この記事をヤフーのトップページで見つけて、
西成区が大阪市にあって良かった、と思いました。
社会福祉士を目指していた学生時代、
一風変わった(?)教授に連れられて
あいりん地区で課外授業を受けました。
現地のボランティアさんの説明を受けながら
学生十数人と教授で町中を歩き、
夜は、路上で寝ている方の体調を伺いながら毛布を配って回り、
そのまま現地の安い宿に泊まりました。
朝は、シャッターが開く午前5時前に職業安定所に向かいました。
「日当」や「条件」などを書いた紙を車のフロントガラスに張り付け
労働者に声をかけている人や
紙袋を持ったたくさんの求職者の方たちで
職安はごった返していました。
そして、三角公園で炊き出しの調理や配布を行いました。
炊き出しは長蛇の列でした。
近くにある花街にも足を運びました。
自分と同じくらいの年齢の女の子がライトに照らされて、
道路沿いに連なる店先に座っていました。
その店の前を車が通り、客が車内から物色している、という光景でした。
先のニュースで述べているような「結核」の話も、
もちろん現地で説明を受けました。
まだ現場実習も体験していなかった私は、
教科書に載っている「施策」や「法律」の羅列
”答え”が用意してある現実味のない紙上の『事例』
過去に誰かが唱えた『〇〇アプローチ』 『〇〇システム』という名称
「その人らしく」 「生きがい」 「心に寄り添って」などの
使い勝手の良い、耳触りの良い言葉を眺めて、
「福祉」を学んでいる、と思っていました。
そして、福祉の世界で頻繁に用いられている
「セーフティーネット」 「人権の尊重」
「最低限の生活の保障」 「生活の質」・・・
これらの「言葉」や「理念」や「考え方」が
勝手に困っている人を助けるのではないか
(そのような事は、物理的にあり得ないのですが)
これらの「言葉」があるから
何となく、人々の生活は守られているのではないか、
誰かが困った状態に陥っても
「公的なサービス」、「他機関との連携」、
「ワーカーの専門的な援助」などの言葉でどうにかなるのではないか、
という幻想を抱いていたのです。
なぜなら、これらの使い勝手の良い言葉をつなぎ合わせるだけで、
紙の上では簡単に、
問題解決にたどり着くことが出来たからです。
福祉はまるで、バーチャルなパズルゲームだったのです。
実際は「生活保護の制度」ひとつとっても、
その存在を知らない人、知る機会を奪われている人、
知っていてもあえて使わない人、使えない人、使いたくない人、
窓口まで行くことが出来ない人、行っても窓口で追い返される人、
貧困ビジネスに利用されている人・・・など
さまざまなケースがありますが、
パズルゲームでは、
「低所得者」+「ケースワーカー」+「公的なサービス」+「人権の尊重」・・・
とピースを組み合わせていけば、
「問題解決」が完成する仕組みになっているのです。
これらの「ピース」は、至る所に転がっています。
「地域包括ケア」 「プライバシー」 「家庭的な」
「リハビリ」 「小規模・多機能」 「地域密着」・・・
(※組み合わせ例:「家庭的」+「プライバシー」=「ユニットケア」)
これらの言葉はプラスでポジティブなイメージを周囲に与え、
実態を上手にカモフラージュする事ができる便利な言葉です。
しかし、これらの言葉がもたらしたものは
福祉関係者の「思考停止」に他ならないと私は思います。
「〇〇を導入したら、リハビリになりますよ。」
「家庭的なケアを提供します。」
「地域に密着した施設を目指します。」
・・・こんな事を言われたら、
「良いことをしているっぽいからそれでいいか」と
そこで考えることを止めてしまいたくなるのも分かります。
(何を目的としたリハビリなの?
本人はどこをどうして、どうなりたいの?
そもそも、リハビリって良くなること?元の状態に戻ること?
寝たきりの人には関係ないの?
高齢者は今日が一番元気なんだから、
そんな悠長なこと言ってていいの・・・?)
このような疑問の前には、
思考停止を引き起こす「言葉の壁」が
大きく立ちはだかっているのです。
抽象的で精神的で幻想的な「福祉」と
具体的で物理的で現実的な「生活」
この2つの違いには
学校の中だけではなかなか気がつくことが出来ませんでした。
個性的だった教授陣が引退し
今はそのような課外授業は行われていませんが、
福祉を学ぶ学生さんが
「人の生」を実感できる場があればいいのにな、と思います。
西成区が大阪市にあって良かった、と思いました。
社会福祉士を目指していた学生時代、
一風変わった(?)教授に連れられて
あいりん地区で課外授業を受けました。
現地のボランティアさんの説明を受けながら
学生十数人と教授で町中を歩き、
夜は、路上で寝ている方の体調を伺いながら毛布を配って回り、
そのまま現地の安い宿に泊まりました。
朝は、シャッターが開く午前5時前に職業安定所に向かいました。
「日当」や「条件」などを書いた紙を車のフロントガラスに張り付け
労働者に声をかけている人や
紙袋を持ったたくさんの求職者の方たちで
職安はごった返していました。
そして、三角公園で炊き出しの調理や配布を行いました。
炊き出しは長蛇の列でした。
近くにある花街にも足を運びました。
自分と同じくらいの年齢の女の子がライトに照らされて、
道路沿いに連なる店先に座っていました。
その店の前を車が通り、客が車内から物色している、という光景でした。
先のニュースで述べているような「結核」の話も、
もちろん現地で説明を受けました。
まだ現場実習も体験していなかった私は、
教科書に載っている「施策」や「法律」の羅列
”答え”が用意してある現実味のない紙上の『事例』
過去に誰かが唱えた『〇〇アプローチ』 『〇〇システム』という名称
「その人らしく」 「生きがい」 「心に寄り添って」などの
使い勝手の良い、耳触りの良い言葉を眺めて、
「福祉」を学んでいる、と思っていました。
そして、福祉の世界で頻繁に用いられている
「セーフティーネット」 「人権の尊重」
「最低限の生活の保障」 「生活の質」・・・
これらの「言葉」や「理念」や「考え方」が
勝手に困っている人を助けるのではないか
(そのような事は、物理的にあり得ないのですが)
これらの「言葉」があるから
何となく、人々の生活は守られているのではないか、
誰かが困った状態に陥っても
「公的なサービス」、「他機関との連携」、
「ワーカーの専門的な援助」などの言葉でどうにかなるのではないか、
という幻想を抱いていたのです。
なぜなら、これらの使い勝手の良い言葉をつなぎ合わせるだけで、
紙の上では簡単に、
問題解決にたどり着くことが出来たからです。
福祉はまるで、バーチャルなパズルゲームだったのです。
実際は「生活保護の制度」ひとつとっても、
その存在を知らない人、知る機会を奪われている人、
知っていてもあえて使わない人、使えない人、使いたくない人、
窓口まで行くことが出来ない人、行っても窓口で追い返される人、
貧困ビジネスに利用されている人・・・など
さまざまなケースがありますが、
パズルゲームでは、
「低所得者」+「ケースワーカー」+「公的なサービス」+「人権の尊重」・・・
とピースを組み合わせていけば、
「問題解決」が完成する仕組みになっているのです。
これらの「ピース」は、至る所に転がっています。
「地域包括ケア」 「プライバシー」 「家庭的な」
「リハビリ」 「小規模・多機能」 「地域密着」・・・
(※組み合わせ例:「家庭的」+「プライバシー」=「ユニットケア」)
これらの言葉はプラスでポジティブなイメージを周囲に与え、
実態を上手にカモフラージュする事ができる便利な言葉です。
しかし、これらの言葉がもたらしたものは
福祉関係者の「思考停止」に他ならないと私は思います。
「〇〇を導入したら、リハビリになりますよ。」
「家庭的なケアを提供します。」
「地域に密着した施設を目指します。」
・・・こんな事を言われたら、
「良いことをしているっぽいからそれでいいか」と
そこで考えることを止めてしまいたくなるのも分かります。
(何を目的としたリハビリなの?
本人はどこをどうして、どうなりたいの?
そもそも、リハビリって良くなること?元の状態に戻ること?
寝たきりの人には関係ないの?
高齢者は今日が一番元気なんだから、
そんな悠長なこと言ってていいの・・・?)
このような疑問の前には、
思考停止を引き起こす「言葉の壁」が
大きく立ちはだかっているのです。
抽象的で精神的で幻想的な「福祉」と
具体的で物理的で現実的な「生活」
この2つの違いには
学校の中だけではなかなか気がつくことが出来ませんでした。
個性的だった教授陣が引退し
今はそのような課外授業は行われていませんが、
福祉を学ぶ学生さんが
「人の生」を実感できる場があればいいのにな、と思います。