日本地政研究会 | Facebookのイベント、「日本地政研究会・大人の社会科見学 新春特別企画 二・二六事件」に参加させていただきました。各遺跡ともかなり風化していたのは、否めませんが、やはり現物を見ると「歴史の息吹」を感じ取ることができて、有益でした。
そうだね。裁判の公開、三審制、弁護人選任権、裁判官の独立、特別裁判所禁止の指導案 | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)で、2・26事件の軍法会議については触れたので、ぜひ読んで欲しい。この部分は拙著「やさしい中学公民」のために執筆したのだが、出版社にボツにされた部分だ(笑)。
そもそも2・26事件とは何なのでしょうか?
1936年2月26日、軍の将校が部下である約1500名の兵を率いて、反乱を起こした。この日は大雪だったそうです。
必殺暗記法 2.26事件
反乱に行く ( 19 )には寒い ( 36 )、2.26
大雪だから寒いんですね。
まあ、覚え方だよ。不景気が続き、国民の生活が苦しいのは、財閥と癒着 ( ゆちゃく )している天皇の取り巻きが財閥中心の政治をしているからなので、これらを殺害して、天皇の気持ちを直接、政治に反映させようということが狙いだった。実際、岡田啓介総理大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長など内閣の有力政治家や高級官僚達の邸宅を襲撃し高橋蔵相らを殺害。鈴木侍従長など重傷を負わせた。さらに警視庁、朝日新聞社などのマスコミも襲撃し、国会のある永田町・官庁街のある霞ヶ関など政治の中枢部を占拠した。
さて、2・26事件の遺跡巡りのツアーにGO!まずは、乃木坂駅そばの国立新美術館↓、つまり歩兵第三連隊の跡地です。
国立新美術館の玄関には歩兵第三連隊の模型があります。↓です。
そして、一部は現存しています。↓です。
兵舎建築としては、初めての鉄筋コンクリート建築だ。当時は「モダン」と言われた。第三連隊といえば、2・26事件の参加兵力約1500名のうちの60%、900数十名を参加させている。決起部隊に参加した青年将校の野中四郎大尉が第7中隊長、安藤輝三大尉が第6中隊長を務め、坂井直中尉、高橋太郎少尉も参加した。特に安藤大尉は人望が厚く「安藤が立たねば歩三は動かず、歩三が動かなければ、決起成功の可能性はない」とまで言われていた。
第三連隊が警視庁を占拠し(野中大尉などが参加)、斎藤実内大臣(坂井、高橋が参加)、渡辺錠太郎 教育総監・陸軍大将(高橋が参加)を襲い、即死させ、鈴木貫太郎 侍従長・海軍大将(安藤が参加)に重傷を負わせました。この時、安藤は鈴木の奥さんの嘆願で、とどめを刺さなかったと言われています。
安藤大尉って優しかったんですね。続いて、東京ミッドタウンそば、檜町(ひのきちょう)公園内の歩兵第一連隊跡の石碑です。
歩兵第一連隊は首相官邸を襲い、岡田啓介首相と誤認して松尾秘書官を射殺している。また朝日新聞などマスコミ各社の占拠にも参加している。
栗原安秀中尉、林八郎少尉などが参加していますね。続いて近衛第三連隊の跡です↓。
これってTBSですよね。
近衛第三連隊の跡地は、民間に払い下げられた。近衛歩兵第三連隊がTBSのところにあったという事実を知る人は意外に少ない。
近衛第三連隊は高橋是清大蔵大臣を殺害しています。中橋基明中尉が近衛第三連隊の所属です。
こう見ると、戦前の赤坂は軍の施設の密集地であったと言っても過言ではないようだ。皇居や東宮御所(旧大宮御所)が近くにあったという理由で現在のTBSのある一ツ木の丘には近衛第三連隊が、道路をはさんでミッドタウンそばに陸軍第一歩兵連隊、外苑東通りを挟んで、向かい側が陸軍歩兵第三連隊と赤坂周辺の高台はほとんど軍の施設だったと言える。
さて、続いて料亭「幸楽」の跡です↓。現在のプルデンシャルタワーです。右側の高層ビルです。
ここは、2・26事件の反乱部隊が宿所としていました。かつては火災で33人が亡くなった「ホテルニュージャパン」があり、また力道山が刺された「ニューラテンクォーター」というナイトクラブもホテルニュージャパンの地下にありました。
「幸楽」関係では
に注目です。歩兵第三連隊の高橋丑太郎中尉が、反乱軍側の上村盛満軍曹に幸福を促す電話を盗聴したものが聞けます。
「幸楽」の電話は盗聴されていたのですね。
「幸楽」に限らず、反乱軍対策として、政府側は電話を盗聴していたことが分かります。次に、陸軍省・陸軍参謀本部の跡です。
何かが建設中ですね。
国立公文書館と憲政記念館の合築施設を建設中だ。令和10年度末の開館を目指すとのことだ。
海軍軍令部跡及び海軍省跡については、石碑があり、その歴史を学ぶことができますが、三宅坂の旧陸軍参謀本部跡、旧陸軍省跡については、石碑はもちろん関係する資料も見当りません。これって不思議ですね。
陸軍が国を誤ったとされ、旧陸軍関係のものは、施設であれ、歴史でもあれ、すべて消し去ろうとしたとする考えもあるが、どうだろうかね(笑)。
ここで、襲われた重臣を守って殉職した警察官のことを忘れてはいけないということで、弥生慰霊堂に行きました。ここは、殉職した警察官と消防士の霊をお祀りするところです。↓です。
重臣を守つて殉職した警察官は5名、3人が負傷している。牧野伸顕伯爵を逃がし、自らは殉職した皆川義孝巡査や、反乱軍に対して奮戦し、岡田啓介首相が隠れる時間を稼いだ土井清松巡査(拳銃弾が無くなるまで奮戦。林八郎少尉に組み付いたところを銃剣で刺殺され殉職)、村上嘉茂左衛門巡査部長、小館喜代松巡査、清水与四郎巡査(いずれも奮戦後殉職)の活躍は警察官の強さを後世に伝えるものだった。
次は千鳥ヶ淵のそば、鈴木侍従長公邸跡です。今でも宮内庁の施設です。↓です。
鈴木侍従長は日露戦争における日本海海戦では敵戦艦に魚雷を命中させるなど大活躍した人だ。当時のあだ名は「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」「鬼貫」だ。
なぜ「鬼~」なんでしょう?
当時の魚雷は命中率が低かった。そこで、必中を期すため部下に猛訓練を課したためだ。
太平洋戦争終戦の時の総理大臣でした。
そうだ。もし、2・26事件で安藤大尉がとどめを刺していたら、終戦は実現できなかったかもしれないな。
最後は2・26事件の戒厳司令部があった九段会館、旧名は軍人会館です。↓です。
建物の表面だけは保存され、中身は近代的なホテルなどになっている。戒厳司令官は香椎浩平中将だ。反乱軍に同情的で、ぎりぎりまで武力鎮圧をためらった人だということだ。
さて、いよいよ最後です。2.26事件慰霊塔です。
まさに、ここで青年将校が裁かれ、処刑された場所ということで、何やら伝わってくる感じがします。
2・26事件は2月29日には鎮圧され、4月28日に裁判は開始された。軍の幹部である将校以下123名が起訴され、とくに事件に直接参加した将校19名は1ヶ月半の7月5日に判決が下るという驚異的な早さで処理された。
判決はどうなりましたか?
将校19名中13名が死刑。他に4名が死刑とされ、7月12日に13名が、8月19日に4名が処刑された。今回の記事で太字になっている軍人は死刑になっている。
事件が起きたのは2月26日。半年以内に裁判が終了し処刑されているのは異常に早いですね。
うん。軍首脳が、反乱軍に一時期同調したことを闇(やみ)に葬(ほうむ)るため、関係者の処分を急いだといわている。つまり軍首脳が、自らの罪を免れるため、「死人に口なし」とばかりに処刑を急いだということだ。そして、陸軍はこの事件を徹底的に利用し、政治権力を強化していくことになる。
その後の歴史を見ると、軍が事実上政権を握った時、大日本帝国の破滅は決定したと言えるのではないでしょうか?
拙著です↓。 ↑のように講師と生徒二人の会話形式で社会科を語る本です。 ゼミナールに参加する気分で、単なる暗記じゃない、基本から説き起こす社会の参考書をぜひ知ってほしいです。 以下から立ち読みも可能です。
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拙著に込めた思いについては
「やさしい中学地理」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
「やさしい中学歴史」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
「やさしい中学公民」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
を参照してください。
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