オールを取り戻すまでの話 35 | 勤続38年 ベテラン管理栄養士が提供する「病院勤めのストレスが消えて、生きててよかった!で満たされる」コーチング広場

勤続38年 ベテラン管理栄養士が提供する「病院勤めのストレスが消えて、生きててよかった!で満たされる」コーチング広場

ずっとずっと頑張っているのに「なぜか、うまくいかない!」「何か違うかも?」「私の何がいけないの?」と迷子になっていませんか。「誰か私を助けて!」「正解はどこにあるの?」と右往左往しているのなら、私と一緒に探し出しましょう。あなたの本当の人生を!

 

 

毎週日曜日は

オールを取り戻すまでの話を

書いています。

 
 

IMG_20170806_111840301.jpg

 

 

 

前回の話はこちらから

 

オールを取り戻すまでの話 34

 

 

 

第1話はこちらから

 

自分の人生を引き受ける の巻

オールを取り戻すまでの話 1

 
 
 
 
 
Y氏と逢い続けていた私ですが
その事を「当たり前」とか「当然」と
考えていたわけではなく・・・
 
 
 
やはり、どこかで
「本当は止めた方がいいんだろうな」
「このままずっと続くはずがない」
「いつか破綻していくんだろうな」
と、思いつめていました。
 
 
 
肘のあたりまであった長い髪の毛を
バッサリ切り落としても、
全く、何一つ変える事もできず・・・
相変わらず、日々悶々としていた私。
 
 
 
ある日私は、決死の覚悟をして
Y氏に電話をかけ、こう切り出しました。
「あなたと逢うのを・・・止めます」
 
 
 
Y氏は、無言でした。
暫くして・・・
「俺もその方がいいと思う」
 
 
 
互いに了解して、
別れることになりました。
 
 
 
 
 
しかし、実際離れてみると・・・
Y氏と逢いながらも
悶々と悩んでいた時の方が
ずっとずっと、楽でした。
自ら、「もう逢わない」と決めたのに
辛くて辛くて死にそうになりました。
 
 
 
乾燥してない生の木を、
メリメリメリ!と
力づくで二つに裂こうとしても
なかなか裂けないし、その裂け目は
ぐちゃぐちゃになってしまいます。
 
 
 
私からY氏を引き剥がそうとすると・・・
生木を裂いた時の様に
裂かれた部分の肌は
ぐちゃぐちゃに切り裂かれ
血が噴き出すような感覚でした。
 
 
 
自らY氏を切ったのに
その自らの行動の結果に
のた打ち回って苦しみました。
 
 
 
例の女に強烈な嫉妬を感じた時より
何倍も何倍も苦しみました。
もう二度とY氏に逢えない。
もう二度とY氏に抱かれる事はない。
もう二度とY氏と
同じ時間を・・・同じ空間を・・・
共有する事はない。
もう二度とない・・・
・・・・・・
・・・・・・
生きていましたが、死んでいました。
血を流し続けていました。
 
 
 
3ケ月、耐えました。
でも、3ケ月が限界でした。
 
 
 
自分からY氏に連絡を入れました。
「また、逢いたい」
 
 
 
「僕も逢いたくて仕方がなかった」
「でも、僕から
誘うわけにはいかんかった」
「今、何をしているんやろ?って
ずっと思っていた」
 
 
 
互いが互いを求めていたことが解り
私は喜びに泣き崩れてしまいました。
 
 
 
50を超えた中年既婚男性が
30の未婚の女性を手放さないのは
ただ、都合がいいから・・・とか
若い体が好きだから・・・とかの
下世話な理由も当然あったんでしょうね。
でも以前、Y氏に聞いたことがありました。
「なんで私と付き合いだしたの?」
 
一番最初に合った時に
「ええ子やな~」って思った。
飲み会の帰りに送っていった時・・・
すごい話がはずんだやろ~
あの時、すごい嬉しかったねん。
気が合うんやで、俺ら・・・
んで、ふたりともスケベやしな・・・(笑)
 
 
 
そして、私とY氏は
再び逢い始めました。。。
 
 
 
 
 
この当時、私はもう一つ
大きな決断をしていました。
「実家の家を出て、一人で生活する」
 
 
 
始めは両親の・・・
特に母親の猛反対をくらいました。
「家を出る理由が無いやないの!」
っていうのが、反対の理由でした。
 
 
 
一人住まいを開始したいと考えた理由は
「Y氏と逢えるチャンスを増やしたい!」
っていうのも当然、あったのですが・・・
本当の理由は
「このまま実家におったら
親に頼りっぱなしの人生になってしまう」
「ちゃんと一人で暮らしていけるように
ならなければいけない!」
と、考えたからです。
親と一緒に住んでいても
きっちり自立している人もいるだろうけど
なぜか私の中では・・・
「このままでは駄目だ!」
という危機感が強力に存在していました。
 
 
 
母親の猛反対をなんとか説得し
1994年の11月。
私は生まれ育った岸和田を出て
職場近くの堺市上野芝という所で
念願だった一人暮らしを
スタートさせることができました。
 
 
 
その事をY氏に伝えると・・・
とても渋い顔をされてしまいます。
私は正直、驚きました。
親の目を盗み、時間を気にして
こそこそY氏と逢っていた状況から
「やっと抜け出せる!」
と、喜んで報告したのに
「なんで、家を出るの?」と
かなり不機嫌なY氏・・・
 
 
 
でも、既に
引っ越しをしてしまった後なので
「部屋に棚を作って!」って
お願いすると、
渋々ですが協力してくれました。
 
 
 
実はこの頃、
Y氏の仕事は出張が続き
静岡などの東海地方から
四国の高松や九州の鹿児島・沖縄と
本当に多方面に広がっていて
多忙を極めていたようでした。
 
 
 
念願の1人暮らしを始めた私でしたが
逢いたいY氏は、
仕事でほとんど大阪に居ない状態。
寂しい思いをしていました。
 
 
 
例の女とも逢っていない事だけが
唯一の救いでしたが。。。
 
 
 
 
 
そして・・・
 
1995年1月17日、5時46分52秒。
阪神・淡路大震災が発生しました。
 
 
 
当日の朝。
私はベッドで一人寝ていました。
ぐらっと来た瞬間・・・
枕元にマーガレットの花を活けていて
それが落ちないようにと
飛び起きた記憶があります。
 
 
 
私にとっての地震体験は
それだけで終わりました。
 
 
 
親・弟・伯母等の近しい人の安否も
すぐ確認が取れて安心し、
テレビを見ていると・・・・・・
 
 
 
 
 
この大災害は私とY氏の関係にも
大きな影響を与える事になりました。
 
 
 
 
 
続きはこちらから。