徳とは何か
徳倫理においては徳が重要だと最初に述べた。では、徳にはどのようなものがあるのだろうか。徳にはさまざまなものがあり、それらを集めた目録も一つではない。レイチェルズ(2003)は徳の部分的な一覧表として、「慈善、公正、理性的、丁寧、親しみ、自信、同情、気前のよさ、自制、良心、正直、自律、協調、勤勉、自立、勇気、正義、如才なさ、慇懃、誠実、思慮、頼りがい、節度、寛容」を挙げている。
徳はなぜ善いのか
では、なぜ徳は称賛すべき善いものなのであろうか。レイチェルズ(2003)によれば、その答えは、問題となっているそれぞれの徳によって様々である。レイチェルズ(2003)は、そのことについて、アリストテレスが挙げている徳のうち、勇気、気前のよさ、正直、誠実を例にあげて、以下のように説明している。
‐「勇気」がよいのは、人生は危険に満ちていて、「勇気」なしではそれらに対処できそうにないからである。
‐「気前のよさ」が望ましいのは、ある人々は必然的にほかの人々よりも困っており、援助を必要とするからである
‐「正直」が必要なのは、「正直」がなければ人間同士の関係はいろいろと悪くなるからである。
‐「誠実」は友情の本質である。友人たちは袂を分かったほうがいいと思われる場合でも、一緒にいるものである。
この表のように、おのおのの徳は異なる理由により価値があるのである。
徳倫理における善さの概念の特徴
赤林(2007)によれば、徳倫理における善さの概念には、いくつかの特徴がある。それについての赤林(2007)の説明をまとめると以下のようになる。
(1) 善の多元性
徳(性格特徴や動機)は複数存在するが、個々の徳は、何か一つの価値へと還元することができない仕方で価値を持っている。たとえば誠実や友情のもつ価値は功利性(効用)という価値に還元することはできないし、功利性(効用)を実現するための手段として価値があるとみなされるわけではない。いずれの徳も、それ自体において私が選択するに値するものなのである。
(2) 善の客観性
また、個々の徳の善さは、われわれがそれを所有したいと欲するかどうかと無関係に決まる。その徳を欲しない人がもっている場合でさえ、徳としてみなされる。要するに、徳の善さは、何かを実現したり快をもたらしたりするという結果によって決まる訳ではない。行為者が徳を所有し発揮することそれ自体のうちに善さがあるのである。
(3) 善の行為者相対性
善さの概念には、もう一つ重要な特徴がある。善の中には行為者に相対的なものがある。たとえば友情のもつ価値は行為者相対的である。私と親友との関係は、私と他の人々との交友関係よりも、あるいはほかの人々同士の交友関係よりも、私にとって重要である(他の人にとってはそうではないかもしれない)というようなことである。徳倫理は、価値が不偏不党なものであるとは考えない。
徳倫理における正しさ
最初に、徳倫理においては「行為の正しさ」ではなく、「人としての善さ(卓越)」が中心問題であると述べたが、その徳倫理では「行為の正しさ」についてはどのように考えているのだろうか。この答えに関しては以下のような立場がある。
(1) 徳(性格特徴や動機)に言及することによって、行為の正しさは評価できるとする立場
この立場では、徳倫理は行為の良し悪しだけでなく、行為そのものの正しさ・不正についても説明することができるとし、行為者の徳(性格特徴や動機)に言及することによって、行為の正しさを評価しようとする。すぐれた行為者論(ある行為が正しいのは、それが、有徳な行為者がその状況においてふさわしい仕方でふるまうことと一致する場面であり、その場面に限る)や、動機中心理論(ある行為が正しいのは、それが立派な動機からなされ、そのような動機を反映あるいはあらわしている場合であり、その場合に限る)などがある。
(2) 正・不正の判断は徳に基づくが、判断基準の体系化は不可能だとする立場
この立場では、正・不正の判断は本来複雑なものであり、徳を学べばできるものではなく、実践によって徳を身につけたものだけができるが、有徳な行為者が判断する際に行っている微妙な考察を一般的な原理によって説明することはできない、とする。
(3) 「正しい」や「するべきである」といった概念は捨てるべきだとする立場
これは先に例に挙げたアンスコムなどの立場であり、我々は「道徳的に正しい行動」といった概念を捨てるべきだ、とする立場である。もちろん我々はその場合でも、あるふるまいをより良いとかより悪いとかいうであろうが、徳関係の単語に由来する言葉を使えばいいのである。私たちは人生の諸々の領域における思考や選択に関して、諸々の徳を語ることができる。そして、徳の完全な一組は人間としての規範を表していると考えることができるのである。
以上の立場に共通するのは、徳の概念が根本的であるという点である。そして、正・不正についても説明できるとする立場においても、「善さの概念が第一のものであり、正しさの概念は、善さと関連付けることにおいてのみ定義される。何が価値あるもので善いものであるかということを決めない限り何が行為を正しいとするかについて説明はできないのである」。
徳倫理における社会適応の位置づけ
徳倫理といっても、具体的な内容は各哲学者によって異なる。したがって、ここでは、アリストテレスの徳倫理では社会適応はどのような位置づけになるかを考えることにする。
そのために、まず、アリストテレスの徳についての考えを彼の著書である『二コマコス倫理学』とそれに関する中央大学での講義のハングアウトから簡単に説明する。アリストテレスは本書の中で非常に多くのことを述べているが、今回の目的は社会適応がどのような位置づけになるのかを探ることであるから、その目的に私が必要だと判断した部分だけ、つまりアリストテレスが本書で述べていることの一部だけを取りあげる。次に、それをもとに、アリストテレスの徳倫理では社会適応はどのような位置づけになるかについての私の見解を述べる。
アリストテレスはあらゆる技術、研究、行為、選択は何か善いもの・ことを目的として目指すと考えた。そして、その目的は、より上位の目的へとさかのぼることができる。例えば、「よい馬勒(馬具の一つ)を作る」のは「よい乗馬」のため、「よい乗馬」は「勝利」のため、「勝利」は「ポリスの善」のため、といったようにである。そしてそれ以上の目的が存在しないような、究極の目的、すなわち人間にとっての最高善は幸福であると考えた。ここでいう幸福が意味するものは、功利主義で言うような、快楽のことではないし、現代使うような意味での幸福感のことでもない。アリストテレスの言う幸福とは、「人間に固有な機能をよく発現させること」、すなわち、「完全な徳に基づく魂の活動」である。そして、徳とは、「人間を善きものにするところの、そして人間に自分自身の機能をよく行わせるところの状態」である。徳には、思考に関する徳である「知性的徳」と性格に関する徳である「倫理的徳」の二つがあり、知性徳は教育によって、倫理的徳は習慣づけによって形成される。アリストテレスは本書の中で、勇気、気前のよさ、正直、誠実など様々な徳を挙げているが、こうした徳を、自分自身に関してだけでなく、他人との関わり、すなわち共同体において動かすことによって「完全な徳(終局的な徳の完成)」になると述べている。したがって、自然本性的にポリス的である人間の、人間としての限りでの徳の完成は、終局的にはポリス的正義(=倫理的徳のすべて。徳と同じ範囲に妥当する基準)の実現、つまり「善い市民」になること以外に見い出され得ないのである。
上記のアリストテレスの考えからすれば、アリストテレスの徳倫理では、社会適応は人間の自然本性に根差した行為規範(要請される行為)であると言えるだろう。つまり、人間として善く生きるためには社会適応をする必要があるのである。そして、単に社会適応をすればよいということではなく、その際、社会適応において、人間としての社会的な自然本性を「よく」発揮することが重要なのである。