選挙もひと段落したので、もう書いてもいいかなと思いました。

自分が持っている雑誌の切り抜きに

生稲さんは、お母さんに似ていると書いておられます。

細かくて几帳面なお母さん。

古新聞を出すのでも、新聞を一枚一枚たたんで

四隅の角をビシッとそろえて出す人。

 

当時、生稲さんの洋服は、お姉さんとお兄さんのお古。

生稲さんが着られなくなったものは雑巾にする。

"苦労人"タイプのお母さんだったようです。

 

"生稲"という名字はお母さん方の姓で、お父さんが養子に

来られたそうです。

千葉の冨浦のお母さんの実家は、それなりに続いた家で

田地田畑があり、早くに他界されたお祖父様に代わり

田舎の実家の諸問題を一人で背負い込んでいたようです。

 

生稲さんは、そんなお母さんの胸のうちを理解していました。

日常的なことも含めキチッとやっていたほうが

疲れるけど気持ちがいい。

 

生稲さんの小金井市立第三小学校時代。

おとなしくて引っ込み思案な性格で

入学式早々、お母さんの姿が見当たらなかったため

泣いてしまいました。

小学3年の時、習字を習い3級までとりました。

生稲さんのサインが綺麗なのは

習字を習っていたからだと思います。

 

 

入学当時は、おとなしくて目立たなかったが

学級委員やリレーの選手をやっているうちに

学年でも目立つ存在になりました。

性格も、徐々に明るく活発になっていきます。

 

小学6年の臨界学校は千葉県・鵜原。

ここは、自分もよく行きました。

友達のお父さんが別荘を持っていたので。

臨海学校最終日に"おわりの言葉"を述べました。

市の弁論大会で「読書の重要性」をテーマに話し

優秀賞を授賞。

市のサッカー大会に助っ人選手として参加し優勝。

ハットトリックも決めました。

Wikipediaには、全国大会優勝と書いてありますけど

小金井市の大会で優勝したということではないのかなぁ。

 

 

生稲さんは、中学・高校とバレーボールに青春を賭けていました。

小金井市立緑中学時代は1年生の中から大抜擢され

セッターとして試合に出場。

運動会では、リレーの選手、100㍍走1位。

 

 

2年生の市民大会でバレー部の先輩が引退すると

キャプテンに任命されました。

3年生になると、怖いものなしで、やりたい放題。

遅刻をして反省分を書かされるわ

みんなで先生にいたずらするわ

真面目なイメージが強い生稲さんですが

茶目っ気もあったようです。

成績は常によく、ほぼオール5。

 

 

吉祥女子高校にトップの成績で入学。

入学式翌日の対面式で、上級生に挨拶の大役をこなします。

入学式から1週間後、バレーボール部に入部。

レシーバーとして期待されていたが

6月に検査で心臓がおかしいと言われ

激しい運動を止められる。

が、バレー部はやめず

マネージャー兼補欠として、籍を置き続けました。

 

 

バレー部は朝と放課後、練習がありました。

制服以外の時間はジャージ姿。

そのジャージも膝に穴があいていて

新しいものを買ってほしいといえば

買ってもらえたのに

毎晩、財布の中の一円玉を十枚重ねて勘定し

家計簿をつけているお母さんを見ていたので

言い出せず。

 

 

お金を稼いでジャージを買うために

オーディションを受け続けます。

ミス南ちゃんコンテストに応募、最後の8人まで残ります。

「夕やけニャンニャン」の"アイドルを探せ"に出演。

1986年6月9日、113点で見事合格。

会員番号40番生稲晃子が誕生。

 

 

学業は2年生になり、国立コースに進みます。

修学旅行は萩・津和野・広島。

自分と同じコースです。

広島駅で古葉監督と会い、握手しました。

 

 

3年生になり、大学受験。

自信があった志望校に落ちてしまい

芸能界を辞めて浪人を考えるも

恵泉女学園短期大学英文科に入学。

 

 

おニャン子クラブでは

合格した翌日から振り付けの練習。

6月13日に夕ニャン初登場。

7月12日、映画「おニャン子・ザ・ムービー危機イッパツ!」クランク・イン。

7月19日、夏のコンサートツアー、横浜スタジアムで「おニャン子パニック」に参加。

パンフレットでは、スペシウム光線のポーズで写ってします。

生稲さん曰く「加入したばかりで、目立ちたかったんでしょうね」とのこと。

7月26日から8月8日まで、初めての海外。ロスに渡ります。

加入したばかりの生稲さんは、誰とも話すことが出来ず

その中でも、生稲さんの前に加入した高畠さんがいろいろ声をかけてくれてました。

8月の夕ニャンで、「おいなりが出た方が負けです」と平然と言い放つ。

 

 

12月8日から、ローソンのからあげクンのCMがテレビで流れます。

 

 

 

 

「恋はクエスチョン」ではフロントの4人の中に入りました。

夕ニャンの「忠臣蔵」では。大竹まことさんの股ぐらに顔をうずめられる。

 

 

 

 

1987年4月5日、春のコンサート「おニャン子SAILING夢工場」の最終日。

国立代々木競技場で行われる。

4月6日、ニッポン放送「おニャン子のあぶない夜だよ」のパーソナリティに

渡辺満里奈さんとともに務める。

5月7日、工藤静香さん、斉藤満喜子さんとともに、うしろ髪ひかれ隊として

「時の河を超えて」でデビュー。

 

 

 

 

6月7日、夕ニャンの"チャリンコF1グランプリ"に参加。

山越えをやり、おニャン子の新記録を作る。

6月21日、ダンク杯争奪・おニャン子テニストーナメントで

布川智子さんとペアを組み優勝。

6月26日、ニッポン放送「関根勤のTOKYOベストヒット」に

うしろ髪ひかれ隊としてパーソナリティに。

 

 

8月5日、おニャン子のラストアルバム「○(サークル)」発売。

8月12日、うしろ髪ひかれ隊のセカンドアルバム「あなたを知りたい」発売。

 

 

 

 

8月31日、「夕やけニャンニャン」の最終回。

9月5日、うしろ髪ひかれ隊ファーストアルバム「うしろ髪ひかれ隊」発売。

9月20日、国立代々木競技場で「全国縦断FINALコンサート」最終公演。

おニャン子クラブ解散。

 

 

 

11月11日、うしろ髪ひかれ隊3枚目シングル「メビウスの恋人」発売。

 

 

 

 

12月から1月、ビデオ撮影、写真集撮影、レコーディングのためハワイへ。

火山の爆発に巻き込まれそうになる。

2月25日、うしろ髪ひかれ隊4枚目シングル「ほらね、春が来た」発売。

 

 

 

 

3月20日から、うしろ髪ひかれ隊ファーストコンサート開始。

3月21日、うしろ髪ひかれ隊セカンドアルバム「BAB」発売。

5月21日、「麦わらでダンス」でソロデビュー。

 

 

 

 

 

順調にアイドルの道を進んでいったと思われがちですが

生稲さん一家は、葛藤していました。

おニャン子クラブのオーディション合格を両親に報告すると

お父さんは、まんざらでもない顔をされたようですが

お母さんは、「なにが、おニャン子だ!!」と激怒したようです。

でも、フジテレビの人が両親や学校にきちんと挨拶されたことで

お母さんも仕方ないと思われたのでしょう。

それからは、生稲さんの番組を全部ビデオに録ってくれました。

 

生稲さんは、述懐されています。

「私は前に出るような性格ではない。芸能界は合わないから

 おニャン子が終わったら、辞めようと思った」

しかし、うしろ髪ひかれ隊で歌うようになりました。

 

さらに大学受験に失敗して挫折したときにソロデビューの話が。

「誰もがレコードを出したいと思っている時代に、ものすごいチャンスだ。

 これを逃したら、一生不幸なんじゃないか」

お母さんは、生稲さんの決断に、何も言いませんでした。

"自分で決めなさい、失敗しても自分でその痛みを知りなさい"

ということだったのでしょうと振り返っています。

 

生稲さんは、30歳まで実家から仕事場へ行っていました。

一人暮らしを初めた1999年6月15日、生稲さんのお母さんが亡くなりました。

自宅マンションからの転落死です。

 

以下、生稲さんの述懐です。

芸能人である前に一人の人間だというのは、母に言われてきたことだし

一人の人間として生きたほうが幸せなんじゃないだろうかと。

お母さん、私もあなたのように苦労を背負う人生を送るんでしょうか。

疲れる生き方だなぁ。

でもね、それをけっこう楽しんでいる自分を、私は知っていますよ。

 

その後の活動やガンとの闘いは、いろいろなメディアで紹介されてきました。

今回、自分が紹介したかったのは、生稲さんは決して真面目なだけではなく

面白い一面があること。

そして、責任感が強くて、一生懸命に頑張る人だと言うことを伝えたかったのです。

なので、生稲さんのお人柄なら世の中を変えてくれると

確信していたから応援したのです。