明治150年の今年。そして7月18日のきょう。 | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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常に夢を持って波に乗ろう!


 

 平成30(2018)年、明治改元から150年。

150年前の日本中を沸かせた明治維新のあの感動。

当時の欧米列強に引けを取らない意気込みを、今ここに解凍し甦らせ、再び、再来年の「TOKYOオリ・パラ2020」に繋げて日本人の、覇気ある大和魂を再認識する試みだが、……それは果たして無謀か? はたまた無意味なのか? いやマイルストーン、覚書にはなる。

 

 

ついこの前、150年前の日本人は何をどう考えていたのか。

このシリーズでは日本の歴史、それもつい最近の日本近代史にスポットを当て、「温故知新」という定規ではかる事によって、この先、日本の未来も予測できる。

 同じ日本人同士考え方もそう変わる訳がないという仮説を前提に膨大な史資料の真偽を見極めながら取捨選択し、当時に生きた人間ドラマを追尾し、いや事案の隙間を検証、状況の推理と言った方がリアルで当てはまるかな。

 兎に角そうやって現代において、当時の考え方を再構築しようと、これまで4編中3編を「起承転結」の表現形式にしたがって彫り起し、未来に語り継がれるべく、また日本人という国民性の理解と伝統継承に役立てようという視点から、既成の歴史的事実を基にオリジナル構成してきました。

 先ず①起=1853年6月3日 ペリー来航

    ②承=1860年3月3日 桜田門外の変

    ③転=1864年6月5日 池田屋事件

そして今回④結=1864年7月18日 禁門の変~長州征討~大政奉還

となる訳ですが、歴史には因果応報がついて回ります。これは時の指導者といえども人間だからやむを得ないことですので、こうしたらどうなる。と道理を読み取っていくのも人生勉強だと思います。

 

 

 今回は④の「結」ということで、いきなり長州征討と述べましたがそこの歴史的事実の行間には、多くの思惑、葛藤、つまり、日本人同士、天幕(朝廷側と幕府側)の連繋、理解不充分なだけでなく多分に相性とか立場による保身、温度差などの難点もあって、そもそもペリーが来航してからの条約締結も幕府が手順を踏まず朝廷に独断専行したことで、利権だけではなく、足並みが揃わないので、国体保持から天皇がそれにご反発し、特に当時の孝明天皇は元寇を退けた神国日本の伝統を守り外国嫌いを通された歴史、さらに鎖国が永く続いたことなどもわだかまりや諍いの要因の一つであったと言えます。

 ゆえに神の目から見れば台風と同じ温度差撹拌でも、地上では戊辰戦争とか西南の役とか日本人同士の悲劇が起こったのもこれまた歴史的事実。

 

 

 史実に沿ってチェックしていくと、ペリー来航や桜田門外の変の後の事になるが、先ず事の起こりは文久2年(1862年)当時外敵を打払えという攘夷派の思想が志士の間に流行り、京などで次第に過激になっていった。

 薩摩藩主父・島津久光は国内秩序を保つため攘夷上意討ち、つまり「寺田屋騒動」(文久2年4月)で自藩の攘夷薩藩士らを粛清したあと、生麦事件(同年8月)で日本の慣習に無知な、大名行列騎乗横切り英国人を殺傷する事件が起こり、後の薩英戦争(翌年7月)に至る。

同文久2年閏8月 会津藩主松平容保、京都守護職に赴任。

同文久2年12月高杉晋作ら英国公使館を襲撃。

 

 

 翌文久3年(1863年)3月壬生浪士(新選組)結成。攘夷熱で混乱した京の治安維持に出動、奮闘する。

同4月、幕府が攘夷期限(外国船打払開始)を5月10日と上奏。これはどういう意図で上奏したか前後の明確な史料がないので主体的にか仕方なくなのか……。ま、兎に角それを受けて文久3年5月10日長州藩が赤馬ヶ関(下関)を航行中の米商船を砲撃。

 これが翌、元治元年(1864年)馬関戦争となり四国(英米仏蘭)軍艦を相手に砲撃戦を演じる。そうして外国武力、軍事力の威力を生で知った長州勢。

当然このままの弱腰幕府体制に危機感を募らせていく。

同年5月、長州藩では井上聞多、伊藤俊輔ら長州ファイブを英国に密航させた。

 

 

その話はひとまず置いといて、その前年に戻っての文久3年(1863年)7月は、そのまた前年の1862年8月の生麦事件を受けての薩英戦争が起こった年でもあった。

これは双方譲らず痛み分けといったところだが、外国の武力侮れずと知る。

この意味するところは、長州藩と、薩摩藩が外国武力と直接戦闘して攘夷の無謀を悟った事であるが、浸透するまでは時を要す。

 

一方宮中では、文久3年、公武合体派が朝廷内の長州系攘夷派を京より追放。八月十八日の政変となる。いわゆる「七卿落ち」である。 この頃も京は暑かったようだ。

その朝廷の公卿たちと親しかったのが長州藩で、それが尊攘、尊皇攘夷という外国排斥運動だったのですが、孝明天皇はこれまた厄介な長州アレルギー(8・18の変)があって、なかなかすんなりとはいきません。

 

 

 

そうしたところに翌、元治元年(1864年)6月5日、目に余る尊攘派の横暴、さらに長州藩士古高俊太郎の自白から、京焼き討ちの情報を聞き捨てにならないとした当局は、会津藩京都守護職お預かりの新選組などが彼らのアジトを一斉摘発、池田屋を急襲し志士らを捕殺、テロを未然に防止したとして一躍時のヒーローとなった。

「池田屋事件」(冒頭の③リブログを参照

 

これまでの薩摩藩による寺田屋騒動や会津藩による池田屋事件で孝明天皇はなんらかの希望を見出されたのでしょう。それらを受けて孝明天皇はやがて思い切った施策を行われた。

 それまで長州派の公家連中による偽勅や暗殺などの横暴を看過せざるを得なく、また孤立してきた孝明天皇だが、会津藩と薩摩藩という強力な後ろ盾を得ることによって、朝廷内を一掃しようとなされる。

それが先の文久三年「八月十八日の政変」であり、後の「禁門の変」(元治元年七月十八日)に繋がっていくのである

 

 

 

 

 もともと長州藩は享保の大飢饉や天保の大一揆、天保の改革など変革と民衆の連帯感という土壌は培われていた藩風で、他藩では見られない、農民が新式銃を執って藩の為に戦うといった郷土愛に殉じてもいたので幕府兵など畏れはしなかった。

 そこには多くの指導者が現われては消えていった。松下村塾の吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、来島又兵衛、真木和泉そして池田屋事件で散った吉田稔麿……。

 

 

 同年、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件を受けて、それまでくすぶっていた長州藩内に火が点いた。

長州藩内には尊攘派の公卿から「今楠公」と呼ばれている威厳ある神官・真木和泉がいる。この真木和泉を軍師として京での失地、名誉回復、巻き返しをはかろうと続々と長州軍が、長州兵が洛外へ乗り込んでくる。一種のパワープレイ、示威行動だ。

 

6月16日、総勢千五百余の部隊が三田尻から軍船に乗り込んで、6月21日、大坂に上陸。

同23日、福原越後隊、来島又兵衛隊が続々と伏見の長州藩邸に入営。

同24日、真木和泉・久坂玄瑞隊も天王山に屯所を構えた。

同27日には来島隊が嵯峨の天竜寺に進軍。洛外三ヵ所に軍勢集結。

 

そうした布陣をした上で大義を示し、嘆願書工作にとりかかった。一触即発の緊張状態である。

当然、朝廷内は揺れる。幕府も内心穏やかではない。

 

 

そうすると今度は、長州兵の布陣何するものぞと、長州嫌いの孝明天皇が先ず動いた。

元治元年(1864年)六月二十九日一橋慶喜に参内を命じ勅諚を下した。

その勅諚には「長州人入京は決して宜しからざる事と存じ候。~云々」とある。(『孝明天皇紀』巻百八十八)

そして慶喜は御守衛総督に任じられ、(京の)長州藩討伐を一任されるのであった。

 

そこには人間的に面白い記述があったのでここに引用させていただく。  (「長州戦争」野口武彦著~)

「天皇から長州藩討伐を一任された慶喜は、一身に託された権限に張り切った。

きびきびと指示を与えて伏見・山崎・天竜寺の三方面に諸藩兵を配置して長州勢の入京を防ぎ、御所九門の警備を固める」

 

「慶喜と言う人間は、得意の瞬間には自信に満ち輝き、勇気凛々として押し出しも立派になる。

戦闘が近づき、頭上を流れ弾が飛び過ぎても恐れず、軍勢を引き連れて御所内を行軍し、諸門の防禦を巡検して回った。先手に歩兵隊百余人・講武所小筒組五十人、別手組百人・床几隊百人・遊撃隊百五十人(抜身の槍)。愛馬・飛龍にまたがる慶喜を護衛する騎馬の近侍数人は、いずれも肩から騎兵銃を背負っていた」

 

さらに軍事指揮権発動で、旗本や水戸からも兵を集め千人にはなったであろうし、ほかにも会津藩(新選組も含む)、桑名藩、大垣藩や薩摩藩など諸藩の兵もいてそれぞれ九門の護衛にあたっている。対するは長州一藩である。

 

 

一方、ここまできて今さら長州勢も引き下がれない。生か死か存亡をかけた決死の背水の陣だ。

七月十八日、長州勢は諸藩に対し「大義の為に一日の騒擾をお許しください」(「防長回天史」)とへりくだりながらも開戦の意思を示すのであった。

 

 そして同十八日夜半、長州藩は京都へ入る三方から攻撃を開始した。

伏見の福原越後は、七百余の兵を率い、午後十時出陣し、伏見街道を北上した。

翌十九日午前四時、藤森付近で守備する大垣藩兵と戦端を開いたが、これは撃退された。福原家老も被弾し伏見へ退却。

 

 

嵯峨の天竜寺から出発した長州勢は双手に分かれて、先ず国司信濃隊の兵八百は、御所外郭の中立売門をめざし十八日夜半出陣。

 

一方の来島又兵衛隊は下立売から蛤門に向かった。

 

国司信濃隊は中立売門から同じく蛤門に至り、来島の隊と合流した。

そこ蛤門を守備する会津藩兵を挟み撃ちにする作戦だ。

 

ここで激戦が繰り広げられた。

それでこれが「蛤御門の変」と呼ばれる所以となった。亦の名を「禁門の変」とも呼ぶ。

 

 戦局は当初双手に分かれた長州藩が押していたな。そうそう久坂玄瑞なんか血気盛んな白鉢巻きで闘志満々だったな。どうやら池田屋の仇討ちのつもりでいる。

 この時、福原配下で従軍した石川範之の「伏見行日誌」にはこうある。

「戦闘が始まると砲声が山谷に響き、銃声は市中に轟き、天地も崩れるかと思うほどであった」とある。

こうなると人間は尋常ではいられなくなるものらしい。

 

 会津藩兵は長州藩兵に押され気味でジリジリと苦境に陥った。

が、情勢が変わったのは、西北の乾門を守っていた薩摩藩兵二百名が応援に駆け付け警護で、長州藩兵に対し大砲から霰弾を浴びせたので俄かに戦雲急変、形勢が逆転した。

 この戦闘で内裏の内側にも外の長州藩兵側から砲弾が飛び込み、長州藩に不利な宮中世論、つまり朝廷に発砲した、朝廷の敵と見なされるようになった。朝敵となって以後朝廷と幕府による長州征討へと向かうのであった。 

 

 

 

七月二十三日、長州征討の勅旨が朝廷の命により下された。

「かねて入京を禁ずるところ、陪臣福原越後を以て名は歎願だが、その実強訴、国司信濃・益田右衛門介ら追々差し出すの処、云々」(『孝明天皇紀』巻百九十一)

 

 しかし、客観的、公正に見較べてみると、当時の幕府にはどうも不可思議な点が見受けられる。

たとえばどういう訳か天皇より外国の威力を畏怖して勝手に開港条約を結んだフライング。

さらに命令下達に無責任な点である。勅命により攘夷を実行した長州藩だが、その攘夷令を発令した幕府が形勢不利と観るや頬っ被り。いわゆる無責任なガバナンスの脆弱さが浮き彫りになる。

勅命により攘夷を実行した長州藩は、四国艦隊(英米仏蘭)を相手に孤軍奮闘するが、これは現幕府では到底外国の戦力にはかなわないと認めざるを得なくなってくる。

それで攘夷は不可能と認識し、またそうした諸藩をバックアップしない幕府の裏切り、変節ぶりに憤り、不信感が蔓延していく。

 では、意見具申して修正動議を求めたらどうかとも思うが、それもしないで(新式の)武力に頼ろうとする。これはもう幕府には任せておけないという諦観の表れとも取れる。

 

 それなら日本人として外国に侵略、占領されない国防のための富国強兵国家にするにはどうすればいいか。と、密航して海外留学に奔ったとも受け取れます。

 

 

 

 その頃、京の町民、世論はどうだったのでしょうか。

禁門の変により、京の二万八千戸が焼失した。「ドンドン焼け」である。これは長州藩の立てこもった堺町門東の鷹司邸に向けて、会津藩や桑名藩の兵が大砲を撃ち、火をかけたことによって起こったものである。

鷹司邸から燃え広がった火は東西南北に広がり京の町を焼き尽くした。二十日朝にやっと鎮火したのだが、その日午前七時過ぎ、残敵掃討の為 會津・彦根藩兵が、大砲を撃ちかけたため、再び火を発し燃え広がった。京の町は大きな被害に包まれた。

 

 

 その際の美味しいエピソードの記述があるので紹介させてもらう。(『幕長戦争』三宅紹宣・著)

朝敵にはなった長州藩ではあるが、ただし、禁門の変の後、京の民衆の間には根強い長州藩支持の意識が存在した。

 九月には京都で「長州おはぎ」が爆発的に売れる現象を生み出している。これは「御飯ヲ丸メ赤豆ヲ付、盆ニ三ツ宛入、長州お萩三十六文売、無負と申して売り出し候由之所、長州様お萩ならば戴き度旨、殊之外大流行」(「秋良貞温雑記」)

と、おはぎを盆に三つ並べて売るもので、お萩は長州藩城下町の萩、盆に三つ並べるのは毛利家家紋の「一字三ツ星」三十六文は長州藩公称石高の三十六万石を象徴している。

 また買う時の作法として、「直段まけくれ候へと云えば、いや負けぬ。と云ふを楽しみに諸人競ひ買ふ」(松島益軒「松氏春秋」)のように、わざと「まけてくれ」(値引きしてくれ)といい、これに対して「まけん」と言わせるようにして、長州は負けないことを公然と言わせるようにするものであって、民衆の長州藩支持の意識が読み取れる。

 また人情として強きをくじき弱きを助ける判官びいきとかは何処も同じ。

 

 

一方、容赦ない幕府諸藩征討軍は元治元年(1864年)八月十三日、五方面から長州攻めの諸藩(三十五藩)各部署を発表する。

①陸路、藝州口(広島藩)

②陸路、石見(鳥取藩、浜田藩)

③海路四国から徳山~山口(周防大島口)

④海路下関から山口(小倉口)

⑤海路萩から山口をめざす(薩摩藩他)

発表するが、長州藩征討軍総督、前尾張藩主徳川慶勝が正式に請書(承諾書)を出すのは十月五日である。

そして諸藩に対し、来る十一月十一日までに任地に参着することを達した。

この間、参謀となった西郷隆盛は九月十一日、大坂で勝海舟と面会した。このとき勝は幕府側の内幕を晒し、戦わずして勝つ策を提案。

 

この頃、長州藩ではお家大事という保守派が台頭してきた。折衷案として武備恭順の方針に一致。

やがて要職を保守派が占めるようになっていった。いわゆる萩政府である。萩政府は藩内各地に駐屯している諸隊の総督を集め十月二十一日、解散を命じた。そして従わない者を野山獄に投じた。

 

 長州藩内の内部抗争が深まるなか、征長軍参謀西郷隆盛は、十一月四日、岩国を訪れて長州親藩の岩国藩主・吉川経幹に会い、開戦の危機が迫っていてこのままでは長州藩滅亡やむなしと説いた。しかし僅かに恭順という一手が残っている旨も示唆し、そのまま、萩政府に伝えさせた。

 

長州現地ではすべてが超高速で動いていた。短い期間に幾多の危難が相次いで到来し、息継ぐ暇もない。

自業自得、自ら蒔いた種とは言え、長州藩は存亡の崖っぷちに立たされた。

この高密度の体験が、政治指導部を大きく成長させた。

 

 

こんな時に事もあろうか、元治元年(1864年)八月五日、英仏蘭米の四国艦隊が馬関(下関)に襲来した。前年五月十日、攘夷決行日に遂行された外国船砲撃の報復である。

大砲の威力が違いすぎて長州側の砲弾は旧式でチャポンと海に落ちるが、艦隊艦砲は新式で的確に砲台を破壊する。この頃血気盛んな指導者はもうあまり残っていなく、上陸されて大砲を押収されても反撃できるような状況ではなかった。四国艦隊五千人では。

京で負け戦から朝的にされるわ、外国艦隊には撃ち負かされるわ。そして幕府征長軍が四方から押し寄せて来るわ……これは泣きっ面に蜂どころか、もう絶体絶命、存亡の危機。

 

そこに更に追い討ちがかかる。

禁門の変を指揮した朝敵三家老の首を差し出せ。という理不尽。

当時の萩政府だったら兵力も軍事力も残っていない状態で無闇に抗って正当性を主張しても通らないと判断したのか外には恭順だが内は武備しかなく。ぎりぎりまで、できるところまでは我慢しようと。

 

 

そのころ長州藩は俗論党の天下だったので急進派を処分し、三家老には切腹、藩主父子も伏罪した。

これが第一次長州征討である。 

長州人にとってみればもうお先真っ暗。頼りにしてたリーダーはいなく、今やいじめられっぱなし。学校でも会社でも行く場がない……。

かと言って長州藩ごとほかの国に移転することもできない。

割拠、独立も考えたろうが地形的に囲まれて無理だし……。

 

そう考えて突き詰めていくと、おのずと答えが出てくる。

やがて開き直って、いい方に考えるしかないと悟る。そうだ、好きになる事だ。学校を、会社を、藩を、国を。いい方に考え、総て肯定しいいように少しずつ創り直していけばいいんだ。

 

 

ここを教科書的ではなくブログ的散文にすると

 それ以外でも藩校・明倫館の大村益次郎や井上馨などは対外的にも有能でした。そんなキラ星の如く輩出した諸隊(千五百余名)の隊長連中、そして雲霞の如く躍り出た農民兵などを鼓舞率先指揮して勇敢に戦った長州人。

今の映画に例えるなら森林消防官の「オンリー・ザ・ブレイブ」のようにまさに炎のごとく燃えた男達であった。

さらに、のち桂(木戸)が海外の新式銃を西郷の薩摩から龍馬の亀山社中を通じて横流ししてもらい、充分な士気と訓練とで武装した長州藩の才覚。

 長州藩にはなぜか負けじ魂の熱い士が多く出てきた。そこを幕府は読み切れず、いや少しは考えていたのだろう。無勢に多勢で四方からいっぺんに攻めれば長州は藩兵も少なくなってるから簡単に降参するだろう……と、幕僚の安易な打算は変わらない。

 

 が、然しこれで収まるような長州人民ではない。

 

 先の長州征討を第一次長州出兵として、長州藩の降伏謝罪により終結した筈であった。が、人の痛みの分からない江戸の幕閣どもは長州処分が寛大すぎるとして、無理難題を吹っ掛けてきた。

これに従わなければまた、第二次長州出兵をするぞ、と。

長州藩主父子の江戸招致である。人質にしようとでも思ったのか、無理な事を要求して叛旗を翻らさせようとしたのか、よくよく思いつくものである。 

これで流れが変わった。排除しようとする者は逆に排除される。それまで我慢していた自制心が一気に迸る。

 

そこでサブテーマ

「幕府はなぜ、やらなければよかった戦争をはじめてしまったのか」(「長州戦争」野口武彦著の帯タイトル)

 

 長州藩はこれまでさんざん叩かれていたので血の密度が濃くなっています。先ずこれまでの守旧派、俗論派で占められていた長州藩内を内戦で正義派(奇兵隊などの諸隊)が各地で勝利をおさめ、藩内の発言力を高めていく。

そして藩内の士気、体制まで変えていくのだが……。

 

 と安易に第二次長州征討を西国諸藩に命じて、本当にやらなければ良かったと後悔しただろう……が窮鼠猫を噛むの言葉通り、火事場の馬鹿力に長州藩を目覚めさせてしまったのは弱体幕府であり、無慈悲の恨みを買って倒幕~大政奉還の最大要因ともなった大義名分のない弱い者いじめをしたのも保身幕府であった。

言ってみれば幕府側敵失、自業自得ともいえる。

 ここのところは長州観光で萩に行かれた方は藩校・明倫館でくどいぐらいにCDだかDVDで強調される。まるでご自身たちが天下を取ったみたいに。(笑) それだけ県民性を誇りにされてるということでもあろうが……。

 

  

 

連日猛暑を超す暑い夏、当時はエアコンとかなくて武装兵はもっと熱かったのだろう。てっぽうも熱い。

いや、吾々まで熱くなってはかなわん。ここは冷静に史実に基づいて読み解いていく事にする。

要するに幕府としては潰す口実が欲しかったのであろう。下関港は魅力的だ。然るに手順を踏んで参内し長州征討の勅許を受けた。

 然し、この会議の模様を聞いた薩摩藩の大久保利通は、朝彦親王に対し、一度伏罪した長州藩に罪はないから、再度長州征討の勅許は止めにすべきと強く主張した。

その時述べたのが、「非議の勅命は勅命に非ず」という、つまり、正義に背く勅命は出すべきでない。と主張し、参謀の西郷隆盛も同意見だった。これは薩摩藩伝統の郷中教育の弱い者いじめをするなかれ。からきている「勧善懲悪」(善意が悪意に勝る)であり、武士道精神に叶っており、また先進国の「ノーブレスオブリージュ」騎士道精神~フェアプレイに通じる人道でもある。

 

 

現地、現場を知らない江戸の幕閣たちは、いやそれでは手ぬるい、長州藩主を縛り上げて引っ立ていと無理、勝手な事を言ったり、連署したらしいが、それならご自分たちで現地に行って好きなだけ奇兵隊たちと撃ちあったり戦ってきたらいいでしょう。……と征討軍総督・徳川慶勝は思っていたに違いない。私だってそう言うだろう。

当時勘定奉行だった小栗忠順は下関開港で外国の新式武器が長州藩に流れるのを懸念し長州藩を叩こうとした節がみられる。

 

 幕僚や事務方はまるで現場とか戦場を解っていない。駒ではない魂や心を持った人間の動かし方を知らない世間知らずである。ただ、「机上の上で地図に四方、五方から数千しかない一藩を15万の兵力で攻めれば勝てる」と数量だけで計算する。それは単に平面的な二次元のゲームでしかない。あっても三次元。

人間の潜在能力は組み合わせ次第でいくらでもギヤチェンジし、四次元、時空どころか無限になる。その不可能が可能になったのが江戸城無血開城や大政奉還ではないのか。

 

 信じられる事象、生きざまの質と量と永続性、それは昔も今も変わらない真と善と美に基づく”靭(つよ)さ”ではないだろうか。人間には”こころ”があるのだからそれを感動させる信念の質。信じるこころ。と諦めない魂。

 具体例を挙げると第二次長州征討に、四方から囲まれて、もう長州はダメだと思われていたのが奇跡的に各地で諸隊が勝進んでいったではないか。そして半分諦めかけていた長州人が明治の政府高官となって日本をリードしていったではないか。

これを理解するには抽象的にたとえると全知全能の神を信じているかいないかで火事場の馬鹿力が出るか出ないか。つまり長州藩はこれまでさんざん叩かれていたので血の密度が濃くなっていた。先ずこれまでの守旧派、俗論派で占められていた長州藩内を内戦で正義派(奇兵隊などの諸隊)が各地で勝利をおさめ、藩内の発言力を高めていったことから先の明かりが見えてきた。

そして藩内の士気、体制まで変えていく。これは勝海舟が西郷隆盛に洩らした青写真にもあるように、本来は幕府の抜本的内部改革をしたかったのだが、それを長州藩が先に藩内の改革をやってしまった。

 

もう、その頃には外国と戦って攘夷は無理だと少なくとも薩摩、長州では実感していた。幕府でも現実にそう思っていた。だが、開国すると幕藩体制の崩壊、割拠、合議制、富国強兵、皇女和宮降嫁の際の公武合体の攘夷誓約などもありにっちもさっちも先の見通しが立たなくなるジレンマ。下手をすると列強の餌食になりかねない。

やがて非現実的な破約攘夷から開国勤皇へと舵をきっていくのだが……。

 

 

それでも幕府は第二次長州征討をやってしまうんだな。幕府とか将軍とかいうと、まるで戦うのが仕事みたいに、そういうのは職務に忠実と言うのかどうか……。

内戦なんかしている場合ではないでしょう。日本的な自治権で国際的政治力を発揮したら良さそうなものなのに、いくつになっても男の子は戦争ごっこが好きなのね。と言われてしまいそうである。

戦争は、治に在って乱を忘れず、乱にあって治を忘れずで大義のない戦はすべきでない。止むを得ずしなければならん時は一発必中のカウンターのみ。

それを弱り目に祟り目の一藩をみんなで倒しに行くんだな。

 

 さて、元治二年(1865年)四月七日、改元の儀があり、年号は「慶応」と変わった。改元理由は前年の京都騒擾と大火、内外の国難とされる。江戸時代最後の年号になった「慶応」の典拠は『文選(もんぜん)』に「慶雲(きょううん)応(まさ)に輝くべし」とある賀句による。

 

 

 そうした慶応元年五月十六日、将軍家茂は江戸城を発し、二度と帰らぬ西上の旅路に就いた。

神祖家康公が関ヶ原に進発した吉例にならって金扇と銀の三日月の馬標が輝かしく押し立てられた。

古例にしたがって、酒井家から葵の葉を敷いた勝栗を献上する。

やがて馬に牽かれた大砲を先頭に、新式の歩兵隊がゲベール銃を肩にして、一斉に打ち鳴らす太鼓に合わせ、足並み揃えて行進する。その後から旗本たちが一世一代の晴れ姿で付き従う。壮麗な軍事パレードであった。

 この日、誰一人として幕府軍の大勝利を疑う者はなかった。

 

一方対する長州側ではこの頃、ちょっとした異変が起こっていた。

下関に亡命中だった高杉晋作が遊撃隊を率いて三田尻港で軍艦癸亥丸を乗っ取る等して暴れると、急進派諸隊もこれに刺激され決起し、内戦(クーデター)へと燃え広がっていく。

元治二年一月六日の深夜、奇兵隊以下の諸隊百余名は奇襲をかけて射撃を加えながら村内に突入し、4倍の四百人いる保守派子弟の先鋒隊を撃破して、夜明け前に絵堂を占領、勢いをかって秋吉から萩に迫る。

先鋒隊等鎮撫軍の不振を見て、萩に動揺が広がった。保守派の一部が「鎮静会」と称して中立化したのである。そしてそれが藩主に建言し大きく流れが変わった。

 急進派が政権に復帰したのであった。三月十三日には、村田蔵六(大村益次郎)が軍務掛に抜擢され、兵制の一新に着手した。

諸隊総員千五百とし、歩兵30人で伍の核(隊伍は五本指単位)をなす組織編成である。烏合の衆ではない。

 ちなみに当時のこの部隊の火力、武器を視てみよう。

桂は長崎に洋行帰りの井上門多・伊藤俊輔を派遣し、イギリス商人グラバーから蒸気船一艘、ミニエー銃4,300挺、1挺18両で、また幕府の標準装備である旧式のゲベール銃3,000挺、これは1挺5両で買い付け。

両銃の違いはライフル施条が入っているかいないかで有効射程距離が変わってくる。新式か旧式かは価格と性能の違い。

 

しかし、当時の疲弊した長州藩にそんな蒸気船や武器を購入する財源がどこにあったのか?

藩民の協力というか、先に慶応元年(1865年)四月、士卒に火縄銃・鎧兜を売り払って施条(ライフル)銃を年賦で購入することが命じられた。こうして幕府の旧式ゲベール銃に勝る一家に一台の新式の玩具ならぬ飛び道具・新式ミニエー銃が置き薬と同じく標準装備され長州藩を藩民をこぞって強気にもさせていたのである。

いや、それだけではない、長州には「長防四白」と呼ばれる全国的な産物がある。良質の蝋、紙、米、塩である。それら藩貿易から上がる利益はどんどん軍費に充てられていった。

こうして長州藩の富国強兵策は着実に揺るぎない軌道に乗っていくのであった。

 

一方、家茂将軍の幕府軍は慶応元年(1865年)五月十六日に江戸を出立、のろのろと東海道を西上し、三十五日もかかって入洛。孝明天皇に進発の趣旨を奏上するが、長州征討は衆議一決するまで待機せよ。とのことであった。

 

その間長州側では軍備が着々と進む。

そして例の密約も。そう薩長同盟である。これは慶応二年一月二十一日、京都薩摩藩邸で土佐の坂本龍馬が仲介して西郷隆盛と桂小五郎が手を結ぶ。土佐の中岡慎太郎も薩摩の小松帯刀も同席していた。

当初西郷も桂も行き違いがあって渋ったようだが、龍馬が裏書き(保証)して同盟成立した。

 おかげで外国から直接武器を購入できない長州に代わって薩摩藩の名義を貸して横流しし、長州は新式武器で新装備した。それで同じ日本人の血が流れたと思うとなんだか武器商人の思惑通りになっていたとも考えられる。

とにかくそうして長州では来るならいつでも来いと着々と準備を進めていった。

 

薩長密約の効果はじわじわ顕れてきた。

幕府側は前回第一回長州征討と同じ五方面から攻め込む計画であった。が、四月十四日、薩摩藩が長州再征には大義名分がないといって出兵を辞退すると言い出し、幕府を慌てさせた。

「征伐は国家の大事、後世の歴史に恥じないような大義名分が立ち、声を大にして非を鳴らさなくても、自ずと四方が呼応するほどでなければ至当の戦いとはいえません。兵力は妄りに動かしてはなりません。近年は世論の力も大きいから、内乱は極力避けるべきであります。幕府といえば世を安穏に保つのが御職掌なのに、先頭に立って乱を発するとはいかなることか。天理に悖る戦いは、大義によって支持し難く、たとえ出兵の命令があっても止むを得ずご辞退申し上げます」 

これは島流しに遇っていた時、西郷が読んだ「韓非子」の名言ではなかろうか。

 

足並みが揃わない幕府軍の大阪滞在期間が長かったこともこの後の幕府崩壊への序曲ではなかったろうか。嵩んだ滞在費はどうするか。

高校野球で甲子園の旅館代や食事代等のランニングコストどころではない。無為徒食の何万の兵が一年以上もゴロゴロと大阪で滞在し、やがて大坂の衣食住の諸物価を押し上げてしまった。滞在費は慶応元年五月から翌二年五月までの一年で既に3,157,446両に達している。

こうして庶民の反感を買って米騒動は勃発し、江戸にも騒ぎが飛び火するわと幕軍大坂長期滞在は不評であった。

然も第二次征長部署に於いても薩摩藩に同調し、脱ける藩もチラホラ出てきた。こうなると長防包囲網は綻びだらけ。

逆に長州側にするとこれらはもっけの幸いと生産~貿易~軍備の拡張と兵制充実の環境が整っていった。

農商兵は定員が千六百名で、十六歳から三十五歳までの軍役とし、調練日を1,2,3,7,11,12月の月別3日宛とした。

調練が農閑期を選んで定めてあるのは農作業に配慮したものであり、日頃から軍事に専念している諸隊千五百との区別でもある。

 

 

さて、そろそろ紙面に限りがみられてきたのでこの長州征討もこれより愈々佳境に入る。

攻め手の幕府軍だが、後の世の大義名分が立たないなどの理由から薩摩藩と同じく戦線から離脱する藩が出てきたのは先に陳べたとおりだが、中には優秀な装備で銃隊四十六隊千六百五十六人を擁していた広島藩主浅野安芸守茂長もその一人だった。芸州口を任されていた広島藩であったがそこにポッカリと穴が空いた。

これだけを見ても判る通り、長州藩は望んでの志願兵、に対し幕府軍は厭々ながらの駆り出された寄せ集めの徴兵集団。

先ず目つきが違う、そして動きが違う。

 

慶応二年(1866年)六月七日ようやく再征の沙汰下される。

山口県民が言う四境戦争の火ぶたは同日幕府軍艦の大島砲撃を以て戦端が開かれた。

幕府海軍の蒸気船富士山丸(木造スクリュー、排水量千トン長さ224m)とそれより小さい翔鶴丸が上関方面より接近し、久賀浦へ十数発の艦砲射撃し、反撃の有無を探った。砲台の配置がない事を確かめその日は帰って行った。幕軍本営で上陸作戦を練ったものと思われる。

翌日、幕府軍は周防大島の南北両面から砲撃、侵攻してきた。何の防備もない村落へ無差別に砲弾を撃ち込み、民家三百軒を焼き払って罪もない婦女子を殺傷。幕府歩兵隊の一団は村人が逃げ散った農家に押し入って、鶏から牛まで食べつくしてしまう暴虐ぶり。こうして幕府勢は大島の要所を確保したがなんとも後味の悪い規律の乱れである。

 

幕府軍は大島に停泊、海路封鎖し制海権を握った。そして岩国に上陸し長州に攻め込む算段であった。

しかし、思わぬ誤算が生じたのは六月十三日の未明のことであった。

北の久賀沖にどこから現れたのか一艘の小型蒸気船が出没した。長州海軍の丙寅(へいいん)丸、排水量94トン、長さ125mのコンパクトな鉄製スクリュー船である。その機動力を生かして幕府軍艦四隻の間を電光石火のように発砲してはアメンボー(水澄まし)のように瞬時に動き回り、幕府艦船の舷側灯を目印に次々艦砲射撃を射掛けては素早く移動する。幕府側は突然のことに応射もできず、幕艦朝日丸が被弾損傷し見えない敵に幕府艦隊内には戦慄が奔った。

こうして幕府艦隊をけん制し飄然と去っていく丙寅丸の舳先に立つのは高杉晋作。胸のすくような海上ゲリラ戦を指揮し、島民の仇討をなし幕軍相手に暴れまくったのであった。まるでワンピースのルフィーのように。(……こういう軽妙な書き方ができるのはブログならではの醍醐味)

 

六月十五日の朝、長州の第二奇兵隊など六大隊が大畠瀬戸を渡って、西浜から上陸し反攻進撃した。

地形を熟知した長州歩兵は山地から銃撃し、攻め降りてきた。それだけではない。幕府軍に捕虜扱いされていた大島の住民たちもゲリラのように突然竹槍や鋤、鍬、鎌を手に手に鬨の声をあげて立ち上がった。前からも後ろからも敵、また敵。堪らず一目散に艦船に逃げ戻る幕府歩兵隊。

こうしてネジを強く巻かれた長州軍が、各地で足腰の弱い弛んだ幕府軍を弾き飛ばしていったのであった。

 

その前日六月十四日の朝、戦闘の火蓋は長州藩の入口に近い大野瀬戸付近で切って落とされた。

幕府軍先鋒は伝統の赤備えで拵えた井伊家の軍勢。だが実戦の奇兵隊らにはブラフ(はったり)なんぞ効き目がない。

赤備えの井伊隊が芸防国境の小瀬川を渡河し、対岸の和木村へ侵攻しようと大挙押し寄せ河を渡ってくる。

突然鍋倉山の山上から砲声が轟いた。臼砲の砲弾が河に降ってきてマジかと思うほど間近で破裂する。そして狙いすましたように小銃の一斉射撃が……。次々倒れていく井伊の兵。次第に川まで赤くなっていく。

この長州軍の高地埋伏に拠るカウンター銃射は前夜からの作戦通りであった。

先鋒の井伊隊放題も言えず、井伊隊は堪らず泡を食って逃げるわ遁走するわ。ここ、BGMは「フーガ」で。

同じ「徳川四天王」の榊原家の軍勢は、大竹に着陣していたが、血相変えて敗走してきた井伊勢に引きずられて、一戦も交えず慌てて回れ右をして一緒になって逃げたので一層物笑いの種となった。

 

奇兵隊の兵士たちは地理地形を把握していて、すばしこく駆け回り、狙撃の練習も怠らず命中率に格段の差があったと聞く。勿論銃の違いもあったし、何と言っても士気の違いは如何せん。

幕軍の大敗北の原因は長州側との火力、武力の差を認識していなかった無知ゆえの無計画。とさらに地形地理の斥候情報不足と過信からくる油断。

六月十四日芸州口と大島口から呼応して攻め寄せるはずだった幕軍の岩国攻略作戦はこうして敢え無くチリや泡と消えたのであった。

 

ほかの二ヵ所、石州口や小倉口も似たようなもので、もう書くのが面倒臭くなってきた。

ただ、こうして長州有利で戦闘行動を続けていると、幕府トップに責任問題、プレッシャーがかかって病気になってくるのがいる。ストレスからリウマチになったらしい。

運動不足だな。

七月二十日の夕刻六ツ半時(午後七時頃) 家茂は大坂城の一間で苦しい息を引き取った。深い心労の末の孤独な死であった。まだ二十一歳という若死にである。

 

その後、慶喜が徳川の家督を相続し、大政奉還し、あとは皆さんご存知のとおりである。

この後ひとと会う約束がるので、ひとまずここで締める。

ご精読ありがとうございました。乱筆乱文ひらにご容赦のほどを。 

 

 

          この段 <~完~>

 

 

 

【編集後記】今回の表現手法は波状的な、映画手法でいうならセルゲイ・エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」にあるモンタージュ理論を応用した効果実験を試みた。

なお字数制限を大幅緩和していただいたアメブロさんに感謝するともに、今度は書体表現の選択肢、たとえば海坂明朝体とかメイリオも打てるようになれば尚一層個性的な創作活動に磨きがかかるのではないかと身勝手な提案を申し上げる次第。

 

それでは みなさん ごきげんよう。