「真夜中すぎの一時間」 ヘッセ  藤原定訳


真夜中すぎの一時間
人間はみなねむりこくって
めざめているのは森林とやっと出た月。
大きくてまっ白なお城が立っていて
そこにはぼくとぼくのゆめだけがいる。

お城の広間は絵のようにきれいで
ぼくのゆめたちがお客さまで
ぼくのそばにこしかけていて
さかずきがあちこちとしていて、歌やおしゃべり。
明けがたになってやっとしずまる。

朝の太陽はたくましい手でかべをたたき
はいってくるなり ぼくをしかって
手にしたあかりをつきつける。
風であかりがとびちると
ぼくのゆめの国も こなごなになる。

ぼくのまわりから なごやかさがきえ、
きびしい人生が 足音あらくはいりこんでくると、
その力にひきずりまわされ
おずおずと したがってゆかねばならぬ、
――おお夜中よ、ぼくはおまえをまちこがれている


真夜中
静寂がやってくる
向こうからこちらへやってくる
ここに立っていると
その静けさが近づいてくるから
まだここいいるんだろう


2014.7.15
「五月」シュトルム  藤原定訳


「王さま バンザーイ!」と
青空にむかって子どもらがさけぶ、
春を子どもらは 王座にすえる
子どもらは春を 王さまにしたいから。

子どもらは スミレをみんなつんでしまった、
水車小屋の堀わりに さいていたスミレをみな摘んだ。
春がきたのでその春を 小さなこぶしに
しっかりにぎっていたいのだ。


五月
目を閉じると風がみえる
目を閉じると時間がみえる
目を閉じると遠くの相手がみえる



2014.7.14
「野ばら」ゲーテ 藤原定訳 

野ばらが一本さいていた
野原にさいたその花は
色あざやかで うつくしい。
それをみつけた 少年は
大よろこびで かけよってゆく、
野ばらだ、野ばら、
野原の中の 赤いばら。

「おまえを折るよ」
野原の中の赤いばら。
すると野ばらはいいました、
「折るならさします
 いつまでも わたしのことをわすれないよう、
 だけど折られはしませんよ」
野ばらよ、野ばら、赤いばら。

それでも少年は折ってしまった
野ばらよ、野ばら、赤いばら。
野ばらはふせぎ、さしたのだ。
けれどもやはり、だめだった。
折られてしまった、少年に。
野ばらよ、野ばら、赤いばら。


未知
野原に無数ある花の中でも
なぜだか彼は一本のばらに惹かれました
ばらもその気持ちを知ってか
いつもそこに居続けるのでした
たとえ折られたとしても


2014.7.13
オーウェンの改革、というものがあるそうで。

人道主義の彼は、イギリス郊外にあるニューラナークという場所で、
当時盛んだった綿作りに従事していた。

利益は労働環境改善に、
と大量に生活用品を揃えては労働者に原価に近い値段で与え、
教育にも力を入れていった。

労働時間も大幅に減らし、
10歳以下の労働を禁じた。

特に幼い頃の教育の重要性に着目し、
生後8ヶ月から12歳までの情操教育を実施。

夜間学校も行い、
成人の教育は経済の理念を理解するのを助け、
生産性の向上につながることがはじめて理解されたのだとか。

以後、そうした労働者視点の改善方法は、
生活協同組合や労働組合の枠組み、
労働者を保護する法律の基礎にも。


ラナーク
どうしようもなくみえても、
どこかの海岸に辿りつくことだって考えられる


2014.5.29
妖精ミンスがミント草に変えられた伝説にはこんな説も。


プルートの妻プロセルビナとミンスは、
同じ妖精の国出身で、
ミンスは自由に冥界と妖精国とを行き来できた。


ミンスは妖精国の香りを運び、
プロセルビナは彼女の匂いをかぐたびに、
いやます望郷の念に駆られていった。

その思いをとどめるためミンスを草に変えてしまうが、
それでもこらえきれず、
彼女はとうとう故郷に帰ってしまった。


人は時に他人に理解されなくとも、
それに思いを馳せる瞬間はあるのかも。


ミンス
思い出は匂いだけに非ず
気持ちの高まりや雰囲気、何より場所がその匂いを思い起こさせるのかも


2014.5.26
「きみに言いたいことがある。
 ぼくはあの糞婆さんなら、たとえ殺して金をとっても、
 いっさい良心の呵責を感じないね、賭けたっていい。
(中略)
 いまのは、もちろん、冗談だが、ひとつ考えてくれ。
 一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて、意地悪で、病身な婆さんがいる。
 だれにも必要のない、それどころか、みなの害になる存在で、
 自分でも何のために生きているのかわかっていないし、
 ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。わかるかい?わかるかい?
(中略)
 ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、
 誰の援助もないために、みすみす身を滅ぼしている。
 それも何千人となく、いたるところでだ!
 修道院へ寄付される婆さんの金(死後、自分に使うお金)があれば、
 何百、何千という立派な事業や計画を、ものにすることができる!
 何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、
 零落から、滅亡から、堕落から、性病院から救い出せる―――
 これがみんな、彼女の金でできるんだ。
 じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうだ?
 そして、その金をもとに、全人類の共同の事業に一身を捧げるのさ。
 きみはどう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか?
 ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。
 ひとつの死と百の生命を取りかえる――こいつは算術じゃないか!
 それにいっさいを秤にかけた場合、
 この肺病やみの、おろかな意地悪婆さんの生命がどれだけにつくだろう?
 しらみかあぶら虫の生命がいいところだ。
 いや、それだけの値打ちもない。
 だって婆さんは有害なんだからな。
 この婆さんは他人の生命をむしばんでいるんだから。
 このあいだもあの婆さんは、カッとなって、
 リザベータの小指に噛みついたんだぜ。すんでのことで噛みきるところだったんだ!」
『罪と罰』抜粋

日々生きているうちは常に秤にかけていて、
無意識だったとしても取捨選択して今の場所を選んでいるわけで。
今日の秤は明日にはなく、
明日の秤はまだここにはなく、
どの秤が大切かなんてみえやしないけど、
だから秤は重く感じるのかも。

秤
個人の利害のみばかり秤にかけるならばどうもバランスが悪いような。
まわりとバランスを取り合って、
ひとつひとつの石がうまく積み重なって頑強な橋は長い年月在り続けているようで。


2014.5.25
グロッシナ・パルパーリスという蝿は、
睡眠病の病原体トリパノゾーマへの感染経路だったと偶然の重なりで発見。

真意を知らずにそれに感染された患者が厳重に隔離されていたことも。

結核菌やコレラ菌を発見したコッホさんは、
精力的にこの原因究明に挑んだ。

1908年来日の際にはこんなことも述べていたとか。

「伝染病の研究は単に実験室に於いてのみ行われるべきものではなく、
 実験室以外に於いて起こる総ての偶然の出来事をも併せて考慮すべきである」



グロッシナ
表面上だけ対処しているだけの症状主義では、
その奥に隠された本当の原因はなかなかみえないんだとか



2014.5.22
青春米ドラマの主人公フェリス・ビューラーは、
「人生はあっという間に過ぎていく。
 たまに立ち止まり、周りを見渡さないと、人生を逃してしまう」
と言ってるとか。

学校嫌いな彼はあれやこれや病欠する理由を考えてる。
限りある時間を自分なりに有効に使おうとしてなんだろうか。

どんな背景だったとしても、
自由な発想と行動はそうやってでもしないとなかなか踏ん切りがつかないのかも。

たまに立ち止まれる友人たちとの出会い、
まわりを見渡すゆとりのできる習慣、
そんな時間を過ごしてもあっという間に過ぎていくものも。

時折
どこでもありがとうの言葉は交差する
感謝するところに幸せというものは降ってくるらしい
そんな諺があるんだとか


2014.5.20
「あれの後・・・」


罪と罰の主人公ラスコーリニコフは、
不思議な夢をみた。

幼い頃父に手を引かれ横目でみた酒場での出来事。
ミコールカその他まわりの酔人たちの愚かな行動。
悔い改める自分の軽率な判断と妄想。

この時点で「あれの後・・」は消えたはずだったのに。

消えたようにみえたそれは沈んだだけであって、
池深くに沈むものが雨で浮き上がってくるように、
それもまた1つのであいによって舞い上がってきた。

青空の下ばかりにいたら、
その人の世界はせまくなってしまうような。


ハインリヒ
曇り空の先に青空があるって言ったって
ここからはみえやしない



2014.5.18
昔は女の人が固い繊維を何度も何度も棒で叩いて、
柔らかくして布を織ったところから「数える・数」の意味を表すようになったとか。

また女という漢字もまた、
祈る姿形から成り立っているんだとか。

何度叩けば布を仕立てることができようか
何度この歌を歌えば柔らかくなるだろう
何度想う頃にこれは形になるだろう
何度この朝日を夕日を眺めれば

数は確かな証拠か。


数
ケニアの女性も歩数を重ねながら何かを考えていた



2014.5.16