こんにちは、絶學無憂です。

 

土曜日の朝からずっと体がだるくてどうしようもありません。なんか変なもん食べたかな、とも疑ったのですが、しばしばこの手のダルダル状態は、感情解放をやった後に来るので、そっちかなという気がしています。

 

さて、前回の続きです。

 

その名も「呪」(のろい)さんと名乗る方から、こんなコメントを頂戴してしまったのでした。

 

書いてる事はその通りだろうけど
問題は自分自身の中にあるのは本当だろうし。深く考えるとそうだろうけど。

でも相手が大きなネガティブな過去の歴史があるのを無視してそういう発言してるのが
単純に頭でっかちの浅はかなデリカシーのない人なだけじゃなくて? 
だから嫁にも愛想つかれんじゃない? 

エックハルトのエゴとか持ち出して 
自己弁護してるあんたが一番エゴに取り憑かれとるわな。 

ありがとうございました、

 

コメントは承認制にしてあるので、私が希望すれば、自分だけは読んでしまったけど、このコメントはなかったことにして削除してしまう、っていう選択肢もありました。

 

ですが、私はコメントを公開した上で返信してしまいました。

 

>呪さん

ここに返信してもコメントした人が気づかない場合が多いのですが、一応。

コメントありがとうございます。

これはいろんな角度から話ができてしまうんですよ。

私から見た角度、依頼者の方から見た角度、それぞれも幾つかあるでしょうし。

ネガティブな過去を持っているからここは当然しょうがないんだ、という思いがまたエゴの罠になってしまっている、という話でもあるんですが。

私は依頼者の方の角度からは最初全然見えなかったし(もちろん今も見えてないかもしれません)、依頼者の方は私のほうの角度からは見えてなかったでしょう。

読者のかたが、結局、私の側のエゴの自己正当化の文章になっていると感じられたならその通りだったのかもしれません。自己正当化から始めてそうではないところまで持っていこうというのがこのシリーズの目的だったのですが未熟だったかもしれません。

時間を置いてから後でもう一度見直してみます。

いずれにせよ、わざわざコメントありがとうございます。

 

なぜ、わざわざこんなコメントを公開するのか?

 

このコメントの元になった記事もそうなのですが、トラブル=ネガティブな現象が起こったときに、このブログ上でそのトラブルに対して、揺れを作って、しかもそれが自然とまんなかへ向かうようにできないものか?っていう思いがありました。

 

というのも、私の参加していたブレインアップデート・オンライン・コーチングのFacebookグループがまさにそんな感じで機能していて、ネガティブ体験をシェアしたり、他人と意見をぶつけたりするのが、むしろなかば奨励されていて、そういうのでネガティブな内容が出ても、コメント欄でやり取りしていくうちに、だんだんお互いに言いたいことを言うと、まんなかへ向かっていくんですね。いわゆる炎上みたいなことにならない。そういう風なデジタル空間として管理者によって「設定」されていたようです。

 

メトロノームを不安定な台の上に沢山載せると、それぞれが自分のリズムを刻んでいたはずなのに(周期は同じでも位相がずれていたはずなのに)、台全体が揺れることで、全体が同期していくっていう立派な物理現象が知られています。

 

 

まじめな物理の論文にもなっていますよ。

 

Pantaleone J (2002) Synchronization of metronomes. American Journal of Physics 70:992–1000, https://doi.org/10.1119/1.1501118

 

さとうみつろんさんが、このメトロノームの同期現象の象徴的な意味に気づいてブログ記事2, 3, 4, 5, 6, 7, 8)にされてますが、BUオンライン・コーチングのコメント欄では、参加者の感情の揺れについてちょうど同じようなことが実現されていて、とても面白いなと思ったのです。

 

このときの体験から、毎回そんな風にうまくまとまる保証はどこにもないのですが、私が揺れてまんなかへ戻る様子を読んだ人が、また揺れて、まんなかへ戻っていくようになれば面白いな、つまり読むとまんなかへ行けるブログにできないかなと思ってるわけです。同期しても、メトロノームみたいに揺れっぱなしではしょうがないのですがびっくり

 

 

 

これでとりあえず、返事はしたのですが、そうは言っても胸の中はザワザワ、ザワザワ。

 

呪さんのコメントを読んで、どの部分で一番ザワザワしたかというと、やはりそれはちゃんと内容と関係がありまして、「自己弁護してるあんたが一番エゴに取り憑かれとるわな。」でした。

 

「でも相手が大きなネガティブな過去の歴史があるのを無視してそういう発言してるのが
単純に頭でっかちの浅はかなデリカシーのない人なだけじゃなくて?」

 

に対しては、「そーかなー?」

 

「だから嫁にも愛想つかれんじゃない?」

 

に対しては、「ふーん」

 

という程度で実はほとんど反応しませんでした。

 

ただの言葉だな、と思ってました。

 

お前は実際に嫁に愛想尽かされて出て行かれたんだろ、悔しがれよ!!!、と懸命な読者の方は思われるかもしれませんが、賢い嫁が出ていってくれたおかげでやっと私は自分を取り戻せた、ありがとう!愛してるよ!っていう感じなので、そこはなんともないです。

 

ところがエゴの部分はグサッと来ました。

 

「そうかもしれない」「エゴが出てしまっていたかも」「自分はひどいやつだったのかも」以下続く...

 

という感じで脳内会話がグルグル回り、心がグラグラ揺れて、胸がザワザワします。みなさんもお馴染みのやつだと思います。

 

この状態の真っ只中でも、感情が動くということは

 

感情 = 出来事 × 観念

 

というお馴染みの公式で考えると、私が「エゴ」というテーマについてなんらかの観念を持っていて、そのためにこの感情が起きている、ということは理屈では分かります。

 

一体どんな観念が背後にあるのだろう?

 

と考えてみますと、

 

エゴを持っていてはならない

 

という観念のようです。

 

自分で「エゴを持っていてはならない」と思っているのに、他人から「あなたエゴの塊じゃないの?」と言われたものだから、感情的になっているんです。

 

問題は、この「エゴを持っていてはならない」という観念が、絶対真理に思えてならない、ということでした。

 

2600年の仏教の歴史を考えるだけでも、そのすべてはいかにしてエゴを手放していくかということに尽きており、「エゴを持っていてはならない」という観念を否定することは不可能だ、と思えました。これは無理だろう。これを否定できるやつはいない!

 

だいたいこんな状態で頭の中をコメントがグルグルしていて、仕事中でしたが、心が揺れていたこと数時間。

 

その間、いわゆる感情解放の類を一切使わずに、おそらく通常の人が試みるように、意志の力でこのグラグラから脱出できるかやってみましたが、ビクともしませんでした。

 

単に頭で「そんな考え方は無意味だ」「思考を変えよう」とか念じてみたところで、どうにもなりません。数時間放置して、さすがに「もうこれはいいや」と思えてきました。

 

次回はここからどうやって脱出したかというお話です。

 

乞うご期待。