Ⅴ.信仰生活について

 

 1. 霊の家

 

 偶像崇拝を忌嫌われる神様。

 神様は木や石、金銀などの宝石でなんらかの形状を彫刻したり作ったりしないで(エレ2:27), それに仕えたり拝んだりしてはいけないと言っています(出20:4-6, 申4:16-19, 23,28)。 そして無形の他の神々や先祖の神々も決して仕えてはならない(出20:3, 1コリ10:20-22), 天にある天体(日と月と星)についても決して神のように仕えてはならないとなっています(申4:19)。

 

 統一教では ‘孝情苑’といわれる絶対聖霊になった先祖を迎える大理石で作られた家を伝授される行事をしています(2022)。 孝情苑に先祖を迎えたら独生女である韓鶴子女史が実体聖神であることをきちんと先祖に教育しないといけないと強調しています。孝情苑を受けた家庭はその前で祈り先祖を仕えないといけないと言っています。(天一国7年 孝情苑伝授式 イギソン会長のメッセージ)

 

 偶像崇拝を積極的に推進する統一教が神様が願われている事をしているのかどうか比較すればわかることです。聖書の中で偶像崇拝によって神様の怒りを受けて滅亡した人たちの記録が多く出てきます。そのくらい偶像崇拝を罪と定め子孫にまでもその罪の代価を求められます。

 

“それらに拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、”(出20:5)

 

 統一教は唯一神と唱えながら多神教や偶像を認める宗教です。ですが、偶像崇拝を忌嫌う神様の御心はイエス・キリストの信仰以降も一貫しています。クリスチャンは一貫して偶像礼拝を避ける理由は神の御心ではないから、そして偶像崇拝は悪霊と交わることと認識しているからです。

 

2. 人間の行為

 

統一教は人間の行為によって神様の子どもになると主張してきました。言葉の表現が違いますがそういうことです。90年代前後はしもべのしもべ、僕、養子の過程をとおして完成した神様の子どもになれるといっていました。今も祝福家庭で終わらず、天宝家庭になれば真の人になる資格を得られるとしています(2027年までの摂理)。その為の人間の行為が求められています。統一教の知り合いの中には天宝家庭になりたいけどお金がないと諦めている人がいます。いくつかの条件があり、献金も必要だからです。そして、天宝家庭と普通の祝福家庭と区別されてしまって天宝家庭のコミュニティの中にはいれないともいうくらいです。これが人間の救いの過程なら、全くもって神様の救いの計画と反していることになります。

 

 福音はイエス・キリストを心から信じて受け入れれば神様の子どもになれるのです。だから、人間に福音という言葉のとおり嬉しいお知らせになるのです。福音はとても簡単で明瞭です。神様は愛の方なので一番やさしい方法で救われるようにしてくださったのです。

 人間の努力で神様の子どもになれるようにと神様は語っていません。聖書を正しく知って、イエス様を信じれば終わりです。イエス様を本当に信じた人は、天国の祝福の中でこの世でも生きていく神様の子どもとなり、教会で礼拝を捧げ神様とともに生きながら天国に導かれる信仰生活が出きるようになっています。

“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”

(ヨハ1:12)

 

 

 3.経済部隊

 

 2022年、日本で安部総理を襲撃したひとりの青年によって統一教がどんな団体なのか昼夜ニュースが流れました。その中で文鮮明の右腕だった郭錠煥が7月19日に韓国で記者会見を開き、日本の統一教の教団は献金を作り出す‘経済部隊’であると言いました。

 

 ‘経済部隊’ が事実だったのでしょうか。

 1980年代に活発だった経済活動は韓国の一心石材で生産された大理石が主材料で作られた多宝塔や弥勒菩薩や壺、一和の高麗人参の原液をセットで販売、 印鑑, 珍味など、多様な商品をもって霊感商法を起こして、家庭家系の悪い運勢を変えるという言葉で接近して買わせたり、90年代には宝石、絵画、着物など、運勢を高めるという日本人の心理を誘導して販売したりもしました。特に、四柱推命を専門的にしたチームも出てからは日本の政治界、経済界にも入っていき運勢を見ながら、その収益は日本教団の献金の中でもベスト3に入るくらい相当な献金を誇るほどだったと聞いたことがあります(藤沢教会元信者証言)。信者の献金は信者の個人財産に従い、それ以上の献金は借金の程度によるものです。

 

 このすべての献金はどこに行きましたか。

 韓国清平に地上天国を建設するために王宮を建設中ですが2022年現在(証言時期)も日本に付与された献金のノルマは今もきちんと集められて送金されているそうです。

(現 日本東京のある統一教会牧師証言 2022年)

 

1997年前後には一時は神様の摂理だといいブラジルに地上天国を建設すると文鮮明の命令を受けてすべての財産を整理してブラジルに移住し住み始める信者がいた位、ブラジルの摂理に集中した時期がありました。実際にその摂理の開拓メンバーの中で文鮮明とその家門が日本の教団から集められた献金をまるで湯水のように使い自分の懐に入れる姿と信者を軽くあしらう姿を見て、文鮮明はメシヤではないという確信をもって統一教から離れた信者もいました。また、90年代、2000年代初めは教会長たちを大量に日本宣教師として派遣されたときがありました。日本に行きその人たちの主要隠れた業務は自己財産作りだったわけです。 “沢山集めたか” この言葉が教会長同士が会ったときの挨拶になるくらいでした。

 

 極一部を見ても日本の経済力は‘経済部隊’と言われるくらいに、今も政治界に影響を与えるほどに持っていると見えます。信者の方は疑問を投げ掛けるほどの事実があるにも関わらず、見ないふり、聞かないふり、知らないふりをしている信者が多いのです。

 

 ここで区別をしなければならないことは、キリストにより救われた者たちの信仰生活とは何かということを正確に知らなければならないことです。復活されたイエス様は昇天間際に弟子たちにどんな御言葉を残されて昇天されたのでしょうか。

 

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

  「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)

 「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)

 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 

 この御言葉は伝道と宣教と後代を意味します。イエス様は四福音書を通して伝えており、弟子たちのその歩みが使徒の働きで続いているのです。そして、この使徒の働きの歴史的流れは現代まで受け継がれてきました。それだけ神様にとって伝道と宣教と後代は重要とされていることなので、聖書の中で繰り返し伝えているのです。

 

 神様の真の御心は万物を復帰することではなく、イエス様の永遠のいのちの救いを一人でも多くの人に伝えることです。現在の統一教の働きは天宝家庭の摂理の流れの中にありますが、イエス様の最後の御言葉とは程遠い内容をもっています。本当に再臨イエスの働きなのでしょうか。イエスをキリスト、救い主と告白する伝道や宣教の中にいないと神様の願いとはあわないのです。統一教は根本から問いただされなければなりません。

 経済は伝道と宣教と後代のために必要な分を神様が下さいます。本人の心に叶うことなら、神様が下さった分をもって感謝して奉仕するのが、神様が一番喜ばれる奉仕の流れです。神の願いを正確に知りその道を歩む人生となることを祈ります。

 

 4. 聖書66卷

 

聖書66卷は神様の聖霊の満たしによって書かれた神様の御言葉です。私たちが重要に思わなければならないことは聖書66卷の御言葉を言うときは付け加えて言ったり取り除いて言ってはいけないということです。黙示録の最後の章には聖書の御言葉を加える者は神様がこの書に書いてある災害を加えられるとあり、また聖書の御言葉を取り除く者には聖書にある祝福と答えを取り除かれるとなっています。

 新旧約の聖書は正確で間違いのない神様の御言葉です。聖書の御言葉は何か不足があって私たちが付け加えるほどに足らないものではありません。間違った部分があるといって私たちが取り除いて捨てるほど神様の御言葉は不足なものではありません。聖書でとても重要だと思われない個所を取り上げてそこに秘密が隠されていると深く入り込むと異端にながれていってしまいます。

 

 郵便配達員は手紙を手紙のまま伝達しなければなりません。

自分勝手に内容を変えて伝達をしてはいけないのです。

                    (2022.06.15. 春川インマヌエル教会‘預言者エレミヤ’から)

 

 聖書の中で新しい真理を発見して解明することはすべて異端の言葉です。統一教は新しい真理が現れなければならないと主張し、聖書を真理を教示してくれるひとつの教科書として不動のものと絶対視してはならない(原理講論緒論)と聖書の唯一性、絶対不変の神様の御言葉を否定しています。統一教が聖書が不足で原理講論や天聖経をもって真理のように教えることも神様の御前では最も大きな罪を犯している事実を悟り知る必要があります。

 神様を恐れ慕う人であるならば神様の霊によって書かれた聖書の御言葉をそのまま信じて伝える人となるように願います。

 

 

“私は、この書の予言の言葉を聞くすべての者にあかしする。

もし、これに付け加える者があれば、

神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる ”

(黙22:18)

 5. 聖書を見る観点(1) ー 神様の啓示

 

異端の始まりは聖書をそのまま受け入れられなく信じれないところから始まります。

 統一教は聖書のそのままの言葉が現代人の知性ではとても理解できないものであるのなら、その中に隠された違う意味があるといい、違う観点から考察して新しい観点を発見しなければならないとしています。それゆえにイエス様の受胎、十字架、復活、バプテスマのヨハネの使命、イエス様の再臨など、人間の知覚では理解できないことはすべて人間の水準で理解されるように解釈され、まさに隠されていた真の真理のように作り上げ(原理講論ー再臨論)、結局聖書の権威を喪失させて、キリストの完全性、当為性、絶対性を完全に否定しています。

 

 聖書は神様の啓示によって書かれた霊的な文字であり言葉です。一人の人間が聖書から確信をもって読んでいくのは難しいと思う、どんな啓示もその意味を自分勝手に解釈することはできません。聖書自体が神様ご自身を啓示されたのであり、神様の解釈と表現によってなる神様の御言葉なので、聖書66卷をそのまま信じる姿勢が異端に行かないで正しく聖書の権威を守っていく道になります。

 

6. 聖書を見る観点(2) ー イエスはキリスト

 

異端は聖書に書かれている内容をそのまま信じるのではなく、隠された秘密を発見してまるで真理のように作りたてイエスを否定して新しいキリストをたてて崇拝します。

 

 聖書をとおしてイエスはキリストであると告白しないのはどれ一つとして神様から出たものではなく、反キリストの霊であり異端になります。 (1ヨハネ4:3)

 聖書が記録された理由は'イエスが神様の息子キリストであることを信じるため、また、イエスの御名によっていのちを得るためである'からです。(ヨハネ20:31)

 聖書66卷はイエスについて書かれた神様の御言葉です。ですので、聖書を理解して読もうとおもうのならイエス・キリストに観点を置いて読むことが大事なことです。正確に聖書を知り信じれば絶対に異端には行きません。

 人間イエスは認めるけど神ではない、完全な人間の救いはなされられなかったという言葉を吐く団体は完全な異端です。

 

 

"人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、

神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。"

(1ヨハネ4:2)

 

 

 7. 聖書を見る観点 (3) ー 契約の歴史

 

信仰生活で重要なkeyは‘契約’です。契約に確信がないと信仰が弱く、さ迷ってしまいます。その契約は‘キリスト’です。聖書はキリストの契約を説明するために、神様が人間を救うために‘キリスト’の契約を下さり、このために記録されました。聖書の中心から外れてしまうとおかしな異端たちが現れて聖書をもって違うことを強調し始めるのです。聖書66卷は契約のバトンを引き継ぐキリストの契約の歴史を書かれています。

 しかし、統一教の原理講論は聖書をもって文鮮明をメシヤ(キリスト)と証明するために利用され、聖書の重要人物たちを人類救済歴史の失敗者と作り上げてしまったのです。

 キリストの契約の観点でみて正確な福音を伝えなければなりません。異端にいる人も一度も福音を聞いたことがないのなら死ぬ前までに一度は聞いていただきたいと思います。

神様の子どもとなり、神様と共にいるインマヌエルの祝福を子孫までも受けて契約のバトンを引き継がせる家庭と家系の祝福を味わえるようにお祈り致します。

 

 

“これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。”(ヨハネ20:31)