Q
という事は誰でも自分で健康を回復できると言うことでしょうか?
A
まさにその通りです。
ただしそのためには
「自分は神である無限の創造活動の1部を担う存在である。
全生命の責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ」
と宣言できる段階まで悟りができなくてはなりません。
Q
やはり病気は自分で治せるのでしょうか?
A
その病気を追い出してしまいなさい。
自分は絶対に病気にはならないのだと自分に言い聞かせるのです。
医者よ、汝自らを癒せよ。
この古い言葉をご存知でしょう(ルカ4.23)
治せるだけでなく現に直しております。
魂の優位を主張し、肉体と言う下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって、病気を追い払うのです。
身体を従者にするのです。
主人にしてはなりません。
誰にでもできることですが、大部分の人間は頭からできないものと思い込んでいます。
だからできないのです。
肉体は精神の従僕です。
精神は肉体に隷属しているのではありません。
肉体はつかの間の存在であり、精神は永遠の存在です。
肉体はいずれ朽ち果てます。
精神が宿っている間だけ現在の形体を維持している一時的な存在です。
それがその人ではありません。
その人の表現体であり、道具であり、地上で認識してもらうための手段です。
Q
動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか?
それともいずれは動物だけの世界へ行くのでしょうか?
A
どっちでも一概には言えません。中略、
動物界に住むのは飼い主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。
誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。
さもないと心を温めて温めてくれただけでなく、一時的にせよ不滅性の要素を吹き込んでくれた愛から切り離されて、動物といえども心取り乱すことがあるのです。
地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼い主より先に他界した場合は、その主人がで動物界へ行ってそこで面倒を見てもらえます。
それはちょうどあなた方が遠出をするときにペット専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです。
Q
霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか?
いつまでも人間と一緒ですか?
A
いいえその点が人間と違います。
人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。
地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とでは速度が違います。
より大きな光明は向けてら絶え間なく向上していく人間のペースについていけなくなる時が来ます。
人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言い換えれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。
そして魂に潜む能力を、他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。
そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについていけなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、
ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。
上は訳者近藤千雄さんの注釈より引用
「またモーゼスの霊訓にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたので、モーゼスがその理由を尋ねると、地上の用事とは別の用事があって留守にしていた、と言い、
霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために、他の多くの霊とともに一同、集結したのだと言う。
その時の通信の日付が10月12日となっている。
日本で10月のことを神無月と呼ぶことには「神の月」と「神がいなくなる月」の2つの説があるようであるが、私は両者がつまるところ同じことに帰すると思う。
古代の日本人はそれを直感していたのである。」62p
次は本文81pより
「シルバーバーチによるとイエスは年に1回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主催しているようである。
その時期にはこれからも2.3週間にわたって休暇となる。
時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある」
近藤さんの神在月の話は面白い。
10月の出雲に出かけてみたくなる。
二つ目の文章の続きには、
シルバーバーチはその集結の最大の感激はナザレのイエスにあえる事だと述べています。
私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔でできた教会には何の興味もありません。
何の魅力も感じません。
建造物にはまるで関心がないのです。
私が関心を向けるのは魂です
10代の頃、教会、聖書、キリスト教をほぼ毎日見て沢山の疑問投げかけてはがっかりし、
解決できずにいた頃、
素晴らしい細工、彫刻、ステンドグラスの教会の中で、
「神はこれを見て嬉しいと思うのか。
全く小さい奴だな
」
と、思っていました。
確かに、
建築物は美しいし、
グレゴリオ聖歌は
心癒されるので好きだけれど、
イエス、マリアなどは、
これら(過程の全て-人の顕示欲、争い、他の幾多のあらゆるエゴ-を見て)、
満足していたのか…と半ば軽蔑、落胆していました。
ですが、
大人になってシルバーバーチに出会い、読み、
やっぱりそうなのだ‼️
ととても安堵しました。
上に挙げた部分は真実はここにあったと思えた所の一つです
人に法を説くものが重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。
私は度々言っております
ーあなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。
一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者はまず、自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。
厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐え得るか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、
そんなことには無頓着に型にはまった教義を説いていれば、
その怠慢と無頓着さに対する代償を払わなければなりません。
永遠、不変の公正は決してごまかしが利きません。
私がいつも見ている通りの、摂理の働きをあなたにもぜひお見せして公正の天秤がいかに見事な釣り合いを保っているかをご覧に入れたいものです。
神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。
宗教的指導者が生前信者に対し間違った教えをしていたことにについて、動機が大切と言い、
シルバーバーチがコメントしています。
「魂がそう信じていたのならその必要はありません。
が、現実はそうでない人が多いのです。
名誉心と思い上がり所有欲と金銭欲が真理よりも優先している人が多いのです。
一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に飲み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛をし始めます。
そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとし始めるものです。」
組織の中に入ると、
新たな課題、エゴが生まれることがあるようですね。

