ランニング中、
自分の横を1人の男の子が走っていきました。

彼らにとっては、
走ることも歩くことも生活の一部。

趣味でもエクササイズでもなく、
単純に家に帰る手段。

ここでは、
50円だとか100円の節約のためにも、
何キロも歩いたり走ったりしてる人がいます。

物価の上がるほんの数年前までは、
その50円が家族の1日分のご飯代になっていたから。
今はどうかは知らないけど。


走りながら、
家はどこだとか、どこの国からきたとか、
今日は何をするんだとか話して、
そのまま去っていきました。


彼の姿は、
闇の中に消えました。

自分の影も、
夜に紛れました。

黒の世界で、
異なる色が混ざり合いました。

どんな色かは、
誰も分からないかもしれないけど、
なんだか温かい色でした。

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ランニングにくっついてくるsammyくん

5udaのブログ-1
ランニングコース1

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ランニングコース2


2012.12.12
感謝は遠くからと言うみたいだけれども、
それは身近な人へ伝えてみてからなのかな。

コカ・コーラの社長を16年間やってたゴイズエタさんは、
大株主でビルゲイツと並ぶ億万長者のパフェットさんに
毎日電話をかかさなかったんだとか。
そのおかげか、
どんだけ株が暴落しても支援を続けてくれたらしい。

戦争写真家のゆっくりな話し方で有名になった渡辺さんも、
危ない戦地に行くずっと前から、
その国の主要な人とのメールは欠かさなかっただとか。
何気ない家族の話をするとかの会話で、
お互いの信頼関係を築いてきたみたい。


1度の出会いでも身近に感じる人はいるのだから、
身近な人っていう、
定義は難しいのかもしれないのだけれども、
ふとゆっくり考えてみて、
あの人との出会いが、
と思い出したとき感謝を伝えることは大事なのかもしれないし、

今目の前にいる人に伝えられることは、
この先一生会えないのかもしれないのだから、
それも大事なのかな。


つい先日、
両親に電話をしてみました。
メールはしていたんだけれども、
3ヶ月ぶりに声を聞きました。
やっぱり親は親なわけで、
声を聞くだけで嬉しいみたいです。

自分もなんだかんだ、
最近まで1年半ぐらいいたから、
どうってことないかなと思っていたけど、
やっぱり元気な親の声を聞くと
少しは安心することができました。

今は電話ぐらいしかできないけど、
自分なりの感謝の伝え方でいいから、
続けられたらと。


$5udaのブログ-身近な人
「ありがとう」と言うとはにかむ少年


2012.12.11
元気のないときは元気な人の近くに、

と昔なんかで聞いたような。



『怒りの葡萄』で知られるスタインベックは、

「あんまりひとりぼっちの人間は、しまいには病気になるもんだ」

と言ったんだとか。


同作品の中で描かれている、
米の大恐慌と技術革新が作り出した
不況と失業の地獄絵図もこの言葉に関係しているんだろうか。


1日7人と話さないと精神的にまいってきちゃうと、
どっかの精神科医が研究してたそうだけど、
他者との関わりは、きっとそれだけでも意味があることなんだろう。


ひとりぼっちなんかで病気になっちゃうなんて、
ひとりになりたいからひとりぼっちを選んでいるのに、
あんまりな言葉だと思うのだけれども、

だから元気なときに、
少しずつでもみんなに元気を分けてみるのがいいのかな。

きっとその元気が
いずれ元気がなくなったときに、
不思議と自分に降ってくるんだろうから。


$5udaのブログ-元気
生きてるだけで元気を振りまく彼ら


2012.12.10
馬と驢馬。

別に互いに比べる存在ではないんだけれども、
どうしても能力的には比べられてしまうのかな。

そもそも驢馬の驢には、うさぎうまだとか、ろばという意味が含まれているんだとか。
ロバは馬より小さく、おとなしくて忍耐強く、長いうさぎのような耳を持っているから、
うさぎうまと言うらしい。

[驢]で、ろばと呼べるなら、
わざわざ[驢馬]と馬を付けた意味はなんだろう。

結局、馬の一種でもないらしいのだから、
驢でいいのだろうけれども、
ろばはうまになりたかったんだろうか。

馬と驢馬の能力は違うのかもしれないけれども、
それはそれでいいんだと思う。

木とか花とかの存在そのものが意味あるように、
能力とかで比べてしまったらその存在そのものに、
意味がなくなってしまうんだろうから。

もし、それを無視してしまうのなら、
それだけ自分の世界が狭くなってしまうのかな。

だったら、
馬でも驢馬でもいいから、
怠けない日々だったらいいなと。

怠けは馬でも驢馬でもなく、
馬鹿にしかなれないんだろうから。

$5udaのブログ-ろば
水を運ぶ人と驢馬


2012.12.9
そういえば、
小学生の時の学級通信が
「ちりつも」(塵も積もれば山となる)
だったような。

塵はいつになっても塵だろうし、
別に山になる必要もないと思うけど、
塵でも山になれるっていうのは
夢があっていいなと振り返って思うところ。


「功の成るは成るの日に成るにあらず」
と中国の蘇洵さんは言ったそうですが、

塵のように思ってしまう今日でも、
いつかその山にとって大事な1日になるんだろうか。


$5udaのブログ-砂利山とお母さんたち
砂利山とお母さんたち


2012.12.8
今朝、トラックの荷台に80人ぐらいの男たちが乗っている姿を見かけました。

どこに行くんだろう。
きっと出稼ぎの男たちなのかなと。


疎外という言葉は疎遠の状態・遠ざけられていることを意味するようですが、
マルクスさんの用法が有名なようで。


労働者は賃金を受け取るけど、
生産した商品自体は資本家の元に行っちゃうわけだから、
商品の疎外に。

また、資本家の命令で労働も分業されるのだから、
労働の疎外に。

更に労働者は競争の結果、より賃金を受け取るのだし、
それは人間の能力が人間そのものでなく、
貨幣によって価値が決まるのという意味で、
人間から遠ざけられているのだから、
人間の疎外に。


マルクスさんは、
人間がこんな社会の歯車のようになっている疎外状況を打開しようと、
生産手段を労働者みんなで分けろと革命をおこし、
儲けもみんなで分けると主張しながら、
社会主義思想の元となる経済システムを導入したんだとか。


今朝みた彼らは、
何から疎外されているんだろう。

ただただ生きてくために食べてくために働くというのは、
人権の疎外になるんだろうか。


教育に携わる身としては、
もし教育の疎外という言葉があるなら考えなきゃいけないのかなと。

きっと、広義の意味では、
教育そのものの機会がないことを意味するのだろうし、

狭義の意味では、
一人一人の可能性を、
教師が摘んでしまうことをいうのかもしれない。


もし疎外に対義語があるなら、
それはつなげるという言葉なのだろうか。

なら、
疎外する人でなく、
つなげる人でありたいと、
ふと思った朝でした。


$5udaのブログ-疎外
文化・言語の疎外がみせてくれたいま


2012.12.7
世の中には失敗学というものが、あるそうで。

うる覚えですが、
英米の大学院では、
いかにいい失敗をするか、
それが学問の対象になっているんだとか。


「失敗しない人間というのは、たいてい何も生み出さないものだ。」

と、米のフェルブスという弁護士兼外交官が言っていたそうですが、

失敗しない人よりも、
失敗を乗り越える人に、
という思いがあったんだろうか。

失敗って、
他人と比べるから、
恥のように感じてしまうのかもしれないけど、
自分と比べる上では、
単なる新しい経験になるんだと思う。


だけれど、できるなら失敗はしたくないな。

でもどうせ失敗してしまうんだろうから、
失敗を一緒に笑ってくれる人がいたらと。
そうしたら、少しは失敗も楽しいかもしれない。

$5udaのブログ-ビル
ケニアの高層ビル
このビルを登ることは「成功」なのだろうか


2012.12.6
ほどほど、という意味が適切なんだろうか。

ある本によれば、
両極端の中間なのだから、

臆病と無謀の間の勇敢
無感覚と放埒の間の節制
追従と無愛想の間の好意
卑下と自慢の間の誠実

といえるのではないか、と。


孔子が説いたものであるけれども、
過不足ない適度な態度を保つことなんだとか。

アリストテレスも
<メソテース>と主張し、

「恐怖、自信、欲望、怒り、憐れみ等々の快不快は、
 感じすぎることもあれば感じなさすぎることもあり、
 その両方ともよくない。
 これらの快不快を、適切な時に、
 適切な事物に対し、
 適切な人々に向かい、
 適切な動機により、
 適切な方法で感じることが、
 中庸であると同時に最善であり、
 これを徳という」

と、推奨されるべき人間の徳であると言ってるんだとか。


ただ、上記の<中庸>も他者という関係性によって変化していくんだろう。

なら、更にこう言い付け加えることは出来ないんだろうか。


自己中心的な勇敢さと他者のための勇敢さ
自分に対する節制と他人の為の節制
自ら好かれたいがための好意とあくまでも相手のための好意
自己アピールのみの誠実と見返りを求めない誠実

と。

もし、中庸にも上下があるのならば、
上の中庸をたまには過ごしてみたい。


$5udaのブログ-nature
同じ景色も気持ち次第で違って見えるんだろう


2012.12.5
知人の教え子で、
何度も何度も空を飛ぼうとしていた園児がいたそうで。

いつも言うそうです。

「空を飛びたいな」と。


諦めきれず、
ある日園に、
鳥を打ち取る自作の道具も作ってきたんだとか。

あの羽があれば、空も飛べるはずだと。


でも、
「鳥さん可哀想だよね。羽がなくなったら」
との一言で、鳥に共感したのか、
とぼとぼ帰っていったらしい。


また別日。

給食に鳥がでた。
やっぱり彼は諦めきれなかったんだろう。
先生に許可をもらって、
肉付きの手羽先を残した。
友達にもらった骨だけの手羽先と自分の肉付きの手羽先。
これを両手に持って、
滑走路とジャンプ台を用意して、
何度も何度も飛ぼうとしたんだとか。

結局、
「お肉じゃなくて、羽じゃなきゃだめなんだね」
と諦めたらしい。

ただきっとまた、
「空を飛びたい」
と思うんだろう。

一度は自分なりに空に近づいたんだから、
今までとは違うようにみえるその空を見上げながら。


$5udaのブログ-sky
今日も誰かがこの空を飛ぼうとするんだろう


2012.12.4
ヘイウッドというアメリカの労働運動家は、

「よじ登ることのない者は、決して落ない」

と言ったんだとか。


新しい環境や分野を始めた頃にふさわしい言葉なんだろうか。

不安や失敗を恐れていても、結局何も始まらないのかな。

落ちてしまったとしても、
登ったとこからみえた景色は忘れられないんだろう。

上ばかり見上げるより、
一度は上から下にいる過去の自分をみてみたい。


ただ今はバカの壁を登り始めているので、
早く落ちようと思います。

そうして、また登り始めれればいいなと思います。

$5udaのブログ-climd
彼らはどう登っていくんだろう


2012.12.3