今日は水曜日なので、今週の日曜日の礼拝メッセージを載せさせていただきます。
今週は「棕櫚(しゅろ)の主日」、「受難週」に入りました。イエスさまは、今週の金曜日に十字架におかかりになります。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)
私たちの教会の年間聖句です。
2024年3月24日のメッセージ
「まことにこの人は
神の子であった」
聖書:マルコによる福音書14章55~64、15章1~39節
(一部だけ載せます)
25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。26 イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。
33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。
34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった。」
今日は、イエスさまの御受難の場面を思い起こします。木曜日の夜から金曜日に起こったできごとです。
ユダヤの国の指導者たちはイエスさまをねたみ、「十戒」で禁じられている「偽証」をしてまでイエスさまを「死刑」にしようとしました。
ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあったので、ローマ帝国の総督ピラトに判決を求めました。
1.ピラトの裁判
*マルコ15:9~15
9 ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。
10 それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。
11 しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した。
12 そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。
13 彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。14 ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。
すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
ピラトは、「過越の祭」の「恩赦」でイエスさまを赦そうとしました。しかし、指導たちに扇動された群衆の「十字架につけよ」という激しい声に負け、イエスさまに死刑を言い渡しました。
ユダヤの国が混乱すると、ピラトは自分の立場が悪くなるからです。
2.兵士たちから侮辱される
*マルコ15:16~20
16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18 「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。
19 また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。20 こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。
ローマ兵は、イエスさまを侮辱しました。支配する側と支配される側の力関係で、彼らはユダヤ人であるイエスさまに横暴の限りを尽くしました。
まことの神さまを離れた人間の支配は、武器を持つ強い者が弱い者を辱めます。
日本が「大日本帝国」を広げようとしていた時代も、支配下にある国の人々にたいして、同じようなことをしてきました。
どこの国、どこの民族もこのような横暴と搾取が行われていたことを思います。
イエスさまは、この辱めと苦しみに耐えられました。
3.民衆までもがイエスさまをののしる
*マルコ15:29~32
29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、30 十字架からおりてきて自分を救え」。
31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
ユダヤ人の民衆も、イエスさまを激しく侮辱し、ののしりました。
彼らはイエスさまがユダヤの王となることを期待して、ほんの5日前、日曜日には棕櫚(しゅろ)の枝を振って「ユダヤの王万歳!ホサナ!ホサナ!私たちを救ってください」と言って、歓喜して都に入るイエスさまを迎えた人々です。
その人々から罵りを受けておられる間も、イエスさまは一言も言い返すことも弁明もなさいませんでした。そして、ご自分に定められた使命を全うしました。
4.救いの完成とローマ兵の証し
これらの一部始終を見ていたローマ兵の百人隊長(百卒長)は、こう言いました。
「まことに、この人は神の子であった。」
この百卒長は、理性を失い、自分の感情のままに突き進んだ人々とは違う冷静な心を持っていました。
異邦人である彼がつぶやいたのは、いみじくも神さまの真理でした。
神さまのみ心(真理)は、すでに預言者の口を通して語られていました。
イエスさまのお姿は、まさにイザヤ書53章にある苦難の僕の姿そのものでした。
また、イエスさまの最後の叫びも、ダビデ王の叫びと同じでした。しかし、ダビデはそのあと、救いのほめ歌を歌っています。
*詩篇22:1 .22.24
1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
イエスさまが叫ばれた「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ!」です。
しかし、この詩は讃美の歌となって終わっています。
22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
耐え難い苦しみの先に待っていたのは、神さまのみ心による「喜び」です。
神さまは、人間の理解をはるかに超えるみ心を成し遂げられます。「死」をも超えて、さらにみ心をなさるのです。
それは、私たちに「滅び」ではなく、「命」を与えるためです。
イエスさまは、私たち人間の罪と悪意によって十字架につけられましたが、この三日後に死から復活されます。
来週は復活日です。この百卒長のように、イエスさまのお姿をしっかりと見つめて「まことに、この方は神の子であった」と証する私たちでありたいと思います。
【黙想・祈り】
神さま。どうか真理の御霊の助けによって、私たちのために十字架に架かられたイエスさまを「神の子」と信じ、また証しする信仰をお与えください。そして、共に救いの喜び、永遠の命に生きる喜びを味合わせてください。
イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。聖書の中で、いちばん重たい話です…
イエスさまはなぜ殺されたのか?
イエスさまが生意気だったから?もっと指導者たちとうまくやればよかったんじゃない?
そうではなくて、人間の邪悪な心がイエスさまを十字架にかけたのでした。
自分の心の中の醜さや邪悪さを見るのはしんどいことですが…
たまには、それも直視しなければなりません…
その邪悪さをご自分の身に負って滅ぼしてくださったイエスさまに、ただただ感謝です。
イエスさまは、私たちも「罪も傷もない神の子」としてくださいました。
今日からは、少しはマトモな神さまの子になりたいと思います
「十字架、十字架、主イエスの十字架 わがためなり」
(讃美歌Ⅱ・185)