100nights+ & music

100nights+ & music

2020年の1年間に好きな音楽を紹介していました。2023年になっても見てくれる人がいたので、また書こうかと思います。
気に入ったら紹介した音楽を聴いてもらえると嬉しい、よろしく!

 

ショービジネスの中のワイルドフラワー

 ドリー・パートンが先日、80歳で亡くなった。世界中のメディアやSNSで追悼されていたので、「そんなに凄かったんだ」と思っている人も多いんじゃないかな。
 ドリーは1970年代にカントリーの世界で成功し、その枠に留まらずにポップミュージックやロックのフィールドでも大成功した。生涯に3,000以上の曲を作曲し、保守的な地域から出たとても派手で静かでリベラルなオピニオンリーダーでもあった。

 ドリー・パートンを知ったきっかけは、子どもの頃にオリビア・ニュートン・ジョンが歌った「Jolene」を聞いたことだった。
 何年か経って何か面白い音楽がないか探しているとき、ドリー・パートンがその作曲者で他にも良い曲がたくさんあるらしいと知って関心を持った。

Jolene


 最初に彼女の凄さに気付いた曲は、「Coat of Many Colors」だった。
 テネシー州の田舎にある農家の12人兄弟の4人目として生まれたドリーは、少女時代は経済的には厳しい状況で育ったという。その頃の思い出を描いたこの曲の美しさを分かる人は、世界中にいるだろうと思う。

 端切れをもらった母親が、それを集めてコートを作ってくれた。嬉しい気持ちでそれを着て学校に行ったら、みんなにバカにされたけれど、母親が話をしながら作ってくれた色がバラバラなこのコートは、みんなが着ている立派なコートなんかよりもずっと価値があるんだというお話し。
 ストーリー仕立てになっているので、できればぜひ歌詞を全部見て欲しい。

いまだったら私たちにはお金がなかったことが分かる
でも私は自分のできる最高に豊かな生活をしていた
私の色とりどりのコートの中で

だってそれはママが私につくってくれたんだから
私だけのために


Coat of Many Colors


 誰でも思うだろうけれど、ドリーは安っぽくて大げさな見かけと繊細な曲が遠すぎて、何だろうこの人?というのが最初の印象だった。
 まるで大昔のクラシックの作曲家みたいなでかいブロンドのカツラ、巨大な胸、陽気なユーモアと親しみやすさで作ったパブリックイメージは意識的だったようで、「こんなにも安っぽく見えるためには、かなりのお金が必要なのよ」とよくジョークを言っていたらしい。

 彼女の生まれたテネシーをテーマにした「My Tennessee Mountain」は、カントリーやブルーグラスの感じが強い名曲。まるでフォスターが作ったようなこの曲は、いまではテネシー州の州歌にもなっている。

私のテネシーの山にある家では
人生がまるで赤ちゃんの息づかいのように平和で
私のテネシーの山にある家では
すぐ近くの野原でコウロギが鳴いているの


My Tennessee Mountain Home

 

 ドリーは、ロックやポップスなどを含むいろいろな音楽的な冒険をしながらも、ベースとなる部分がしっかりしているからか、生涯にわたってエンターテイナーであると同時に音楽家として素晴らしい作品を作り続けた。
 ここでは個人的に好きなメロディアスでアコースティックな曲を紹介しているが、ドリーにはいろいろな顔があるので関心をもったら探ってみて欲しい。

 2001年にリリースした38枚目!の『Little Sparrow』も、カントリーやフォークっぽさが感じられる内省的でとても良いアルバムだと思う。(その後も10枚くらい新譜をリリースしている)

 「Little Sparrow」は、若い女性を小さな雀に喩えて「嘘をつく男を信じちゃいけない」と警告している曲。

 

Little Sparrow

 

 ドリー・パートンは、ショービジネスの世界に入ったときのデフォルメされたキャラクターを最後まで続けながら、父親は読み書きができなかったという理由からか、0歳から5歳までの子どもに毎月1冊の本を郵送するプログラム「イマジネーション・ライブラリー」を長く続けてきた。そのプログラムは、今では世界中で毎月約85万人の子どもたちに本を送っているそうだ。
 ほかにも保守的なカントリーの世界で、最初にLGBTを支援した一人だったらしい。


 ドリーには、現在は見出しにくくなっているアメリカの最も良い部分、緩やかなリベラルさ、明るいユーモア、真実を求める優しい心、不正と戦う強い意志と勇気があったと思う。

 彼女のことは、以前にも『Torio』というドリー、エミル―・ハリスとリンダ・ロンシュタットの3人で組んだアルバムの紹介で書いたことがある。このアルバムは大好きだった。
 そこでも紹介したけれど、ドリーが書いた「Wildflowers」という曲を最後に聞いて欲しい。ドリー・パートンのことはあまり知らないのだが、この曲は最も彼女自身に近いような印象を持っている。

丘には野の花が一面に咲いていた

花たちはただ、太陽の下で枯れていくしかない
私は、その場所で枯れていくなんて嫌だった

自由に育つことが必要な野バラのように

どこへ行くのかも恐れず私は走り出した


野生に育った花は、どこだって生き残れる
野生の花は、どこでだって育っていく


Wildflowers

 

 

 

ドリー・パートン、エミル―・ハリス、リンダ・ロンシュタットについて書いています

Dolly,Linda & Emmylou -アメリカの豊かなハーモニー 

 



世界最高のバンドのひとつ

 Melt-Bananaは1993年に結成された日本のバンド。日本ではあまり有名ではないかもしれないが、海外での人気はとても高い。
 最初は、女性2人、男性2人の4人組だった。音はポストパンクというか、ポストノイズ&ポストロックンロールみたいな感じだと思う。
 英語の歌詞でメロディはほぼなく、不協和音だらけで爆発力があってハイテンションなのに、どこかポップで暴力性の感じられない不思議なサウンドを持っている。

 初めて聞いたのは、2001年にヒカシューをはじめとする日本のバンドがクラフトワークの曲をカバーしたアルバムに入っていた「Showroom Dummies」だった。
 「何だか分からないけど、かっこいいぞ」と思って、そこからファンになった。


Showroom Dummies

 

 彼らは初期のアルバムから自分たちでプロデュースをしていて、スティーブ・アルビニ、ジム・オルークというアンダーグラウンドシーンの大物がエンジニアなどで協力するなど、ずっと世界レベルでの独特のサウンドを作っている。
 有名なDJジョン・ピールは、「世界で最高のバンドのひとつ」と絶賛してイギリスのBBCで何度も彼らの曲を流していた。

 2003年にリリースされた5枚目のアルバム『CELL-SCAPE』に入っている「Chain-Shot to Have Some Fun」などは、独特のポップな疾走感とグルーブが最高に気分をあげてくれる。

Chain-Shot to Have Some Fun

 

 Melt-Bananaはアルバムの完成度が高くて、同じくらいライブも良い(と思うが実は行ったことはない)。
 2005年のアメリカでのライブ映像を見れば、最高のライブバンドでもあるMelt-Bananaが海外で人気がある理由が分かるだろう。

 彼らは2026年9月にもアメリカツアーを予定している。

Shield For Your Eyes

 

 2010年代に入ってから、ベースとドラムが抜けてYakoとAgataの2人編成になった。バンドというよりもユニットという感じになったが、変わらずにクオリティの高い音楽を作り続けている。

 Melt-Bananaは聞きにくいけれど、聞きやすい。

 多くの人が最初は違和感を持つかもしれないが、パンクバンドが好きなら、少し聞き慣れるとその良さが分かると思う。
 2013年のアルバム『Fetch』に入っている「My Missing Link」は、ポップに走り抜けていくところが、どこか清々しささえあって気に入っている。

My Missing Link

 

 Melt-Bananaは日本のメディアにほぼ載らないので、ずっと情報が少なかった。まともな記事は数年前の小野島大氏のインタビューくらいだと思う。


 もし関心を持ったら、彼らのサイトでアルバム丸ごと聞いてみて欲しい。あとはライブか…、今度行かないと。
 みんな、もっとこういうのを聞こうぜ!

Candy Gun!

 

 

MELT-BANANA CHANNEL - YouTube

MELT-BANANAインタビュー 小野島大

 

MELT-BANANA Official Web-Site

 

 

 

 



マーシーのソロアルバム

 夏になると思い出す音楽はあまりない。山も海も若い頃から関心はなかったし、10代の頃の夏休みなんて思い出したいとも思わない。
 その中で真島昌利(マーシー)のソロアルバムは、ほとんど唯一の「夏頃になると必ず聞き返すアルバム」になっている。

 10代の頃を思い出させる彼のソロ曲は、実際はそんなことはないのに、どこかノスタルジックな感覚を含めて「振り返ると良かったかもしれない、あの頃のこと」を思い出させてくれる。

夏が来て僕等
高校野球なんて見ないで
夏草に伸びた給水塔の影を見ていた


夏が来て僕等

 

 THE BLUE HEARTSのメジャー・デビューから少ししてリリースされた1989年の真島昌利の最初のソロアルバム『夏のぬけがら』は、当時の27歳くらいまでの彼のエッセンスがつまった名作だと思う。

 1曲目の「夏が来て僕等」は、小学生か中学生低学年くらいの一瞬を切り出していた。
 アルバム最後の曲「ルーレット」は、マーシーも同じように乗っているルーレットの止まってしまった「そこ」に留まらざるを得なくなった友人へ、優しい諦念を持って歌いかけている印象を受けたことを覚えている。
 そして35年経ったいま聞くと、自分自身も同じようなルーレットに乗っていたんだなと思う。

ルーレットがまわるように
毎日が過ぎていくんだ
何にどれだけ賭けようか
友達 今がその時だ


ルーレット

 

 マーシーはルックスも良いので、時代が違ったり本人が望んだりすれば、1960年代の加山雄三のような独特のスーパースターになれたかもしれない。
 でも、パンクの影響を受けた彼はそうしないだろうな。

 1991年のセカンド『HAPPY SONGS』に入っている「夜空の星くず」は、みんなが知っている大昔の日本のヒットソングのような曲。
 この「今では珍しい、ものすごくシンプルに心に伝わる名曲」を書けるところが、それぞれのオリジナリティは違うがマーシーとヒロトのめったにない才能なんだろうと思う。

夜空の星くず

 

 1992年にリリースした3枚目の『RAW LIFE』は、前の2枚のどこかノスタルジックなアコースティックさよりも、時代を反映したパンクロックのスピリッツが目立つ作品になった。

 ミュージシャンに、「社会派」とか「政治的」とか信じられないくらい下らない批判する奴は今でも多い。
 ミュージシャンは、自分につくす奴隷だと思っているのか、バカな自分よりバカでいるべきだと思っているのか分からないが、アーチストは社会との違和感を表したりアジテートをしたりすることも仕事だろう。
 自分が心地良い内容だけを聞きたいのなら、歌謡曲かフュージョンでも聞いて、同じような奴らとだけ話してろよ、と思う。

月の光が降り注ぐ その音を聞いているんだよ
情報時代の野蛮人 恐れさえ笑い飛ばして

俺は明日も働くよ 昨日よりももっとタフに
墓で安眠する日まで 飯を食わなきゃならない


情報時代の野蛮人

 

 真島昌利の最新のソロアルバムは、1994年の『人にはそれぞれ事情がある』になる。
 1995年にTHE BLUE HEARTSを解散させてから、彼はソロアルバムをリリースしていない。常に新しいバンドをやっていて、自分の曲はそこでリリースしているから必要ないというシンプルな理由なのかもしれない。

 だけど、THE BLUE HEARTSの名曲「青空」を、ヒロトではなくてマーシーが歌った音源を聞くと、マーシーの世界で構成されたアルバムを、彼の声でまた聴いてみたいとは、みんな思うだろう。

 

安っぽい神様たちが 

君をめくらにするだろう

青い空の真下で

青空 

 

 ヒロトとマーシーは解散したバンドの曲はいまのバンドでは演奏せず、「古い曲を聴きたければ、昔のアルバムを聞けばいい」とか、「新しいバンドで新曲を演奏するのが楽しいんだよ」とか話していた。
 だから彼らに昔の曲だけを演奏するライブは期待しないでおこう。

 ただ、60代になったマーシーのいまのリアルを歌ったソロアルバムは、もしかすると実現する可能性もあるんじゃないかな。 それは10代の頃の夏の記憶と同じくらい、素晴らしいものになるような気がする。

どんな生き方をしようが それでいいのだ

お楽しみはまだまだ これからじゃないか

ハッピーソング 

 

 

The Smiths とThe Blue Hearts -社会を変えたメッセージ 

 

 

 

 

 

 

 

最初の音楽体験のひとつ

 

 思い返すと、カーペンターズ、サイモン&ガーファンクル、ビートルズから洋楽を聞き始め、子供からティーンエイジャーになる時期にドアーズとデヴィッド・ボウイを偶然知ったことのすべてが、ぼくの生き方に大きく影響を与えたと思う。


 デヴィッド・ボウイを初めて聞いたのは、“Heroes”だった。夜のFMラジオから流れてきたその音が部屋の雰囲気を急に変えたことは忘れられない。

 デヴィッド・ボウイがベルリンで録音した3つの作品、1977年の『Low』、『"Heroes"』、1979年の『Lodger』は3部作と言われることが多いが、3部作としてカウントするんだったら1976年にリリースした『Station to Station』を入れて、『Lodger』は抜いた方がいいと思う。


 『Station to Station』は、イギリス出身のボウイがヨーロッパ大陸の退廃的な雰囲気にアメリカのファンク・ミュージックを混ぜたアルバムだった。
 薬物中毒になったキリストのようなシン・ホワイト・デューク(痩せた白い公爵)というペルソナを演じながら、本人もコカインで危機的な状況にあったらしい。

 

 「Station to Station」は、ドラッグ中毒の殉教者といった感じの名曲。

Station To Station

 

 アメリカで成功した代償としてドラッグでボロボロになったデヴィッド・ボウイは、同じくドラッグ中毒のイギー・ポップとアメリカを離れ、1976年に西ベルリンに移住した。
 そこで制作したアルバムが、イギーの『The Idiot』と『Lust for Life』、ボウイの『Low』、『"Heroes"』だった。この最高の4枚は、1976年と1977年に続けて制作されている。

 これらのアルバムは、イギー・ポップの暴力的で内向的な感じ、デヴィッド・ボウイの観念的でアーチステックな感じに、アメリカのファンクとドイツの実験的なエレクトロ・ミュージックの要素が加わって、「それまでに聞いたことのない音」が創りだされている。

 『Low』は、ジギー・スターダストが好きな人はそう思わないかもしれないが、アルバムとしてはボウイの最高傑作だと思う。
 『Station to Station』との大きな違いは、ロサンジェルスではなくベルリンで録音され、プロデュースをボウイとトニー・ヴィスコンティが担当し、ブライアン・イーノが協力しているところになる。

 一足先にドイツのクラウトロックの影響を直接受けていたイーノと共作したダークなWarszawaは、1978年のワールドツアーの1曲目で、ジョイ・ディビジョンがバンドを結成したときの最初のバンド名だったそうだ。

Warszawa

 

 『Low』は録音方法を含めて、インダストリアル・ミュージックのはしりみたいなサウンドになった。

 レコード会社からは発売を反対され、まともな宣伝もなかったらしいが、イギリスではアルバムチャートの2位まで上がっている。


 パンクロックが世の中に出た1976年に、すでに1980年代のポスト・パンクの音を創り出していたところにボウイやイーノの凄さがあるんだけど、そのサウンドは当時のメジャーなポップシーンとはかけ離れたものになった。

 アルバム1曲目のSpeed of Lifeは、明るめの曲調のインストゥルメンタル。

Speed of Life

 

 1977年にリリースされたアルバム『“Heroes”』を買ったのは、学校嫌いの中学生だった1978年だった。
 レコードのA面にはボーカル入りの多少なりともポップな曲が入っていたが、B面のほとんどは超陰気なインストで、「他のアルバムを買えばよかった」と大ショックを受けながらも、無理をして何回も聞いたことを覚えている。
 いま思うと、だんだん音楽に馴染んできたのは良かったが、自分の性格もかなり暗くなったかもしれない笑

 1978年のボウイは、『Low』と『"Heroes"』の曲を中心としたワールド・ツアーを行った。ここでは、すべてその年のライブから曲を紹介している。

Blackout

 

 1978年3月にアメリカで始まったワールド・ツアーは、12月に日本で終了した。その日本公演は、翌年の3月にNHKの番組『ヤング・ミュージック・ショー』でテレビ中継されている。

 この番組をテレビで見た影響は、少年時代が終わりつつあった自分にとってとても大きかった。

 そのすぐ後にテレビジョンやパティ・スミスのようなニューヨークパンクが好きになり、シンプルなパンクロックを一瞬で通り過ぎてポスト・パンクやニューウエイブにハマったのは、この頃の体験があったからだと思う。


 “Heroes”に代表されるデヴィッド・ボウイの影響、例えば「ヒーローなんてただ一瞬の存在で、それはそれだけのこと」のような感覚は、今に至る自分自身のベースの一つになった。

“Heroes”

 

 

 デヴィッド・ボウイは、時代によって音楽性が変化していくタイプのアーチストだが、この頃のボウイはその中でも特別な音楽的ピークにあった。
 1970年代後半から1980年代最初の頃に、この音に大きな影響を受けたティーンエイジャーは世界中にいるような気がする。
 それはパンクとはまた違う、ただ同じくらい大きなものだった。似た感覚を持っている人は他にもいるだろうか。

 

 

Stones, Young, Bowie ‐パンク前夜 

Iggy Pop  -ただ名前だけが残った 

Cluster、Harmonia、Eno ‐永遠に新鮮な音楽 

 

 

 

 

 


重く、自由なロック・サウンド

 モーフィンは、さまざまなバンドを経たメンバーで1989年にアメリカで結成され、1999年に解散した3人組のバンド。
 バンド編成が変わっていて、ボーカルと2弦ベースのマーク・サンドマン、バリトン・サックスのダナ・コリー、ドラムスのジェローム・デュプリ(ビリー・コンウェイと変わる時もある)と、ギターもキーボードもない3人組になっている。

 彼らはブルースやジャズの影響下にあるハードボイルドな感じのロックを演奏する。低音の楽器による、バンド名のような深く沈み込む感覚が特徴的だ。
 メロディは希薄でミドルテンポの曲も多いが、まぎれもないロックバンドで、まるでレイモンド・チャンドラーのような雰囲気は最高だと思う。

Come Over


 モーフィンは、1991年にアルバム『Good』でデビューした。
 マークは最初に1弦ベースを試してみて、その後に弦を2本にしてスライドで演奏したという。そこにバリトン・サックスの音が重なって、彼ら独特のサウンドが出来上がっている。

 モーフィンのサウンドは明らかに都市の裏町的な音楽なのだが、ルー・リードのようなダークサイドに堕ちる感じはない。マークの書く歌詞には、ハードな都市生活を送る一般の男性という雰囲気がある。

 1993年のセカンド・アルバム『Cure for Pain』でモーフィンのことを知った。このアルバムは日本版も発売されていて、買ってみてすぐ気に入った。

Buena


 モーフィンは、オルタナ・ロックバンドと言われることが多かった。
 ジャズやブルースの影響を受けていても、それ以上にパンクの影響が強い感じがする部分が、他のオルタナ・バンドとは大きく個性が違ってもそう言われる理由だったんだろうし、俺が聞いて一発で好きになった理由でもあるんだろう。

 あと音楽スタイルを「Low Rock」と呼んでいたな。「ギターを使わないミニマムで重低音なロック」という意味では、その通りだと思う。

 1994年には、前作よりも少しポップさを抜いたサード・アルバム『Yes』をリリースした。

Honey White

 

 その後にバンドは2年間のツアーを続けた。
 そして、1997年にはメジャーレーベルから4枚目のアルバム『Like Swimming』をリリースしている。ミドルテンポの曲が多いせいか少し地味だが良いアルバムだと思う。

 1999年には、5枚目のアルバム『The Night』をこれまでバンドに関係してきた4人全員で録音し、モーフィンは4人組(ドラムが2人)になった。
 そして7月3日に、マーク・サンドマンがイタリアで行われたロックフェスのステージの途中で心臓発作を起こして倒れ、直後に死亡して、モーフィンは解散した。

 翌2000年にリリースされた最後のアルバム『The Night』は、完成度の高い最高の作品になった。
 オリジナリティが高い一方でワンパターンになりがちな彼らの音を、独自性を失わなずに意識的に超えた、多彩な内容となっている。
 タイトル曲の「The Night」は、メロディアスな名曲。

暗すぎて 道しるべも見えない
俺はお前の幸運のお守りなんて欲しくはない
星のカーペットの向こう側で待っていてくれていると良いんだが
お前は夜だ ライラ
俺たちが見ることのできないすべて
ライラ お前が可能性なんだ


The Night

 

 10年間活動したモーフィンは、誰もが知るビッグなバンドになることはなかったが、ごく一部かもしれないが世界中にファンを残していった。
 オリジナリティが高くて古くならない彼らの音楽を定期的に聴く人は、現在も多いんじゃないかと思う。

Have A Lucky Day