Ⅳ. 救いの定義について

 

 1.救いの摂理

 

 (1)救いの摂理

 

統一教は神様の人間の救いの使役を聖書の中の人物に時代ごとに付与して成就させようとしたと説明しています。この使命を担当した中心人物が責任分担を完全に遂行すればその摂理は成就するのです。だから、アダム、ノア、アブラハム、モ-セの時も終末であり、救いの摂理の使命があったのにもかかわらず、全員失敗してバトンを渡すように救いの摂理を延長したのです。

 イエス様の時も同様であって、救いの摂理の目的を完遂するために来られたけれどもユダヤ人の不信仰により人間の責任分担を全う出来なかったので再臨まで延長されたと言います。(原理講論-終末論, 予定論) その再臨が文鮮明とも韓鶴子ともしています。

(2022年 韓鶴子 独生女, 文鮮明は原罪があると主張する)

 

 神様が計画された人間の救いはまるで人間が何か責任を成せばなる不足な救いではありません。どのようにして罪人が罪人を救いに導けるのでしょうか。それは人間が考えた方法であって神様が下さった救いの方法では絶対にありません。

 

 神様が下さった救いの方法は創世記3:15にあります。完全なる神様が罪のない人間の姿でこの世に来られて十字架で死に復活してサタンの権威を崩せば罪人を救うことができます。救いのために罪人の行為は一つも必要ありません。人間の救いのための行為は神様ご自身が成されたのです。罪のないイエス様が受肉神としてこられ、十字架で死なれ復活され昇天されて、聖霊を送り共にいる完璧な救いの使役をなされ完全に救いの摂理を終わらせました。今のクリスチャンの希望は再臨のキリストです。この時が来たらイエス・キリストの信仰が基準となった審判の時なのです。

 

“しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。”(イザ53:10)

 

 (2)救いの摂理 ー アブラムの祭壇について(1)

                    

 統一教では文鮮明までの復帰摂理を述べていくために聖書の新しい  観点といいながら聖書上の重要人物を復帰摂理の失敗者とたてていきます。創世記15章のアブラムの祭壇について、ここでも聖書的理解からかなり異なったことを述べているので正しい認識が必要です。

 

 統一教では創世記15章のアブラムの祭壇について何といっているのでしょうか。人間救済歴史でアダム、ノアが失敗した結果その使命はアブラムが荷なうようになったのです。ゆえにまずは使命者の信仰条件として象徴献祭を捧げなければいけません。その献祭が創世記15章9節の祭物をいいます。結果はアブラムも信仰条件を立てるのに失敗したと原理講論に出ています。なぜそうなのでしょうか。その理由はアブラムが捧げた献物は牛、やぎ、羊、鳩とそのひなだったのですが、すべての献物を引き裂かないといけなかったのが鳩だけ裂かなかったために、その死体の上に猛禽が降りてきてサタンの所有物になったことが罪となり、結果的にはアブラムの子孫が400年の間自分達の国ではない他の国の寄留者となり、奴隷になったということです。ですので、アブラムの失敗によりその救いの摂理はヤコブまで延長されたのだとあります。(原理講論-第1章 復帰基台摂理時代)

 創世記15章の祭壇について、時代的、聖書的歴史の背景を知らなければ異なった異端的なことをいってしまいます。神様は人類歴史を導きすべてにおいてご存じです。15章の祭壇は神様が指示をしました。この方法はその当時強大国と弱小国のあいだで契約を結ぶときに用いられた方法であり、9節にある牛、やぎ、羊、鳩とそのひなは旧約時代にイスラエルの民族が契約を立てるときに使用された動物たちでした。神様はアブラムとその時代の契約を結ぶ同じ方法を用いてアブラムと契約を結んだのでした。

 旧約時代のイスラエル民族は契約を立てるとき動物を殺し、二つに引き裂いてからその引き裂いた動物の間を契約を結ぶ当事者同士が一緒に歩くという方法で契約が完全に締結したことを宣布します。(エレ34:18-19)。 これは万が一このようにして立てた契約を破棄する者が出たならば、その人は引き裂かれた動物のように当然に死ななければならないという意味をもった厳粛に宣布される儀式なのです。しかし、神様とアブラムとの契約の儀式ではアブラムは引き裂いた動物の間を渡り歩いておらず、神様だけが過ぎ去りました。(創15:17). ここにどんな意味があるのでしょうか。この契約はアブラムの状態とは何の関係もなく神様が約束されて神様がご自身の御名をかけて神様が必ずこの契約を果たすという意味があります。人間は約束を必ず果たす存在ではないことを神様はご存じです。ですので、人間の責任を問わずに神様が祝福をアブラムと子孫に必ず与えると約束したのでした。猛禽はこの契約を妨害しようとする妨害者がいると知らせているだけです。

 

 創世記15章は人は信仰によって義となることを見せてくれる御言葉であり(ローマ4:3), 核心は神様が一方的にアブラムに祝福を与える契約を結んだことです。ここの15章は犠牲の献物をきちんと捧げて神様から認められたり、間違って捧げたから呪いを受けるという話ではありません。統一教は鳩の犠牲物を引き裂かなかった部分をとても大きく重点を置いて言ってますが、神様が指示したいけにえの方法を知らない結果です(レビ記1:17)。 そして、創世記15章の祭壇は契約の祭壇であって、異端の言うささげ物の祭壇方式ではないので全く聖書的、時代的流れを受けてなく、ただ原理講論を合理的に説明するために聖書を利用したことを知ることができます。

 

(3)救いの摂理 ー アブラムの祭壇について(2)

 

 創世記15章はアブラムの信仰を見て神様がアブラムを義なる人と認めて契約を結んだ内容です。この契約を結ぶために当時国家間に用いられた方法で契約締結したのです。10節の鳥を裂かなかったことは正しい方法だったのであり、11節の裂かれた死体に猛禽が来たのは契約を妨害する妨害者を見せたのでした。

 13-16節までは今後子孫代々にどんな過程をもって神様が約束された祝福を受けられるのかを知らしている内容であり、最後の17節で神様が煙の立つかまどと燃えているたいまつとして、切り裂かれたものの間を通りすぎたというのは、アブラムの状態とは関係なく神様が約束を守られるという意味をもっているのです。

 

 統一教はこの部分をキリストの救済使役のようにアブラムにその使役を与えて神様の前で信仰の条件を立てる過程と言っています。アブラムが4つの祭物をすべて裂かなかった罪によりサタンに侵入され信仰を立てる条件に失敗したために子孫たちが400年間異邦の寄留者となったとしており、救済使役を次のイサク、ヤコブに移行されたと説明しています。

 鳥を裂かなかったことでアブラムは失敗したとありますが、鳥を裂かなかったことは神様が許された方法であり、失敗ではありません。そして、400年間異邦の寄留者になったのは祭壇の失敗と関係のない内容になっています。また、統一教では煙の立つかまどと、燃えているたいまつはサタンを意味していますが、これはサタンではなく神様を表している内容です。ここの15章は人間のキリストの救済使役とは全く関係しない内容であり、神様がアブラムに人間の救済使役を任せてはいないのです。神様が人間の救済の使命者と立てた方はただイエス・キリストおひとりだけです。ここでも人間の状態、責任とは関係なく、神様が女の子孫によりキリストをたてるという神様の契約を神様が自ら成就させたという学びのある個所なのです。

 正しい聖書的、歴史的知識と流れを知ってみると統一教の教理が全く神様の御心と違い、完全に異なったことを言っていると知ることができるのです。

 

 2.死人の復活

 

 統一教は地上生活で復帰摂理を完成出来ずに死んだ霊魂が復活に預かるためにはどのようにしなければならないのかを原理講論に記録されています。

 死んだ霊は地上にいる人に協助すればその使命を全うしたことになり復活に預かれるようになると言っています。キリスト教を信じて死んだ霊、他宗教を信じて死んだ霊、悪霊に取りつかれて死んだ霊たちが地上にいる人に協助すれば再臨復活の恩恵を受けられると言っているのです。(原理講論-復活論)

 

 復活は三位一体であられる神様の行為であり、神様の全能なる絶対主権に関わっていることです。復活は神様であるただイエスだけにゆるされたことであり、統一教でいうある摂理の過程で地上にいる人に協助する使命をもって、この人にあの人にと人間に付与されることでは絶対にありません。統一教の言っていることが正しいのならキリストが来られる必要もないし、苦労して十字架で死ぬ必要もありません。聖書の中でそのような救済過程だけ記されればいいことです。

 

 死んだ者の復活には順序があります。先にはキリストであり、次にはキリストが降臨されるときにキリストを信じる者です。その証拠はイエス様は十字架でなくなられ死人の中から初めて復活されたからです(1コリ15章)。復活されたイエス様をキリストと信じれば聖霊なる神様が人の中で人のいのちとして宿るようになるので、信じた人も復活の恩恵にあずかれるのです。

 

“死がひとりの人を通して来たように、

死者の復活もひとりの人を通して来たからです。”

(1コリ15:21)

 

 3. 義認と神の子ども

 

 神様の子どもになるというのは義認によるものです。義認とは罪人を赦す神の法的な行為であり、罪人を義と認められた者として受け入れ、神様との関係を永遠に正しいものとします。罪人が義と認められるのは神様から下さった賜物でありイエス・キリストゆえに神様が私たち罪人を赦し受け入れてくださったことを人間に宣布したこととなります。神様の子どもは義認が前提条件になっているので、神の子としての身分はイエス・キリストを信じ受け入れるすべての者に与えられます。 (ヨハ1:12)

 神の子となるための人間の努力は何一つありません。神の御子を送ってくださった理由は罪人が神の子の身分を持つためであり、その道を開くために来られました。それゆえに、イエス様を受け入れた人は神との関係が与えられ初めて創造主神様を‘父なる神‘と呼ぶことができるのです。(ガラ4:4-6)

 

 統一教は神様の創造目的によって人間は未完成から完成体にならなければならないと言います。人間が肉身の成長に従って霊人体が決定されるというのです。肉身と霊人体との相対的関係は肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化するということです。それゆえに、未完成体の状態で堕落した人間はもう一度初めから条件を立てて蘇生期、長成期、完成期という過程をもって完成されるといっています。霊人体はどこまでも、地上の肉身生活の贖罪によってのみなされ、天国に行くか地獄に行くかは神様の権限はなく自身の霊人体が決定するということです。(原理講論ー第1章創造原理)

 

 この理論ひとつみても統一教ではキリストと再臨主が必要ないと言ってます。キリストは統一教がいう新しい教えを解明して人間にも責任分担があって何かを完遂しなければいけないといって、そのために来られるのではありません。

 神の子となるすべての権限と天国と地獄の定めは人間の成長や努力には無く、神様の絶対主権の中にあります。だから、神の子となるために人間にはイエス・キリストが絶対条件となるように神様が定めたのです。その絶対条件の恵みにあずかれるのも人間の成長や努力や性格や行いによるのではなく、神様の完全責任の中にあります。ゆえに、クリスチャンは神様の責任によって救いがあるので私の隣人をおいて神の憐れみを請い、その隣人が救われるように祈るのです。

福音はすべての人に与えられています。ですが、福音の救いにあずかれるのは神様による制限的恩恵と信仰によって召された人だけです。ご自身がその恩恵の中に願いをおくのなら神様は必ずきいてくださいます。統一教のひとたちが神様の賜物をいただけますようにお祈りいたします。

 

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。"

(ヨハ3:16)

 4. 再臨主の理解

 

(1)再臨主の理解

 

 統一教は再臨イエス・キリストを文鮮明と信じています。現在(2024年)は韓鶴子女史が神の独生女といい、末の息子が第2の王(第1の王は文鮮明)という表現をしながら統一教自体が根本の教理からかなり逸脱された内容を持つようになりました。ですが、統一教の始まりは再臨イエス・キリストとかかげたところからなので、ここをしっかり踏まえた上で韓鶴子女史や末の息子を見ていかないとなりません。再臨キリストとは何なのかを実際のところ正確に信者に知らされていないので、この人があの人がキリストだ王だということになるので、ここの部分をしっかり整理して信仰する、又は信仰しないと結論を出さなければなりません。

( 使1:11, マタ26:64, ヨハ14:3, 黙22:12, 黙22:7)

 

 では、なぜ再臨のキリストというのでしょうか。それはイエス・キリストがまた来る(再臨)と言われたからです。

 

 再臨のイエス・キリストはどのように来られるのかを聖書にだけ正確に記録されています。

人の子が来るのはいなずまがひらめくように(マタ24:27), 

主の日が夜中の盗人のように(1テサ5:2),

雲に乗って(マタ24:30, 黙1:7),

天から下って来られ(1テサ4:16), 

この世の歴史を終わらせ世を裁くために来られる(ヨハ5:29)とあります。

 

 イエス様がまた来ると言った再臨とは人類歴史を完全に裁くために来られ、神様の御国の最終的な段階であり、救いの終末を指しています。ここで救いの終末とはイエス様の昇天以降から再臨以前まで多くの殉教者たちや伝道者たちによって伝えられたイエス・キリストの福音による救いの旅程が終わりのときが来たという知らせです。新しい真理をもってイエス様の代わりに新しい誰かが立てられるというのはすべて異端に属します。

 今の時代は特に韓国でそのように自分がキリストだといって多くの人を惑わしていますが、神様のいうキリストと異なったことをいうので異端となってしまうのです。この異端の流れは世界歴史の福音の流れから見ても、福音の伝播が盛んな国であればあるほど現れる現象です。

 イエス様の十字架の使役が霊的救いだけされたといい、肉身的救いのために(原理講論-再臨論) 再び再臨イエスとして来た者が文鮮明氏であると間違った完全に異なる救済観と再臨主の概念を直し正しくキリストを信じなければなりません。

 

 (2)再臨主の理解

 

統一教は再臨主は地上で生まれる形で来られると言っています。イエス様の時も人間の体から生まれたからだという理由です。キリストの資格は何であるか知らずに再臨主がなぜ来られるのか分からないためそういうのです。

 キリストの資格は罪人が罪人を救えないので人間の体をもった女の子孫でなければならず、罪があってはいけません。ですので、アダムの子孫は罪人なのでキリストはアダムの血統から生まれくることはありません。(ローマ3:23) 神様の方法では聖霊によって身ごもり、処女の体から生まれることにより(マタ1:18-23)罪のないひとりの人が(ヘブ4:15) 女の子孫として来られて初めてキリストの働きができるのです。このすべての条件をもち満たした方はイエス様しかいません。

 文鮮明氏は平安北道、文キョンユと金キョンゲの5番目に生まれ、家系代々儒教の家系でした。文鮮明が16才のときに祈り中にイエス様が現れてメシヤの使命を悟ったといわれています。

 

 文鮮明氏は人間の血統から生まれた罪のある人間であり、自分の使命も自ら知らずに生まれた罪人にしかありません。ですので、再臨主が人間として来るという自体が完全に間違った言葉であることを知らないといけません。文鮮明氏はキリストの資格も再臨主の資格もひとつも条件が備わっていないただの罪人です。また、現在(2024年)は統一教では文鮮明氏を実は罪があったと主張していますが、もしそれが本当ならキリストになれるのは罪のない神様ご自身なので文鮮明氏は再臨のキリストではなかったと言う証拠ですし、初期のメンバーは完全に騙されたことになるわけです。そして、文鮮明氏と韓鶴子女史との間に生まれたすべての子どもたちは罪の血をもっているので、普通の罪人と同じです。また韓鶴子女史が独生女といっていますが、罪人(文鮮明)と結婚した神の独生女が再臨主の使命者として成り立つのか極めて疑問が残るところです。

 

 聖書的観点は再臨主とは復活して昇天されたイエス様が再び来られて人類の救済を完成させる最後の段階であり、イエス様をキリストと信じる者と信じない者との間で裁きの審判が行われるために来られるのです。

 

                        私たちの国籍は天にあります。

        そこから、主イエス・キリストが救い主としておいでになることを、

        私たちは待ち望んでいます。ーピリピ3:20ー