(マリーアントワネットと細川ガラシャ)
2021年6月28日
細川ガラシャは、日本の戦国時代から安土桃山時代を生きた女性であり、日本
の歴史の中では、時代に翻弄されながらも、気高く生きた女性として有名です。
明智光秀の3女「たま」として誕生し、細川忠興に嫁ぎ、女の子が生まれます。
しかし、父明智光秀が、本能寺の変を起こして織田信長を討ち、後に山﨑の戦い
で没すると、謀叛人の娘として、2年に亘り、丹後に幽閉されます。
その後、羽柴秀吉の取り成しで幽閉が解かれ、大阪の細川家に戻りますが、
後に洗礼を受け、キリスト教徒となり、ガラシャ(ラテン語で「神の恵み」
の意味)という洗礼名を受けます。
時は、徳川の時代に移り、1600年に、徳川家康に付いた夫忠興が、上杉征伐
に出陣し不在の間に、石田光成は、ガラシャを人質に取ろうとしましたが、
ガラシャはそれを拒絶し、名誉を守るため死を決意します。
キリスト教徒のため、自害は禁止されており、家老の介錯により、37歳で、
その命を閉じました。彼女が読んだ辞世の句があります。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と記しています.
この細川ガラシャの悲劇は、当時日本でのキリスト教の布教にあたっていた、
イエズス会の宣教師から、殉教の実話として、海を渡り、カトリック信仰の総本
山であった、オーストリアのハプスブルグ家にも伝えられました。
そして、彼女の壮絶な死から、約100年を経た1696年には、ウイーンで、
細川ガラシャをヒロインとした音楽付きの戯曲『強き女 またの名を丹後王国の
女王グラツィア』の形でハプスブルグ家のために上演されました。
この時代、カトリック教のイエズス会は、海外布教を強力に拡大しており、
このような殉教を題材とした音楽劇の上演は、王侯貴族の信仰心を高めるために
開催され、中でも、細川ガラシャをテーマとした演目は、人気を博したとのこと
です。
更に、時は流れ、細川ガラシャの死から 155年後の1755年11月に オースト
リアで、マリー・アントワネットは、ハプスブルグ家の11女として誕生します。
そして、若くしてフランスのルイ王朝に嫁ぎ、ベルサイユ宮殿で暮らしますが、
フランス革命の最中、パリ市民の糾弾により、ギロチンに架けられ,悲劇の女王と
して、亡くなりました。
細川ガラシャとマリー・アントワネット、この2人は、海を隔てて、時代も、
暮らした世界も全く異なりますが、不思議な共通点が目を引きます。
まず、共に高貴な生まれでありながら、時代に翻弄され、ガラシャは、15歳で
細川忠興に嫁ぎ、マリーは、14歳でフランスのルイ16世と結婚します。それぞれ、
その後は、大きな政変の流れに巻き込まれていきますが、逆境の中にあっても、
気丈に子供達を守り、誇りを失わず、そして、奇しくも2人とも、37歳で死に
至らしめられ、生涯を閉じました。
そして、実は、子供時代のマリー・アントワネットは、母親のマリア・テレジア
らと共に、この細川ガラシャの戯曲を観劇していたとのことです。ガラシャの
運命的な人生が、まだ無邪気に幸せだったマリーの心に深い感動を与えたことも
理解できます。
マリーは、フランス革命により、ベルサイユ宮殿からパリのテンプル塔に幽閉さ
れ、更に、コンシエルジェリー監獄で、裁判と処刑を待つ日々を過ごし、彼女の心
の中に、細川ガラシャの凛とした姿が思い起こされていたかも知れません。
断頭台に立つマリー・アントワネットは、威厳をもって落ち着いていたとのこと
です。
このように、時空を隔てた2人の劇的な生きざまが、見えない糸で結びついて
いた不思議さに感慨を覚えます。
なお、マリー・アントワネットに纏わる話では、恐らくマリーがガラシャの戯曲
を観劇した数年前、才覚を表した子供時代のモーツアルト(当時6歳)が、ハプス
ブルグ家のシェーンブルグ宮殿で、マリー(当時7歳)に「僕のお嫁さんにして
あげるよ」といったとされる逸話も残っており、映画「アマデウス」の中でも
描かれていました。
つい最近知ったのは、バイオリニストの川井郁子さんが、12月に新国立劇場で、
「月に抱かれた日」というタイトルで、この細川ガラシャと王妃マリー・アント
ワネットの波乱の人生と不思議な縁を、最先端の映像と音楽を調和させ、ファン
タスティックな舞台を企画・準備をしているとのことで、是非見てみたいと思って
います。
以 上