少し投稿がご無沙汰になりました

話の続きは東京の修行から岐阜へ帰ってきたところからでした

 その前に気づきというか

 私は人生が終わった・・・どん底だ・・・と思う体験をした人間ではあります

落ちぶれたとかも感じました、またアカンことですが「お前は終わった」という幻聴が聞こえたりもしました

様々な方々に迷惑をかけてしまったという自責の念から吐くことが不定期にありました

 

 しかし、私は思いました「俺は落ちぶれたのか?」その自問自答の答えについて

まわりの状況、環境が変化したのだ、つまり社長じゃなくなった、家がなくなり貯金がなくなり車がなくなり廻りに人がいなくなっだだけだ・・・・・俺は俺だ何も変化していない、でもこの環境に腐ったり潰されたりしたらダメだ、強く自分を保ち向上心を持って生きていかなければ!

そう思ったのです

多くの私と同じ体験をした人たちが自分を責め世間を恨んで酒におぼれたり、やる気をなくして本当にダメになってしまう

悲しいことです

生きている限り希望があります!私は同じような経験をした人たちを励ましたいと思っています。

 

 さて、岐阜に戻ってから・・・・また次回ですね。  では

 さて、3年経ちましたもパート④まできました

 

なぜか忘備録のようになっていますが、前の会社が倒産したあと、倒産は令和元年の8月末だったのですが、その直後に創業者である父が入院して、その年の12月1日に亡くなりました

 不思議なもので会社が無くなって父の枕元に沢山居ることが出来ました、父は意識も虚ろでまともな会話はできませんでしたが

間際の父と一緒にいられたのは幸せでした

最後が近くなると昏睡状態が多くなりました(ああ、、もうアカンのか?)という瞬間が何回もありましたがオヤジは驚異的な生命力で何度も戻ってきました

不謹慎ですが私は臨死体験に興味があったので「オヤジ、川みた?三途の川」と聞きましたが「見とらん・・」と答えました

なんか私も面白くって笑ってしまいました

あまり分かり合えない親子でしたが私はオヤジを尊敬していたし大好きでした、そんなオヤジの出身地であった岐阜県七宗町から」命名された前の会社である八創建設を不詳の息子の私は倒産させてしまいました・・・・ですがもう一度立ち上がるのなら

8の字をもらおう! 七転び八起きの精神で、もう一度、魂コガシテ!生まれ変わろう、という思いで会社名を

 

  8Bornにしました

 

 岐阜にもどって事務所も借りて仕事が始まりました、車が必要なので写真の軽バンを買いましたボロボロですエアコンも効かない、20万円でした、でもなぜかよく故障するこの車がカワイイのでBorn号(ボーン号)と呼んでいました。

 

 まだ仕事も無い状態でしたが未来があって夢があるって楽しいと思っていた令和3年の秋の頃でした。

また続けます。

 

 さて、ついにサラリーマン不適合の私も独立しました。

 

 そして、私が独立した仕事は遺品整理・・・しかしわからない・・・仕事がわからない・・・私

 修行の旅にでました!東京に!田舎者(岐阜)は東京に行きたがる、実は東京で生活することに憧れていたのです

ずっと若いころから、57歳で夢が叶った俺! 5月の連休明けから3か月(盆まで)世田谷区のウィークリーアパート

ウキウキした気持ちで遺品整理の修行がはじまりました

 

 しかし、そんなうわついた幻想はすぐに崩れさりました

 そもそも私は苦手なのです、片付けとか積み込みとか、そもそも作業が不得意なのです

ほぼ朝から作業です・・・57歳には過酷な状況です!

しかし、これは私が悪いのです、スキルがないのです「あなたは今まで研修に来た人の中で最低です」と真顔で言われてしまいました・・・それは発奮を促すための言葉では無く本当にそう思ったのでしょう・・・・ウグググ

次第に時が過ぎ5月が6月になるころ以上な酷暑がやってきました、基本的に締め切って空調無しの作業でしたので異常な暑さでした、温室の中で作業していたら意識が薄くなったこともありました、夜に熱中症か?足がツリまくりました

しかし特殊清掃も経験できたし(亡くなられた方の部屋片付け)ゴミ屋敷の片付けも出来たし墓清掃とか色んなケースの経験をさせてもらえたのです

 仕事仲間と学生時代みたいに酒を飲んだし(3回くらい意識が不確かになりました)

 仕事が休みの日には東京で昼飲みとかできたし有意義で楽しい東京研修でした、美味しいものも沢山ご馳走になったし

得るものが多い思い出深い修行になりました。

 

 疲労困憊でお盆前の8月に岐阜の帰ってきました。

 

 続きます。

 

 次回からの続きで 会社をはじめて3年たっての2回目です

その1で少し書き足らなかったので、前の会社が倒産した後の話を少し書かせていただきます

会社が倒産して代表者だった私は破産することになりました

破産とはすべての財産を失うことです

家も貯金も車も全部なくなりました・・・当然です

なんか『あいつは上手いこと隠した』って言う人がいましたが、本当に全部なくしました・・・

住むとこが無いので親切な先輩から実費でアパートを貸してもらいました

家賃28,000円の4階建ての4階(エレベーター無し)風呂は故障、エアコンは不動、ムカデ付きの物件でした、車もないので借りた原付のりました、しばらくそこで暮らしました(風呂は近くの銭湯です)

本当に苦しみましたが、よくTVにある感じの酒を飲むすさんだ生活ではありませんでした、タバコもやめました

なんというか「退廃したらダメになる!」って思ったのです、気が小さいのです、むしろ近所の川沿いの道を毎朝ランニングしました、それは良かったかなと思いました。

が、癒えることの無い心の傷を負った私でありました・・・・

まだ書くことなど沢山ありますが不幸自慢みたいになってはいけないし、世間に多大な迷惑をかけた訳なので

すみません、この程度にします。

次回につづきます。

 

 弊社(8Born)もこの5月で3年が経過いたしました

法務局に届けた日が令和4年5月6日で 「4 5 6でなんかいいな~」って思ってました

会社を設立した訳ですが、実はそんなにカッコよいものではありませんでした

 

お恥ずかしい話で、令和元年の夏に経営していた会社が倒産しました、世間様に多大なご迷惑をおかけしました

自分自身もフラフラになりました(この時の話はいずれ書きます)文字通り無一文になり住むとこも無くなり、しかし家族がいるので働かなければ生きていけないので仕事を探してハローワークに行きました、そこで紹介していただいた会社で令和2年の3月から働かせていただきました、建築営業の仕事でとても良い会社だったのですが、ちょうど新型コロナが蔓延した頃でした

訪問営業が主体でしたので・・・(タイミング悪かったです)それでも頑張って営業したのですが上手くいかなかったです

もう少し!って思う案件もあったのですが・・・・結果として上手くいきませんでした 

退職しました(少し心を病んでいたみたいです)

 

その後令和3年にまた就職しました詳しくは書きたくないのですが、良い人ばかりで良い会社でした、しかしなんというのか向いてないのです、さすがに気づきました『私は人に使われるのが下手だ!」いや使うのが上手という訳ではないですが・・・・

サラリーマン不適格なのです!

 

 そんな上手くいかない私を見かねて30年近の付き合いの先輩が「わかったやろ?向いてないんやてお前は、そんで遺品整理やってみんか?」と言ってもらえました

 

                    遺品整理・・・・・

 

 亡くなった方の残した品物を遺族の方に代わって片づける

 

 ああ、これだな私にふさわしい仕事だ!世のために働ける!やり直そう!最後のチャレンジに挑もう!

そう思った令和4年の春でありました。

次回へ続きます。

 

 

 清流ハーフマラソンから5日経過して筋肉痛もやわらいできました。

なんというか筋肉痛が結構好きなんですよ私・・・・っていうとなんか変ですけど

頑張った証というか、まあそんな感じで好きなんですよ

もう全開で仕事できてます!

 

 さて60歳になって同世代の人たちが走らなくなる中でなぜ私が走り続けるのか?

 

それには明確な理由があるのです、それは私の持病の「糖尿病」

これは血中の糖度が高くなっている状態をいう病気です

この糖度の高い血液が血管を流れることで血管が悪化して心臓や脳や目などに重篤な状態を招く合併症(脳梗塞、心筋梗塞など)

を発症するリスクが高まるのです。

そりゃあ砂糖まみれの液体が流れれば血管も痛みます。

 

 で、せめて血圧を正常に保つために心拍数を上げる有酸素運動は効果的なのです、私のまわりの糖尿仲間も血圧まで高い人は確率高く合併症を発症しています。

自慢ではないのですが私は血圧は120-80ぐらいで正常です

これはマラソンの効能だと思います

 

皆さんもマラソンしてみてはいかがですか?

 

 令和7年4月27日は高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソンが開催され、私も出場させていただきました

本大会は今年で14回目を数えるのです、途中コロナや私の個人的な事情もあり2020年2021年2022年と欠場しましたが

あとは全大会に出場している。 都合11回出ているのです。

 今回の結果は完走したもののタイム的には2時間15分ぐらい(最近はタイムの書いた完走賞がもらえないので自分の時計のタイムです)一番速いタイムは1時間40分ぐらいだったので35分ぐらい遅くなった感じです

 とはいうものの全く練習しなかった訳でもなく例年なみには練習したので・・・・。なんだ? つまり老化か?

若い時は朝方まで酒飲んで走っても2時間を超えることはなかった・・・のに・・・のにだ

 

 今回も号砲一発!走り出してしばらく6KMぐらいまでは5分30秒/Km と良いペースを刻んだのだが それ以降は足がついていかずペースダウン↓ 当初の目標2時間切りを早々に諦める事になりました。

 

 でも完走できたし、道中に懐かしい人に沢山会えてうれしかったし、楽しかったです。

来年はもっと練習して2時間切りにチャレンジするぞ!

 

 

 

 

 実に久しぶりの投稿になります

忙しかった・・・なんて言い訳はしません

まあサボっていただけです

元気ですし、会社ももうすぐ3年です

気持ちを入れなおして『社長のブログ』を上げていかなければ、と決意も新たに反省している次第であります。

 

 さて、先日、少し重い現場のお仕事をさせていただきました

プライバシーもあるので詳しくは書けませんが、まだ若い方の遺品整理についてです

単身の方で市営住宅にお住まいのかたです。

部屋は結構な汚れかたで生ごみ(コンビニ弁当や飲みかけのジュースやカップラーメンなど)が散乱しておりました

多分、糖尿病だったみたいで注射や薬もゴミと一一緒の状態で放置されていました(やっぱり食生活は大事です)

娘さんもいるみたいで、可愛らいし写真や保育所か幼稚園だ作成した絵が飾ってありました

またCDなんかから『こんな音楽聴いてたんだ』とかわかります。

同行いただいたご親族の悲しみもヒシヒシと感じます・・・・

 

こういう現場を訪ねると、その最中から現場を離れてしばらくドンヨリしてしまいます。

霊的なものか?確かに私はオカルト関係の友達がいるのでその影響か?そう結論づけてしまいがちですが

違うと思いました

 

現場にいて親さんやお兄さんから亡くなられた本人さんのお話を聞く、また同時に遺品を確認していると本人さんへの理解が深まっていくのです、それは共感に発展していきます、さらに悲しみと共に『同化』に近い状態になります

自慢じゃないのですが共感力は強いです

そんな風に感じるので『同化』状態が私を『ドンヨリ』させてしまうのでしょう

なので本件は『憑依』ではありません。

 

でも気持ちを込めてお片付けをしていく内に次第に気持ちが晴れていきます。

私たち遺品整理の仕事を行うものに出来る供養はまさにこれだ!と確信しています

これからもこの気持ちを忘れずに誇りを持って『遺品整理』という仕事をしていきたいです。

 

 随分とご無沙汰となってしまった社長のブログだが・・・年始一発目を悪びれずに書こう!

 テーマは『偉くなるって』である。

 

 文春なるゴシップ誌は8年も前のダウンタウン松本氏のスキャンダルを同誌に掲載した、その結果、真偽はさだかではないが、松本氏は窮地に立たされており吉本興業も同様である。(昨年のジャニーズ事務所に続いてTV業界にとって大きな存在がはからずともピンチである)

 

 私は松本氏の一歳下なので同世代であるので共感する部分は多いのだ・・私の話もかぶせながら書こう

 

 彼は兵庫県尼崎で生まれ育った、貧しい家で暗い内向きな子どもだったがお笑いと出会って変わっていったという・・・私もそうだ、外で遊ぶより家で本を読んだり空想にふけったりするのが楽しい子どもだった・・・・だから理解できる、その方が頭の中が育つのだ!松本の天才はそのようにして育まれたのだと。

 

 少年時代に浜田という生涯の盟友に出会いお笑いを志す。二人でNSCへ入学する。

一期生だそうだ、それまでは誰かのお弟子さんになって修行を積み世にでるのだった

笑福亭とか島田とか明石家とかだ。

 だがダウンタウンは師匠を持たない、故に型にはまらない独自の漫才を創作したのだろう。 そして想像だが師匠を持たないが故に自由奔放であり悪く言えばしつけられていないのか?

 

 NSCの一期生なので先輩はいない!後輩ばかりである。彼らの抜群の実力とカリスマは後輩たちに大いに憧れられ若くして用意された王座にすわり長く君臨した、しすぎてしまった・・・・

 

 彼は良いことを沢山した、間違いない!お笑いの裾野を拡大した、ドリフからひょうきん族と移り変わるお笑いの形を発展させ拡大した!偉大な男だ。

 

 だが、どうなのだろう?文春記事の気持ち悪さは・・・記事の詳細な真偽はさておき、彼の後輩に女性を段取らせホテルで合コンを開催したのだかもしれな屋でやればよいのに)

 偉くなった!実績も金も名声も手に入れた、文字どおりお笑いの王になった・・・

のに偉くないことを下部たちに命じていたのか?

 もうゴシップ誌と争ってもしょうがない、自分が事実である部分を認めて詫びて改めて償うだけだ。

 

 彼のなした偉大な業績は不滅だ心配はいらない。

休業するという松本氏、戻ってきて欲しい(ナイーブなのはわかる、俺もだ)そして今度は立派な王になってほしい、戻った時は王じゃないかもしれないな?でも王じゃなくなっても立派な人間であってほしい!

 

 こいいう世の中だし浮き沈みは常だ、失ったらまた0からやればいい!

 

 この後味の悪い出来事だけど、これを機会に何かが良くなってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突ですが私は音楽が好きです。

なので今回は音楽のことを書かせていただきます、題は「フィンガー5の話」です。

 

 まずはフィンガー5をご存じない方のために簡単な説明をいたします。

 

 フィンガー5=沖縄がまだアメリカ統治下だった頃に沖縄で結成された兄妹5人組のボーカルダンスユニットです、沖縄での活動を経て東京に移住し下積み活動(しばらくは売れなかったみたいです)を経験し1972年にメジャーデビューしました。

写真の5人組でフロントは4男の晃と長女の妙子となります。

上のお兄ちゃんたち3人は下の二人を優しくサポートする感じの優しさに包まれたアットホームな雰囲気のグループでありました。

そんな中でもフィンガー5の特徴であり最大の武器は晃(写真下段の右端サングラスの子)の楽曲の最も重要な部分で炸裂する少しハスキーなボーイソプラノのハイトーンボイス♪ は今聴いても鳥肌ものであります。 晃は大人気でした・・・

私たちの周りは全員、男子も女子もフィンガーファイブが大好きでした!

 

「フィンガー5」というグループ名はかのマイケルジャクソンたちのジャクソン5にあやかる形で命名されたユニット名ですが

日本では本家を凌駕する人気を誇ったフィンガー5!(その点がビートルズとずうとるびの関係と異なる点です)

 

1972年(昭和47年)に「個人授業」でデビューして以来フィンガー5の快進撃が始まりました「恋のダイヤル6700」(写真のヤツですね❤)「学園天国」(小泉今日子がカバーしてましたね、彼女もフィンガー5世代かな?)と立て続けにミリオンヒットを連発しました!本当に小学校でも近所でも大人気でした。

 

フィンガー5に関する少年時代の思い出があります、、、、その時は「恋のダイヤル6700」がヒットしていました、紅一点の妙子がイントロで「ハローダーリン❤」とかわいい声で囁き、その後に♪リンリンリリン・・・と歌が始まるノリノリの歌で近所で「ハローダーリン❤」という言葉が流行語となっていました。

 

私と近所の子どもたちは地域の習字塾に通っていました、その習字塾は教室の中に電話がありまして電話が鳴ると塾生が「はい〇〇習字塾です」と受け答えして電話の出方を学ぶようになっていました(良いことです)しかしそんなある日、習字塾に電話が鳴った時でした! 2歳年上のヨシ君が敢然と鳴る電話をむしり取るように取り、、あろうことか・・・・「ハローダーリン❤」と言ってそのまま電話をブチ切ってしまったのです!/////

 

なっ!? なに?という驚きの後に経験したことのない笑いが爆発しました、、みんな腹筋をやられて横たわって苦しみながら笑いました、遠ざかりゆく意識の中で塾の先生が狂ったように「あんた!なにやっとるの~( ゚Д゚)!」と叫んでいるのが微かに聞こえました、私たちはその後も断続的に襲ってくる笑いに耐えながら習字を書きましたが誰かが「ハローダーリン❤」と言うたびにリフレインの笑いが始まるのでした・・・

でも、なぜか、その日をさかいにヨシ君は2度と習字塾に来なくなってしまいました・・・・・

 

本当に大好き大人気だったフィンガー5でしたが終わりは突然くるものなのです・・・・・

 

                      晃の変声期

 

10歳か11歳だった晃は大人の階段を昇っていたのでした声変わりしてしまった晃・・・・かわいいボーイソプラノで

♪で~きるな~ら個人授業ぅを受けてみたいよHA~HAHAHA~⤴という晃のパートが1オクターブ下でオッサンの声に変ってしまっていたのでした・・・・私は『何が起きたんじゃ?』と理解できませんでしたが・・・・とにかくフィンガー5が劣化してしまったことは幼心にも理解するしかなかったのでした。

 

 レコード会社やプロダクションは成長を抑制する薬の投与を晃に薦めたようでしたが晃は拒否したそうです。

エンタメの為に人の成長を犠牲にすることは無かったのでした・・・・少し救われる話です。

 

 私が育った昭和という良い時代のヒーロー「フィンガー5」の話でした。  では。