こんにちは。

 

今回は、既に聖書を読んで信じてる人が最期まで忍耐するにはどうあるべきか再確認していきます。忍耐の必要性については、真新しい内容ではありませんが、非常に重要な項目の一つだと考えています。

 

はじめに 

 

今回の題材を決めた経緯を申し上げます。現在、特に世界的なコロナ偽騒動と「感染対策」を建前にした犯罪が阻止されることなく、この世の様相は悪化の一途を辿っています。世の動向を追いつつ正しい聖書理解を得られれば、現在が終末時代、すなわちそう遠くないうちに現世が終わり、現世での行いに応じて後の永遠の運命が決まろうとしてる時代だと知ることができます。聖書は決して宗教なんかではありません。聖書には具体的に「○年の○月○日に~が起こる」といった記述はありませんが、「ノストラダムスの大予言」をはじめとする人間の勝手な予言が外れる中、聖書預言で過去から実現しなかったものは無いです。将来もすべて実現されるでしょう。終末の兆候を把握し、冷静を保って適切な行動をしようとするなら、聖書を自分でも研究して熟考したり、世の動きを追ったりすることが必要となります。その中で、「聖書の終末預言 一 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」をはじめとするミカエル氏による最近の連載に書かれた、福音書にある主イエス・キリストの終末預言の考察がとても参考になりました。自らもっと調べて理解を深めようというきっかけになりました。以下、例として、その内容を一つだけ取り上げて画像化したものを掲載いたします。

このように、信用できる情報が載った外部サイトから引用しつつ、預言の内容に何が具体的に当てはまるのか、我々がどう行動すべきか、何に警戒すべきか明確に示されてます。更に、原語からの緻密な分析もなされ、他の媒体では触れられないであろう視点も多数あります。

聖書の内容を知ってる人であればご存知のとおり、主イエス・キリストによる終末預言には、「最期まで耐え忍んだ、その者は救われる」(マタイ十章二十二節、二十四章十三節、マルコ十三章十三節参照)という内容の言葉があります。生涯のうちに、一時的に苦難を乗り越えるだけでは何も意味が無く、この世での肉体の死を迎える時まで忍耐し続けることが肝心です。主イエス(神)への信仰故にあらゆる苦難にも忍耐し続けること、忍耐するために何を心掛けるのが非常に重要か、改めて確認して将来への備えに役立てたいと考えました。

 

 

「忍耐」の意味と必要性 

 

まず、日本語で「忍耐(耐え忍ぶこと)」という言葉の意味を簡潔に述べると、「(苦難や辛さ等を)じっと我慢すること、こらえること」です。どんな時代や環境下に居ようとも、この世で生きる中で何かしらの苦しいことや辛いことは避けられません。忍耐力についてネットで検索してみると、例えばこちら(はかどるタイム)から、忍耐力は日常生活の様々な点で必要であり、忍耐できない人だとちょっとでも嫌なことや上手くいかないことがあれば逃げてしまうと分かります。確かに、嫌だからってすぐに逃げたり諦めたりしてては、何も実現することはできないし、他人から間違いなく信用されないですね。

※ただし、刑法百八十五条の賭博罪を平気で犯す遊技アプリの運営会社(参照:キリスト者の成長に必要なこと | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))、従業員から搾取したりと従業員の人権を軽視して侵害する各企業(参照:日本人の問題点 二憲法の人権意識を強く持ち、神の秩序を守れ〔いずれも「真の聖書福音と預言」より〕)の実態があり、倫理観も遵法精神も著しく欠如した人らによる違憲行為、違法行為、何より神への律法に違反するような苦痛には耐える必要は無く、早急に然るべき対処をした方が良いです。

このように、忍耐することは、我々人間が生きる上で様々な場面で必要だと言えます。しかし、単純に「耐え忍ぶ」「忍耐する」と言うと、受動的な姿勢で嫌々我慢して耐えるみたいな意味合いが含まれるかもしれません。こちら(doda)には、就職や転職の採用で、応募者の「忍耐力」を求める企業(もっとも、会社の言いなりで使いやすい駒、無茶ぶりにも耐えてくれるような人材を求める所も少なくないと考えられる)は一定数存在し、自己宣伝をする際にこれを長所として述べるとしても、主体的でない等と印象付けないように工夫が要るという旨があります。確かに、忍耐できない人に限らず、いくら忍耐力はあっても嫌々物事に取り組む人に良い印象は無いと思います。単純に我慢強いから相応しいわけではないのは、日々の信仰生活においても同様です。聖書では忍耐できる人の性質についてどのように言われてるでしょうか。マタイ二十四章十三節の他に、福音書の終末預言にて言及されてる「耐え忍ぶ」「耐える」を意味する原語「ὑπομένω」には、原義としては「~の下にとどまる」で、定義として「不屈の精神を持つ」という意味も含まれています。同様に主イエス・キリストの御言葉である、ヨハネによる福音書五章三十八節での「御父(なる神)の御言葉をあんた方のうちにとどめてない」、および同書六章五十六節の「我が内にとどまる」の両者に共通する動詞「とどまる」は、「耐え忍ぶ」を意味する原語「ὑπομένω」の派生元の動詞です。なので、「耐え忍ぶ」ことができる人の前提として、主イエス・キリスト(神)を信じ、神の御言葉を自分の血肉のごとく心に留め、信仰故に神の律法、掟、戒めを守りつつ、慈愛から自発的に福音伝道や周知活動や施しといった善行にも励む姿勢で、キリストの内にある状態であると言えます。決して、独善的でも、義務感で仕方なくという姿勢でもありません。このような信仰による行いによって、如何なる苦難にも忍耐できる不屈の精神を持つまでに成長していけるのでしょう。

「耐え忍ぶ」を意味する動詞やその派生語の名詞が使われている聖句から、忍耐することについてどう言及されてるかを見ていきます。まず、ルカ八章十一節~十五節の「種を蒔く人」のたとえの説明の部分です。その中で、「良好な土地で種から立派に実を結ぶ」者と比喩される神の民の条件の一つに「忍耐」が挙げられてます。反対に、忍耐力が無いと、いくら聖書を読んで受け入れても、苦難や誘惑に遭うと簡単に脱落してしまうと分かります。主イエスによる「種を蒔く人のたとえ」とその説明は、マタイとマルコにも載っており、それらとは違ってルカには人それぞれによって結ぶ実(成果)の規模が異なる旨は書かれてないものの、忍耐について触れられてるのはルカ八章十五節の部分のみです。各福音書によって記述が異なる部分は、それぞれ見比べて総合的に考えるべきだと理解してます。更に、信仰に関する自らの試練が忍耐をもたらす結果となること(ヤコブの手紙一章三節参照)、神と同じように「完全な者」(マタイ五章四十八節参照)になるためには忍耐が不可欠であること(ヤコブの手紙一章四節参照)が書かれてます。使徒ペトロによる書簡には、「僕たちは、善良で公正のみならず偏屈な主人にもすべての敬意を持って従わされてる。もし神の意識によって、ある人が不当に苦しんで苦痛を耐えるなら、それはほんまに好意や。もし罪を犯し、叩かれて耐えようとも、何の栄誉になるやろか。しかし、もし善を行って苦しみ、耐えるなら、それは神からの好意や。」(ペトロの手紙一 二章十八節~二十節〔引用元:日本人の問題点 二 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)〕)ともあります。悪行をして神の律法に違反した故に不幸な目に遭ったりしても自業自得であり、聖書を悪用して虚偽を吹聴する偽預言者やパウロ狂信者らがその悪事のために叩かれるのも同様です。一方、神への信仰によって、主イエス・キリストの御名故に苦難に遭うことは幸いであること、同様の内容は福音書はじめ多くの箇所から分かります。正直なところ、正しい行いの人が不当に苦しむなんて、個人的に最初は腑に落ちませんでした。「確かに世の中不平等で、理不尽なことも多い。けれども、何であれ普通なら善いことをすれば、正義を行えば、色々な人から喜ばれて褒められて然るべきなのに。」という思いがありました。そんなわしが抱いてた疑問を解消した経緯は、次のとおりです。まず、世の支配者は極悪人であり、人間の性質は生まれながらに悪で、反キリストだらけの世の中であることを理解しました。正義を愛するかと思いきや、世の実態でさえ「陰謀論だー(笑)」等と貶し、耳触りの悪い真実を嫌う偽り者ばかり…。そして、以下の説明のとおりです。

サタンは一人でも多くの人間を地獄に道連れにしようと必死です。しかし、神はこれをご存知でこれを利用し、御自分がお選びになっていないにわかクリスチャンたちを偽りの教えや目に見える奇跡等に心を奪わせるままにすることでふるい落とす一方、神は御自分がお選びになった民には正しい聖書の知識を学ばせ、必要な試練や鍛錬をお与えになり成長させます。

(引用元:偽りの霊による働きへの警告 前編 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

この前提に従い、極悪人どもが悪事を働く根本的な原因が把握でき、世の悪にどう抵抗すべきかの道筋が見えてきました。次に、自分を振り返る度に自分の落ち度が分かり、模範である主イエスの品性との落差を感じるのですが、だからこそ尚更成長のための試練等が必要だと学べました。苦しみに遭うことで他人の痛みも分かってくるように感じましたし、聖書の内容に従う故の軋轢が生じても「邪悪な世俗社会と距離を置きつつある」という証拠だと励みを受けました。それから、次第に神への信頼が増していきました。

このような事実と学びのお陰で、「忍耐する人は幸いである」(ヤコブの手紙一章十二節、五章十一節ほか参照)と複数の箇所で言及されてる意味を知りました。その中で、このヤコブの手紙五章十一節には、ヨブの忍耐について言及されてます。つまり、創造主なる神に従い通した義人たちは最期まで忍耐したのが事実です。一時的ではなく、「最期まで」が肝心です。ヨブだけでなく、ノアは頑迷な大衆のために長期間弛まず伝道を続け、ヤコブ(イスラエル)は伯父ラバンの仕打ちに耐え続け、モーセは頑ななイスラエルの民にも忍耐して神の御意志に従い、ダビデ王は主なる神に依拠して初代王サウルからの迫害に屈さず、各預言者は耳触りの良いだけの偽預言を好む民衆にも負けずに神からの託宣を伝え続けました。使徒ペトロたち十二使徒は、大衆から迫害を受けても耐え、神に従う姿勢を一切曲げませんでした。何より、「信仰の創始者で完成者イエスについて見つめながら。その御方は、御自身に定められた喜びのため、恥ずべき行為を嫌悪して、十字架を耐えた。そして神の王座の右側にお座りになった。」(ヘブライ人への手紙十二章二節 拙訳)とあるとおり、主イエス・キリスト御自身が、神でありながら人間の立場にまでへりくだり、生涯一切罪を犯さなかったにも拘らず、神の御計画のとおりに人間のため十字架の贖いをも厭わず実現なさり、全人類の模範となられました。それ以前にも、神は御自身の忍耐強い性質を表してくださってました。「主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深くて恵み深く、忍耐強く(怒るのに遅く)、優しさとまことの満ちた神、~』」(出エジプト記三十四章六節 拙訳)のように神自ら宣言され、仰るとおり、エジプト脱出以降ずっと律法違反を重ねてきたイスラエルの民を完全には見捨てませんでした(ネヘミヤ記九章十七節参照)。現在でも、日本に四割程度存在する血統イスラエル人のことを忘れてはおられません。そして、神によって選ばれた人々が皆悔い改めて神に立ち返るように忍耐してくださっています。「忍耐強い」「辛抱強い」を意味する原語「אֶרֶךְ」の定義には、怒るのに遅い、すなわち気が長いという意味も含まれます。人間が不要物をすぐに処分したり、役に立たん人を解雇したりするのと同様に、本来なら創造主である神が御自身に逆らう(神にとって役に立たない)者を全て即座に処分しても不思議ではありません。神は不信仰をお赦しにならないからです。神は義であり、逆らった者には相応の報いを即座に下して他者への教訓にさせることはあったものの、聖書全体を読むと神の忍耐強い性質が実によく分ると思います。神が忍耐強い御方であるからこそ、神に従って神に近い品性を目指す人間も忍耐強くなっていく、苦難にも耐えながら成長して神に近づくことができると考えてます。人類がこの世で生きてる間に罪を犯してもすぐには裁かれないからとて、罪の報酬である第二の死、すなわち地獄行きを免れるわけではなく、主イエス・キリストによる罪の御赦しの働きは決して無限ではありません。世の終末の時代で、大艱難も近付いてる現在、罪の赦しの恩恵も間もなく終わろうとしてます。悪魔を崇拝し、莫大な富と権力を得てこの世でやりたい放題する極悪人が支配する世俗社会の欺瞞を全部捨て去り、罪を全部悔い改め、生き方を改め、聖書を学べる猶予は残り少なく、行動を改めるなら今すぐです。人間の性質は一朝一夕で変わるものではなく、日々の自己検証と改善に向けた行動(根底に信仰)の積み重ねでやっと少しずつ変化が現れるからです。こちらの経験からも間違いなくそうだと言えます。

 

 

獣の刻印を最期まで受けずに済むのは忍耐できる人 

 

ここまで、信仰においても忍耐が必要であると確認ができたでしょうか。福音書にある主イエス・キリストによる終末への警告の内容だけでも、世の中全体が非常に深刻な事態になることが想像できますが、神が人間のために忍耐してくださってること、過去の義人たちがあるべき姿勢を示したことを常に心に留めておけば心強いです。終末の様相が分かるのは、福音書での預言だけでなく、ヨハネの黙示録もそうですし、ダニエル書等の旧約時代に書かれた各預言書も無視できません。特に黙示録では、福音書での主イエス・キリストの御言葉と一貫し、キリスト信仰者の「忍耐」について触れられています。黙示録と言えば、特に黙示録十三章~十四章にて警告された「獣の刻印」関連を思い浮かべる人がおそらく多いと思います。コロナワクチンやワクチンパスポートが話題になってから、「獣の刻印」が具体的に何であるか予想する投稿をネット上で見かける機会が増えました。ワクチンといった具体的な物体こそがそうだと、聖書のほんの一部だけ切り取って勝手に予想するのが大多数であり、残念ながらいずれも本質を無視しています。そもそも「獣」は何を象徴するのか、「刻印」の本質が何なのか、悪魔や悪魔崇拝者の狙いが何か、神の御心は何か等を聖書全体から学ばずに聖書預言を解釈するのはあまりに無鉄砲です。ただ、自分だけで聖書を解釈するのは非常に難しいので、「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」や「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」(いずれも「真の聖書福音と預言」より)から、「獣」の正体や「刻印」の本質を知って世間での誤解を捨てて、聖書預言を読み解いて今後に備えるきっかけとするのを勧めます。「獣」についても、正当な根拠も無くトランプだとか過去の歴史上の人物だ等と言ってる人らとは比較ならん程、聖書からの正当な根拠と論理に基づいて説明されています。

今回の記事の主題に関連して、特に注目すべきなのが、獣の刻印を最期まで回避できるのはどんな人か、ということです。結論を言えば、主イエス・キリストへの揺るぎない信仰を持ち、いつでも神の掟を忠実に守り続け、確かな忍耐力を備えた人です(黙示録十三章十節、十四章十二節参照)。自称無神論者でも、パウロ狂信者でも、その他の異教徒でもありません。現在のところ、支那で実用化されてる信用得点(スコア)制度が全世界に普及して支配層に不服従のまともな人間が売買すらできなくなる可能性は大いにあります。四、五年前ですが、日本人が広く使ってる間諜アプリのLINEが「LINE Score」と題して信用得点制度を導入し、監視管理社会への地ならしを行ってます。最近でも、LINEで約四十万件もの個人情報が流出した事件があったし(以下の画像)、民衆が支配層の意向に沿う悪徳企業を利用しないで淘汰させる必要があります。

 

画像引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/8fbbbe3b876c980432a1ce5421bbbf31c9c46b68

 

以前から監視カメラの増加だけでなく、こちら(MD NEXT)をはじめ企業が顔認証の実証実験を進めており、こちら(@IT)から分かるように、世界中で公的機関、金融機関、空港、職場、学校、交通機関等と広く顔認証は使われています。科学技術に魅了される人は少なくないでしょうし、多くの人はそれらが極悪人どもによって監視管理とかに使われるとは夢にも思わず、支配層が構築を目指す超共産主義の監視管理社会を警告する声も無視し、最後は取り返しのつかない事態になるのでしょう。

獣の刻印を受けない者は売買すらできない程の過酷な世の状況が想定されるように、ダニエル書十二章一節でも言われてる、これまでも今後も決して無いような苦難があり、主なる神が縮めてくださらねば誰も救われない程の状況になれば、世の終わり(キリストの再臨)はかなり近い頃だと考えられます(マタイ二十四章二十二節、マルコ十三章二十節参照)。その時、神への信仰、神の律法や掟を守り続ける者であれば、聖書預言通りに忍耐し続けられるに違いありません。

 

 

あらゆる苦難にも耐えられるようになる理由とは 

 

極めて大きな苦難にも耐えられるのは、他の何よりも一番に神を心から愛するが故です。例えるなら、こちら(マイナビニュース)のように、有名な運動競技選手たちが印象深い言葉を残すようになるよりも前に、苦しい練習を積み重ねられたのも、根本的には彼らが自分の競技を心から好きだったからではないでしょうか。運動競技に限らず色んな趣味でも、上手くいかん場合でもすぐに投げ出さないのは、対象への「好き」という思いがあるからだと考えられます。以前、母親とこんな話をしたのを思い出しました。わしは「毎日が元気いっぱいで過ごせるわけじゃないのに、仕事しながら朝早く起きて弁当や朝食を用意してくれて、掃除や洗濯等の家事を毎日して、夕食もたくさんのおかずを用意してくれること、今思えば本当にありがたい。けど、とても面倒な日だってあると思う。」みたいなことを言いました。母親は、「仮に一人暮らしだったらここまでできないと思うよ。大事な家族の皆が頑張ってるから(自分も頑張れる)。」と言いました。「好き」とか愛の力は大きいのだなと改めて感じます。しかも、神は万物の創造主であり、神の秩序が善悪の基準であり、人間に比べれば遥かに高い能力と知恵を備える悪魔でさえも神の御前では全くの無力です。神の律法、掟、戒めにおかしな内容は無いし、人間みたいに裏切ったり気が変わったりもせず、何よりも計り知れない人間への慈愛を示してくださいました。だから、主なる神に信頼を置けるのであり、その御恩に報おうとせずには居られません。世や世にあるものや特定の人間(ロシアのプーチン大統領や米国のトランプ氏とかにも期待を寄せてる人が見られるが、彼らは支配層側)に依拠するのをやめ、聖書を読んで死者の復活や後の世といった希望を見出だし、人間として為すべき行動を取ってください。そうすれば、どんなに凄惨な世相になろうとも、絶望せず、耐え忍ぶことができるに違いありません。

 

 

正しい行いをしなくなった王たちからの教訓 

 

上述したように、聖書上で義人は最期まであらゆる苦難や試練にも耐えて神に従順であり続けました。一方で、最期まで従順ではなく、途中で道を逸れて堕落した例もあります。前回まで幾つかの記事で、サウル、ダビデ、ソロモンにはじまり、古代イスラエルおよびユダの王からの教訓や学びを主題に書いてました。前回まであまり触れませんでしたが、今回は南ユダ王国の王のうち途中までしか神に従い通せなかった人物について、どうして信仰が続かなかったのか、彼らがどうしてたら続いてたと思われるか、分かる範囲で考察することにしました(歴代誌下二十四章~二十六章を参照)。

ソロモンの次に王となったレハブアムから数えて八番目の王ヨアシュは、指導者の役割を果たした祭司ヨヤダの死後に、主なる神への信仰を捨てて偶像を崇拝しました。その次の王アマツヤは、エドム人の討伐から帰った後に異教崇拝に陥りました。そのまた次のウジヤは、勢力を増すとともに高慢になり、神への恩を忘れ去り、堕落して神に背きました。ヨアシュは祭司ヨヤダの死後、周囲の堕落した者たちに誘惑されて偶像崇拝に陥ったと考えられ、アマツヤには異教の慣習が魅力的に映ったのかもしれません。アマツヤは心から正しいことを行ったわけではなかったのも致命的です。ウジヤは神ではなく目に見える自分の勢力に意識が傾いたのだと考えられます。しかも彼らは、そばにいた祭司や預言者の言葉に激しく反抗しました。たとえ過ちを犯しても、自分を客観視し、祭司や預言者の正しい叱責に聞き従っていれば、彼らの運命はずっと良い可能性もあったのに。自分こそ正しいと思ったりする高慢さといった悪意、目に見えるものに魅了される弱さは、人間を忍耐から遠ざける危険性が高いです。自身の肉の思いや欲に従うとますます短気になり、気の短さが愚かさを高めてしまう(箴言十四章二十九節参照)とも言われています。罪(律法違反)を犯す原因となる自身の内面をも根本的に改めるための絶え間ない努力が必要だと教訓を得られます。絶え間ない努力や改善も、自発的な忍耐のうちですね。

 

 

最後に、忍耐力等を養う以前に、キリスト者として励む中で様々な葛藤や苦しい思いもあります。自分も、何度も失敗を重ねてしまいましたが、その度に立ち直りまた頑張ろうと思えてきたのは、信仰の兄弟方との交流があったからです。主イエスが掟として信仰の兄弟で交流し愛し合うことを命じた意義が身に沁みます。かといって、生温い者同士で集まっても、得られるものは何も無く、傷の舐め合いのようになるだけです。そこで、「真の聖書福音と預言」を運営するミカエル氏が監督する「神のイスラエル教会」を勧めます。ミカエル氏のように、他者のため、主なる神に認められるキリスト者となるための指導や叱咤激励をする人は居ないからです。キリスト者として自発的に何をすべきか考えながら実行し、定期的に有益な情報交換や励まし合い、高め合いができる環境は他に無いと思うからです。悩んで一歩も踏み出さないでは、時間を浪費してしまいます。ご希望の方は、要項をよく確認し、前向きにご検討ください。もし、不安な点やご不明な点等がございましたら、可能な限り親身にお答えしますので、お気軽に投稿(コメント)してください。

多数派は悪魔崇拝者の支配層がでっち上げた欺瞞を盲信するのをやめず世相は悪化の一途を辿るばかり。そんな中でも、今回の記事で、忍耐に関して認知し、最期まで主イエス・キリストに依拠して歩んで悪に抵抗する後押しとなれば幸いです。

最後までご覧いただきありがとうございました。