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珈琲からの・・文化ろん



おいしい珈琲を淹れるため




神戸の老舗


萩原珈琲さんへお勉強に伺った







萩原珈琲さんは創業時からずっと


炭火焙煎方式での焙煎にこだわっておられる





ガスや電気と違い


人間がつきっきりで炭をくべて温度を調節する




天候などによって毎日違う状態の炭を


五感で確かめながら作業する、とのこと





まさに職人技でかっこいい






手間も隙も時間も人件費もかかるだろうけど




やはり炭でないと


とのこだわりを持っておられ




”本物の味”を伝えるために



必要だと思う手法で、必要だと思うものを提供しておられる









それが時代、時流だと言われようが





もしこのまま手間と不景気を理由に



本物を作る企業をも呑み込まれていくとしたら






もしこのまま


シロップ漬けのコーヒー風のもの


しかなくなってしまったとしたら






今日生まれた子供にとっては


それが珈琲となる





そしてそれが


大袈裟だけど、文化となる







もちろん

ミルクとシロップ、ホイップで覆われた


はやりのシアトル系コーヒー店が悪いわけではないし




なんなら週一くらいで行くけれど







純粋に本物の珈琲を飲むという観点からのみ考えると



戦う土俵が違う 




ということなのかもしれない







頑固一徹


いいもの、本物を作ってるのに


何でわかってくれないんだー


世間のばかやろー



で終わってしまってはダメだろうけど




それを世間に


誠実にアナウンスする意識をもっているなら






受け取る私たちの側の感度や感性も



それに応えうる準備が必要なのだと感じた


















つづく









おちのない話






毎朝 8時5分になると


どっかの子供が


「かあちゃん、行ってきます」と叫ぶ声が聞こえてくる。、








毎朝


毎朝


気持ちいいくらいに大きな声で叫んで登校する






その叫び声の後に かあちゃんの


「いってらっしゃい、気を付けるのよ~」という声が


かすかに聞こえてくる。








僕が幸せを感じる朝のひと時。





この声が聞こえている大人たちはみんな



「いってこい ボウズ、楽しめよ。」



とおもっていることだろう








僕が働きに出ている間



きっと その子供は「ただいまー」と 



母親の待つ家の扉を開けて



大きな声で叫んでいるのだろう





そして 



「学校でなあ あいつがなあ ……でなあ、



でなあ 先生がなあ ……ってなあ」 と



ハッピーターンをかじりながら 


多少 オーバーに母親に報告しているのだろう





その報告を聞きながしている母親は



「先に手を洗ってきなさい。」と



彼の独演会を遮ってしまうが



手を洗いながら彼は語り続ける





でも ひょっとしたら





彼の母さんは働きに出ていて



朝の元気はどこに消えたか



しょんぼりと



クビから下げた鍵でドアを開けて




誰もいないキッチンの冷蔵庫に向かって




「ただいま~」と呟き、それを開け牛乳を取り出し




いつものようにテーブルの上には





「これ チンして食べてね  母さんより」的な手紙と



551の豚まんが載っていて





それを読みながら、


それをかじりながら 御座の上で「行儀悪く」寝っ転がり


「ちちんぷいぷい」を見ているのかもしれない










僕の母親は専業主婦だったので


前者のほうだった。






住んでいるエリアが



ホワイトカラーが多かったせいか



どの友達の家に遊びに行っても 母さんたちがいて



本人には決して言わないものの




「あっこの母ちゃん怖いよな~」



とか



「あっこの母ちゃん 優しいよな~」




とか 評価していた。




怖すぎる母ちゃんの家には立ち寄りもしなかったが。









ところが



下町に引っ越した瞬間



そのあるべき風景が全く変わってしまった。







父ちゃんや、母ちゃんがいない片親の生徒もたくさんいて




父ちゃんも母ちゃんもいない施設から通う生徒もいて






環境に慣れやすい小学生であってしても



当時の僕には理解不能だった。





友達の家に遊びにいっても





母ちゃんがいない事が多く



机の上には お菓子さえも買い置きされていて



手紙なんて存在しない





そのまま 友達の家で



「4時ですよーだ」が終わるまで



皆でゴロゴロしながら、買い与えられた大量のおもちゃで遊び



親父さんが定期購読しているスポーツ新聞のエロ記事を



みんなで読んで




誰かが「夕飯だから そろそろ 帰らなきゃ。」と



ノーサイドの笛を吹き



皆が一斉に退去する






帰り際



「さみしくないん?」




「ん、いつものことやし。」



とは聞くものの




小学生ながら あまりにも僕が心配し過ぎると


それは それで憐れんでいるように思われるのも嫌だった。





なぜなら



かれらは学校では


明朗活発だったからかもしれない。




あまり深く掘り下げると


見てはいけないような彼らの何かにぶつかるような気がした





僕たちが去った祭の後、


いつ帰ってくるかわからない母親を待ちながら


ぼーとテレビを眺め続け


彼は「おかえり」をいうのを待ち続けていたのだろう






そんなことを考えて


家路に戻ると我が家には当然のように母親がいて


「おかえり」と言ってくれる。




同じ年齢なのに


同じ小学校に通っているのに





「おかえり」というのを待っている友達がいて


「おかえり」と当然のように言われる僕がいて





「境遇ってなんなんやろ」



「それを受け入れている彼はなんなんやろ。」






変な気分になったのを思い出す






それは言葉では言い表すことのできない


変なドロドロとした感覚だった






今なら運命や宿命って言葉で


いとも簡単に片づけられるんだけど











あーどうでもいい流れになってしまった





すみません


ここまで目を通していただいた方々






すみません


大橋さん





オチはありません






とにかく



8時5分の君、



「いってきます」も言わないし


「いってらっしゃい」も言われないし


「ただいま」も言わないし


「おかえり」も言われない




そんな一人暮らしをしているおっちゃんは


港がある君が羨ましいぞ。






今ある幸せを堪能したまえ



精一杯 叫びたまえ











つづく






































































ジャパンアズナンバーワン


満たされていると、作品を作る気が起こらない


といってた人がいた








物理的に充実していて、時間を割けないのか



精神的に、怒りとか鬱憤とか


どうにかしたいという感情を



作品作りのモチベーションにしているからなのか






作品を作りたいという衝動に駆られたことのない私には


分からないけれど






「作品作り」


というカテゴライズ以外で考えてみると


分からなくもない。









豊かになりたいという一心で上を目指していた



高度成長時代には


向かっていく明確な目標があり、達成感もあったはず





飽食、飽物、飽情報の


いまと何より違うのは


分からないことに対する想像





知らないから、分からないから


想像する



情報がないから、想像力でカバーする



そしてその想像をひとつづつ現実に近づける








ネットの検索ボタンでは


液晶画面からはみ出すことはできない









情報にはきりがないから
















つづく