カエサル日記京都編 -25ページ目

勉強諦める

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今広島市内の奨学金制度の活動に行っています。


サッカーの試合の手伝いをしたりしてます。


僕をいれたメンバーは、男二人・女三人です。
今年は人数少ないです。
今年も最年少が僕です。

けど、一緒の部屋で寝ている男の先輩はとても性格がよくて話しやすい人で楽しいです。


昨日は、宴会に駆り出されました。(もちろんジュース)


話しがつき、静まりかえったら僕が話しをつくるという謎の役をさせられました。


結局今日0時に寝て5時に起きるという地獄を味わいました。

今日は、サッカーの試合の手伝いをしました。

短大に行っている女の先輩と行動を共にしました。
途中余りにも暇だから二人でサッカーボールの蹴り合いをしました。
広島はかなり暑く、サッカーボールの蹴り合いでも暑すぎだと感じました。


あと、徳島から来ているサッカーチームと絡みました。
我が生まれ故郷阿南市出身の大人の方もいました。
その方なんと我が実家がやってる整骨院も知っていました。有名になったなぁ~。
懐かしや徳島弁。
みんな大阪弁と一緒にしてたけど。


昼3時に帰り夕食の準備をしました。

夜6時くらいに泊まっている子供達が来ました。
韓国・ニュージーランドもいました。

ニュージーランドは、英語で会話したけど、韓国語無理。
アニュハセヨー。
カムサハムニダー。これくらいかな。


そして、風呂に夜7時に入り、年上の男の先輩と約1時間くらい話しながら入り、夜8時くらいに出て今に至ります。

勉強諦めたとはこのボランティア期間中の月曜日の夜までは勉強しません。

てか集中できません。


1月末進研模試大丈夫なのか自分?

画質悪い写真は広島市内を一望できるスポットからとりました。
夜景がいいですよ。目標。
今日は早く寝るぞ。
終わり。

寒い

今日は図書館に勉強しに行きました。

図書館に行くまで雪が降っていて、かなり積もっていたので寒かったです(>_<)。


図書館に行って、まず数学の明日ある課題テスト勉強をしました。


数学を2時間半くらいしたら、家庭科の宿題をしました。
行事料理を作ろうという宿題でしたが、夏休みと同じく実際に作らずに本をうつして、感想を適当に書きました。
まぁそばは大晦日に作ったから今回は本当かも( ̄▽ ̄)。


家庭科の次は、明日ある英語の課題テスト勉強を1時間しました。
夕方5時前に図書館から帰るとこの冬景色でした。

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家に帰り、風呂や夕飯を食べて、夜8時から、今回英語の課題テスト範囲が大量にあるので3時間くらい勉強しました。
そして現在に至ります。

明日は数学と英語の課題テスト頑張ります(^ー^)。

あさっては国語の課題テストだけ受けて帰りますΣ( ̄□ ̄;。

何故かと言うと、広島市内のある奨学金制度(返済しなくてもよい)の活動があるためです( ̄▽ ̄)。


だから明日からなかなか更新しなかったり、皆さんのブログ周りに行けないかもしれませんので御了承ください。

来週火曜日からまた頑張りたいです。

奨学金制度の活動についてです。
今年も、去年親しくさせてもらった韓国人の大人の人や呉の一歳年上の先輩が来るかどうか楽しみです。


あと、今年は一歳年下の後輩か同級生が来てほしいと思っています。
去年は僕が最年少でしたから、なかなか大変でした(>_<)。


同級生や一歳年下の人なら敬語も使わなくていいから気軽に絡めそうです(^ー^)。

去年夜にやった将棋パーティーをまたやりたいなぁ~(^ー^)。



明日からお勤め(学校)頑張ります(^ー^)。
以上。

カロリング家とトゥール・ポワティエ間の戦い


トゥール・ポワティエ間の戦いにより、フランク王国の宮宰をつとめていたカロリング家が、フランク王国の王家メロウ゛ィング家の実権にとって代わりました。


729年スペインの地方総督アブド=アッラフマーン率いるイスラーム軍が、ロンスボーの峠を通り、ピレネー山脈を越えて、ガスコーニュ地方を襲い、ボルドーを占領し、ガロンヌ川にてアキテーヌ公のウード軍を粉砕しました。


この勢いで、アブド=アッラフマーンは、キリスト教世界最大の聖地の一つのトゥールのサン=マルタン修道院を目指し、北上してきました。

破れた、ウードは、宿敵カール=マルテルのもとに行き、援軍を求めました。

こうして732年10月25日、アウストラシア・ブルグンド連合軍を率いるカール=マルテルとアブド=アッラフマーン率いるイスラーム軍が、ポワティエの北方、トゥールに通じるローマの軍道沿いに位置するムセ・ラ・バタイユで激突しました。(これがトゥール・ポワティエ間の戦いです。)


この戦いで、アブド=アッラフマーンは戦死して、イスラーム軍は敗走しました。


このイスラーム勢力を撃退した戦いにより、カロリング家が力を強め、カール=マルテルの子ピビン3世が、教皇の指示を得てメロウ゛ィング朝を廃して、新たにフランク王国の王となり、カロリング朝を開くことになりました。
そして、ピビン3世の子カール大帝により、カロリング家の勢力は、西ヨーロッパの復活を成し遂げるほどの勢力となりました。

このカロリング家の権力を決定ずけたトゥール・ポワティエ間の戦いはこう言われることがあります。


ウードを粉砕したアブド=アッラフマーンなくしてはカール大帝の存在は想像できない。


この言葉は僕もそう思います。



しかし、カール大帝の子ルートウ゛ィヒ1世の死後カロリング家の勢力は、ルートウ゛ィヒ1世の三人の子が争い、843年ウ゛ェルダン条約により王国を三分し、さらに870年メルセン条約を結びました。カロリング家の王朝東フランク王国と西フランク王国が、911年、東フランク王国の実権を失い、987年に西フランク王国の実権を失い、両王国は、滅びてしまいました。


偉大なるカール大帝の死後子供達による勢力争いを見ていると、中国の三国時代を統一した西晉が思いうかびます。

西晉も司馬炎の死後、八王の乱が起こり、衰えていきました。

どこの国でも子供達の権力争いがあるのが歴史というものですね。