西欧人は赤ん坊をどうやって風呂に入れているのだろう。
ワイキキの、それなりに有名なホテルでも余裕でシャワーのみ。しかも、微妙な水量の調節とかもないし。冷たいタイルにドカッと座って、なんとか子供を抱えながら髪を洗い、顔を拭き、身体を流し、ムチャクチャ大変だった。唯一、救われたのはシャワーが固定でなくホース付きであったことだ。それにしても、
(西欧人はどうやって、このシャワールームを使ってるんだ?)
と、疑問が浮かぶ。
・・・が、図らずもその答えを翌日のプールで目撃することになる。
4歳の娘とふたりでプールで遊んでいると、見た感じ下の娘(6か月)と月齢の変わらない、お人形のような赤ちゃんを抱いて、西欧人の若夫婦がプールに入ってきた。ちなみに、我が家の赤ん坊は前日に足先だけプールに入れるもギャン泣きしたのでプール遊びは断念していた。
その西欧人の赤ん坊は、ニッコニコでプールに入ると父親に支えられながらもバシャバシャと手足を動かし大喜び。若夫婦もつられてこぼれる笑顔。なんて素敵な光景だろう。
と、その次の瞬間!
なんと父親が赤ん坊をプールの水に潜らせたのだ!一瞬のことで、我が目を疑ったが赤ん坊の頭から顔まで水に濡れまくってるのだから見間違いではないだろう。赤ん坊も驚きはすれど、少ししたらキャッキャ、キャッキャ言ってプールを楽しんでいるではないか。
つまり、こういうことだ。
おそらくあの金髪の親父のことだから、子供を風呂に入れる時にもガンガン、シャワーを頭からかけているハズだ。日常的に水に慣らされている赤ん坊は、もはや生後半年にしてプールで一潜りできるほどにまで成長を遂げたのだ。
目にお湯が入らないようにとか、色々と気を付けながら身体を洗い、最後は洗い残しがないよう湯に入りつつ身体を暖めて完了する日本人(というか私)の繊細な入浴行動は、彼らからしてみればどうしようもない過保護なチキン野郎なのだろう。
インターネット当たり前の時代から、SNS当たり前の時代へ
SNSっていうものの凄さに今さらながら気が付いた。
GREEあたりから始まって、Mixi、Twitter、Facebookと、単なる友達の可視化、または、友達同士の情報の交換、有名人のTwitterをフォローして繋がる、といったプラットフォームの出現に、ただただ面白がってついて行くばかりだった。
インターネットによって生活者が情報を発信できるようになったけれど、その発信の方法を思い返してみると色んな段階を経ていることに気が付く。いずれも似ているようで、全然、違うのね。
・自分のホームページを作って更新すること。
・ブログで発信すること。
・Twitterでつぶやくこと。
・Facebookにfoursquare経由で写真と一緒に近況をアップすること。
生活者起点の情報の発信は、21世紀の大きな革命的な出来事だけれど、Twitterや、Facebookが本格的に世の中の人たちに根差したメディアになった時、これは本当に単なるインターネットの普及とはレイヤーの違う世界が待っていることに、ようやく実感として気付きだした。
インターネット当たり前の時代と、インターネットとさらにFacebook当たり前の時代では、レベルの違うサービスが続出することになるだろう。というか実際、米国ではFacebookの普及が先行している分、その分野で再び日本と時差(タイムマシーン状態)が生まれている。
社会の装置は時を経るごとに変化していく。今、現時点の商品が内包している、(未来でも通用する)本質的な価値を見誤らないようにしなければならない。
『余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる』byロバート・B・ライシュ
- 余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる/ロバート・B・ライシュ
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読了。
米国の富裕層、上位1%の得る所得は、国民総所得比において1970年代に8~9%だったものが、2007年には23%にまで上昇している。つまり、いわゆる中間層(または下層)の人たちが生活に必要とする収入の一部が、ドンドンと最富裕層に吸収されていっているということだ。
これと同じ現象は1920年代の大恐慌時にも起きており、所得格差が不況を引き起こす根源であることをこの本で述べられている。
要するに、中間層にお金が還元されれば、彼らは収入のほとんどを実体経済の中で消費し、まっとうな取引が循環し、結果的に経済が回って好景気に向かっていく。しかし、その中間層にいくハズの収入が最富裕層に集中してしまうと、富裕層の人たちは実体経済で使いきることはなく、国境を越えた投資マネーとして金融経済のほうにいってしまい、まっとうな取引による実体経済を停滞させ、不況に陥らせてしまう。
ウォール街の金融マンを代表する最富裕層の人たちは、彼らが得た莫大な利益の一部は、ロビイストを通じて政治家への献金漬けに使い、継続的な金持ち優遇の政策(仕組まれたゲーム)を実現していく。
一方で、中間層の人々はより良い生活を求めているものの、機械化などによるオートメーション化などでそれでなくても仕事を失いやすい環境の中、ジリ貧の収入を補おうと、1)夫婦共働き、2)残業代目当ての労働時間の延長、3)貯金の切り崩し(借金)、というパターンに陥っていく。
終盤、こうした社会構造への解決策(いかに富裕層から中間層、下層の人たちへ富を分配するか)を示している。
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悲しい中間層の行く末に、何だか気が滅入る思いで読んでいたけれど、
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を思い出した。『居酒屋』は普遍的な貧困を描いているけれど、『余震』のほうは今起こりつつある中間層の話だけにリアルに迫ってくるものがあった。世の中の仕組みっていうものを、もっともっと勉強していかないと、仕組まれたゲームで踊らされ、気付かぬうちに搾取される側の人間になってしまう。