〇周囲の世界とバランスの取れた状態になったら、小流にただ従うだけでよい。あなた自身を導こうとするたくさんのサインを見かけることになる。状況から少し距離を置き、参加者ではなく外から見守る観察者になる。奴隷でも主人でもなく、ただの執行者になるのである。理性が「合理的な」意思決定をしようと腰を挙げそうになったら、自分に教えてくれるよう、内なる見張り役に命じておこう。執行者として自分をリースに出す、すなわち、自分の両手と頭は貸し出しても、心は常に開放して置き、自分自身はその仕事ぶりを外から観察するのである。すべては、思ったよりもしずっと簡単にできる。この簡単なやり方に身を委ねよう。滝へと導くのは理性であって、事象の流れではない。
 例えば、あなたはある品物を売っている店を見つける必要があるとしよう。しかし、どこでそれを手に入れられるのかわからない。理性は最も合理的だがややこしい事象を耳打ちする。あなたは町の大半を探し回った挙句、欲しい物を自宅の隣で見つけることが出来た。もし目標の重要性を引き下げていたら、理性はこんな手間のかかる解決方法を考え出すことはなかっただろう。
 別の例を挙げる。あなたの前にやらなければならない仕事のリストがある。手始めに何を選び、次に何をやるのか。考える必要はない。もし順番が基本的に重要な意味を持っていないのであれば、手当たり次第にこなしていければよいだけである。小流とともに進み、自分の理性をコマの影響から解き放つのである。波に翻弄されるままの神の船になれという話をしているのではない。水面を両手でバシャバシャとたたきつけることでもない。あなたにとっては簡単なはずのちょっとした泳ぐ動作を行えば、それで十分という事である。
 私はこれ以上例を挙げるつもりはない。たとえ一日でも流れに沿って進むことを試してみたならば、自分にとって有益で驚くべきことをあなた自身がたくさん発見する。あなたが何らかの解決策を見つけ出さなければいけないときは、解決策を模索するのにどの道を選ぼうか。誰かが何かがあなたをその道から引き離そうとしたり、または道を迷わせようとしたら、そのたびに焦って激しく抵抗したり身をかわしたりしようとしてはいけない。自分をリースに出して、これからどうなるのか、しばらく様子を見てみよう。何かをしなければならないときには、それをするのに一番簡単な方法で処理されるようにすること。あなたに何かを提案する人がいたり、または自分の見解を示そうとする人がいたら、その都度慌てて断ったり口論したりするのは辞めること。ひょっとすると、あなたの理世界は、それが自分に役立つことであったり、取りえる別の選択肢であったりすることを、まだ理していないのかもしれない。見張り役の働きを活発化させよう。まずは観察し、行動はそれからにすること。観客席へ降りて行っても、急いでその場を取り仕切ろうとはせず、ゲームが可能な限りひとりでに展開できるところまでは観察し、行動はそれからにする。観客席へ降りて行っても、急いでその場をとりしきろうとはせず、ゲームが可能な限りひとりでに展開できるところまでは観察していよう。水面を両手で激しくたたきつける必要はない。あなたの人生が流れに沿って進むことを阻んではいけない。これであなた自身がどれほど楽になったかお分かりか。
 それにしても、迫りくる滝や暗礁なと、小流の中にある通常のカーブとを、どうやって見分けたらいいのか。取り巻く世界におけるそのような判断の際には、十分に知覚可能なサインを利用することが出来る。世界はいつも私たちにこうしたサインを与えてくれる。もっともよく知られているサインとしては迷信がある。良い迷信もあれば、悪い迷信もある。虹を観たら、それは吉報である。黒猫が横切ったら、災いが待ち受けている。こう考えるようにとされている。一般に受け入れられている迷信は、幾度もの観察と比較考察の結果、出来上がったものである。もし迷信がその通りになる確率が十分に高いのなら、そこに世論が認める法則性があるのだろう。なぜなら、人々は不思議な現象についていつも話題にするからである。しかしながら、迷信がその通りになることは滅多にない。なぜなのか。
 人が忘れ物をして、戻らないといけないときに、何が起こっているのか。その人は、忘れ物を取りに戻ったら悪い迷信の通りになると思っているかもしれない。それとも、そんな迷信を信じていないのかもしれない。だが、社会が共有しているしつこい固定観念は、いずれにせよ潜在意識に何らかの影を投げかける。何か良くないことが待ち受けているのではないかという気持ちが芽生える。そして、取りに戻ることはめよう、とその人は思い直す。しかし、そう思っても気休めにはならない。なぜなら、さっきまで規則正しかった流れはすでに乱れ、その人は平衡状態から幾分外れてしまったからである。幸いをどこかで期待する事により、思考放射のパラメーターに修正が加わり、その人は修正後のパラメーターに対応する人生ラインへと移動する。その人は危惧していたことを受け取る。自分のシナリオにそうした可能性が入り込むことを、その人自身が容認してしまった。まさにそのために、迷信の通りになる確率は高まる。
 このように、一般に広く受け入れられている迷信は、それ自体としては、法則になるどころか、法則性すら見出すことが出来ない。なぜ、よりによって黒猫が私たちの人生に何らかの影響を及ぼし得るのか。なぜ、よりによって黒猫が全員にとっての馬鹿げたサインの基準になりえるのだろう。どうして黒猫が私たちの人生に何らかの影響を及ぼし得るのか、影響を及ぼすのは黒猫ではなく、あなたの対応の方である。もしあなたが迷信を信じるならば、迷信はあなたの人生の形成に関与してくる。もし信じないが払拭しきれないというなら、迷信の影響力は弱まるが、とにかくそれでも残ることになる。もし全然信じないし注意も払わないというのであれば、迷信はあなたの人生に何の影響も与えない。すべては非常に単純なことである。つまり、自分の人生のシナリオに入り込むのを容認したものを、あなたは受け取る。という事である。迷信を先入観として捉える人は、自分の世界の層で迷信が実現されそうな気配を何も感じていない。迷信はほかの人々の世界の層では本当に起こる。なぜなら、そうした人々は自分のために裏付けを見出すからである。しかし、信じない人には、裏付けもないことになる。
 もし迷信自体が人生に影響を与えないのであれば、どんなサインについての話をしても意味はない。黒猫は影響を与えないかもしれないが、それは事象の流れの途中で発生する事柄について警告するサインなのかもしれない。問題は、どのようなものをサインと考えていいのかという点に尽きる。観察してみると、周囲で起こっていることすべてがサインに思えて来るからである。それらをどうやって解釈すればいいのだろう。ここではサインの解釈の仕方には取り組まない。それは非常に不確かで分かりづらく、そうする甲斐のない作業になるからである。唯一実行できることは、サインを参考までに受け入れ、内なる見張り役の警戒心を高め、注意深くなることである。

 

〇これまで見てきたように、理性は常に人為的に作り上げた重要性の影響下にあるため、効果的な決定が下せない。実際は、内的重要性や外的重要性の問題の主な発生源である。平衡力の作用は、流れの途中において、早瀬や渦巻のような形で現れる。もし重要性を与えることを辞めにしたら、流れはもっと穏やかな水路に変わるだろう。その流れに身を任せるべきかという問題は、やはり重要性の問題である。外的重要性は、単純な問題をややこしく解決するよう理性に強いる。内的重要性は、理性が常識的に思考していて、それが唯一確かな決定を下せるのだという事を、理性自信に信じ込ませてしまう。
 もし重要性を放り出したら、理性はほっと一息つくことだろう。なぜなら、コマの影響やわざわざ作られた問題による抑圧からも解放されるためである。これで理性は、より客観的で適切な決定を下せるようになる。しかし、もっと素晴らしい事は、重要性から解放された理性が、強力な知性を必要としなくなる事にある。もちろん日常の課題を処理するには、論理的思考も知識も分析能力も必要である。しかし、こうしたことすべてに要するエネルギーは大幅な削減される。すると事象の流れは、それまでそれをほとんど利用していなかった理性にとって、豪華な贈り物となる。
 事象の流れには全ての問題の解決方法が含まれている。それに、問題の大半は理性自信によってわざわざ作られたものである。落ち着きのない理性は、いつもコマからの振動を感じ、状況を掌握しようとしながら、すべての問題の解決に取り掛かる。理性の意思決定は、ほとんどの場合、水面を意味もなく両手でひっぱたくというものである。もし事象の流れを妨げなければ、ほとんどすべての問題、とりわけ小さな問題は、ひとりでに解決されてしまう。
 解決方法が亜空間に既に存在しているのであれば、強力な知性は用がない。もし厄介で込み入ったことに首を突っ込むわけでもなく、事象の流れを邪魔するのでもなければ、解決方法は自然にやってくる。それも、最も適切なものが来るのである。最適性は情報フィールドの構造の中にすでに備わっている。実は、因果関係が事象の流れの中に個々の小さな流れ、すなわち小流、というものを生み出している。この小流は物事が原因から結果へと流れるときの最適な道である。亜空間には全てが存在するが、高い確率で現実化されるのは、まさにこの最も適切であり最小限のエネルギー消費で済む事象である。自然はエネルギーを浪費しない。人は足で歩くのであって、耳では歩かない。あらゆるプロセスが最小のエネルギー消費で行われるようになっている。そのため、事象の小流も最小限の抵抗で済むやり方で実行される。まさにこの小流にこそ最適な解決方法が存在している。コマにとりつかれた理性は、コマの利益のために行動するようになるため、いつも小流から外れる。言い換えると、理性は厄介なものに首を突っ込む、すなわち単純な問題の複雑な解決方法を探ししているという事になる。
 こうした考察の全てが抽象的すぎると思われるかもしれない。しかし、小流の存在がどれほど現実的なものであるか、あなた自身が実践することで納得することが出来る。小流の存在は、理性にとって本当に豪華な贈り物である。どの問題の中にもその解決方法への鍵が暗号化されて入っている。一番最初の鍵は、最小限の抵抗で道を進むというもの。ふつう、人々は複雑な解決方法を模索する。なぜなら、問題を障害として受け取るからである。障害は、力をふり絞って克服すべきものと相場が決まっている。だから問題解決に際しては、たまたま近くにあったもっとも単純な事象を選ぶ習慣を訓練して身につける必要がある。
 私たちはみな、何か新しいものを学ぶか、または既に知っているおなじみの事を行うか、どちらかを行わなければならない。ここで問題。両方を最も効果的に行うにはどうするべきか。答えは単純すぎて、その有効性が信じがたいくらいである。流れに沿って進むという原則に従って、最も簡単で単純な方法ですべてが行われようにする。というものである。
 あらゆる行動の最適な事象が小流となっている。こうした小流は、最適な因果関係の鎖から構成されている。あなたの行動において、次の一歩を踏み出す決断を下す時に、あなたは次の鎖の輪を選択する。小流の一部を形成しそうな輪はどれなのかを決めればいい。このような場合に、人は何をするかというと、常識と日常経験という観点から、最も正しいと思われるものを論理的に決定するというものである。
 理性は意思決定に従う。理性は、全てを予想して説明する能力が時分に備わっていると考える、だが、そうではない。別のやり方があったと後で気づいて、はっとしたりする事が何度あったことか。これはあなた自信が証明できるだろう。注意散漫であったとか、頭の切れが今一つであったかの問題ではない。理性は常に最適な事象を選ぶとは限らない。なぜなら、小流の鎖は理性の論理的思考体系と常に合致しているわけではないからである。
 論理的な結論だけを用いて最適な行動の事象を選択することは、いくら努力してもまれにしかできない。通常、理性はストレス心配事、うつ状態は、そう状態による圧力を受けている。言い換えると、理性は常にコマから振り回されている。そのため、いつも理性はあくまで自分の考えを押し通そうとして、外の世界への正面攻撃を強行する。
 小流の次の鎖を選ぶには、ただコマの渦から解放されて、この小流に素直に従うだけでよい。すなわち、平衡状態を保ち、過剰ポテンシャルを創らない必要がある。過剰ポテンシャルを創らないようにするには、常に重要性のレベルをチェックしなければならない。

 

〇ねだり屋と怒りん坊は、人生の流れのなすがままに漂う。反対に、無鉄砲者はこの流れと戦おうとする。もちろんこうした純粋なタイプの人々は存在しない。各々は、その時々であれやこれやの役割を程度に多少の差をつけて演じる。このような役割を果たしながら、人は極めて非効率に行動する。しかし、もし流れに任せて漂うことも、流れと戦うこともいけないのであれば、何が残されているのだろう。
 これまでに見てきたのは、理性が、権威を振りかざして常識に基づいた自分の意思を押し付ける様子である。多くの人々は非常に冷静に考えるのに、どうしても自分の問題を克服できない。常識は果たして大きな効用を持つのだろうか。実は、理性が頼りになる決定を下すことのできる保証はない。理性自信は冷静に考えているつもりだろうが、実は、コマの受け売りをしているだけだから、人が、ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者の役割を演じている間は、移動の自由すらない。無鉄砲者でさえ、意思表明の自由度は紙の船ほどもない。
 無鉄砲者は人生の流れの中をどのように進むのだろう。コマは無鉄砲者を挑発して戦い向かわせ、無鉄砲者は流れを利用した方が簡単で有利なことがわからないまま、流れに逆らって水を描く。理性はコマに取り憑かれているのに、無鉄砲物はたる面持ちで理性の意思決定を受け入れ、穏やかで滑らかな泳ぎができるはずの場所でも、両手を使って全力で水面をたたきつける。
 それでは、こういう泳ぎ方はどうだろう。流れに抵抗せず、余計な渦も作らず、そうかといって神の船のように成すがままに漂うというのでもない。流れと調和して進むのだが、暗礁や障害物や危険なポイントが近づいてくることに気付いたら、一欠き二欠き泳ぐことでかわしながらの、当初選んだ方向を維持しつつ進み続ける。この場合、舵はあなたが握っていることになる。
 このように人生を流れとして考える事は可能なのだろう。そして、なぜ、成すがままに漂ったり、流れに抵抗したりしてはいけないのだろう。情報は亜空間にマトリックスの形で恒常的に存在するのだが、それと同時に情報構造が因果関係の鎖状に形作られていく、つまり因果関係が事象の流れを生み出す。この流れについて、これから述べる。
 流れに和えて抵抗してはならない理由は、そうすることで膨大なエネルギーが有害無益に消費される点である。しかし、亜空間の流れを当てにしてよいのだろうか。穏やかなラグーンへと運んで行ってくれることもあるだろうが、滝に行きつくこともあるかもしれない。まさに、そのような好ましくない事を避けるために、適宜泳ぎをいれることによって自分の動きを修正しなければならない。もちろん最初この流れ全体の方向性を正しく吟味する必要があることは言うまでもない。流れの方向は、選んだ目的とその達成方法によって定められる。方向を選んだあとは、最大限流れに任せ、激しい動きは慎むべきである。
 誰でも自分の流れの全体的な方向性をおおよそ想像する。例えば、今、私は学生であり、この後就職し、家庭を持ち、職場で昇進し、自分の家を建てる。などというように、多くの人々は、自分の道でたくさんの失敗を重ね、後ろを振り返っては後悔する。しかし、やってしまった事はもう何も修正できない。流れは望んでいた目標から遠くわきへそれてしまった。常識的な理性は助けにならない。「もし転ぶところがわかっていたら、わらでも敷いておいたのに」と悔しそうにつぶやくだけである。
 誰もが曲がり角の向こうに何が待っているのかを知りたがる。皆が占い師や占星術師のところへ大真面目に押し掛けるわけではないが、たとえ好奇心からであっても、多くの人がひきつけられる。占いや占星術に酔う楽観的な予想や予言は、一縷の望みを抱かせてくれる。しかし、ありがたくない予想は振り払ってもよい。亜空間のモデルは、占星術と矛盾することはない。予想は、亜空間という現実性のある根拠に裏付けられている。人々が未来をのぞき込むことに興味を持っているからというためだけの理由で、占星術が存在していのではない。もし的中率が非常に低いのならば、はかない予言を誰もあてにはしないだろう。しかしながら亜空間の流れの存在は、一定の法則性に支えられて、空間の現実化されていないセクターをのぞき込むことを実際に可能にしてくれる。占いや占星術による結果が、透視能力の場合と同じく、百パーセントの精度を保証できないことは、別の問題である。
 人は予言や占星術にどれほど頼ろうとも、最後は自分のために自分で決断する。予言や占星術の信頼性というテーマについては、敬意を表したうえでわきに置いて置き、事象の流れの存在に関する知識から引き出すことのできる有益な部分を見てみることにする。基本となる方向が適切に選択してあるとして、主な問題点となるのは、どこまで流れに任せられるのかという事と、そもそもなぜ流れに身を任せなければならないのかという事である。

〇事象選択の観点からは、ねだり屋であれ、怒りん坊であれ、どちらの道も非常に愚かしい。事象選択は全く新しい道を提案する。乞い願わず、要求もせず、行ってとって来い、というものである。
 さて、それでは、今触れた事象選択の道と次の場合とでは、いったいどこが違うのだろう。別の選択をした人も、乞い願わず、要求もせず、行ってとってこようとする。その人の考え方は、自分の手の中にあるはずというものである。そういう人は、日の当たる場所を求めて世界と戦い始める。このような無鉄砲者は、過酷な立場に身を置きながら、コマとの戦争を行い、競争に参加し、肘で人を押しのける。つまり、全生涯が生存をかけた戦いの連続となる。こうした選択肢も亜空間には存在する。 
 自分の感情を抑制しても、反対に、不満を表明し、コマへの依存関係に引きずり込まれてしまうことを、私たちはすでに知っている。重要性のポテンシャルについて述べた章を思い出してもらえば、すべて、すべてあきらかになる。ねだり屋はジ自分の罰のポテンシャルを生み出し、自発的に人形遣いの手に自らを委ねる。ねだり屋は、願いを乞うて待つことに罪を感じているが、おそらく与えられるだろうと前もって予想している。怒りん坊は、不満のポテンシャルを生み出し、平衡力が自分に対抗して働くようにし、自分で自分の運命をどんどん悪くする。
 さて、戦うことを選んだ無鉄砲物は、ずっと生産的な立場にあるはずだが、その人生は苦難に満ち、多大な労力を消費するものとなる。どんなに抵抗しても、蜘蛛の巣にがんじがらめにされるだけとなる。本人は自分の運命のために戦っていると思っているが、実際にはエネルギーを浪費しているだけである。時には勝利を手にすることもある。しかし、どれほどの犠牲を払ったことか、勝利は一般に公開されるが、勝利の栄光は簡単に手に入るものではないことをほとんどの人が確信する。こうして、一般に考えられているように何かを達成するためには、粘り強く努力をするか、または、勇敢に戦う必要があるという事になる。
 実は、世論は、コマによって作り上げられる。重要性のポテンシャルが発生しているところでは、コマはうまい汁を吸う事が出来る。目標到達が難しそうに思われるのは外的重要性である。目標に続く道の途中で、身ぐるみ残らず引きはがされる事だろう。ゴールまでたどり着ける事があるかもしれない。そして、本人自身も非常に満足している事だろう。しかし、目標達成そのもののために費やしたエネルギーよりも、むしろコマへの年貢として取り立てられたエネルギーの方がはるかに膨大であったことを、彼らはまだ理解していない。
 例えば、こんな具合である。自分の目標のためには、乞食の大群の中を通過せざるを得ない状況を創造していただきたい。乞食たちはみながやがやと騒ぎ立て、行く手を阻み、両手をつかむ。その人は、言い訳したり、謝ったり、お金を恵んだり、押し合ったり、かき分けたり、つかみ合いをしたりする。そして、大変な労力を費やして、ついに自分の目標まで到達することが出来た。目標の達成そのものだけに使ったエネルギーは小さなもので、足を運ぶという事に費やされた、残りのほとんどのエネルギーは、うるさく付きまとってくる乞食たちとの戦いによって奪われたのであった。
 コマによる束縛から解放され、その人は自由を手に入れた。古事記たちもターゲットを他の人々に切り替え、その人をそっとしておくようになった。思い出していただけたであろうか。コマから自由になるためには、内的重要性や外的重要性と縁を切る必要があったという事を。もしあなたがこれを実践すれば、目標へと続く道にある障害物は自然に壊れる。さあ、そうなれば、乞い願うことも、要求することも、戦うこともなく、ただ行って取ってくるだけで済むのである。
 ここで疑問が生まれる。「行って取ってくる」のを、どう理解し、そのためには何が必要なのだろう。私たちはこれまでに自分の運命を選択するための一般的な戦略を概観してきた。ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲物の役割は私たちには似合わない。人生という名のついたこのゲームにおいて、事象選択には自分の運命の主に、どのような役割を割り振ってくれるだろうか。これはあなたへの宿題である。

 

〇人生の様々に状況においては、二つの両極端な行動がある。意志を持たない神の船のように流れに身をゆだねる場合と、自分の意見に固執し、流れに逆らって水を掻く場合である。
 もし人が、自主性を発揮せず、どこへ向かおうともせず、ただ存在しているのみで、何もせずにいるのならば、その人生は成り行きに翻弄されたものとなる。その場合、人はコマの操り人形になる。コマが自分の裁量でその人の運命を決める。こうした立場にいると、人は自分の運命の選択をやめる。その人が選択するのは、あらかじめ決められていたものという事になる起こるべきものは避けられない。こうした姿勢を認めたうえで、その人は、運命から逃れられるものではないと確信する。その人の考え方は全く正しい。なぜなら、その人の他の亜空間にはこのような選択肢も存在するからである。こうした選択をした後は、力なく運命を嘆き、世界に君臨する最高の力に期待するほかなくなる。
 自分の運命を他者の手にゆだねた人の人生には、二つの道がある。一つ目の道を行くと、人はおとなしくなり、コマかまたは最高の力に頼みごとをしながら、自分の人生のための施し物を乞うようになる。コマはこのねだり屋に働くことを強制し、ねだり屋はささやかな生活の糧を受け取りながら、一生涯平身低頭し続ける。ねだり屋は最高の力に向かって愚直に大声で叫ぶが、聞き入れられることはない。
 ねだり屋は、「すべては神の御心」と言って、自分の運命に対する責任を負わない。すべては神のみ心であるとすれば、しっかりお願いしなければならない。そうすれば、慈悲深い神は恵みを与えてくださるだろう。最強で最高の力にとっては、すべて可能だから、つまり、叶わないのは頼み方が悪いせいだ。だから、この先もずっと頼み続けるべし、という事になる。 
 男が長椅子に寝転がってお祈りをしている。「神よ、どうかわたしを金持ちにしてください。あなたは何でもできます。あなたの偉大さを信じています。どうか私にお慈悲を」すると、神は忌々しそうに言った。「男よ、宝くじでも買うがよい」それにしても、自分で責任を背負わないまま、自分に勿体をつける内的重要性の中でじたばたするというのは、非常に都合のいい話である。この場合どこに内的重要性があるのだろう。人は自分が重要人物だと思うと、偉大な力と慈悲深さを備えた神が自分の幸福を心配してくれると思うのである。そうでなくても神は人間に非常に多くのもの、すなわち選択の自由を与えてくれている。ところが、人間の方は、幼児性が災いして、この贈り物を受け取りたがらず、終始不満な状態にいる。
 人間はその幼児性のために、目標へと続く道に障害物が山のようにあると行って、盛んに言い訳をする。人間はいつまでも何かに邪魔される。人間の邪魔をしているのは、平衡力とコマである。これらは、人間自身が生み出した重要性の過剰ポテンシャルによって発生したものである。
 ねだり屋としての役割に飽き足らない人は、第二の道を選ぶかもしれない。それは怒りん坊の役割を受け入れるというものである。これは不満を表し、その人が受けるべきらしいものを要求するという事である。怒りん坊は自分の苦情によって運命に大きな害を及ぼす。ある人が画廊にやってきたが、そこに展示してある作品が気に入らなかった。そこでその人は不満を表す権利が時分にあると思い、足をばたつかせ、威嚇し、要求を突き付け、または、周りにあるもの全てを壊し始めた。当然、この後には罰が待っている。その人はもっと腹を立て、猛然と憤慨し続ける。「このありさまは何なのだ。私を満足させたいのなら、もっと必死に努力すべきなのに」この世では所詮客人たという事が、その人にはわからない。

 

〇何が待ち受けているのかを魂はたいてい知っている、そして、か細い声で理性にそれを伝えようとする。ところが、理性は魂が伝えようとすることをほとんど聞かない。あるいは漠然とした予感を受けてもよく考えるようとしない。理性はコマに取りつかれていて、心配な問題を解決するために手いっぱいであり、そのうえ、自分の行動が筋の通ったものであることに自信を持っている。理性は、論理の一部や常識に従って、意思決定を行おうとする。しかしながら、周知のように、合理的な判断が確かな解決策を保証してくれるわけでは決してない。魂は理性と違って考えることをしない。魂は感じ取って知るのである。だから間違うことがない。よく人々は後になってふと気が付き、「こんなことをしても何もいいことはないと思った」というのである。
 決定を下す瞬間に、あなたの魂が理性に語り掛けることを確かめて見るよう学習することが肝心である。これを行うのはそれほど難しい事ではない。自分の内なる見張り役に命じ、あなたの魂が安らいだ状態かどうかに注意を払ってもらうだけでよい。さぁ、これであなたは何らかの決断を下すことが出来る。あなたの理性は、完全にコマにとりつかれているか、または問題の処理に没頭している。そんな時も明け方の心のさざめきに耳を傾けるにはどうしたらよいのだろう。自分の魂の状態に注意を払う必要があることを、適当な時に思い出すだけでよいのだ。これはあまりに陳腐なため、おもしろくも何とも無いくらいである。しかし、これでよい、要は、自分の感情に注意を向けるという事である。人々は自分の感情よりも理性による結論の方を信用しがちである。そのため、人々は自分の魂の平穏状態に注意を向けるという事を忘れてしまった。
 さぁ、ここで頭の中にある一つの解決方法をリハーサルしてみよう。この瞬間、理性は感情ではなく、常識的な判断に従おうとする。一般的に、理性はこのような時、どのような感情も知覚しようとはしない傾向にある。もしあなたが思い出すことが出来たら、あなたが感じていることに注意を払っていただきたい。何があなたを緊張させたり、不安にさせたり危惧の念を抱かせたり、または、何かを気に入らなかったりしているのか。ここであなたは何かの決定を下してみる。理性に対しては、瞬間も、口をつぐむように命じてから、自分自身に問いかけてみよう。「気分はどうか。良いか、悪いか」と。次に、別の解決策に気持ちを傾けてみて、もう一度自分に問いかけてみよう。「気分はどうか、いいか、悪いか」と。
 もしあなたが一様な感じ方をしないとしたら、それはつまり理性による聞き取り方がまだ不十分という事である。あなたの見張り役に命じて、あなたの魂の安らぎ具合にもっと頻繁に注意を払うとようにするべきである。しかし、あなたの質問に対する答え自体が様々な解釈のできることもあり得る。このような場合、定まらないデータに頼ってはいけない。理性が示唆するように行動するしかない。それとも、質問をもっと単純なものにしてはどうだろう。
 もし、「はい、気分は良好」または、「いいえ、気分は悪い」というように一様な返事をもらうことが出来たなら、あなたは心のさざめきを耳にしたことになる。これであなたは答えを知ったわけである。しかし、だからと言って、あなたが魂の命じるままに行動するという意味にはならない。私たちはいつも自由に行動できるというわけではないからである。しかし、少なくともあなたは、現実化されていないセクターで何を期待できるか知ったことになる。

〇意識と潜在意識の働きの仕組みの中には、多くの解明されていない部分と矛盾とがある。これらすべての問題を取り上げることはしないが、いくつかの側面だけを考えてみたい、専門用語や意味論で混乱しないようにするため、意識に関係するものは「理性」、潜在意識に関係するものは「魂」と、わかりやすく言い表すことにする。
 もし魂が理性に知らせたいことを理性がすべて理解したならば、人類は情報フィールドに直行できる許可証を手に入れたことになる。その場合、私たちの文明がどれほどの高みに党たちするかは想像もつかない。だが、理性は聞き取る能力を持っていないだけでなく、そうすることをやりたくもないのである。人間の注意は常に外部世界の対象か、内部の物思いや悩みに向けられている。内部で行われているモノローグはほとんど途切れることなく続き、理性のコントロール下にある。しかし、理性は魂の微弱なシグナルを聞こうとせず、権威を振りかざしてモノローグを繰り返す。理性が「考える」ときは、現実化されたセクターにおいて目に見える対象の特徴を意味するカテゴリーを利用する。言い換えると、理性は、シンボル、言葉、概念、図形、規則など確立された記号を用いて考えるのである。理性はどの情報もそれにふさわしい記号の棚ごとに並べて整理しようとする。
 取り組んでいる世界にあるものすべてに記号が与えられる。空は青い、水は流れる、鳥は飛ぶ、トラは危ない。冬は寒い、等々である。もし現実化されていないセクターから得られた情報が合理的な記号を持っていないと、理性はその情報を何か理解できない。「知」として受け取る。この「知」のための新たな記号を設けることが出来たり、古い意味の枠内で説明することに成功すると、発見が生まれる。
 原則にかかわる根本的に新しい「知」に記号を選び出してあげる作業は、いつも大変に難しい。はじめて音楽を聴いた人を創造していただきたい。音楽は音という形態を持つ情報である。理性がこの情報を受け取ったとき、知覚はするが、理解はできない。理性は必要とされる記号を持っていないからである。その人が音楽を何度も聞き、音楽家、楽器、楽譜、歌などすべての記号や対象がその人に示された後で、ようやく理解が生まれてくる。そんなわけで、理性が初めて音楽を聞いたとき、理性にとって音楽は極めて現実的な「知」ではあるが、同時に、不可解な謎でもある。
 赤ん坊に「ミルクは白い」という事を説明してみよう。赤ん坊は抽象的なカテゴリーを使い始めたばかりなので、山のような質問を投げかけてくるだろう。ミルクがどんなものかを赤ん坊は知っている。「ところで、白いとは何だろう」「それは色である。」「色とは何だろう」「それは対象の特徴である」「特徴とは何だろう。それに、対象とは」こんな風にきりがない。説明するよりも、様々な色の対象を見せた方がよい。そうすれば赤ん坊の理性は、対象の何が異なっているのか、色の抽象的なカテゴリーで記号を付ける事だろう。このように、理性は、それを取り巻くものすべてに定義と記号を与え、その後で、これらの定義や記号を用いながら考える。魂は、理性とは違い、記号などを用いることはしない。「ミルクは白い」という事を魂はどのように理性に説明ができるのか。
 理性が抽象的なカテゴリーを用いて考え始めて以来、理性と魂との繋がりは少しずつ退化してきた。魂はこのようなカテゴリーを用いない。魂は考えることや喋ることをせず、感じることや知ることをする。魂は、知っていることを言葉やシンボルで表現することが出来ない。そのため、理性は魂と話し合って折り合いを付けることが出来ない。魂が、まだ現実化していないセクターに同調し、物質的世界にはまだ存在していない何かを知ったと仮定しよう。魂はどのようにしてこの情報を理性に届けることが出来るのか。 
 ただでさえ、理性は始終おしゃべりで忙しい。理性はすべてが合理的に説明つけられると思い。常にすべての情報をコントロールしている。魂からは混乱したシグナルが送られてくるのだが、それを理性が自分のカテゴリーを用いていつも定義づけられるとは限らない。魂の不明瞭な感情や「知」は、大声を発するたくさんの思考の中に埋没する。理性のコントロールが弱まったときに、直感や「知」が意識上にどっと噴き出してくる。
 これは混乱した予感として現れる。内なる声とも呼ばれる。理性は、やっていることを中断し、この瞬間、あなたは魂が感じたことや知っていることを知覚する。これが心のさざめき…言葉のない声、思考のない想念、響きのない音である。あなたは何かしら分かっているのだが、おぼろげである。考えないで直感的に感じてほしい、直感がどんなものかは誰にも心当たりがあるだろう。例えば、だれかがもうすぐ来るはずだとか、何かが起こるはずだとか、何かについて説明はつかないが知っているとか、そんな風に感じることである。
 理性は思考を生み出すことで常に忙しい。魂の声はこの「思考撹拌機」によって文字通りかき消されてしまうため、直感的な「知」はなかなか届きにくい。疾走する思考を止めて空っぽの状態でいると、心のさざめき、つまり言葉のない内なる声を聞くことが出来る。そして、魂の声に注意深く耳を傾けるならば、理性は多くの問題に対する答えを見つけられるだろう。
 魂には目的をハッキリ持たせて現実化されていないセクターに波長を調整するよう教え込み、理性には魂が知らせたいことに耳を貸すよう強いるというのは、かなり難しい、小さなことから始めてみよう。魂には十分に明瞭な二つの感情がある。それは魂の「快」と「不快」である。理性はこうした感じ用に対する記号を持っている。「心地よい」と「心地悪い」、「自信がある」と「不安である」、「気に入る」と「気に入らない」である。
 人生においては、一歩進むごとに、あれかこれかを行う決断を下さなければならない。亜空間を移動しながら物事の現実化が繰り返され、私たちの人生が形成される。それは私たちの思考や行動によって、何らかのセクターが現実化されていった結果でもある。
 魂は情報フィールドに出入りできる。魂は、これから現実化されようとしてこちらに迫りくるセクターにおいて、行く手に横たわっているものを何らかの方法で目にする。もし魂が、これから現実化されるセクターに同調しているのならば、何が持ち構えているのか、それが心地よいものか、または不快なものかを知っている。そのような魂の感情を、理性は魂の快・不快という漠然とした感じとして受け取るのである。

〇潜在意識はどのようにして情報フィールドに入り込むことが出来るのか、私たちにはまだ知ることが出来ない。だが、私たちは、情報フィールドへ入る事の出来る人がいることは知っている。例えば透視能力を持つ超能力者たちである。彼らは、過去のことや、まだ起こっていない事、また遠隔地で起こっていることなどを知覚する能力がある。私たちは彼らに起こっているこうした現象の仕組みを理解することが出来ないので、それを超常現象と呼んでいる。基礎科学のコマは自分の無能力ぶりをさらけ出したくないので、そのような現象をまともに取り上げようとはしない。しかし、説明することが出来なくても、事実は存在するのだから、ただ単に手を振って無視することはできない。
 情報フィールドにある事柄が、まで現実が形となった世界で、しかも自分の目前で繰り広げられているかのように見ることのできる人々がいる。このような人々は、亜空間における現実化されたセクターに周波数を正確に合わせる能力を持っている。超能力者は、失踪者のセクターに同調するために、その人の写真を見たり、持ち物に触れたりする。このような超能力者による助けを警察も時々利用することがある。
 このような人たちは誰もが皆明瞭に見えるわけでは決してない。そのため、間違いは起こる。間違える原因は二つある。一つの原因としては、超能力者が、過去に起こったことが無く、将来も実現することのないセクターに同調することと関係している。様々なセクター間同志の相対的な距離によって、それらのシナリオや舞台装置が大なり小なり異なることがあり得るのである。もう一つの原因は、データの解釈についてである。古代の預言者や占い師は、未来の見慣れない舞台を見て、自分の知識レベルに応じて、自分なりの解釈をする。そのため、預言はしばしば正確性を欠くことがある。
 こうしたすべてを信じるかどうかは、あなたの選択にかかっている。事象選択は世界の法則を自分の利益のために利用可能とさせる単なるモデルにすぎない。また、この世界の構造に関する記述ではないことを忘れないでいただきたい。事象選択は、「幸せの隠し場所」という文字が刻まれた御影石の記念碑でもない。ご存じの通り、常に真実はどこかにすぐ近くにある。人間は自分の理性によって次々と新しいものを創り出すことが出来るという考え方は、単なる努力目標にすり替わるだけである。長い間私たちはこうしたモデルに慣れ親しんできた。それにその方が都合がよかった。人生についてのこうしたおなじみの考え方は、事象選択のモデルと同様に、証明できないことにお気づき頂きたい。インスピレーションやひらめきなどがもたらされる仕組みそのものは、私たちにとって原則的に重要ではない。しかし、亜空間からのデータが、様々に示唆、幻、ヒラメキ、兆候などの形で私たちに届けられているのは事実である。だから、そうしたものの意味を可能な限り読み解くこが大切である。
 情報フィールドのデータを明確に読み解くことが出来るのは、非常に少数の特別な人たちだけであ。大半の人はこうしたデータのあいまいな響きだけを一瞬の予感や不明瞭な情報という形で受け取っている。科学や創作に携わっている人々は、何日も又は何年も思い煩った末に、ヒラメキを得る。新しいものを発見するのは困難なことである。なぜなら思考の放射は、どうしても亜空間の既に現実化されたセクターの方に簡単に同調してしまうからである。根本的に新しいものは、現実化していないセクターに眠っている。しかし、どうやってそれらに同調すればいいのだろう。いまのところ、それを知る術は私たちに与えられていない。
 現実化されたセクターにおいて解決方法を探っても結果がでない時に、潜在意識が何らかの偶然な形で、現実化されていないセクターに入り込むことがある。こうしたデータはよく知っているシンボリックな解釈の形に表現されていないため、意識はそれらを雑然とした曖昧な情報としてとらえる。もし頭脳がこうした情報の本質をつかみ取ることが出来たら、閃きが起こるか、または明瞭な理解を得ることが出来る。

〇亜空間とは、情報フィールドまたはエネルギー・マトリックス「何がどうあるべきかの鋳型」である。マトリックスの一定セクターに波長を合わせられたエネルギーがそこを「照らし出す」と、鋳型はそこに一つの現実を物質化する。ここで一つ疑問が浮かぶ。情報が現実化される前に、その情報を利用することは可能だろうか。
 実は、私たちはみな毎日それを行っているといってもよい。意識は亜空間にある情報を読む能力を持っていない。しかしながら、潜在意識は情報フィールドに直接たどり着くことが出来る。まさにこの情報フィールドから、予感、直感、預言、発見、芸術の傑作などが現れる。
 意識に情報が入ってくるのは、外部データの会社として外部世界からか、または直観による潜在意識からのどちらかである。情報フィールドに記されているデータは、おおざっぱに行って、純粋な形での真実である。言い換えると、客観的かつ解釈を許さない情報である。真実が理性のフィルターを通ると、解釈、すなわち知識に代わる。すべての生物は自分なりの解釈で真実を知覚する。鶏がその眼で見て理解している世界は、人間のそれとは全く異なる。同じ人間同士でも同じものを見て理解す方法はさまざまである。そのため知識は、真実が多少歪曲された形態となっている。
 情報フィールドにあるデータは、複雑なエネルギー構造になっている。そこには、物質を一定の法則で連動させるものすべてが記されている。最初、情報フィールドからのデータは、潜在意識によって受け入れられ、その後、意識がそれらを言語化または記号化した表現に置き換える。こうして発見が生まれたり、新たなもの…音楽や芸術作品、すなわち人が見たことも聞いたこともなかったものが作られたりする。このようにして直感的な知識や予感が現れる。
 あなたにとって、今述べたことは大変衝撃的であり、にわかには信じがたいて思われるかもしれない。理性はそれ自体では何ら新しいものを創り出すことはできず、単に情報フィールドからデータを受け取るだけだとしたら、どうなるのだろう。実は、問題はそればかりではない。理性は、すでに知っていることや論理的体系を利用しないがら、新たなものを築き上げ、また、課題を解決することはできる。言い換えると、理性は古い積み木から新しい家を立てることはできる。しかし、根本的に新しいもの、すなわち古いものからは絶対に得ることのできないものを、理性は手に入れることが出来ない。
 科学上の原則にかかわるような発見は、理論的考察の結果としてではなく、ヒラメキやどこからともなく現れた「知」としてもたらされる。天才的な発明についても同様の事が言える。すばらしい音楽は音を選んで出来上がったのではなく、曲みずらかが地上に降りてきたようにして出来上がる。芸術上の傑作は、プロによる記述の粋を集めたパフォーマンスによって出来上がるのでは気なく、インスピレーションによって誕生する。高い技術を駆使して理想的に描かれた絵が必ずしも傑作になるとは限らない。それを傑作とするのは、高い技術的能力の枠の外にあるものである。心を鷲掴みにする詩文は、正しく印を踏むよう合理的に選択した結果としてもたらされるのではなく、やはりあそこ、すなわち魂の奥底からやってくる。
 インスピレーションやひらめきに基づくすべての創造は、理性とは何の関係もない。理性は想像の産物をあとになって自分の属性によって処理するだけである。例えば、理性は古い傑作を理想的に模倣することは出来る。しかし、新たなものを作るという能力は、理性にはない。理性は、潜在意識が情報フィールドから得たデータを分析し、それらを、絵画、メロディー、死、数式、図などというシンボリックな解釈に表現するだけである。

〇金持ちになるための道で行く手を阻むものがもう一つある。それは羨望である。周知の如く、妬む、羨むという事は他人の成功を悔しがることである。その意味では、羨望という感情は何も建設的なものを含んであない、そればかりか、羨望という感情には、一つの非常に強い破壊的要素がある。人間の心理はこんな風にできている。もしある人が、自分でこうありたいと思うことを羨むと、あらゆる手段でその価値を失わせようとする。「暗黒の羨望」のロジックは次の通り。「私は彼が持っているものを羨ましく思う。私はそれを持っていないし、この先も手に入れられるとは思わない。しかし、私は彼と比べてどこか劣っているのか、いや、劣っているところなどない。という事は、つまり、彼が持っているアレは良くないものだ、だから、私にはふさわしくない」
 このように、貧乏な人生ラインにある人はどれほど強い力で捕まれているのかを見てきたが、経済的に満ち足りた人生ラインから貧乏な人生ラインへと向かわせる誘導移転の際の出来事は、もっと劇的に展開する。資産家と称される人が全てを失って路上生活者にまで落ちぶれることもある。貧乏な状況へと導く誘導移転は狡猾である。それは、渦巻が最初は気付かないくらいゆっくりと回っているのに、その後、急激に速度を増していくため、そうなってからでは押しとどめることが不可能になってしまうという点にある。
 この渦巻は一時的な資金繰りの悪化から始まる。一時的に懐具合がおかしくなることは、いつだって誰にだってある。それは、ピクニックへ出かけようとした日に雨が降って来たというぐらい、普通でもよく起こる不可抗力である。もしこうした事で、人生に対する怒り、憂鬱、不安、苛立ちなどに取付かれなければ、破壊的コマの回転は、エネルギーの供給を受けないため、止まってしまう。誘導移転は、あなたが渦巻の外側に引っかかったときにはじまる。渦巻が回り始めるためには、破壊的コマに対するあなたからの反応が不可欠となる。
 あなたの最初の反応は不満をもたらすことである。コマにとって、これではまだ非常に弱い助けにしかならないため、もしそこであなたの感情が収まったら、コマは消えてしまう、しかし、これが憤慨するという反応であると、これはずっと強いので、コマは素早く飛び起きて、あなたの資金繰り悪化の件で、原因を作った誰かがいるとの情報をあなたに送りつける。この二回目の揺さぶりに対して、あなたは資金繰り悪化の張本人たちに対してネガティブな反応化行動で答える。その瞬間、破壊的コマはすでに大変勢いづき、スパイラルは新たな打開に入り始める。つまり、あなたの給料がますます少なくなったり、物価が高騰したり、または借金返済を迫られたりすることが起こる。
 この段階で、あなたは、何らかのプロセスが進行していることをまだ認識していないという事に注目して頂きたい、単に腹立たしい不愉快な事が起きたとしか思っていない。本当はこれは定められた目標に向かうプロセスであり、あなたがコマの回転に答えながら、自分自信で誘導している。あなたのエネルギー放射の周波数は、商売繁盛のラインから、閑古鳥の鳴き声に憤慨するラインへと益々調整されていく、そのため、この新たなパラメーターに相当するラインに移動してしまう。
 そして、あなたの状況は前よりも一層深刻さを増していく、四方八方から悪い知らせが届き始める。物価は上昇し、関係会社は業績不審に見舞われる。あなたは悪い知らせについて知人や周りの者たちと活発に議論する。当然のことながら、議論は破壊的な感情が湧きたつ中で行われる。張本人とみなされた者たちへの愚痴、不満、嫌みがぶちまけられるからである。業績がどん底にある会社では、こうした傾向が特に顕著となる。そんな会社での一日の始まれは「金がない」という自明の理が、朝の祈りのような調子でつぶやかれる。
 この段階で、あなたはすでに渦巻に完全にとらわれてしまい、あなたの放射は破壊的コマの周波数にぴったり同調している。業績が悪化の一途をたどるため、あなたは不安に襲われる。不安のエネルギーは、それがたとえ小さな量であっても、コマによって効率よく吸収されるので、コマは益々図々しくふるまうようになるこうした状況下では、あなたの周囲に不満、攻撃、憂鬱、無気力、侮辱などの過剰ポテンシャルが発生することは避けられない。さて、ここで破壊的コマに加えて平衡力までが登場すると、事態はもはや制御不能となり、雪崩現象が起こり始める。あなたは恐怖のあまり、放埓な生活に走るようになる。
 あたかもあなたは両手をつかまれてぐるぐると振り回された挙句、突如放り出されたようなものである。あなたは遠くへ吹き飛ばされ、地面に全身を打ち付け、ショックから抜け出せないまま横たわっている。恐ろしい光景である。始まりは、ちょっとした資金繰りの悪化であった。コマにとっては、あなたのお金が必要なのではない。コマが必要としているのは、お金があなたから逃げ出す際に、あなたが放出するネガティブなエネルギーの方なのである。結局、渦巻が回転すると、この不幸に見舞われた人は大変多くのものを失い、悪くすると、残らず全部を失ってしまう。破壊的コマにとって、こうなってしまった人はすでに関心の対象ではない。なぜなら、これ以上この人から取り上げるべきものがないためである。この先、この不幸な人の人生には様々な展開が考えられる。人生の不運なラインにそのまま横たわっていることもあるだろうし、または大変な苦労をしてそこから這い出そうとする道も残されている。このような誘導移転は人に起こることもあるし、大きな人間集団に起こることもある。後者の場合、これはもうただの渦巻ではなく、大物のブラックホールでありそこから脱出すること気はこの上なく難しい。
 誘導移転を避ける唯一の方法は、渦巻の外側に引っ掛けられないようにすること、破壊的コマのゲームに入り込まないようにすることである。この仕組みがどのように働くのか、単に知っているだけでは不十分である。そのことについて、常に思い出す事が必要である。あなたの内なる見張り役を眠らせてはいけない。つい習慣から、まるで夢見心地のようにぼんやりした意識状態のまま、不満や憤慨を顕わにしたり、不安を募らせたり、破壊的なだけの議論に加わったり、つまりコマのゲームを受け入れそうになったならば、その都度、自分を厳しい言葉でたしなめよう。あなたにネガティブな反応を引き起こさせているのは、すべて破壊的コマの挑発行為によるものである。そのことを忘れてはいけない。本当の夢の中でも、これが夢だと認識しないうちに、あなたがよそのゲームの操りに人形となってしまい、その後、悪夢のような出来事があなたを襲う、という事がまさに起こる。目を覚ましたら、すぐにこの幻影を振り払い、どんなゲームが行われていたかをしっかり認識し、、それでおしまいにしておくのである。たとえ、周りにいる全員がゾンビ化しても、あなたは状況を牛耳る支配者であり、状況の犠牲者にはならないだろう。