シャー=ジャハーンとムムターズ=マハル
インドはインドでもモンゴル系イスラーム王朝ムガル帝国の時代のこのシャー=ジャハーンとムムターズ=マハルの愛の物語は、日本でも楊貴妃と玄宗の愛の物語についで人気の高い話しなのではないでしょうか?
ムガル帝国の最盛期の第五代皇帝シャー・ジャハーンは、ペルシア系の美女ムムターズ=マハルと結婚し、第二夫人としました。
ムムターズ=マハルは、皇帝シャー=ジャハーンの遠征につき従ったり、政治的助言もしたりしました。
ムムターズ=マハルはデカン地方の戦陣で、14人目の子供を産み、39歳で亡くなりました。
シャー=ジャハーンとムムターズ=マハルの結婚生活は19年間でした。
ムムターズ=マハルが死去した時のシャー=ジャハーンは絶望にとらわれた様子は、イナーヤト・ハーンが記すに、丸一週間、陛下は深い悲しみのあまり、公の場にお出ましにならず、国事を遂行されることがない。この不幸のあとは、以前のように音楽を聞くことも、歌うことも、上質の下着をお召しになることも、なさらなくなった。
そして、シャー=ジャハーンは、ムムターズ=マハルの霊をまつるため、二万人の職人と労働者を22年間働かせて、アグラの河畔に世にも有名な大理石の幻と讃えられるタージ・マハール廟を建設しました。
このタージ・マハール廟の美しさは、生前のムムターズ=マハルの美しさを忍ばせるものがあるような気がします。
ちなみにシャー=ジャハーンは、川の対岸には己の黒大理石の廟をつくろうとしました。
ここまでのシャージャハーンを見ると、僕を含む今の日本男性は、浮気をしてしまうことがあるけど、少しシャー=ジャハーンの一人の女性を愛する心を見習わなければならないかもしれないと思います。
しかし、一夫一妻のようにムムターズ=マハルを愛したシャー=ジャハーンは、ムムターズ=マハルから解放されたあと好色にふけるようになりました。
側室をふやして、臣下の貴族の妻と関係を持ち、年に一度、女性の品定めをする八人間の市を開き、そこで好みの女を選んでいました。
また、シャー=ジャハーンは、彼の美しく、才能豊かな長女ジャハーナーラーと、近親相姦の関係だったという説もあります。
シャー=ジャハーンの性欲は己の体を壊すことになります。
1657年9月に、催渓←(夫が任です)剤を飲んだシャー=ジャハーンは体を壊し、皇帝の病に回復の見込みがないとわかったときから、シャー=ジャハーンの四人の息子による皇位継承争いがおきました。
四人の皇子が帝位を争い、厳格なイスラーム教徒のアウランゼーブが勝ち第6代皇帝となりました。
アウランゼーブ帝は、シャー=ジャハーンをアグラ城に幽閉しました。
アグラ城での6年間の晩年は城の小さな窓からタージ・マハール廟を眺め、幸せだったムムターズ=マハルとの暮らしを回想する生活を強いられたことでしょう。
シャー=ジャハーンの死後、彼の望みが叶えられます。
妃ムムターズ=マハルの棺の横にはシャー=ジャハーンが葬られたのです。
僕が思うに、ムムターズ=マハルの死後彼が異常な性欲をだしたのは、ムムターズ=マハルを忘れるためか、それとも気を紛らわすためか、これについてはよく分からないですが、やはりシャー=ジャハーンはどんなにムムターズ=マハルの死後他の女性を抱いてもムムターズ=マハルのみを愛していたとい気持ちは変わらかったのではないでしょうか?
ところで、シャー=ジャハーンの後を継いだアウランゼーブ帝は、ムガル帝国最大の領土を築きますが、厳格なイスラーム教徒であったために、ヒンドゥ教の習慣を無視し、全土のイスラーム化をしようとし、ヒンドゥ教寺院を破壊し、シズヤを復活させたりしました。
これによりヒンドゥ教徒の反乱が勃発し、ムガル帝国は急速に衰退していきました。
やがてインドは、大英帝国の植民地となってしまいました。
反映を極めたムガル帝国。
しかし、最後は国民を思う気持ちを無くしたため滅亡したのだと僕は思います。
権力だけでは国は成り立たないと改めて思います。
