状態にいる、すなわちコマたちと同じ調子で一緒に回転しているのならば、あなたの人生は軽やかに心地よく流れていく。あなたが周囲の世界と共振を始めるようになる。エネルギーを受け取り、大した苦労もなく自分の目的を達成する。
 もしあなたが周囲の世界とバランス良く暮らすことがほぼ不可能「例えば、夫が暴力を振るうなど」という状態に至ったならば、断固たる決断を下し、自分の環境を変える事を考えるべきである。どこにも行き場がないと思われるかもしれない。それは、コマがあなたに吹き込んだ考えにすぎない。そのコマにとっては、あなたを近くに置いておく方が好都合なのである。脱出口はいつもあるし、一つとは限らない。窓ガラスにぶつかるハエの事を思い出してみよう。すぐわきにある開け放たれた小窓が目に入らないのである。軽はずみに急激な動きをすることだけは慎むべきではあるが。重要性の程度を引き下げ、平穏な暮らしを許さない破壊的コマの影響から解放されたら、すぐに最適な脱出方法が見つかることになる。いまやあなたは解放される方法を知っている。コマから身をかわすか手なずけるかである。
 これで、バランスという大きくて複雑なテーマを終わることにする。もうあなたは平衡力が働く仕組みについて理解したのだから、様々な失敗の原因がどこに潜んでいるのかについても簡単に断定できるだろう。私たちはすべてにおいてバランスを保つという原則を守る必要があるとの結論に至った。ここで、あなたが過度にバランスを追いかけることの無いよう忠告しておかなければならない。もしあなたがバランスに心を奪われて、バランスを保つことを熱狂的に始めたら、それによって原則に違反することになるからである。ムカデに歩き方の細部に至るまでを説明してあげたら、ムカデは完全に混乱して、その場で身動きが取れなくなってしまう。何でもほどほどが大切である。自分がたまにはバランスを乱すことを大目に見てやろう。それで恐ろしい目にあうことはない。その場合、重要性を示す針が振り切れないことが肝心である。

〇ところで、平衡力に抵抗することは可能なのか。あなたはまさにこのことについて、毎日取り組んである。人生とは平衡力との戦いから成り立つ、あらゆる困難、不快、問題は、平衡力の働きと関係がある。いずれにせよ平衡力に抵抗しても無意味であり、平衡力は何がどうあっても自分の仕事をやってのけることになる。結果を取り除こうとる努力は、何にもならない。返って、状況は深刻化すだけ。平衡力に対処する唯一の手段は、原因の除去、すなわち平衡力を生み出すことになった重要性の過剰ポテンシャルを低くすることにある。人生の状況は大変に多彩であることから、すべて問題のを解決するための万能の処方箋を出すことはできない。私がここで出来るのは、一般的な助言を与えることだけである。
 どの人も重要性という基礎の上にに壁を築く作業に携わっている。その後、壁をよじ登って超えようとするか、それとも頭から壁に突進して穴を開けようとする。障害を克服しようとする代わりに、壁が崩れるよう、基礎部分のレンガを引き抜いてはどうか。我々はみな自分の障害を明確に認識している。だが、障害がどんな基礎の上に築かれているか見極める事は、いつも簡単にできるわけではない。もしあなたが問題だらけの状況に遭遇したならば、どこでやりすぎたのか、どこをつかまれてしまったのか、何に過剰な意義を与えたのか、突き止めてみること。そして、自分が重要性を与えたものを突き止めたら、それと縁を切ること。壁は崩れ、障害は自滅し、問題はひとりでに解決される。障害を克服しようとはしないで、重要性のレベルを引き下げればよい。
 引き下げるという事は、自分の感情と戦う事や感情を抑制することを意味するのではない。過剰な感情や心労は重要性を与えてしまった結果なのである。原因となっている関係を取り除かなければならない。人生に対しては、できる限り哲学的に臨むようアドバイスしたい。そんなことはうんざりだと思っても、聞いてもらいたい。そうして、重要性を与えることは問題以外に何ももたらさないことを認識し、意識的に重要性を引き下げていくこと。
 外的重要性を低くすることは、無視したり過小評価したりする事ではない。反対に、無視することは逆の符号が付いた重要性となる。人生に対する姿勢をもっと簡素なものにする必要がある。無視もせず、誇張もせず、というように、どんな人々なのか、いい人々か又は悪い人々が、という事は、あまり考えすぎないことである。日常の世界のあるがまを受け入れること。
 内的重要性を低くすることは、謙遜や自己卑下とは違う。自分の過ちや罪を悔いあらためる事は、自分の長所を取り立てて強調するのと同じである。ここでの違いは符号がプラスかマイナスかという事だけである。あなたの後悔を必要としているのは、あなたをコントロール下に置きたがっているコマだけである。自分をあるがままに受け入れること。思い切って本当の自分になってみる。自分の長所をほめちぎったり、短所をこき下ろしたりしてはいけない。内なる平穏を求めること。あなたは重要人物ではないが、取るに足らないわけでもない。
 もしあなたの状態が何らかの事柄に強く依存しているのであれば、変わりのものを見つけたらいい。丸太の上を安心して渡るには、保険が必要である。各々の具体的なケースで、この保険に相当するものがあるはずである。それぞれの場所に何が保険となってくれるのか、ただ自分に問いかけてみればいい。平衡力と戦うことは無益なだけであることを思い出すこと。恐怖や動揺を押しつぶするとはできない。しかし、重要性を低くすることだけはできる。それが保険、または予備の亜空間である。どんなに確信があるにしても、一枚のカードに全てを託してはいけない。
 ユーモアの感覚、自嘲する能力、そして、侮辱にならない程度に悪気なく他者を笑う能力などは、唯一過剰ポテンシャルを創らない。こうした能力を備えていれば、あなたが無感情のマネキンになってしまうことはない。ユーモアとは、それ自体が重要性をつけて物々しくすることへの否定であり、風刺画はもったいぶった重要性こそをテーマとしている。
 問題を解決する際には、金貨玉条とも呼ぶべきものが一つある。問題解決に着手する前に、重要性の程度を引き下げるという事である。そうすれば、平衡力が邪魔することはなく、問題解決は簡単にあっけなく済むだろう。
 重要性の程度を引き下げるためには、重要性を与えた結果として問題だらけの状況が発生したという事を思い出し、ハッキリと自覚することが必要である。あらゆる問題は重要性が生み出したものであり、あなたは問題に深くのめりこんでいたのである。こうしたことをあなたは自分にきちんと説明することが出来ず、まるで夢見心地の状態にまだいるのであれば、完全にコマのコントロール下に置かれていることになる。立ち止まり、幻影を振り払い、重要性とは何なのかを思い出して見よう。その後で、重要性を与えた対象と自分との関係を意識的に変えてみる。これはもう難しくない。なぜなら、あらゆる意義付けは邪魔をするだけであることを、あなたはよくわかっているからである。難しいことと言えば、あなたが内的重要性や外的重要性の中でもがいていたことを、適当なころ合いに思い出すことにある。このためには、あなたの内なる見張り役に登場願いたい。内なる見張り役はあなたの内面におけるあらゆる価値を常に見張っている。