〇「欲をかいたら貰いは少ない」これは子供がよく口にするからかいの言葉であるが、それなりの根拠がある。これを次のように変えてみたい。「ほしい思いが強ければ強いほど、手に入るものは減るばかり」あなたが何かをあまりに過度に欲しがると、すべてを賭けてしまう心積もりになるため、平衡状態を乱す大変な過剰ポテンシャルを生み出す。すると、平衡力は、希望するものが何一つない人生ラインへとあなたを放り投げることになるだろう。
願望に取り憑かれた人の行動様式をエネルギーレベルで描こうとするならば、それはおおよそこのようなものとなる。青い鳥を捉えようとしているイノシシがいる。イノシシは青い鳥を手に入れたくてたまらないので、舌なめずりし、大声でブーブーと泣き、こらえきれずに地面に穴を掘ったりする。当然青い鳥は飛び去ってしまう。もしイノシシが何食わぬ顔で青い鳥と並んで、ある時間散歩して過ごしたら、青い鳥のしっはぽをつかむ大きなチャンスが来るだろう。
願望を三つの形に分類することが出来る。一つ目の形は、強い願望が、所有し行動するというゆるぎない意図に変わった場合である。こうなると願望は成就されることになる。この場合、願望のポテンシャルは拡散される。なぜなら、エネルギーが行動に変わるからである。二つ目の形は、怠惰でうんざりするような願望で、純粋な過剰ポテンシャルである。これはエネルギー場に漂っており、せいぜい苦悩する者のエネルギーを意味もなく浪費するが、悪くすると様々な不快事を引き寄せてしまう。
もっとも陰険なのが三つ目の形である。これは強い願望が対象への依存関係に移行したものである。高い意義付けが自動的に依存関係を創り出し、その関係が強い過剰ポテンシャルを生み、平衡力による強い反作用を引き起こす。通常、例えば、次のような目標設定がなされる。「もし私がこれを達成したら、私の状況はずっとよくなるだろう」「もし私がこれを達成しなかったら、私の人生は何の意味もなくなってしまう」「もし私がこれをしたら、みんなに思い知らせてやることが出来る」「もし私がこれを出来ないのなら、私には何の価値もない」「もし私がこれを得られたら、なんて素晴らしいことだろう」「もし私がこれを得られないのなら、まずいことになるだろう」このような様々なバリエーションが存在する。
願望の対象への依存関係に陥ったあなたは、激しい渦巻に飲み込まれてしまい、その渦中で臨むものを得ようとして戦い、力尽きる。結局、あなたは何も得ることが出来ずに、自分の望みを断念する。平衡状態は回復されるが、平衡力にとっては、あなたがこの事で苦しもうがどうなろうが知った事ではない。しかし、これは、望みを実現させたいとあなたが強く欲したことから起こったものである。願望が天秤の一方の皿にのせられ、残り全部がもう一方の皿に乗せられた状態である。
願望が過剰ポテンシャルから解放された「純粋な意図」に変わったとき、一つ目の形だけは実現されるだろう。この世界ではすべてに対して何らかの対価を払わなくてはならず、何物もタダでは手に入らないという事に、私たちすべてが慣れっこになっている。実際、私たち自信が生み出す過剰ポテンシャルに対してだけでも、私たちはその対価を支払っている。亜空間では、すべてが無償である。もし私たちが願望の実現に対する対価を強いて探すとすれば、それは、過度な意義づけや依存関係が存在しないという事になる。望みが現実となる人生ラインへ移動するためには、純粋な意図のエネルギーだけで十分なのである。意図に関しては、また後述する。ここでは、純粋な意図とは、過度な意義づけのなされていない、願望と行動の一体化されたもの、とコメントするにとどめたい。例えば、売店へ新聞を買いに行く自由な意図とは、純粋なものである。
ある事柄が高く評価されればされるほど、失敗する確率も高くなる。もしあなたが持っているものに非常に大きな意味を与え、それをとても大切にしているとしたら、平衡力がそれを奪い取る可能性は大きくなる。もしあなたが欲しいと思っているものがとても大事であるならば、それを得られると期待してはいけない。意義や重要性のハードルを低くする必要がある。
例えば、あなたが自分の新車に夢中になっているとしよう。埃を吹き払い、神経を使い、手入れを怠らず、擦り傷を付けられるのを恐れていて、早い話が、神様扱いするほど大切にしている。結果として、過剰ポテンシャルが生まれる。なぜなら、あなたがこんな風に車に異議を与えたからである。だが、本当は、エネルギー場における車に値は、ゼロに等しい、結局、残念ではあるが、まもなく平衡力がでくの棒を探して来て、そいつにあなたの車を台無しにさせることだろう。でなければきわめて用心しているはずのあなた自信の手によって、どこかにぶつけて潰してしまう。自分の車を神格化するとをやめ、普通に扱うだけで、こうした危険性は遥かに低くなる。普通に扱うことは、いい加減にという事では決してない。車を崇拝しなくとも、きちんと手入れは出来るのである。
