ハイセイコーのブログ -10ページ目
私事を書いてすみませんが、先月の
日付が変わった5月15日の夜中に母が
起きてトイレに行こうとしましたが、立ち
上がることができなくなり、救急車を
呼んで病院に搬送しました。
母は93歳だった7年前にも心不全
(電解質異常)で入院し、その後は
薬も飲まずに過ごしてきました。
立てなくなる数日前、咳や痰が激しくなり
熱も38.8度出たため、かかりつけ医で
診てもらいましたが、レントゲン検査では
肺に異常は認められず、風邪と診断され
血液検査でもCRP値にそれほどの
異常は認められなかったため、心不全は
疑われずに抗生物質や解熱剤を処方して
もらい、その結果、体調は落ち着いた
ようになりましたが、その後、2日間で急に
体重が2キロ増え、胸の圧迫感や脚の
むくみが酷くなったため、翌日再び、曜日の
関係で、かかりつけ医の父親の先生に
診てもらったところ、尿が出ているから
大丈夫と言われ帰宅しましたが、その日の
夜に状態が悪化し、救急搬送となって
しまいました。
救急隊の方達は本当に優しく迅速に
対応して下さり、搬送先の国立病院での
女性の先生もよく診て頂き、母は心不全の
疑いで入院となりました。
翌日、循環器科で検査と適切な処置を
受けました。
2日間で6リットルの水を抜いて、酸素
吸入等で血中酸素も安定し、2週間で
退院することができました。
ただ入院当初から主治医に病状の説明を
求めても忙しいとのことで対応して頂けず、
再三の申し入れで5日後にようやくサブの
先生から説明がありました。
しかし、その後、主治医から私の携帯に夜、
退院を煽る威圧的な連絡が2日連続で
あって、夜でも連絡できるなら、もっと早く
病状説明ができたのでは思い、非常に
嫌な思いをしました。
また、看護師も母に優しく接してきちんと
やってくれた看護師さんと高齢者だと
思って馬鹿にしているのか、雑に扱った
看護師もいて、極め付きは退院間近の日の
シャワー時、見守りと言いながら、ろくに
母の様子を見ていなかったのか、母は
シャワー室で転倒し、頭を強打してしまい
ました。
すぐに病院の方で脳神経外科の先生らが
レントゲン検査をして、その場では異常は
見つかりませんでしたが、サブの担当医
からは、今後は硬膜下血腫に注意して
下さいと言われ、不安が残る結果と
なりました。
その時の担当看護師からの謝罪は
ありましたが、看護師長が他の用事で
母のいる病室に来ながらも、こちらを
全く無視して謝罪すらなかったのが
本当に残念です。
もちろんよくやってくれた看護師さんも
多くいて感謝していますが、主治医と
対応が悪い看護師がいたことは本当に
残念でなりません。
夜中、少ない人数で多くの患者を見
なければならないので、看護師さん達も
忙しくて大変なのは判りますが、
忙しい中でもきちんと対応が出来ている
看護師さんもいただけに、それができない
看護師がいるのは残念だし、患者の家族
からすると、とても不安になります。
母は全くボケてはいないので、看護師に
今日はこういうことをされたと、対応が
良かった場合も、悪かった場合も名指しで
私に報告してくれるので、入院時の様子が
手に取るように分かりました。
母は55歳の時に胆石、90歳で脊柱管
狭窄症と右肩腱板断裂の手術、
93歳の時に心不全、94歳の時お風呂で
転んで肋骨にヒビ、そして98歳の時に
頚椎症性脊髄症で非常に危険を伴う
難しい手術を受けて、整形外科の先生の
おかげで奇跡的に回復し、その後も全く
認知症にもならず、リハビリを受けながら
普通の生活を送ってきました。
今回の百歳を前に発症した心不全で、
今度こそは無理かと覚悟しましたが、
今回も奇跡的に生還し、6月晴れて
百歳を迎えることができました。
お世話になった医療関係者の皆さんや
親身になって相談や対応をして下さった
ケアマネージャーさんに心から感謝
したいと思います。
本当にありがとうございました。
母のことで長々と書いてしまい申し訳
ありません。
それではいつもの競馬関連の投稿に
戻ります。
昨日、阪神競馬場で行われました春の
グランプリレース第66回宝塚記念は
スタートしてハナを奪い道中軽快に逃げた
7番人気で武豊騎手騎乗のメイショウ
タバルが最後の直線でも失速することなく
最後は3馬身差をつけて優勝。
G1初制覇を飾ると共に宝塚記念を
連覇した父ゴールドシップとの親子制覇を
果たしました。
そして松本オーナー、石橋調教師、武豊
騎手、本当におめでとうございます。
「馬がつないでくれる縁というか、人が
つなぐ馬との縁、そういうのを感じます」
と言った武豊騎手の言葉に感動しました。
これが競馬なんだと改めて思いました。


2着には1番人気のベラジオオペラ、
3着には10番人気のジャスティンパレスが
入り、2番人気に支持された紅一点の
レガレイラは11着に終わりました。
また、実況アナからの宝塚記念でのファン
ファーレはオリジナルファンファーレで
全ての人馬の無事を願って作られたとの
コメントに、30年前のライスシャワーに
思いを馳せながら、涙が溢れました。
今週は、東京競馬場で第73回府中牝馬
ステークスが行われます。
府中牝馬ステークスは現在中央競馬で
行われる4歳(現3歳)以上の牝馬限定
重賞競走としては、最も長い歴史を持ち
1953年に東京牝馬特別の名称で
創設され、その後名称は幾度かの変遷を
経て1992年から現在の名称となりました。
創設時は東京競馬場の芝2000mでハンデ
キャップ競走として行われていましたが
距離は1955年より芝1600mに、負担
重量は1969年より別定に変更。
1996年にエリザベス女王杯が古馬にも
開放され4歳(現3歳)以上の牝馬限定戦に
改められると本競走は距離を芝1800mに
延長し、エリザベス女王杯の重要な前哨戦
として位置づけられ2014年から2024年
までは本競走の1着馬にエリザベス女王杯
への優先出走権が与えられていました。
2025年より前年まで開催されていた
マーメイドステークスの競走条件を引き
継ぎ、開催時期を6月に、更に負担重量を
グレード別定からハンデキャップに
変更され、行われることになりました。
今週は、東京競馬場で今年から開催
時期が変更となり6月となった第30回
府中牝馬ステークスが行われます。
ラヴァンダ、カニキュル、カナテープ
シングザットソングに注目しています。
今週も全人馬の無事を祈りながら
レースを観ます。
昨日、東京競馬場で行われました春の
マイル王決定戦第75回安田記念は
2番人気のジャンタルマンタルが好位
追走から直線で鋭く抜け出し、3回目の
G1勝利を果たしました。
2着には9番人気のガイアフォースが入り
1番人気に推されたソウルラッシュは
直線で追い込むものの3着に敗れました。

今週は阪神競馬場で春のG1戦線を
締めくくる第66回宝塚記念が行われます。
宝塚記念は有馬記念と同様にファン投票
で出走馬を決め、上半期の締めくくりを
飾る競走として関西地区の競馬を
華やかに盛り上げようとの趣旨で企画され
阪神競馬場の新スタンドが落成した翌春の
昭和35年(1960年)に創設されました。
「あなたのそして私の夢が走ります」の
杉本アナの名実況でもおなじみの夏の
グランプリレースとして親しまれています。
思い出の馬は、宝塚記念史上、唯一中京
競馬場で行われた宝塚記念の覇者、
日本ダービー馬の仔テルテンリュウです。
テルテンリュウの父は、ダービー馬ロング
エースで代表産駒には日経新春杯や
神戸新聞杯に勝ったスピードヒーローや
ワイドオー等の重賞勝ち馬がいます。
テルテンリュウは昭和54年のクラシック組
で同期にはダービー馬カツラノハイセイコ
皐月賞馬ビンゴガルー、菊花賞馬ハシ
ハーミットやリンドプルバン、ネーハジェット
リキアイオー、テルノエイト等の重賞
勝ち馬がいます。
テルテンリュウは旧馬齢3歳12月の
阪神でデビューして新馬戦を快勝。
続く条件特別戦でも、後の重賞勝ち馬
ネーハジェットをやぶって新馬・特別を
連勝し、いわゆるエリートコースに乗って
クラシックに名乗りを挙げました。
年が明けて4歳になったテルテンリュウは
4歳緒戦としてシンザン記念に参戦するも
5着に敗れてしまいました。
続く条件特別でもカツラノハイセイコの
2着に敗れ、その後もきさらぎ賞では
ネーハイジェットの2着、続く毎日杯でも
後の菊花賞馬ハシハーミットの3着に
敗れるなど、勝ち星に恵まれないレースが
続きました。
そのため、テルテンリュウは皐月賞を
回避してオープン特別に出走し、4歳に
なって初めて勝利して3勝目を挙げると
ダービーを目指し東上しました。
そして当時はダービートライアルだった
NHK杯に参戦すると、このレースに
出走していた後のダービー馬カツラノ
ハイセイコやヨシノスキー、テルノエイト等
をやぶって勝利し、重賞初制覇を
果たすと共にダービーに向けての有力
候補に躍り出ました。
本番のダービーでは3番人気に推された
テルテンリュウは、後方から徐々に
仕掛けて上がって行って、いい手応えで
最後の直線に入るとリキアイオーを
交わして先頭に立ち、内に斜行しながら
差して来たカツラノハイセイコと競り合う等
大いに見せ場は作ったものの3着に
敗れました。

そして続いて出走した高松宮杯で4着に
敗れたテルテンリュウは秋に入り、
菊花賞の前哨戦、神戸新聞杯で4着に
敗れると、その後体調を崩してしまい、
菊花賞への出走は叶いませんでした。
復帰戦となった暮れの愛知杯では
2着に入ると、年が明けて古馬になった
テルテンリュウは金杯に参戦して2着に
入り、古馬戦線に向けていいスタートを
切りましたが、続く日経新春杯では1番
人気に推されるも9着に大敗してしまい
ました。
しかし続くオープン競走を勝って久しぶりに
5勝目を挙げたテルテンリュウは天皇賞春
に挑みましたが、ニチドウタローがレコード
タイムで優勝を飾る中、6着に終わりました。
続いてテルテンリュウは、当時の古馬の王道
路線を歩み、この年宝塚記念史上唯一
中京競馬場で行われました夏のグランプリ
競走、宝塚記念に挑みました。
このレースには前走の天皇賞春を制した
ニチドウタロー、有馬記念馬カネミノブ
天皇賞馬テンメイ、オークス馬アグネス
レディーやリンドプルバン、メジロイーグル
ハシクランツ等、グランプリレースに
相応しい古馬の精鋭達が顔を揃え、この
強豪馬が揃う中でテルテンリュウは
1番人気に支持されました。
レースは不良馬場という過酷な環境で
行われました。
ゲートが開きスタートすると快速を活かして
メジロイーグルが逃げ、ハシクランツ、
カネミカサが続き、テルテンリュウは4番手
カネミノブ、ニチドウタロー、アグネス
レディーは中団、リュウキコウ、リンド
プルバンは後方から、テンメイは最後方
からというレース展開になりました。
第4コーナーでハシクランツとカネミカサが
仕掛けて逃げるメジロイーグルを捉えて
直線の勝負へ。
直線馬場の真ん中からハシクランツが
先頭に立ち、内からはメジロイーグルが
差し返し、外からカネミカサが必死で
追い込む中、内からテルテンリュウが
豪快に追い込んで、ハシクランツと
カネミカサを差し切って優勝を飾り
第21代夏のグランプリホースに輝きました。
しかし、この勝利がテルテンリュウに
とっての最後の勝利となってしまいました。

続いてテルテンリュウは高松宮杯に駒を
進めましたが、繋靭帯炎を発症したため
出走取消となってしまい、以降復帰を
目指したものの、テルテンリュウが再び
競馬場に姿を現すことはありませんでした。
競走馬を引退したテルテンリュウは翌年の
1981年から九州で種牡馬となりました。
記録によりますと
1984年 わずか2年間の供用で早世と
となっており、死因についての記述が残って
いないのが残念です。
今週は阪神京都競馬場で夏のグランプリ
競走「あなたのそして私の夢が走る」
第66回宝塚記念が行われます。
ドゥレッツァ、ベラジオオペラ、
ショウナンラプンタ、ロードデルレイに
注目しています。
今週も全人馬の無事を祈りながら
レースを観ます。
昨日、東京競馬場で行われました
サラブレッド7950頭の頂点を決める競馬
の祭典、第92回東京優駿(日本ダービー)
は好位でレースを進めた1番人気の
クロワデュノールが最後の直線で鋭く
伸びて抜け出し、外から追い込んで来た
マスカレードボール3/4馬身抑えて優勝を
飾り、皐月賞2着のリベンジを果たすと
共に第92代日本ダービー馬に輝きました。
2着には外から追い込んだ3番人気の
マスカレードボール、3着には6番人気の
ショウヘイが入りました。

今週は東京競馬場で春のマイル王決定戦、
伝統の第75回安田記念が行われます。
安田記念は明治・大正・昭和にわたって
競馬に携わり、競馬法の制定や東京優駿
(日本ダービー)の創設などに尽力し、
日本中央競馬会の初代理事長も務めた
安田伊左衛門氏の功績を称えるため、
1951年に安田賞の名称で創設され
ました。
1958年に安田伊左衛門氏が亡くなった
ため、現在の名称に改称されました。
昭和期において、短距離系競走のレース
体系がまだ整備されていなかったため、
春に行われる安田記念が唯一、日本一の
マイル王決定戦として行われていました。
その後、1984年のグレード制導入に伴い
安田記念はGⅠに格付けされ、現在
中央競馬の上半期におけるマイル王
決定戦として位置づけられています。
思い出の馬は、華麗なる一族
名牝イットーの弟ニッポーキングです。
ニッポーキングの父はマイラー系種牡馬
プロントで代表産駒にはアマミプリンス
マサキビゼン、ヤマニンダンディー等の
重賞勝ち馬がいます。
また、ニッポーキングは姉には名牝イットー
弟にはシルクテンザンオーを持ち、姪には
ハギノトップレディ、甥にはハギノ
カムイオーがいる等、まさに華麗なる
一族の1頭として活躍しました。
ニッポーキングは昭和51年のクラシック組
で同期にはTTG3強と呼ばれたトウショウ
ボーイ、テンポイント、グリーングラスの他
ダービー馬クライムカイザー、天皇賞馬
ホクトボーイとカシュウチカラやトウカン
タケシバ、トウフクセダン等がいます。
ニッポーキングは旧馬齢3歳夏の札幌で
デビューし、ダートの新馬戦を評判通りの
強さで2着に9馬身差をつけて圧勝。
続く条件特別では2着に敗れ、その後
しばらく休養していましたが、年が明けて
4歳となったニッポーキングは条件特別と
オープン戦を連勝し、4戦3勝の好成績で
何とかダービーに間に合い、出走する
ことができました。
ダービーでは27頭中6番人気に支持され
ましたが、この年の春のクラシック戦線は
トウショウボーイ、テンポイント、クライム
カイザーの3強を中心に回っており、結局
ニッポーキングは第4コーナーで
3番手まで上がり見せ場は作ったものの、
9着に終わりました。
その後、当時残念ダービーと言われた
日本短波賞に参戦し、6着に敗れたものの
続く初の古馬との対戦となった札幌の条件
特別を快勝して秋競馬に挑みました。
秋競馬の緒戦、古馬のオープンクラスとの
対戦となる京王杯AHに挑み、1番人気に
指示されましたが、2着に終わりました。
そして続いて4歳限定となる菊花賞の
前哨戦セントライト記念に出走しました。
このレースには、トウショウボーイや
クライムカイザーが不在の中、春の
クラシック組からはフェアスポート、
メルシーシャダイ、前走の京王杯AHで
敗れたライバフットやカシュウチカラ等が
出走、ニッポーキングは1番人気に
支持されました。
レースはセツザンが逃げ、フェアスポートと
ランスロットが先行し、ニッポーキングは
中団から進みました。
最後の直線でニッポーキングが最内を
回って鋭く伸びて先頭に立つと、そのまま
後続馬を引き離し、追い込んで来たフェア
スポートに2馬身差をつけて快勝。
重賞初制覇を果たしました。

しかし、西下して挑んだ菊花賞では距離の
疑問か、当時伏兵だったグリーングラスの
前に13着に終わりました。
その後、東京に戻ったニッポーキングは
古馬との混合戦となる今は無きクモハタ
記念に参戦、天皇賞馬エリモジョージや
快速馬ニシキエースが出走する中、
1番人気に推されると最後の直線で逃げる
ニシキエースを捉えて差し切って勝ち
2つ目の重賞を獲得しました。

年が明けて古馬になったニッポーキングは
1番人気に推された金杯は3着、続く
2番人気推されたAJCC杯では7着に
敗れましたが、続いて京王杯SHに
出走すると1番人気に推されました。
レースは向こう正面でニッポーキングが
先頭に立って逃げる展開となり、最後の
直線に入ってニッポーキングが逃げ込みを
図る中、トップハンデ62.5キロを背負った
古豪ヤマブキオーやハーバーヤングが
必死に追い込みを図りましたが、ニッポー
キングのスピードは衰えず、更に後続馬を
引き離し、逃げ切って重賞3勝目を
挙げました。

そして、続く当時はオープン特別だった
ニュージーランドTにも勝ったものの、
その後は8ヶ月の休養を余儀なくされて
しまいました。
年が明けて6歳になったニッポーキングは
2月のオープン競走で復帰して5着、続く
中山記念では9頭立ての9着と大敗を
喫してしまいましたが、続くオープン競走を
7馬身差でレコード勝ちして復活を遂げると
伝統の安田記念に挑みました。
このレースには中山記念で敗れた
カネミカサをはじめ、ベロナスポート、ダイワ
テスコ、ヨシノリュウジン等が出走し、
最重量58.5を背負ったニッポーキングが
1番人気に支持されました。
レースはスタートして最軽量を背負った
ソーウンムサシが先頭に立つも、すぐに
ニッポーキングが交わして先頭に立ち
10頭を従えて逃げる展開となりました。
第4コーナーでベロナスポートが仕掛け
後続馬も差を詰めて直線の勝負へ。
最後の直線、内を通ってニッポーキングが
逃げ込みを図る中、カネミカサとコウチ
ライデンが必死に追い込みましたが、
ニッポーキングが更に鋭く伸びて後続馬を
引き離し、6馬身差をつけて圧勝。
まさに横綱相撲でマイル王に輝きました。

その後、夏の函館に参戦し、UHB杯でも
7馬身差のレコード勝ちで3連勝を
飾りました。
しかし、この勝利がニッポーキングに
とっての最後の勝利となりました。
次に出走した札幌の短距離ステークスでは
稍重ダートにスピードが殺されたのか
2着に敗れ、東京に戻って出走した
オープン競走でもホクトボーイの3着
そして続くクモハタ記念でも5着に敗れ
このレースを最後にニッポーキングは
現役を引退しました。
引退後、良血とスピードを買われ
種牡馬となったニッポーキングは
内国産種牡馬不遇の時代にあって代表
産駒こそ残せなかったものの、勝ち馬を
出すなど、ある程度の成績を残しました。
記録によりますと
1987年に14年の生涯に幕を下ろしたと
だけなっており、どのような形で生涯を
終えたかの記録が無いのが残念です。
今週は東京競馬場で春のマイル王決定戦
第75回安田記念が行われます。
ソウルラッシュ、トロヴァトーレ
ウォーターリヒト、ジャンタルマンタルに
注目しています。
今週も全人馬の無事を祈りながら
レースを観ます。

