明菜さんが少女Aなら
この少年はMとしておこう

聖子ちゃんの大ファンである
M少年は決して裕福な家庭環境ではなかった
なのでレコードを買う余裕はない
予約特典のポスターはGET出来なかった
ひたすら、ダビングしたカセットテープを伸びるまで聴く
あまりにもヘビロテするので
曲はソラで歌えるようになった

だが、M少年には
バイタリティがあった

聖子ちゃんの等身大POPを
お店の方に「ください」と依頼
「キャンペーン期間が終わった時、他に誰も欲しい人がいなかったらあげるよ」

他に欲しいと名乗り出る者はなく、POPはM少年のものになった
友達と電車で二人がかりでPOPを運ぶ

やがて少年の家には聖子ちゃんの等身大POPが6体出迎えてくれることとなった

聖子ちゃんに会いたい
その一心で大学では
独学で芸能界の勉強をした

その想いは実る
レコード事務所に就職した少年は飛ぶ鳥をおとす人気のWinkの
マネージャーになった

その後も、堀内孝雄さんや
元おニャン子の城之内早苗さん
和久井映見さんらとともに
仕事をする

モー娘。と仕事をしている時
ついに聖子ちゃんと逢うことに

娘の沙也加ちゃんがモー娘。のファンだったからである

仕事上の立場があるので
聖子ちゃんのサイン✍️一枚すら
もらわず
あくまでモー娘。の一関係者として、聖子ちゃんと接する

その誠実さは21聖紀になっても
少年の心を失わず
千葉の聖地となった
昭和歌謡バー
Golden Jukeのマスターとして
連日、聖子ちゃんファンはもちろん聖子ちゃん以外のお客様にも囲まれる

 

 

お店のリンクはココ

   ⇩

otikku502.wixsite.com/my-site-1

 

 

本日、2024年6月23日は永田ルリ子さんのお誕生日です。

おめでたいです。

 

遅い時間になりましたが、このお誕生日の日に

書いておきたいことがあります。

 

ルリちゃんは、ソロデビューしたいと直訴しました。

自分の推測ですけど

ホントにそのようなお気持ちだったのかな。

前に出るのは、躊躇しそうな方に思えるのです。

 

「お母さんが仕事をやめちゃって」

ルリちゃんが

書かれていたのを思い出しました。

【経済的に収入を得なければならない】

 

津田沼高校はアルバイト禁止です。

これは津田沼高校OBから聞きました。

聞いたことを、そのまま書き連ねると

「でも、永田だけはバイトが認められていましたよ」

人の家の経済事情を勘ぐるのは気がひけますが

逼迫した状況だったのかなって。

 

ルリちゃんは1987年6月23日

当時の実家に戻ってきませんでした。

バースデーだったのですが。

いや~、24日午前2時まで家の近くで待っていたのですけど。

37年前のことなんですね。

これ今なら、自分お縄ですね。

 

1988年2月19日にルリちゃんは結婚されたと

聞きました。

生稲さんがスピーチされたようです。

(上手そうですよね、首席で入った吉祥女子の新入生代表で挨拶するくらいですから)

 

すぐに探し出せないのですが

親友と同じ人を好きになったらどちらをとりますかの質問に

ルリちゃん「昔は親友でしたが、今の私はわかりません」と

答えていらっしゃった記憶があります。

解散宣言の頃には、既に意中の方がいらっしゃったのではないかと。

 

そして、すぐ子宝に恵まれ

お子さんが思春期になれば

映像消してぇ~っと

せざるを得なかったのかなと。

ルリちゃんが女優になられたお姿を見たかったですけどね。

 

良い方に考えたい。

ですが正直、おニャン子映像にモザイクがかかるのは

寂しいです。

 

ルリちゃんファンだったら

そりゃもう、なんでやねんとなることでしょう。

 

ご家庭の事情がそうさせざるを得なかったのかなと。

勝手な推測です、はい。

 

もっと論理的に書ければ良いのですが

自分の力量だとここまでが限界のようです。

松田聖子さんの撮影会を開催いたします。

 

さいアリ公演🎤✨

 

(2023年の写真)

 

日本武道館公演🎤✨

 

(2023年の写真)

 

に続き

6月28日(金)・29日(土)・30日(日)大坂城ホール公演🎤✨

でのイベントをご紹介いたします。

 

全日程、「開演2時間前」と「開演1時間前」のイベントとなります。

 

また、「公開」イベントとなっておりますので、Facebook含め、X(旧ツイッター)・Instagram等の各種SNS媒体での「シェア」ご協力をお願い申し上げます🙇‍♂

※開演2時間前のイベント(【1回目】撮影時間)メインで「シェア」お願いいたします。

日時:2024年6月28日(金)

   1回目 16時30分〜 (レッドスター)

   2回目 17時30分〜 (レッドスター)

 

 

   2024年6月29日(土)

   1回目 15時〜 (レッドスター)

   2回目 16時〜 (レッドスター)

 

   

         2024年6月30日(日)

   1回目 13時〜(兄貴さん・レッドスター)

   2回目 14時〜(兄貴さん・レッドスター)

 

 

場所:大阪城ホール前「噴水広場」

スタッフ:兄貴さん、レッドスター

 

 

(写真はレッドスター)

 

 

他のお客様にご迷惑をかけないよう、5分以内で済ませます📸✨

何卒、よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️

注1:当日撮影する記念写真は、参加者どうしでシェアしたり、各SNS等に掲載することがあります。

注2:新型コロナウイルス感染症が5類に移行に伴い厳しいルールは設けませんが、節度ある行動をお願いいたします。     

注3:パラパラ少雨決行📸✨

微妙な場合、様子を見て判断いたします。事務局スタッフの声の聞こえる周辺で待機して下さい🙏

 

 

今日は2月3日節分です。

鬼は外、福は内。

鬼は外、福永さん・内海さん。

 

1986年夏、ルリちゃんの家を探しました。

船橋市飯山満まで住所がわかっていたので

すぐに突き止めることができました。

 

さすがにチャイムを押す勇気はなく

その日は、おとなしく帰宅しました。

 

2回目は、1987年冬。

テスト期間が終わり部活は2週間オフでした。

すでに、おニャン子メンバーの家を探り当てては

ご本人からサインをいただいたり

ご家族の方とお会いして返信用封筒で

サイン入り色紙を送り返してもらったりと

実績と場数も踏んでいたので

ルリちゃんの家のチャイムも

ためらいなく押せました。

 

お母さんと思われる方が出てきてくれました。

ワンワン、ワンワン、たくさんの犬の声とともに。

「うちは、この通り動物がたくさんいるので…」

あ、まあそれじゃ仕方ないかと

ルリちゃんが家から出てくるのを車の中で待ちました。

 

それにしても、お母さん随分顔色が悪かったなあ。

おニャン子本でルリちゃん

お母さんが仕事をやめたって書いていたしなぁ。

 

5時間くらい待ちましたかね。

飲まず喰わずトイレにも行かず。

 

もう、そろそろ家を出ないと夕ニャンに間に合わないぞ

と思った頃合いに、ルリちゃんの家から車が出ていきました。

 

しまった、あの車に乗っていたかもしれない。

最寄り駅までお母さんが車で送っていったのか。

ルリちゃんが徒歩でバス停まで歩くと思い込んでいた。

 

めげている暇はありませんでした。

自分は箱推しだったので

頭を切り替え次の日から

他のメンバーの追っかけを開始しました。

何せ部活が再開されるまで時間が限られているので。

 

あれから、30余年経った2022年夏、ルリちゃんの家に行きました。

名字が変わっていました。

自分がツイていたのは、隣の家の方が帰宅するところに遭遇できたことです。

 

さらにツイていたのは、その方がとても親切な方だったことです。

「すみません、5分くらいお時間いただいてよろしいでしょうか」

 

質疑応答でわかったことがあります。

♡隣の方はルリちゃんのことを「ルリちゃん」と呼んでいました。

ちゃんと挨拶が出来る子でしたよと。

追っかけが近所に迷惑をかけていただろうに(人のこと言えない自分)

ルリちゃんに対して悪い印象はないのだなと思いました。

♡「ルリちゃんは、あれから2年くらい後に引っ越しましたよ」

「熊本に行かれたのですか?」

隣の方、どこに引っ越されたかわかっているようでした。

「熊本では、ないですね」

♡動物をたくさん飼ってらっしゃったのですか?

「チワワが4匹いましたよ」

 

最後に、こう言ってくださいました。

「ルリちゃんは幸せに暮らしているはずですよ」

永田家とは家族ぐるみのつきあいで

今もルリちゃんの消息を知っていらっしゃるようでした。

あまりしつこく聞くのも、イカンと思い

お礼を言って帰宅しました。

 

当時から変わらないのは近くに電電関東(今のNTT東日本)硬式野球部のグランドがあったことです。

ルリちゃんの家を探す前から、野球好きの自分はよく、このグランドで練習を見ていました。

 

また、30数年後に気がついたのは近所に『船橋中央自動車学校』があったことです。

この教習所の専務さんは、元ジャイアンツの林投手。

高校は市立船橋高校でした。

高校時代から見ていましたのでプロで長くご活躍されたことは、とても嬉しかったです。

 

当時ルリちゃんが見ていた津田沼の景色です。

津田沼パルコ(今はありません)の屋上に自由の女神像が立っておりました。

写真だと、小さい女神像ですが真下に行くと、とても大きい女神像でした。

 

津田沼駅に欠かせない「つけ麺SL」

ここも、今はありません。

よく食べましたね。

 

最後にルリちゃんの聖地になるでしょうか。

千葉県にあるJRの永田駅です。

無人駅なのです。

 

とまあ、文才がないのでうまく伝わらなかったところが多かったと思いますが、外伝として、ルリちゃんファンの方に喜んでいただければと思い文字盤を叩きました。

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分は、小学2年の時に千葉に引っ越してきました。

千葉の土地勘は、割りとある方だと思います。

今日は、クリスマス。

おニャン子クラブ会員番号18番・永田ルリ子さんの記事を書きたくて仕方がない人がいます。

が、健康上の問題で叶わないようです。

そこで、おせっかいとは思いつつ、ルリちゃんの記事を自分が更新いたします。

文章を書くのは、あまりうまくないので、ご了承ください。

 

そもそも、永田ルリ子という名前は本名なのか。

本当に津田沼高校出身なのか。

千葉住みだと千葉日報の当時の高校合格者一覧を見れば一発で回答が出ます。

 

 

個人情報(ルリちゃんも個人情報ですが)なので、他の合格者の名前は塗りつぶしております。

はい。本名で津田沼高校に合格していたことがわかります。

さらに補足すると、自分の部活の後輩のお姉さんがルリちゃんと高校時代仲が良く

後輩の家によく遊びに来ておりました。

おニャン子クラブが解散してから、この話を聞いたので残念でしたが

ルリちゃんが遊びに来た部屋には入らせてもらいました。

後輩のお姉さんの部屋です。

 

さて津田沼高校ですが、家からスクーターで20分くらいですかね。

すぐ着きます。

【正門】

【校章】

これは、まさしく津田沼高生がつけている校章です。

ついでに、当時の女子の制服も載せておきます。

今は、制服が変わっております。

【生徒さんの教室がある方の建屋】

千葉の県立高校は、同じ作りが多いのです。

自分の高校と似ているので、笑っちゃいました。

写真からは見切れているのですが、左側は職員室や実験室、家庭科室などの建屋があります。

こちらの建屋が職員室側です。

【グランド】

体育館と校舎が見えますね。

この道路からは、半永久的に変わらない景色「谷津干潟」が見れます。

なんでも「ラムサール条約」という決まり事で、ずっと保存されるようです。

この景色は、ルリちゃんが見た頃と変わっていません。

はい、自分が36年前に見た景色とも、変わっておりません。

駆け足で書いたので、雑な文章になってしまったことをお許しください。

校歌はYouTubeにて、津田沼高校校歌で検索できます。

URLが長くて、登録できませんでした。

こちらの写真で、ご確認ください。

 

 

 

 

7/30(日)、 #goldenjuke さんという、昭和歌謡バーにいきました。こちらのマスターは、松田聖子さんの大ファンで店内は聖子さんのポスターやブロマイドがたくさん飾られています。

この日は広島から、友達の茂ちゃんが来るので松葉杖をついてお店へ行きました。茂ちゃんはストリートミュージシャンをやっているので、とても歌がうまい。高音の領域が自分よりオクターブ広い。

もちろん聖子さんのファンなのだが、着ている服がセーラーズ。初対面の時からセーラーズ。話してみると、おニャン子クラブネタで盛り上がった。この時は大阪の聖子さんファンも交えて広島・大阪・千葉の「聖子ちゃんサミット」だったので、おニャン子は「夏休みは終わらない」一曲のみに抑えたが、二回目は特に縛りもなかったので、レアなおニャン子を存分に歌唱しました。

自分も、大切にしているファイナルのTシャツを着用。ガチでおニャン子を歌いました。

 

【セトリ】
①天使のボディーガード ゆうゆ with おニャン子クラブ
茂ちゃんが、ゆうゆを歌ったので、自分がwith おニャン子クラブを務めることに。ホントは3人バックがいるのだが、一人なのでルリちゃん役の大役に。時間差でお皿を左右に振る振り付けもバッチリ決まりました。

②星座占いで瞳を閉じて おニャン子クラブ
茂ちゃんが先にソロ部分を歌ったので、なかじ。自分は新田ちゃん。実は、生まれて初めてカラオケで歌ったのだが難なくこなす。♪占いが ♪占いが お互いに手を差し出しました。

③渚の『・・・・・』 うしろゆびさされ組
茂ちゃんのキーが高いので、麻巳ちゃんを必然的につとめることに。精密採点のバーを一段上げて綺麗に歌ってくれたので、ハモりました。

④夢の花束 おニャン子クラブ
茂ちゃんが一番好きな、おニャン子ソング。終盤の掛け合い部分では「和ちゃん」「福永」「その子」「新田ちゃん」と声を掛け合いながら寄せて歌唱。

ホントは「避暑地の森の天使たち」も歌いたかったのですが、JOYなので入っていないのです。DAMだけなんですよね。♪ワ・り・キ・れ・ナ・い・ノ・よ を一文字ずつ歌いたかったです。なかなか、歌える人がいないので。マイクをホースにしたり、お富さんのメタリノームをどちらがやるか、満里奈ちゃんの指かきまぜはどうするか、いろいろ決めれば面白かったなぁと。



楽しい夜でした。
 

7/7(金) 会社を半休して、武道館へ。聖子さんの写真撮影会のお手伝いをさせていただく。名誉ある旗手を務める。

7/8(土) 再び、武道館へ。リクエストコーナーで自分がリクエストした曲を聖子さんが歌唱してくださる。

7/9(日) ソフトボールの試合。セーフティバントを試みて一塁ベースをめくりあげるほど、けつまずく。コレ、ヤバイト思イツツ、最後マデ試合出場。

試合終了後、救急病院へ。レントゲンでは、骨に異常なし。
7/10(月) 会社に出勤。足が痛くて1時間有給。翌日は休むと上司に伝える。すぐ整形外科に行き診察。翌日のMRIを予約。
7/11(火) MRIの結果、骨折判明。
7/18(火) むくみが酷く松葉杖継続。リハビリの先生から、ギブスを包帯で強く巻きすぎとの注意を受ける。いや、これ先生が巻いたまま、1㍉も動かしてないんですけど。
7/24(月) 相変わらず、むくみが酷く休職が2週間伸びる。上司に連絡し、診断書を郵送で送付。
7/25(火) 上司から頭脳労働で8/1から職場復帰を依頼される。医師に相談することとし保留。
7/26(水) 医師の許可がおりたので、8/1から職場復帰決定。

 

 

 

久しぶりに松田聖子さんと原田真二さんのデュエット曲「夏物語」を聴きました。

聖子さんは綺麗だし、原田真二さんはカッコイイし、お似合いだなと思いました。

 

 

原田真二さんのことをWikipediaで調べてみたら、自分が興味を持ったアーティストさんたちと関わりがありました。

1977年10月25日「てぃーんず ぶるーす」でデビュー、作詞が松本隆さん。

松本隆さん曰く「原田真二がセールスに結びついたことで、"ボクの少年シリーズ"を近藤真彦で集大成させた」と。
マッチさんは、高校の時よく聴いていて、良い歌詞だなぁと思ったら、松本隆さんの歌詞だったことがたびたびありました。

「スニーカーぶるーす」「ブルージーンズメモリー」「ハイティーン・ブギ」等々のシングル曲を松本隆さんが手がけています。

自分が好きだった曲は「ミッドナイト ステーション」のB面「天国でプラトニック」でした。

 

 

♪蜜のような甘い霧が 白い部屋に流れる

いかにも、松本隆さんっていうような表現です。

 

原田真二さんのデビュー時の事務所が「アミューズ」。しかし、事務所社長がキャンディーズの元マネージャーだったことで、渡辺プロダクションに契約プロデューサーとして出向、解散コンサートにかかりっきりになり、原田真二さんの活動をケアーできず半年で退所。

 

 

RCサクセションが所属していた「りぼん」へ移籍。
 

 

高校の頃、よく聴いていました。

「ステップ」とか「スローバラード」「トランジスタラジオ」など。

原田真二さんと入れ替えで入所したのが、サザンオールスターズ。アミューズの社長は「原田が辞めていなかったら、サザンを売り出す余裕はなかった」と話していたようです。
キャンディーズの解散がサザンオールスターズの売り出しに関わる不思議な縁。

 

 

原田真二さんは、デビュー当時から一貫して「純粋に音楽の持つ力を信じていて、音楽を通してメッセージを発信し平和に貢献したい」と語っておられます。
その一つが「鎮守の杜コンサート」。初めて開催されたのが、2000年8月26日、明治神宮にて。
聖子さんの夏のツアーにゲストとして参加した後に、今度は聖子さんがゲストで参加。
YouTubeを探したら出てきました。
聖子さん、歌唱していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

7/8(土)。
武道館で松田聖子さんのコンサートがありました。
コンサートの中で、アコースティックコーナーがあり
終了するとリクエストコーナーになり
聖子さんがリクエストボードに応えて歌唱をしてくださいます。

自分は、デカいボードを曲名だけにして2席の方にご協力いただき、掲げました。
曲名はWITHYOU 。
この曲は、聖子さんのベストアルバム「seikoplaza」 に収録されております。
本日、聖子さんがWITH YOUをBメロまで歌唱していただくこととなりました。

「With You」は、Twitterの仲間が「WITH YOU広めよう会」を立ち上げて、自分も会員なりました。

結構、反響が大きくリクエストボードが数十枚上がるようになりました。
昨年(2022年)、聖子さんがワンフレーズ歌ってくださいました。

さらに、今年(2023年)も歌ってくださいました。

聖子さんに「With You」を歌っていただくのは、至難の業。
しかも、良席でないとボードが見えません。
自分は、特大の横断幕を作りました。

なかなか、歌ってもらえないのは承知のうえ、本日のリクエストコーナーでは
「聖子ちゃん(本来、自分は聖子"ちゃん"とは言わない)WITH YOU歌って~」
何度も大きな声で連呼しました。
その声は2階席の端にいる友達にも聞こえていたそうです。

何度も何度も会場全体に響く声で連呼するので、聖子さんもやれやれと言った感じでWITH YOUを歌唱してくださいました。
しかも、通常より長く、ワンフレーズどころかBメロまで。

自分の声がリクエストコーナーを少なからず台無しにしてしまいました。
聖子さんも、この曲に想いがあったのでしょう。
長く歌っていただけましたが、自分の心は晴れませんでした。
ワンフレーズだけでいいのに。

ボーッとして、よく覚えていないのですが、聖子さんは
「皆さん、うるさいですね~」的なことを仰られていたと記憶しております。

はい。
「暴力的に、デカい声で曲をアピールすることは、以後認めませんよ」と聞こえました。全くその通り。
今回は特例で認めたけれど、同じようなことはやってはいけないのだなと思いました。

自分は、聖子さんに土下座して謝罪したいです。
すみませんでした。

選挙もひと段落したので、もう書いてもいいかなと思いました。

自分が持っている雑誌の切り抜きに

生稲さんは、お母さんに似ていると書いておられます。

細かくて几帳面なお母さん。

古新聞を出すのでも、新聞を一枚一枚たたんで

四隅の角をビシッとそろえて出す人。

 

当時、生稲さんの洋服は、お姉さんとお兄さんのお古。

生稲さんが着られなくなったものは雑巾にする。

"苦労人"タイプのお母さんだったようです。

 

"生稲"という名字はお母さん方の姓で、お父さんが養子に

来られたそうです。

千葉の冨浦のお母さんの実家は、それなりに続いた家で

田地田畑があり、早くに他界されたお祖父様に代わり

田舎の実家の諸問題を一人で背負い込んでいたようです。

 

生稲さんは、そんなお母さんの胸のうちを理解していました。

日常的なことも含めキチッとやっていたほうが

疲れるけど気持ちがいい。

 

生稲さんの小金井市立第三小学校時代。

おとなしくて引っ込み思案な性格で

入学式早々、お母さんの姿が見当たらなかったため

泣いてしまいました。

小学3年の時、習字を習い3級までとりました。

生稲さんのサインが綺麗なのは

習字を習っていたからだと思います。

 

 

入学当時は、おとなしくて目立たなかったが

学級委員やリレーの選手をやっているうちに

学年でも目立つ存在になりました。

性格も、徐々に明るく活発になっていきます。

 

小学6年の臨界学校は千葉県・鵜原。

ここは、自分もよく行きました。

友達のお父さんが別荘を持っていたので。

臨海学校最終日に"おわりの言葉"を述べました。

市の弁論大会で「読書の重要性」をテーマに話し

優秀賞を授賞。

市のサッカー大会に助っ人選手として参加し優勝。

ハットトリックも決めました。

Wikipediaには、全国大会優勝と書いてありますけど

小金井市の大会で優勝したということではないのかなぁ。

 

 

生稲さんは、中学・高校とバレーボールに青春を賭けていました。

小金井市立緑中学時代は1年生の中から大抜擢され

セッターとして試合に出場。

運動会では、リレーの選手、100㍍走1位。

 

 

2年生の市民大会でバレー部の先輩が引退すると

キャプテンに任命されました。

3年生になると、怖いものなしで、やりたい放題。

遅刻をして反省分を書かされるわ

みんなで先生にいたずらするわ

真面目なイメージが強い生稲さんですが

茶目っ気もあったようです。

成績は常によく、ほぼオール5。

 

 

吉祥女子高校にトップの成績で入学。

入学式翌日の対面式で、上級生に挨拶の大役をこなします。

入学式から1週間後、バレーボール部に入部。

レシーバーとして期待されていたが

6月に検査で心臓がおかしいと言われ

激しい運動を止められる。

が、バレー部はやめず

マネージャー兼補欠として、籍を置き続けました。

 

 

バレー部は朝と放課後、練習がありました。

制服以外の時間はジャージ姿。

そのジャージも膝に穴があいていて

新しいものを買ってほしいといえば

買ってもらえたのに

毎晩、財布の中の一円玉を十枚重ねて勘定し

家計簿をつけているお母さんを見ていたので

言い出せず。

 

 

お金を稼いでジャージを買うために

オーディションを受け続けます。

ミス南ちゃんコンテストに応募、最後の8人まで残ります。

「夕やけニャンニャン」の"アイドルを探せ"に出演。

1986年6月9日、113点で見事合格。

会員番号40番生稲晃子が誕生。

 

 

学業は2年生になり、国立コースに進みます。

修学旅行は萩・津和野・広島。

自分と同じコースです。

広島駅で古葉監督と会い、握手しました。

 

 

3年生になり、大学受験。

自信があった志望校に落ちてしまい

芸能界を辞めて浪人を考えるも

恵泉女学園短期大学英文科に入学。

 

 

おニャン子クラブでは

合格した翌日から振り付けの練習。

6月13日に夕ニャン初登場。

7月12日、映画「おニャン子・ザ・ムービー危機イッパツ!」クランク・イン。

7月19日、夏のコンサートツアー、横浜スタジアムで「おニャン子パニック」に参加。

パンフレットでは、スペシウム光線のポーズで写ってします。

生稲さん曰く「加入したばかりで、目立ちたかったんでしょうね」とのこと。

7月26日から8月8日まで、初めての海外。ロスに渡ります。

加入したばかりの生稲さんは、誰とも話すことが出来ず

その中でも、生稲さんの前に加入した高畠さんがいろいろ声をかけてくれてました。

8月の夕ニャンで、「おいなりが出た方が負けです」と平然と言い放つ。

 

 

12月8日から、ローソンのからあげクンのCMがテレビで流れます。

 

 

 

 

「恋はクエスチョン」ではフロントの4人の中に入りました。

夕ニャンの「忠臣蔵」では。大竹まことさんの股ぐらに顔をうずめられる。

 

 

 

 

1987年4月5日、春のコンサート「おニャン子SAILING夢工場」の最終日。

国立代々木競技場で行われる。

4月6日、ニッポン放送「おニャン子のあぶない夜だよ」のパーソナリティに

渡辺満里奈さんとともに務める。

5月7日、工藤静香さん、斉藤満喜子さんとともに、うしろ髪ひかれ隊として

「時の河を超えて」でデビュー。

 

 

 

 

6月7日、夕ニャンの"チャリンコF1グランプリ"に参加。

山越えをやり、おニャン子の新記録を作る。

6月21日、ダンク杯争奪・おニャン子テニストーナメントで

布川智子さんとペアを組み優勝。

6月26日、ニッポン放送「関根勤のTOKYOベストヒット」に

うしろ髪ひかれ隊としてパーソナリティに。

 

 

8月5日、おニャン子のラストアルバム「○(サークル)」発売。

8月12日、うしろ髪ひかれ隊のセカンドアルバム「あなたを知りたい」発売。

 

 

 

 

8月31日、「夕やけニャンニャン」の最終回。

9月5日、うしろ髪ひかれ隊ファーストアルバム「うしろ髪ひかれ隊」発売。

9月20日、国立代々木競技場で「全国縦断FINALコンサート」最終公演。

おニャン子クラブ解散。

 

 

 

11月11日、うしろ髪ひかれ隊3枚目シングル「メビウスの恋人」発売。

 

 

 

 

12月から1月、ビデオ撮影、写真集撮影、レコーディングのためハワイへ。

火山の爆発に巻き込まれそうになる。

2月25日、うしろ髪ひかれ隊4枚目シングル「ほらね、春が来た」発売。

 

 

 

 

3月20日から、うしろ髪ひかれ隊ファーストコンサート開始。

3月21日、うしろ髪ひかれ隊セカンドアルバム「BAB」発売。

5月21日、「麦わらでダンス」でソロデビュー。

 

 

 

 

 

順調にアイドルの道を進んでいったと思われがちですが

生稲さん一家は、葛藤していました。

おニャン子クラブのオーディション合格を両親に報告すると

お父さんは、まんざらでもない顔をされたようですが

お母さんは、「なにが、おニャン子だ!!」と激怒したようです。

でも、フジテレビの人が両親や学校にきちんと挨拶されたことで

お母さんも仕方ないと思われたのでしょう。

それからは、生稲さんの番組を全部ビデオに録ってくれました。

 

生稲さんは、述懐されています。

「私は前に出るような性格ではない。芸能界は合わないから

 おニャン子が終わったら、辞めようと思った」

しかし、うしろ髪ひかれ隊で歌うようになりました。

 

さらに大学受験に失敗して挫折したときにソロデビューの話が。

「誰もがレコードを出したいと思っている時代に、ものすごいチャンスだ。

 これを逃したら、一生不幸なんじゃないか」

お母さんは、生稲さんの決断に、何も言いませんでした。

"自分で決めなさい、失敗しても自分でその痛みを知りなさい"

ということだったのでしょうと振り返っています。

 

生稲さんは、30歳まで実家から仕事場へ行っていました。

一人暮らしを初めた1999年6月15日、生稲さんのお母さんが亡くなりました。

自宅マンションからの転落死です。

 

以下、生稲さんの述懐です。

芸能人である前に一人の人間だというのは、母に言われてきたことだし

一人の人間として生きたほうが幸せなんじゃないだろうかと。

お母さん、私もあなたのように苦労を背負う人生を送るんでしょうか。

疲れる生き方だなぁ。

でもね、それをけっこう楽しんでいる自分を、私は知っていますよ。

 

その後の活動やガンとの闘いは、いろいろなメディアで紹介されてきました。

今回、自分が紹介したかったのは、生稲さんは決して真面目なだけではなく

面白い一面があること。

そして、責任感が強くて、一生懸命に頑張る人だと言うことを伝えたかったのです。

なので、生稲さんのお人柄なら世の中を変えてくれると

確信していたから応援したのです。