最近『罪と罰』を読み始めたところ、
こんな一文が。

主人公のラスコーリニコフが自分の生活にも疲弊しきって、
かつ罪を犯そうとしている心情が。


『あれほどの大事を決行しようとしているのに、
 こんなつまらんことにびくびくするなんて!』
彼は、奇妙な薄笑いを浮かべて考えた。
『ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、
 いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、
 みすみす全部を棒にふっているわけなんだ・・・
 こいつはまちがいなく公理だぞ・・だいたい、人間は何をいちばん恐れている?
 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか(中略)』


独りよがりで生きてるとこんなにも自分を棚にあげて考えてしまうんだろうか。
誰でも一人の時間はあるけれども、
独りよがりを続けているとなんとなく自分を肯定して正当化しちゃうんだろうか。

独りよがり
大変なときにはこうやって語り掛けれたらいいのに


2014.5.15
フランスのアンドレマルローさんはかつてこう言ってたとか。

「文明というものは常に海洋流域で発達する。
 なぜならそこにはコミュニケーションが生まれるからだ。
 見たまえ、古代文明はエーゲ海そして地中海域から始まったではないか。
 その流れは大西洋地域に移り、
 これからの将来を考えると、太平洋文明の時代が必ずやって来ると思う」


発言した時代背景も当時には到底考えられないけれども、
当人が苛酷な環境化におかれても、
その眼差しは自分の足で歩ける生活圏を既にこえているのは内面で歩み続けた由縁なんなのか。


作為的なコミュニケーションは指示者側の慢心に過ぎず、
結局のところそのであいは自分自身で創り出しているものを促進したにすぎないのかも。

なにげないであいにみつけたもののみが、
後々自分を助けるものになるような気が。


わき道
もちろん海域のコミュニケーションというのは、
きっと、
元気か、何してた、最近どうだ、
というものが日頃に意図せずされているものなんだろうけど


2014.5.14
あー心地よいという幸福感というのは持続的なものであって、
運・不運とかなにがあっても簡単には転変しないものではないか。
もし、その運・不運で幸・不幸を定めてしまうなら、
幸福な人を一種のカメレオン、坐りの悪いものとしてしまうのは明らかである。

とは、アリストテレスさんが言っていたそうで。


むしろ、運・不運に固執すること自体誤りなのでは、と続けて彼は問うらしい。

そんな諸々を卓越したアレテー(卓越性、徳)に即した活動は、
カメレオンのようにいちいち自分の色を変えることすら無意味にしてしまうのかも。


ただ当人のカメレオンは自分の色は決して忘れないんだろうかと。
まわりに合わせることはできても、
なんだかんだで落ち着くところで自分の色を発しているんだろうと思う。


カメレオン
曇り空もいつか晴れると思えるのは社会的(ポリス的)動物の特権だろうか


2014.5.13
『鉄のハインリヒ』というグリム童話があるとか。
日本では『かえるの王さま』と呼ばれてるらしい。

わるい魔法使いに魔法をかけられた王子の従者ハインリヒは、
その悲しみで胸が張り裂けないようにと3本の鉄の帯を胸に。

人間に戻りたい王子は結局王女に助けられ、
それが心配でたまらなく胸が張り裂けそうだったハインリヒもその鉄の帯は喜びではじけ飛んでいった。

前しか向かない王子よりも、
なんだか横からずっと支え続けたハインリヒに心地よさを感じるお話。


ただどうもうまくいかないときというのは、
なんだかそのわるい魔法使いに魔法をかけられたようなもので、
かえるの様なやるせない感覚にも陥るし、
それをただただ無心に心配してしまうハインリヒの二人の心が交錯することだってあるのかも。


結局魔法にかけられているだけなんだから、
それがとけるまで一喜一憂しないことがいいんだろうけど。


ハインリヒ
いつも晴れてる空も今日は曇りだった


2014.5.12
いつからか何かしらのものさしは積み重なって、
そのものさしを使ってものごとを捉えようとしていた。

使っていたはずのものさしに、
いつからかものさしがなければ何もみることができなくなっていた。

ものさしがなければ、
楽しいとも悲しいともきれいだともいいなとも思わなくなっていた。

そんなものさしだったら一度捨ててしまえばいい。
必要ならまたいつの間にか手元にあるのかと。


ものさし
レンズを通してばかりみていた朝日が自分の目でみるほうがきれいだと思った
彼らはいつもそんな世界ばかりをみているんだろう


2014.5.11
水流をせき止めるために川の中にくいを打ち並べて、
それに木の枝や竹などを横に結びつけたものだとか、
引き留め、まとわりつくもの、じゃまをするもの、
という意味のしがらみ。

それが目に見えるものなら感情がそこにぶつけられるし、
それが目に見えないものならそれはまた厄介なもので。

感情で打ち並べられた杭はなかなか抜けづらいし、
一向に自分の生活圏を心身ともに狭めていく作用があるのかと。


『罪と罰』のドフトエフスキーは、
思想的な理由から牢獄へ捕らえられ銃殺刑の宣告を。
それが刑執行の寸前、減刑でシベリアに4年、兵役5年という年月を自由を奪われた。
その経験をもって著されたのが数々の著作たちだとか。


柵というのは案外自分で作ってしまいがちなしぶとい奴なのかも。


柵
あたり一面白ばかりならどこに柵を打ち並べたのか分かりやすいのに


2014.5.6
こないだNHKをみていたら、
作家余華さんのインタビューシーンが。

今の中国の体制についての見解と、
利己主義的な文化背景を危惧していた。

いろんな生き方や考え方が数多に実際あって、
それはそれでいいんだろうけど、
いつも自分さえよければいいってのと、
いつも自分らしくいればいいってのでは、
大した差があるのかと。

小林秀雄さんの『モオツァルト』には、
「強い精神にとっては、
 悪い環境も、
 やはり在るが儘の環境であって、
 そこに何一つかけている処も、
 不足しているものもありはしない」

とあるんだとか。

自己と利己
日によって言われ方が違う彼はただただ同じところにいるだけ



2014.5.5
『エセー』の中でモンテーニュは、心の不思議さについてこういってるそうで。


「偉大で崇高なものを判断するには、
 それと同じ心が要る。
 そうでないとわれわれ自身の中にある欠陥をそれに付与してしまう。
 まっすぐな櫂も水の中では曲がって見える」

「心の容器こそが、すべての悪の原因であり、
 容器に欠陥があるために、
 外から入って来るものが、
 すべてその中で腐るのだ」


なかなか心にゆとりをもつというのは難しいんだろうけど、
そんな時間を心がけてみるだけで、
同じ日常の一場面もすこしはかわっていけるのかも。



容器
みるだけでもいい朝日を撮ることが少しゆとりの時間を創ってくれてるようで


2014.5.4
窓の外を眺めてみると、
木々が揺れていた。
ふと、風がふいていることを知った。

窓の外を眺めてみると、
あたりが暗くなっていた。
ふと、雲が空高い位置にあることを知った。

窓の外を眺めてみると、
オレンジ色の光が部屋に降りそそいでいた。
ふと、外は夕日が沈んでいることを知った。


ふと、満天の星空をみた。
数時間後、それはあなたの元へ降りそそぐだろうか。

ふと、朝日をみた。
数時間後、それはあなたの元へいくんだろうか。


やり直す
どちらの漢字もねたましい、と現される嫉妬。

三木清はこの嫉妬についてこう表現されてるとか。

「もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、
 それは人間の心における嫉妬の存在である。
 嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。
 なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって
 働くのが一般であるから」

また次のようにも。

「どのような情念でも、天真爛漫に現れる場合、
 つねに或る美しさをもっている。
 しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。
 愛と嫉妬とは、種々の点で似たところがあるが、
 先ずこの一点で全く違っている。
 即ち愛は純粋であり得るに反して、
 嫉妬はつねに陰険である。
 それは子供の嫉妬においてすらそうである」

「嫉妬は自分よりも高い地位にある者、
 自分よりも幸福な状態にある者に対して起こる。
 しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、
 むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」


人の感情は自分だっていろんなふうにあらわれる。
特に忙しいときとか目に見えない疲れがたまってるときとかに、
でも他の人を敬う姿勢だけは、折り或るごとに見直せる人でいたいなと。
どんなに自分がだめなときだって、
他人の正しさ、すばらしさを認めたくない、
常に自分が正しい、自分が優れていることを吹聴したいと思っていたら、
人の不幸の蜜でしか甘さを感じられなくなってしまうんだろうかな。


嫉妬
いくら世界の中心にいる彼になりたいと思ったってなれやしない
そういえばゲーテの『ファウスト』では、
嫉妬し続けていた男性が女性に変身したシーンがあった
女性を軽視してる意味ではなく、
その人がその人らしくなくなる力があるのが嫉妬の力なんだろうかな



2014.5.1