『笑う介護士』袖山卓也さんの講演の中で


「介護とは何なのか?」というお話がありました。




一般的に教科書で教える「介護」とは、


①入浴・食事・排泄介助+レクを行い



②利用者の方に”人間らしい生活”をして頂き



③その上で”いきいきとしたその人らしい人生”を生きてもらおう



という順番で捉えられることが多いです。




ですから、教科書通りに①入浴・食事・排泄・レクが最優先事項だ!


と考えられている介護現場では


①、②が出来てはじめて、職員の意識が③にいくようになっています。




そしてほとんどの現場は、


利用者さんの③これからの人生を考える余裕なんてあるわけなくて、


日々の①入浴・食事・・・をこなすだけで手一杯という状態です。




利用者さんが笑顔になれる趣味、


今したいこと、聴きたい曲、食べたいもの、行ってみたい所、


死ぬ前に会いたい人・・・


そんなことは二の次、三の次で


まずは体温チェック、トイレ誘導、食事介助、入浴、あぁ忙しい・・・なのです。




家族に代わって①をするのが「介護」の仕事なんだから


それで十分ではないか?と考える人もいるでしょうが、


袖山さんの主張は違います。




「確かに食事も入浴も排泄も、


生きていくためには欠かせない、大切な行為です。



でも、人間は入浴するために生きているのですか?


違うでしょう??


排泄するためだけに生きている人間なんて、いるんですか?




入浴や排泄をするためだけの人生ってどうなんでしょうか。


あなたは、食事、入浴、排泄だけの人生で満足なのですか?



栄養を与えて、体調を管理して、身体を清潔にして、・・・(要するに①)


それを行うだけが”介護”なんですか?


そんなの僕は、金魚にだってやってますよ。


餌をやって、身体の変化を観察して、水槽の水を取り替えて・・・



それだけが「介護」であるならば


「金魚の世話」と変わりないですよ。



金魚と人間の扱いが同じでいいんですか?!」



と、大体こんな感じの事を、


「笑う」要素は一切なしに熱く語っておられました。




「やじるしが逆なんですよ。


①⇒③ではなくて、③⇒①なんです。



①入浴・食事・排泄介助+レクの上に


③いきいきとしたその人らしい人生があるのではなくて、



まずその人の③生きたい人生があって


その人生を生きるために、


人は①の行為を行っているのです。




そして、その「生きたい人生」をサポートするために


腕になったり、足になったり、知恵を出したりするのが


介護士の仕事
なんですよ!!




だから、トイレも食事もお風呂ももちろん大切だけど、


利用者の方に、行きたい所はどこですか?


会いたい人はいませんか?って


気にかけて話しかけてくださいよ!」




なるほど、袖山先生が理想とする「介護職」とは


利用者の方の人生に彩りを添える


「最期の人生プランナー」のような立ち位置なのですね。



①のケアの技術が完璧だとしても


③利用者の人生を満足させないと介護士とはいえない!!といった感じでしょうか。




そうだとしたら介護職は


毎日の①食事、入浴、排泄・・・といった身体のケアだけでなく、


利用者ひとりひとりの今までの歴史を一緒に振り返り、


思い出の地を一緒に訪ね歩き、


介護が必要となった今の苦しみを理解できるように努め、辛さに共感し、


夜間不安や寂しさを訴える利用者とは添い寝をし、


これからの人生をどうやってイキイキと過ごしていくかを話し合い、


毎月、毎週、多種多様なイベントを企画して


利用者の方に孤独感、絶望感、閉塞感を感じさせないように


ワクワクや感動、ときめきをたくさん与えられるように


かつ、自己肯定感、自己受容感を高められるように


細心の注意と配慮をもって心のケアにあたる、といった事を


しなければいけないことになります。




介護だけでなく、カウンセラーや旅行代理店の機能も


兼ね備えろということでしょうか。




こんなにあれもこれも出来ていないにしても


「①の介護を提供しているだけでは人間らしい生活とは言えない」と


誰もが何となくは感じている
ようで、


日頃①の介護で手いっぱい、疲労感いっぱいの介護スタッフが


レクやお祭りや旅行の計画なんかを


仕事終わりに頑張って計画したりしていますよね。



(「いきがいづくり、脳への刺激、四季を感じてもらうため」


といったような思考停止ワードに煽られながら。)




しかしそれでは結局、心も身体も人生のケアも中途半端になってしまう。


いっそのこと介護職は①に専念して


他の「人生を楽しくする彩」は外注してしまう、というのはどうでしょう。




「このまま年を重ねて、身体が動かなくなる事が辛い…」


「今までの自分の人生ってなんだったんだろう…」


などと考えて気分がふさぎ込んでいる時は、


出張カウンセラーに話を聞いてもらえばいいのです。


これからの生活のこと、人生や生きがいについて


1対1の個室で、真剣に話を聞いてくれるでしょう。




介護スタッフが何カ月も残業して


やっと年に1回だけの旅行の計画を完成させるくらいなら、


高齢者の施設に旅行会社がツアーの売り込みに来ればいいのです。


「2泊3日の〇〇の旅はいかがでしょうか?


介護が必要?心配いりません。


わが社には介護付きツアー専門の介護士が配属されていますから」




「明日1日、お墓参りに行きたいから外出したい。」と要望があれば


デリバリー介護士が派遣されて付いていけばいいし、




デパートへの買い物だって、


週に1回くらい介護付きのバスが迎えに来て


利用者の方を乗せてお店にお連れしたらいいのです。


お店の各フロアに、介護士を配置していたら何の問題もありません。



そういった”サービス”が存在すれば、の話ですが。


 
いや、カウンセリングも旅行サービスも


確かに「存在」してはいるのですが、


”福祉・介護仕様”にカスタマイズされてはいないのです。




今のところ、デパートの洋服売り場の店員さんは、


足元がおぼつかなくて、トイレの場所をすぐ忘れてしまい、


拘縮があるため一人では試着ができない「お客様」に


洋服を売ることはできないのです。




福祉・介護の情報や技術は


福祉・介護の箱の中だけで大切に保管され、


制度上許された人に、特定の場所でのみ、提供されています。





「こっち側」にしか福祉・介護の知識や技術を持った人間がいないから、


その知識や技術を必要としている人には


「こっち側」に来てもらうしかないのです。



(なぜなら、その人が「あっち側」に居続けたら、


誰かから嫌な事を言われる、人と会うことや外出が嫌いになる、


身体を壊す、食べ物が食べられなくなる、


動けなくなる、他人を傷つけてしまう、


怪我をする、最悪の場合死んでしまう
等といった事があり得るからです。)



でも、もし「あっち側」の人達が、「こっち側」に関する知識や理解を


一般常識として当たり前に持つようになったら、


「あっち側仕様」のサービスに少しだけ


「こっち側」の人も利用できるような工夫を施してくれたら



人は住み慣れた家でずっと暮らせたり、老後の楽しみが増えたり、


偏見や非難の声で悲しむことが減ったりするのではないでしょうか。




とはいっても、年金世代や介護サービスを受けている高齢者が


「お金を使ってサービスを受ける、物を買う」といった経済(消費)活動を行うことは


特に福祉関係者から、タブー視されているような気がします。




(「年金暮らし」=「貧困」という関係が


必ずしも成り立つわけではないにも関わらず。)



お金を使うという概念がなくなってしまった場合は


また別の問題になりますが、


「最後までその人らしく」生きるためには


多少の「消費活動」も必要
なのではないでしょうか。




「利用者が介護を受ける権利」は平等にあるので、


介護保険事業所としてそこの部分は保証するべきです。



提供する「介護サービスの質」にこだわるのも、プロとして当然の事だと思います。



しかし介護保険事業所は、「介護・生活の質の保障」を越えて「人生の質」まで


「介護保険」という限りある財源の中で保障すべきなのでしょうか。



「介護保険サービス」は「要介護状態になったことによって失ったもの」を取り戻して


「今まで通りの普通の暮らし」を送るために使われるものであって、


それ(介護サービス)だけじゃ高齢者は楽しい晩年を過ごせないはず!と思う人は、


「あっち側」から高齢者に向けて、サービスを提供すればいいのだと思います。




親切心で守備範囲を広げすぎて、


「あなた達しか守れないのに!」という肝心なエリアが


手薄にならなければいいなぁと思います。