ついに明日は
ついに明日は模試本番です。
明日あるのは、
1時間目国語
2時間目世界史
3時間目生物です。
この3教科は、偏差値七十を目指すために、かなり重要な3教科です。
得意教科3教科なので、落ち着いて頑張っていきたいです。
世界史は、百点をとり日本一をとるのが目標です。
国語は今回かなり自信ありです。
漢文・現代文で古典をカバーしようと思います。
漢文にいたってはほとんどいつも80~100パーセントとれているので心強いです。
そして、鍵を握る生物は、90点をとり、90点代は、世界史だけではないというところを見せたいです。
ところで白鵬が白馬富士に今日負けましたねΣ( ̄□ ̄;。
朝青龍の優勝なのだろうか(?_?)
朝青龍か~(´Д`;)
てか日本人頑張れ( ̄▽ ̄)
国際人阿部仲麻呂
奈良時代の日本人に国際人がいたその名は阿部仲麻呂。
阿部仲麻呂は717年に留学生として17歳で、遣唐使に随行しました。
留学生の阿部仲麻呂は、またたく間に唐朝廷内の出席頭となります。
30代の半ばで親王の幕僚になり、50歳をこえたころに皇帝直属の秘書管となり、従三品の大官となるほどでした。
詩人としてかなりの才能があり、李白や王維といった唐を代表する詩人たちとサロンをつくり、唐詩文に名前を残すほどの実力がありました。
安史の乱が収束に向かった760年に、仲麻呂は鎮南都護に任命されます。鎮南都護府は、安南都護府の安史の乱後の名前で、今のウ゛ェトナムのハノイにあったそうです。
阿部仲麻呂は、雲南連絡路を整備したりと、職務をはたし、767年に帰任しました。
南海交易の中心である鎮南都護は利益のある職務であり、帰任までに財産をつくるというのが普通なのに、阿部仲麻呂は清廉な役人であったためか、770年に長安で死去した時、唐から州大都督を贈位したが、まったく財産がなく、家族が貧窮であったという話しが残っています。
これを聞いた日本の朝廷が、絹や木綿を唐の使いに依託して遺族に送りました。
歌人として評価が高い阿部仲麻呂。
日・唐・ウ゛ェトナ3国の歴史に関連した日本で珍しい人物であり、最高級の国家公務員でしょう。
最後に故郷日本を思った阿部仲麻呂の百人一首にもある歌を紹介しましょう。
天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出し月かも
小学生の頃、どちらかというと日本史より中国史に興味を持っていた自分は、この阿部仲麻呂の存在を知りました。
唯一日本人で尊敬に値する人物だと思いました。
この百人一首の天の原の歌もすぐに覚えました。
百人一首意味をしるとおもしろいものがあります。
今の世の中世界に目を向けるべきでしょう。
日本は衰退する一方です。
阿部仲麻呂のように世界で活躍し、日本のためになる経験をつむべきではないでしょうか?
シャー=ジャハーンとムムターズ=マハル
インドはインドでもモンゴル系イスラーム王朝ムガル帝国の時代のこのシャー=ジャハーンとムムターズ=マハルの愛の物語は、日本でも楊貴妃と玄宗の愛の物語についで人気の高い話しなのではないでしょうか?
ムガル帝国の最盛期の第五代皇帝シャー・ジャハーンは、ペルシア系の美女ムムターズ=マハルと結婚し、第二夫人としました。
ムムターズ=マハルは、皇帝シャー=ジャハーンの遠征につき従ったり、政治的助言もしたりしました。
ムムターズ=マハルはデカン地方の戦陣で、14人目の子供を産み、39歳で亡くなりました。
シャー=ジャハーンとムムターズ=マハルの結婚生活は19年間でした。
ムムターズ=マハルが死去した時のシャー=ジャハーンは絶望にとらわれた様子は、イナーヤト・ハーンが記すに、丸一週間、陛下は深い悲しみのあまり、公の場にお出ましにならず、国事を遂行されることがない。この不幸のあとは、以前のように音楽を聞くことも、歌うことも、上質の下着をお召しになることも、なさらなくなった。
そして、シャー=ジャハーンは、ムムターズ=マハルの霊をまつるため、二万人の職人と労働者を22年間働かせて、アグラの河畔に世にも有名な大理石の幻と讃えられるタージ・マハール廟を建設しました。
このタージ・マハール廟の美しさは、生前のムムターズ=マハルの美しさを忍ばせるものがあるような気がします。
ちなみにシャー=ジャハーンは、川の対岸には己の黒大理石の廟をつくろうとしました。
ここまでのシャージャハーンを見ると、僕を含む今の日本男性は、浮気をしてしまうことがあるけど、少しシャー=ジャハーンの一人の女性を愛する心を見習わなければならないかもしれないと思います。
しかし、一夫一妻のようにムムターズ=マハルを愛したシャー=ジャハーンは、ムムターズ=マハルから解放されたあと好色にふけるようになりました。
側室をふやして、臣下の貴族の妻と関係を持ち、年に一度、女性の品定めをする八人間の市を開き、そこで好みの女を選んでいました。
また、シャー=ジャハーンは、彼の美しく、才能豊かな長女ジャハーナーラーと、近親相姦の関係だったという説もあります。
シャー=ジャハーンの性欲は己の体を壊すことになります。
1657年9月に、催渓←(夫が任です)剤を飲んだシャー=ジャハーンは体を壊し、皇帝の病に回復の見込みがないとわかったときから、シャー=ジャハーンの四人の息子による皇位継承争いがおきました。
四人の皇子が帝位を争い、厳格なイスラーム教徒のアウランゼーブが勝ち第6代皇帝となりました。
アウランゼーブ帝は、シャー=ジャハーンをアグラ城に幽閉しました。
アグラ城での6年間の晩年は城の小さな窓からタージ・マハール廟を眺め、幸せだったムムターズ=マハルとの暮らしを回想する生活を強いられたことでしょう。
シャー=ジャハーンの死後、彼の望みが叶えられます。
妃ムムターズ=マハルの棺の横にはシャー=ジャハーンが葬られたのです。
僕が思うに、ムムターズ=マハルの死後彼が異常な性欲をだしたのは、ムムターズ=マハルを忘れるためか、それとも気を紛らわすためか、これについてはよく分からないですが、やはりシャー=ジャハーンはどんなにムムターズ=マハルの死後他の女性を抱いてもムムターズ=マハルのみを愛していたとい気持ちは変わらかったのではないでしょうか?
ところで、シャー=ジャハーンの後を継いだアウランゼーブ帝は、ムガル帝国最大の領土を築きますが、厳格なイスラーム教徒であったために、ヒンドゥ教の習慣を無視し、全土のイスラーム化をしようとし、ヒンドゥ教寺院を破壊し、シズヤを復活させたりしました。
これによりヒンドゥ教徒の反乱が勃発し、ムガル帝国は急速に衰退していきました。
やがてインドは、大英帝国の植民地となってしまいました。
反映を極めたムガル帝国。
しかし、最後は国民を思う気持ちを無くしたため滅亡したのだと僕は思います。
権力だけでは国は成り立たないと改めて思います。
